日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

経団連の米倉弘昌会長は単細胞

2012年02月14日 | Weblog
経団連の米倉弘昌会長は単細胞 5,482位 / 1,683,580ブログ中

普通大勢の人のリーダーというものはその発言が影響が大きいだけに、そのポジッションにふさわしい考えや発言が要求される。その判断やそれに基づく意見は、正確な現状認識の上に立って、将来にむかっては先験的であることが望ましい。
1,
13日の記者会見で、東京電力の経営に対する政府の関与について、「国有化というのはとんでもない勘違いをしている」と述べ、東電の議決権比率の過半数を政府が持つことに反対する考えを示した。
2
米倉会長は「国有化してきちんとした経営を行った企業は見たことがない」と指摘し、「3分の1以下(の議決権比率)がいいのではないか」と政府の関与を抑えるよう求めた。

米倉氏はあいさつで、持論の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)や経済連携協定(EPA)の意義について語り、「自民党としても、ぜひともTPPの推進にご尽力いただきたい」と呼びかけた。22日の自民党大会で、来賓として登壇した経団連の米倉弘昌会長に対して場内から激しいヤジが飛び、騒然となる一幕があった。これに反TPP派の議員数人が激怒。「駄目だ!」「こんなやつに話をさせるな!」とヤジを浴びせかけた。
4、
経団連の米倉弘昌会長は2011年7月19日、毎日新聞のインタビューに対し、菅直人首相の進める「脱原発」政策は電気料金の値上げ、供給の不安定化を招き「経済成長が落ちる」として、「このままでは『国破れてソーラーあり』になりかねない」と批判した。

これは未来エネルギーに取り組んでいる会員企業に対して失礼な暴言だ
取り消して謝罪しろ。

,米倉会長は「国内企業の海外移転の動きを加速すると警戒している。13日の会見でも「震災からの復興には直接関係ない」として、まずはがれき処理など緊急の復興対策を優先すべきと指摘している。

ガレキの撤去と電力供給体制の再構築。国民にとってどちらが大切な事なのか。その重要性も判らないのか。
6,
、再生可能エネルギーが原発の代替となるまでは10年以上かかるとし、それまでは一定程度原発に頼る必要があり、場合によっては原発新設もあり得るとの見方を語った。

実に情けない発言だ。君は福島事故に懲りていないのか。福島事故の検証すらまだおわっていない段階で、こういう発言が飛び出すとはあきれた。
何を戯言を言っているのだ。君は被災者の現状をどう見ているのか。判らなければ、被災地へ行って、そのつらさを肌身で体験してこい。
7、
「エネルギー政策に関する第2次提言」を議題に理事会を開いた。経団連として、原発再稼働を進めようという意見集約だが、これに対し、孫氏は、米倉弘昌経団連会長あての意見書という形で反対意見を提出した。
内容は「原子力発電所の再稼働が非常に重要」との表現を削除するよう要求。また再生可能エネルギーの記述で「野心的な導入目標」という否定的な表現を改めるよう求めた。さらに電力会社が一括して担当している電気の発電と送電業務を分離するよう提案。欧州の例にならい国際間の電力融通も実現すべきとしている。
さらに、理事会で孫社長は「満場一致で提言が了承されるのは問題だ」と指摘し「反対意見が出たということを議事録に残してほしい」と主張した。安全性を確認したうえで原発再稼働を要望する米倉会長に対しても「経団連会員企業の総意であるような発言をするのはいかがなものか」と批判した。
経団連ではこの日、「エネルギー政策に関する第2次提言」を議題に理事会を開いた。経団連として、原発再稼働を進めようという意見集約だが、これに対し、孫氏は、米倉弘昌経団連会長あての意見書という形で反対意見を提出した。
内容は「原子力発電所の再稼働が非常に重要」との表現を削除するよう要求。また再生可能エネルギーの記述で「野心的な導入目標」という否定的な表現を改めるよう求めた。さらに電力会社が一括して担当している電気の発電と送電業務を分離するよう提案。欧州の例にならい国際間の電力融通も実現すべきとしている。さらに、理事会で孫社長は「満場一致で提言が了承されるのは問題だ」と指摘し「反対意見が出たということを議事録に残してほしい」と主張した。安全性を確認したうえで原発再稼働を要望する米倉会長に対しても「経団連会員企業の総意であるような発言をするのはいかがなものか」と批判した。

