日々雑感

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選択の問題だろうか

2013年06月04日 | Weblog
選択の問題だろうか

梅里雪山日中合同登山隊、17名全員が遭難した。
救援隊が派遣されたが、結論は空しかった。厳しい自然に阻まれて捜索できないままに、死亡通知書が中国から送られて来て、我が国でも死亡通知書が発行された。前途有為な青壮年17名もの命が梅里雪山の白峰の中に消えた。捜索は今年の夏頃に再開するという。17名の御霊よ。いずこにおわすか。

 冬山は厳しい。見た目には美しくとも、白銀の山々は心臓も凍る寒さである。白雪に覆われている険しい岩盤はいつも大きな口を開けて、転落死という餌食を待ち構え、また雪崩もいつも人の生命を餌食にしている。冬山から命をねらわれて、登山者は常に生と死の綱渡りを強いられているのである。

 なぜそんな危険な冬山に命を的にして登るのか。答えはそこに「山があるから」、というのだが。こんな訳の分かったような、分からないような理屈では私は到底、命を的には出来ない。私からみれば、冬山に登る人の気が知れないのである。それが率直な気持ちである。

山が高ければ高いほど、またスピードが早ければ早いほど、危険は増す。だのに人々は高い山を目指しては危険を承知のうえで次から次ぎへと登って行く。またスピードを挙げて走りたがる。車のメーカーは人命の安全よりもスピードに関心を向けている。何故ならばそのほうがユーザーのニーズに応えることになるから。つまり人の関心は高い山や、より早いスピードに向いているのである。登山家に限らず、例えば日常、車で生活道路を走っているとき、前方が空くとスピードアップしたくなる気持ちに駆り立てられたという経験は大半の人がもっている。

 スピード狂、高所狂。これらは恐らく人類の本能なのだろう。本能ならば理屈はない。山があろうが、なかろうがもろもろの悪条件を克服することに挑戦したがるのは避けられない。危険を承知の上で命を張り、挑戦して冒険心や征服欲を満足させながらハラハラ生きるか、それとも、より安全を求めて無難に生きるか、これは
“生き方"の選択の問題である。 50も後半に入るという世代と、好奇心に満ちあふれ血が沸きかえっている二十代とでは興味も関心も違って当前だが、さればとて、こんなことでこの貴重な生命の灯火を消すことには私は納得しかねる。年齢や世代を問わず、この世のことはすべて命あっての物種である、と思うからである。

 私のようにすべてにおいて無難と安全のみを求める立場に立てば、いくら好きだからとは言え、またいくら興味や関心があるからといっても、命を的にすることは決して誉めたことではない。
自分の意志に従って、その通り生き、そして世を去った人に弔辞を贈るのは生きている者のセンチメンタルな気持ち以外の何物でもないと言えば言い過ぎになるだろうか。

 そんな気もするがあの梅里雪山の山奥で雪女に命の華を吸い取られた日中両国の登山隊に矛盾を感じつつも、やっぱり哀悼の意を捧げたい。
今際の際に来迎された諸菩薩よ。雪山に雄々しく消えた益荒男の御霊を極楽へ導きたまえ。

南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、ナムアミダブツ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。