日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

小林亜星さんに同感 1

2013年06月24日 | Weblog
小林亜星さんに同感 1

今に始まったことではない。もう何十年も前から曲を通して、書物を通して、僕は彼に関心を持っている。彼は魅力的な人だ。
彼が想うことは自分が想う事とも符合するし、符合しないところでは彼の言葉から何かを学ばせて貰っている。彼の主張に関して自分の想いを書いてみよう
1,
「生活者になって生きていくのは、ほとんどの人の宿命で、それが立派な生き方なのかもしれないけれど、それをなんとなく避けて生きていこうとする姿勢を持つ。それは、ある部分どこかおかしいといえばおかしいけれど、そうしないと、作り続けることができない。」


9時~5時の生活は平凡で安定している。
平凡の中に埋没して 非凡な作品を作ろうとおもへば、どうしても平凡な作品になってしまう。平凡な生活をしていても、その生活から離れた別天地の中で作品を作らないと注目されるような作品はできっこない。非日常性の部分が創作の部分だ。

2,
「人間はどこでによって記憶するかと考えるとそれはメロディーである。一人で繰り返しおぼえた歌を楽しむ。それはすべてメロディーです」。

ということは覚えやすいメロデイを作ることが大切だ。アクロバットの踊りやら、華やかな照明や振り付けはなくても良い。近頃は唄が貧しい分大仰な仕掛けで唄をアピールしようとしているがそれは本来間違いである。

3,
日本の芸ことは教えることから成り立ち、先生を拡大再生産するだけだった。
実にそのとおり。
音大や芸術大学をでた人はその勉強を生かして作曲家になる人が圧倒的に少ない。そして巷で歌われる歌の大半は素人上がりの人達だ。たまたま発表してみたら、それが巷で受けたということで作曲家になる。昭和の作曲家はみな心に唄を持っていた。平成の若い作曲家にはそれがない。あるのはリズムとサウンドそれにおかしな振り付けとダンス、異体の服装、照明
。これは一種のごまかしである 。
唄というならメロデイで勝負をしなくては。メロデイは感情である、感性である。それを磨き抜いて良いメロデイが出来てくる。
そういう能力のない音大生は教えること以外に何も出来ないから先生の拡大再生産になる。