現段階では孫氏が言うように、明らかに総意では無い。それを総意であるかの如く発表するとは、天下に嘘をついているのだ。もっと謙虚に物事を判断できないのか。
君は立ち位置さえ自己判断できないアホなんだ。
今回だけじゃ無い。君が会長になってからの言動を時系列化すると大きな違和感を感じてきた。だがここに来て君の正体が見えてきた。
やっぱり。そんな感じだ。

東電のゴネトクを許すな

2012年02月13日 | Weblog

東電のゴネトクを許すな 5,903位 / 1,683,295ブログ中


朝日新聞の社説である。社説を読んだ僕の感想は「その通り」。全く同感である。
あれだけの被害を与えて損害賠償にも事欠く会社が議決権を「三分の一まで」と抵抗しているという。抵抗するのは勝手だが、賠償や今からかかる廃炉やそれまでの期間の維持費どうするつもりなのだろうか。
 自力でこれらが出来るのか。そういう裏付けがあってはじめていえるセリフ、考えではないか。
僕には自力で賠償を始め廃炉に向かってかかる費用などをまかないうる力があるとは思えない。財力もない。会社の経営理念も態度も、国民感情から大きくずれている。
なぜそんな会社を社会的存在として認めなければならないのだ。金がなくても国民がさすが東電だと認めているならば、存立擁護の声も出てこようが、筋の通った納得のいく擁護論も耳にしたことがない。

今までの対応を見ると、此の会社は社会的責任という物を放棄して、世間の常識とは相容れない自社論理だけを主張し、行動している。これまで僕はそのことを繰り返し繰り返し指摘してきた。
その際たるものは、事故発生当時の無責任対応である。修羅場を迎えて、手を引く(逃げる)と言ったそうな。社長以下全員が現地で対応に当たる意気込みなんてつゆほども感じられなかった。これほど大きな事故を起こし大勢の人に迷惑をかけたことを承知で逃げようとすることは金輪際許されることではない。

はっきり言っておくが、現在の東電をつぶしても、第二東電を作れば済む話である。
新会社を作り、そこを受け皿にして必要な人だけを採用して、根本的に体質改善することが喫緊の課題だ。新会社を設立しても賠償責任が免除されるわけじゃない。
まだ次のような問題が残る。
僕が思いつくままに書くと
1,15万人に及ぶ避難住民の生活保障や賠償
2,風評被害を受けた周辺地域への損害賠償、
3,福島県内の原発10基の廃炉費用
4,遠隔地の県にまで広がりつつある広範囲な除染のコスト
その他金銭ではあがないえない被災者の悩み苦しみ 等々。

現状の東電を存続させるのは有害だ。一刻も早く合理化の一環として役員やもと役員から金をはき出させて被災者救済に当てるべきだ。

ついでに言うならば地域独占の横並び体質は電力会社共通の物であろう。その片鱗は九電のやらせ問題の時にも垣間見た。此の体質を持っている限り日本の電力事情はよくならない。原子力を新エネルギーに転換する今を好機とみて、将来のありようを考えなくてはならない。たとえば発電、送電の分離はもとより、滋賀県が実行しようとしてる卒原発行動を全国に広めて、電力の発電、供給のシステムに知恵を絞ったらどうだろう。また敷衍すればこれは国家的規模の大改革だろう。





自衛隊特殊教育部の設置

2012年02月12日 | Weblog
自衛隊特殊教育部の設置 7,865位 / 1,682,968ブログ中


社会のルールを教え、規律を教え、規則正しい生活習慣をつけるように指導して犯罪を犯した少年の更生を図る施設があるが、残念なことに、更正する率はよくない。再犯率が3,40%と言うのは、更正の難しさを物語るのだろう。そこで矯正教育の在り方を考えてみたい。

