日々雑感

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城崎温泉 まんだら湯

2013年06月06日 | Weblog

城崎温泉 まんだら湯

駅を出て、通りを300mも行くと、川につき当る。架かった橋を渡らずに、手前を左におれて、川の両岸にある川端柳をめでながら、上流へさかのぼっていくと、橋があり、それを渡ると、そこが一の湯だ。

一の湯を通りこして、街中を4・5OOmも行くと道は月見橋のたもとで、ほゞ直角に近い角度で、右折する。そこからもと来た道を4・50m、引きかえすと、巾は広いが、露路のような感じのする道がある。その奥の突き当りがマンダラ湯である。
玄関前に立っている由緒書を読むと、その昔、ありがたい聖の力で適温の湯が湧き出したとか。

 城崎温泉は外湯がうれしい。それも外湯が七湯もあり、宿泊客は竹で編んだ手さげの竹カゴに、タオルや石けんを入れて、カラコロ、カラコロ下駄の音をひびかせながら、外湯めぐりをして、温泉情緒を楽しんでいる。
それもボンボリに灯が入って、人の顔もさだかでない、かはたれ時には温泉情緒は一気に盛りあがる。立ちのぼる湯煙に、温泉街特有のあの艶めかしさが漂う。七湯のほとんどが道にそって点在するのだが、マンダラ湯は道からほんのわずかではあるが、奥まったところにある。それだけに、静かであり、人のざわつきも少く、ここだけは孤立しているというのか、孤高を保つというのか、そんな雰囲気がある。
 マンダラ湯の中の造りは、そこらそんじょの銭湯と同じようなもので、あまり変わり映えはしない。湯舟の広さも、洗い場も殆ど変わらない。これでも温泉か。私は少々がっかりした。知ってか、しらでか、お客は少なく、私を入れて五人だけだった。
 
 にわかに戸があいて、一団になった男がどやどやと入って来た。一見してどういう集団かすぐ分かった。入れ墨、目付き、言葉などからすると、ヤの字の衆である。
 彼らが入って来たために、のんびり入浴を楽しんでいた雰囲気は一変した。一人減り、二人減りして、ヤの字の衆と私だけになってしまうと、彼らは遠慮なくしゃべり出した。

「なんや、これは。町の銭湯と、えろ変らへんやんか。これでも温泉け。」
「温泉ちゅうたら、広々してのんびり出来る所と違うんか。」
言葉の訛りからすると、シマは関西らしい。
「こんなとこ、あかん。温泉に入った気分になれへん。はよ、上がって温泉へいこ。」

遠慮、気兼ねのない自由奔放な会話に、私も同感で、心のそこでうなずいた。ヤの字がいうように、銭湯くらいの大きさしかないうえに、温泉情緒を醸し出す大道具も、小道具も、何一つとしてない。これは温泉ではない、という云い方は粗雑ではあるが、その通りである。
温泉と云えば、湯の花の香りがしたり、それらしい雰囲気があったりするものであるが、この湯は聖人、それも仏弟子が開いたとされるだけに、質素に出来ているのだろう。長居は無用と、私も先客の後を追った。

 鴻の湯は、その昔、傷を負った鴻の鳥が、この湯に足をつけて、傷をいやしたところに因んで付けられた名前とか。
外湯七湯のうちで、駅から最も遠い所にあるが、と云っても歩いて、せいぜい15分か、20分ぐらいの所にあるのだが、ここはいつ来ても、賑わっている。恐らく露天風呂があるからだろう。
 この露天風呂はピリッとした熱さで、十分も湯舟に浸かっていると、額から大粒の汗がしたたり落ちるし、湯上がり後は、足の爪先あたりがジンジンしてくる。いかにも温泉に浸かったという実感があり、それにもまして、露天風呂の風情は、温泉情緒と旅情を感じさせてくれる。
岩と岩がつなぎ合わさって、湯舟ができていて、湯舟にしだれかかる真っ赤な紅葉に、夕陽が美しい。

フツフツと沸いてくる温泉に、体をどっぷりつけて、タオルを頭に乗せて目をつぶっていると、極楽の住人になる。これでこそ、はるばる城崎温泉にやってきた甲斐があるというものだ。身についた垢とともに、心にこびりついた、この世の垢も、この湯の中に洗い流してしまいたいと念じた。たった六畳二間くらいの広さのこの温泉が、娑婆世界の住人を極楽世界まで連れて行ってくれる。この実感は、城崎温泉の御利益と云っても過言ではない。一人旅の温泉旅行は何の気遣いも、気配りも必要ないので、一番くつろげる旅である。
黄昏の空を渡り鳥が、くの字を描いて北を指して飛んでいった。
              
 私の後を追いかけるようにして、先程の一団が入って来た。
一団は完全に私を無視して話し出した。

「やっぱり露天風呂はえーなー。」
「雪がちらちら舞う時に、この湯に浸かり徳利を盆に載せて、くっと一杯やったら極楽や」
「そこの岩みてみい。真っ赤な紅葉が夕日に映えとるやろ。体をどっぷりつけて、 一 節うなったら最高や。胸のむしゃくしゃはいっぺんに取れてしまうで。」
「お前、日頃に似合わず、えー事をいうなー」
「いや、ほんまですねん。」

 会話を聞いているぶんには、まともである。こんな心をもっているのに、何故ヤの字なのか。正業についたら、もっと心安らかに入浴出来るのに。
マンダラ湯では、一方的に恐れてはいたが、慣れて来たというのか、私は会話の続きが聞きたかった。度胸がついて来たのだろうか、私は積極的に耳を傾けた。ヤの字の衆といっても、所詮は人間。渡世の仕方がちがうだけとは思いつつも、渡世の仕方の違いが、私からすると、天国と地獄ほどの違いなのである。

世渡りは、いわゆるカタギの世界からはみ出した、あるいはドロップアウトした世界の住人だけに、感情的には敏感に研ぎ澄まされたところがあるのかもしれない。心の中では、自分が住んでいたカタギの世界への未練を残しながら、この娑婆の世界で集団をなして、暮らしていることを自覚しているが故に、日ごろの渡世の緊張感から解き放たれて、こうして温泉で束の間の安らぎを得ているのだろう。

 その昔、奥の細道の道中で、芭蕉と同宿した遊女は、私は人間の端にもおいて貰えない人間だが、、、とへりくだって声をかけた、という「奥の細道」の一節が頭をかすめた。さしずめ私が芭蕉で、ヤの字の衆が遊女か。
ハッハッハッー。私は翔んでいる自分に気が付いて苦笑した。
 それにしても、なんとまんが悪いのだろう。ゆっくり、のんびり、リラックスするために、リフレッシュするために、はるばるここまで来たというのに、余計な緊張を強いられるとは。!こわい物みたさで、私はヤの字の衆の言動に神経を集中させた。
 
お陰ですっかりくたびれた。
それにしても人の世の縁の不思議なことよ。そこで一句。
ヤーさんと背中合わせの曼陀羅湯