犯罪少年にはそれなりの言い分があるだろうが、日本社会全体がたるみきっていて現状ではルール破りを厳しく処罰することが出来ない。痛感することは、肉体的に痛い目に遭っていないか、あっていてもごくわずかであろう。精神教育も大切だが肉体的に痛みつけて、再犯を防ぐことも考えていいのではないか。昔はどんな人でも肉体的苦痛を通して精神を鍛えたものだ。

自衛隊の中に鬼も黙るきつい肉体労働教育部(海兵隊のようなもの)を作り、精神面だけでなく重労働の中から根性を鍛え直す。場合によってはこういうことをプログラムすることによって鍛え上げていくことは有意義なことだと思う。
この際少年に側に二の口を言わせない、厳しい矯正教育がもとめれられている。そこで鍛えられた人を将来教官として採用するのもよい。

此のアイデアは成人刑務所でも適用すればよい。懲役刑だけでは根性の腐った人間の根性をたたき直すことは出来ないし、また社会復帰の場とし、刑期を終えた人間を自衛隊員として採用するのも1つの手だと思う。
現在刑務所に費やしている予算を自衛隊に振り向けたらよい。根性が腐っていて社会復帰させたらまた犯罪を起こす人間は、自衛隊で特殊訓練に従事させ、とことん追い詰めることも必要だ。それが案外本人をして社会に戻れる近道になるかもしれない。やって見る値打ちはあると思う。
刑務所が満杯だから新しく増設するなんて、知恵のない話である。


10-51ウォークマン

2012年02月11日 | Weblog
ウォークマン   12/02/10 7,896位 / 1,682,650ブログ中

ソニー、小型テープレコーダー。
発売当初は、500グラム以上の重さがあり、ズボンのポケットに入れて歩くと、音が揺れた。

次に、ウォークマンを買った。ステレオイヤホーンリモコン付き、これもテープをかけて聴いた。テープは、メタルから、クロームから、ノーマルまで使ったが、メタルの音質は素晴らしかった。

それから、IPODに変わった。これはテープなし。音楽データにして小さいHDDに記憶。それを再生して聴いた。音質は格段に良くなっただけでなく、形や重量は小さくなり、ジョギングする場合に、首にかけて走っても音はぶれない。

世間では、いま大半がこの代物に変わった。この段階で、ソニーは、アップルにとってかわられた。それがさらに便利なスマートフオンになり、ダウンロードして聞くシステムは、CDの売り上げにも大きく影響した。

CDが売れなくなると、レコード会社は、お手上げだ。その名の通り、レコード盤に、歌をプレスして、販売するというシステムが崩れかかっている。
確かにハード機器は進歩を遂げた。ところが中味の音楽は歌が増えすぎて玉石混淆も甚だしい。もしレコード会社が優秀な作り手を専属にしていたら、機器がどんなに進歩を遂げても中味で勝負だとタンカを切れただろうに。もう遅い。CDは個人で十分制作できるから。レコード会社の専売特許では無くなった。

特定規模電気事業者PPS

2012年02月10日 | Weblog
特定規模電気事業者PPS 6,169位 / 1,682,339ブログ中

pps。=インターネットから引用すると 

「電力の自由化」は2000年4月から進められている電力事業分野の制度改革です。
電気の供給は、地域ごとに国から許可された電力会社(以下「電力会社」とします。)のみが行ってきました。しかし、制度改革により、新たに電気事業に参入した事業者 (特定規模電気事業者PPS=PowerProducer&Supplier)や他区域の電力会社から電気を購入することができるようになりました。
2004年4月からは、電力会社との契約で高圧 500kW以上の利用者(中規模工場、中小オフィスビル、デパート・スーパーなど)が電力を購入する事業者を選択することができるようになりました。さらに、 2005年4月からは、高圧50kW以上に範囲が拡大され、これにより全国の電力需要の6割強が自由化されました。」


要するに既存の電力会社以外に、自家発電したり、他の事業者から電気をかってそれを販売する会社のことだ。
東京電力の料金値上げが、新しい電力会社を生むことに拍車をかけている。
NHKの報道によると、製紙会社が乗り出している。
再生エネルギー、風力や 太陽光発電も売電価格が決まれば本格的に参入する模様

電力は工業用、家庭用に必要不可欠なのだから、大規模メーカーが参入できないものであろうか。たとえばパナソニックとか東芝、日立、三菱などの電機メーカーなどが参入してくれると、原子力を使わなくても発電送電会社が立ち上がり、電力の国内需要をまかなえるのではないか。
脱原発の署名運動も必要だが、脱原発の先の展望を見開くことが必須になる。さもないとまた原子力発電待望論が出てきて、脱原発運動に水を差す。

電力会社も此の動きを好機ととらえて、抱えている多くの子会社に発電送電を分社化したらどうか。
早晩今の電力供給体制は崩れていくと思われるから。
全需要の30%あまりの原子力発電力くらいはまかなえるのではないか。

僕は今回の福島原子力事故発生直後官邸内のやりとりを見て、強くそう思った。
発生直後の被害人口は関東地方を含めて3500万人という見積もりもなされたと聞く。
もちろん東京はこの中に含まれるのだろう。人口の多さだけでなく社会の諸機能が失われるだろうから、おそらく日本沈没だろう。日本列島形成から1万年、これほどの危機にさらされたことはない。
1日も早く原子力発電から足を洗うことだ。PPSの実現が1日も早く訪れることを願ってやまない



10-52 体罰無しで教育が出来るか

2012年02月09日 | Weblog
10-52体罰無しで教育が出来るか

今日の夕刊に「有形力」体罰との境目は?という記事がのった。
現場に身を置いて、指導した立場からいうと、自分の子供を育てた経験のある親で、子供を一回ももたたいたことがないという親はおそらくいないのじゃないか。
新聞で見る限り親子のの間でも、しつけという名目の体罰で明らかに度を超しているケースをしばしば見かける。
親と教師では子供に対する接し方は、普通の場合違う。これは当たり前の話である。
親はしつけのために体罰を加えるが、教師は体罰を加えないということで教育が出来るだろうか。生活指導をしながらいつも問題に思うことである。
教師の言うことを聞かないのは、反抗する年頃から言ってもおかしくはないが、注意をした生徒から教師が殴られたり、蹴られたりすることはよくあることだ。最後の台詞は
「教師は手出ししたらくびになる 。殴れるものなら殴ってみろ。俺はお前が気に入らんから殴るんだ」とくる。

だから担当教師は身の安全を考えて、ことを大きくしないで規律違反を大目に見て、見てみないふりをするとか、手を抜いて形だけの指導をするとかという結果に落ち着く。この辺の線引きはは教師の教育観によって大きく変わるが、現実には反抗して暴れる生徒に対しては、他人の子供のことだ。ほっといた方が良かろうとなる。ここでしつけ教育は中途半端で終わる。指導したことにはならない。

建前で言えば、そこを教育するのがプロ教師ではないのかという反論もあろうが、本音を言えば生徒に殴られてまで指導する教師はまずいない。
それが僕の教師生活の実体験である。
そして生徒対教師の指導関係は誠に複雑で、1つのケースをモデルにして対応するわけにはいかない。それは生徒が個人個人によってみな違うからである。  
文科省の線引き通知は「体罰に当たるかは、前後の経緯や子供の心身の状況などを総合的に見て判断する。有形力の使用は一切が体罰として許されないものではない」と位置づけたらしいが、僕から見ればこんな事は役人の言う責任逃れの屁理屈に聞こえる。現場では体罰はこういう場合に許され、こういうことは許されないとはっきり線引きしてほしい。そうでないと教師の価値観によって千差万別の判断で職員会議で意見の一致を見ることは難しい。つまり校内暴力事件の指導はそれで消えて無くなる。中止されてしまう。

新聞には「教師が手を出すという選択肢はない。そうしたら終わりです」と教師の体験談が書かれているが、こういう人もいる。そうでない人も大勢いる。
教師も人間だ。激しい感情を持つ人もいるし、指導は放棄しても体罰はダメという人もいて、結果何もしない人もいる。

僕の経験でいえば、体罰は肯定する。怖いものなしの無法者に言葉で諭すなんて寝言に等しい。ただし体罰は個人で1対1でやることは厳禁だ。
他人様の子供を傷つける事は、体罰の域ををはみ出してる。

体罰が必要なときは、校長室に連れて行って校長以下主な教師で取り巻いて衆人監視の下で体罰を加えるが良かろう。それに後のフオロー対策を十分立ててのことである。
教師の立場を弱めると教育は成り立たないことだけは間違いない。もし反論があれば自分の子育ての状況を思い返してみると良い。中には口だけで教育したという人もいるだろう。そういう生徒は口だけの指導で十分。体罰を加えなければならないようなことはない。
問題は暴力を使い暴れるあれた生徒である。連中には言葉は通用しない。だから痛い目に遭わせるのだ。学校には敵わないと悟らせることだ。
直ぐ警察を呼んだら良いというのは問題がある。やはり教師として手に負えるところまでは指導するべきである。







    

選挙制度改革

2012年02月08日 | Weblog
選挙制度改革 7,235位 / 1,681,695ブログ中

今国会で選挙制度改革をやろうと、民主党が提案している。その中心は議員定数削減だ。
大義名分は国会が身を切って改革の見本にしなくてはということになっているが、立場が違えば、自分の党に有利なような定数是正を各党が求めるのは当然だろう。

だが、いくら国民のためという看板を掲げても、国民の間には、もうだまされないぞという思いが充満している。そう思わない人はとうの昔に政治を見放している。無関心で投票にも行かない。

そのような状態では、最小の定数で最大の効果を上げるような改革はとうてい期待できないし、議員たちに政党の欲を離れて天下国家のために高所から、議員定数を決めてほしいなどと思うのは、八百屋に魚を買いに行くようなものだ。

そこで提案したいのだが、国会議員の定数を決めるのは政党に関係のない第三者による委員会を設けて、そこで決定されるシステムを考えた方が公平で、手っ取り早くはないか。
愚にもつかない大義名分を振りかざして自分の党に有利な主張を繰り返す議員たちに任せておくと、できあがってくるのは、いわゆる妥協の産物であって、国民の願いとはかけ離れている。

定数と同時に考えなくてはならないのは、衆参議院の役割分担だ。現状だったら、衆議院で決めたことが、参議院でひっくり返されて立ち往生する。つまり国会が空転する。政治空白が出来る。ということだ。こういうことをいったい何回繰り返せば気が済むのだ。
安倍内閣、麻生、福田内閣はこのような事情の下で崩れ去った。政権交代が起こって攻守立場は逆転したが、結果は自民党内閣時代に起きた現象と、本質的には何も変わっていない。

こういう状態を見ていると現在の国会のあり方を議員定数の削減を含めて、再考する必要がある。政治空白を作って国民に迷惑をかけるなと、もっともらしいことを言ってやっていることは天下国家のためというよりは、その実、党利党略の駆け引きに明け暮れる日本の政治のお粗末さは笑いもの以外の何物でもない。

この辺でもう今までの在り方を思い切って変えて、国民がフラストレーションにならないように、考えるが、いかがなものであろうか。


猛獣的バイタリティー

2012年02月07日 | Weblog
猛獣的バイタリティー 7,408位 / 1,681,400ブログ中

「馬鹿なことを考えるな !!!。そんなことで、人の心を打つ作品がかけると、君は思うのか、あまいことを考えるでない。」

先生は体を震わせて大声で、怒鳴られた。私はびっくりした。目から火が出ると言うのは、こういうことを言うのか。たったこれぐらいのことで、こんなに怒られるとは思ってもみなかった。意外にも意外。
 先生はぎょろ目でじっと私を見すえて、怒られる。らんらんと輝く目から発せられる怒りの炎が、私の胸に突き刺さる。私は何とかして先生の前から姿を消したかった。しかし逃げるわけにもいかず、私はただうなだれてうつむいている以外には、どうしようもなかった。

 口もスムーズに、回らない不自由な身の先生の、どこにあんな激しいエネルギーが潜んでいるのだろうか。

[先生。まず生活だと思います。生活をキチットしておいて、そのあと時間ができたら、ぼつぼつ作曲でも始めようかと思います。]
と私が何気なく言った。この一般世間では常識的な発言が、どうして先生の逆鱗に触れたのだろうか。私は理解に苦しんだ。

 察するに、先生は私を一人前の作曲家にしてやろうと力を入れておられたのであろう。私はそれに応えることなく、気のない返事をしたから、先生はカッとなられたのであろう。

さもないと、わざわざ当時、私が住んでいた大学の寮まで、至急電報をよこされて、自宅に私を招かれることは無かったであろうから。

 表面的には一見華やかな芸術家の活動も裏に回れば、命を削る思いをして一つの作品ができあがるのに、暖衣飽食とまでは言わないが、それに近い状態を作ることに全力を傾けて、しかる後に余力があれば趣味的な感覚で、人の魂を魅了する作品を書きたいとする私の虫の良い考えをこっぴどく叱責されたのであった。

 先生は常日頃、「猛獣的バイタリティー」という言葉をよく口にされた。そして先生は、この標語を己の生活信条とされていたのであろう。あらゆる困難を乗り越えて、日本の音楽界の草分け的存在となられた先生である。後に続くものはビートン・トラックすなわち踏みならされた道を、走りさえすれば、それなりの成果が出るように、猛獣的バイタリティーで、西洋音楽を受け入れられるように、楽団も聴衆をも耕されたのだろう。

 いわば、日本の近代音楽は、山田先生の猛獣的バイタリティーが、ブルドーザーとなり、その整地された基盤の上に初めて成立したといっても過言ではない。

 クラシック音楽は言うに及ばず、演歌まで(みそらひばり用の演歌も作っておられる)およそ音楽のあらゆる分野に手を染めておられる先生には、ずいぶん困難があったはずである。事実、私は先生が高利貸から借金されていたことまで耳にしている。

 私は今まで生きてきた自分の経験に基づいて「恒産なければ恒心なし」と固く信じていたから、先生の住んでおられる、芸術の世界のことはよく分からなかった。が、この地上に住んでいる限り、恒産がなければ、火宅の人にならざるを得ないのが人の常だ。考えてみると先生もやはり、ご自身の猛獣的バイタリティーのゆえに、火宅の住人だったのではなかろうか。

 いやいや、先生は「良い芸術作品を世に出すと、それだけでちゃんと日常生活成り立つものである。だからまず良い作品作りに専念せよ」と教えたはずだったのに、私はまず日常生活をきちっと成立させたうえで、誰に遠慮なく、全く私の自由意志で、作品を作ると平然と答えてしまったのであろう。
きっとこのことが先生のカンに触ったに違いない。

 結論から言えば同じであっても、主と客を転倒すると、作曲する場合の信条はまるで違うはずである。
古来、世界に名曲を残した有名な音楽家たちは一様に貧乏暮らしの中に、不朽の名作という花を咲かせた。

 ベートーヴェンも、モーツァルトも、シューベルトもフォスターも私の目から見れば、みな火宅の長屋の住人である。しかし、彼らは芸術という意欲のために、あえて火宅の人となり、それ故に不朽の名作を作り得たのかもしれない。
とすれば、日本が生んだ偉大な天才・山田耕筰先生もまた、自己体験を通して貧乏神にとりつかれながら、名作を生み出すことが、真の作曲家であると固く信じておられたことだろう。

 だから私のような小市民的、常識的発言にうんざりされたのだろう。私は自分を山田先生のような多才の人とは思えない。私が内に秘めているバイタリティは先生の猛獣的バイタリティーに比べれば、ものの数には入らない。同じく人として、この世に生まれながら、大きな違いである。

 母は私をこの世に送り出すときに、この大きな違いを認めたであろうか。それとも先人を乗り越える力を私にあたえてくれたのだろうか。
もし母がその力を授けて私を産んでくれたのなら、私は山田先生の猛獣的バイタリティーに対して、これからも頑張らなければならないと思う。

 50年の歳月経て、私は今鮮やかに思い出した。だらんらんと輝く目を。
後にも先にも、あんなに異常なエネルギーを発する目を見たことはない。
私が縮みあがったのは、恐怖心からではなく、異常なエネルギーが発する目。そのものに恐れをなしたのである。天才の眼光は鋭いだけじゃなくて、すごい。
気合いを入れるように、発破掛けられたのだから、生涯自分に対して発破を掛けなくちゃと思う。


胆力のすわった男

2012年02月06日 | Weblog
胆力のすわった男 12/02/02  順位: 6,731位 / 1,681,065

僕は、武道は何もやらない。だから、精神が鍛錬不足で胆はすわっていない。あきれるほど小心者である。つねづねそう思ってきた。
昨日、山岡鉄舟と西郷の歴史秘話を見た
彼らと、僕の共通点は、貧乏だけである。実力はと言えば丸で話にならない。お粗末を通り越している。同じく人として生まれながら、どうしてこんなに情けない人間なのだろうか僕は。

武道で精神を鍛え、胆を据え何事にも動じないということが、リーダーの必須の条件で、国を背負うなら、なおさらのこと。リーダーの資格などつゆほどもない僕にも、胆力と真実を見抜く力、やり抜く行動力がどれほど大切か思い知らされる。

明治維新は、西郷と勝の無血開城会談だとばかり思っていたが、実際に、動いたのは、山岡鉄舟であることを知ると、同時に彼の人間的器の大きさと働きには感動する。

何者も恐れず、天下の王道を堂々と歩くには、歩くだけの武術の実力と、それによって培われた胆力。それに加えて相手を裏切らない赤心。
国難の時は出現した英雄達の力によって、この国は救われてきた。

今こそ、日本国の政治家には西郷や勝や山岡に替わりうる人物が求められている。出でよ。平成の西郷、勝,山岡鉄舟。



草食系

2012年02月05日 | Weblog


草食系 6,336位 / 1,680,613

結婚したがらない、女を求めない男のことを言うのだろうが、人にもよるが、いつの時代にもいたのだろう。最近この言葉がとみにクローズアップされているが、男女どちらに主導権があるかということも含まれるだろう。こういう言葉が出る前までは、女を求めない男なんて奇人変人の部類で片づけられていた。

今日病院の受付で隣の夫婦の会話を聞くともなく聞いた。年は二人とも70過ぎ。

「いつも私に理屈で、なんとか、かんとか言うが、世間はあんたの言う理屈通りにはいかないよ。がちゃがちゃ言わないで、早く受付に此の書類を出してきて」
トーチャンは受付へ。
カーチャンあ追い打ちをかけて
「なにを、もたもたしてんのよ。早く受付てもらわないと、順番が遅れる。早くして!!。」
「、、、、、」
「もういい。自分でやるわ。こんな時には何の役にもたたんのに。いつも偉そうに言うて。
あんたは普通やけど、私は病気やねん。ちょっと気を働かせたらどうや」
「、、、、」
こういう調子の矢が次々に放たれる。
会話を聞く限りトーチャンはコテンパンである。

なるほど。これが高齢世代の草食系なのか。 いや草食状態なんだと同年配の僕は苦笑する。
ダンナはカーチャンよりも年上でよぼよぼしている。年齢からくる体力や精神力の衰えは避けようがない。こうなれば、なべて平均寿命の長い女性の方が有利である。カーチャンは年が若く近頃の女は強くなっている。そしてダンナより体力がある分有利である。

老人介護というけれど、普通は70歳以上の夫婦は互いに支え合って生きている。どちらかが体調不良の時、相方が支えて生きている。
TVでよく見かける光景だが、実際どちらかが倒れたら心配と不安でおろおろする。
倒れ方にもよるが、救急車を呼ばなければならないような事態になると、生きた心地がしない。草食系だとか肉食系だとか吹っ飛んでしまってどちらも関係ない。

ただ思うことは、男が活力を失うと、すべての面でレベルが下がってくる。
かといって何等かの手も打てるわけではなし。人生はそうしたものだと観念するほかはないのかなー。

児童相談所一体何をしているのか

2012年02月04日 | Weblog

児童相談所一体何をしているのか 8,251位 / 1,680,215ブログ中

またまた事件が起こった。精神異常と思われる母親が娘を刺し殺した。
こういう報道がなされると、自治体、学校、医者 近所住民 、警察などが絡みながら、結局は子供が犠牲になって死ぬという結末になる。
その任に当たる最先端の担当者がもう少し注意深く行動(観察では無い。収容と言うことだ)したり、連携をうまくとったりすれば防げたのにと僕は思うが、すべて後の祭りだ。担当者や担当部署をいくらせめても、死んだ子供は還らない。

直接通報したにもかかわらず、命が救えなかったのだから、当然のこととして、担当者やその部署の長は責任をとらねばならないが、その後の責任の取り方は有耶無耶におわっている。一罰百戒の厳罰にでもしなければ
この種の児童死亡事故は無くならない。
命の問題だけは取り返しが付かないから、もっと深刻に考えるべきである。担当者やその役を担う責任者はまるで判子でも押したかのように
「直ぐに保護を必要な状況では無い」と判断したという。
その判断が間違っていたからこそ、死亡事件が起こったのだ。
過去に幾例も在るでは無いか。一体似た様なことを何回繰り返せば事件が防げるのだ。
オーバーに騒いででも、あるいは空振りにおわってでも、それによって命が救われるのならば、どんな言い訳も許されるだろう。少しでもその兆候が現れたら、ためらわずに救いの手をさしのべて、家庭から子供を取り上げたらいい。もしそうした行為が違法だというなら徹底的にあらそうが良い。事件が起こらないと捜査に乗り出せない警察とは訳が違う。何よりも大切な事は危険にさらされた子供の命である。
危機にたいする認識と判断が甘すぎる。事件が起きる度に判断の過ちが指摘される。僕は言いたい。
言うまでもなく、君らは金を貰ってその任に当たっているプロなんだぞ。判断ミスで子供を死なせたら、君は給料を貰う資格が無いのだ。つまり君は退職しなくてはならないのだ。そういう自覚の下に常々目を光らせて貰いたい。問答無用で犠牲者を出さないことだ。この問題に関しては
「あつものに懲りてなますを吹く」事は何回あっても許される。失われる命を救えるならば。

東電の企業体質

2012年02月03日 | Weblog
東電の企業体質:      12/01/31 7,395位 / 1,679,900ブログ中

結論から見れば、東電は解体して、新しい電力供給システムを再構築するのが、望ましい。国民のためだ。
いまだに、東電の企業体質が問題にされている。たとえば今回の電気料金値上げである。東電は、今回の電力値上げは、権利であると、言い放った。開き直った。
福島原子力事故で、想像を超えた被害を与えておきながら、そちらに、顔を向けるということよりは、会社存続のための方策を取り上げている。
これだけでも、僕は反感を持つ。
社会的責任を東電は一体どう考えているのであろうか。
頭を下げて、すみませんでした、で済む話ではない。今なお、10万人以上の人が、日常生活を失って苦しんでいるというのに。
社会的責任を自覚しないような言動の目立つ東電という会社は、この機会を利用して、解体してしまう方が、社会にとっては良いのではないか。

その出発点は、発電送電の分離である。競争原理の導入で、電力の需給システムの効率を上げ、経済体質を強化するために、1990年代から先進各国が、導入し始めた。欧州では、国を超えた送電線の公的管理や電力市場の整備、小売り自由化が進んでいる。そうな。
日本もこれを見習って、1社独占体制の電力供給システムを根本的に、組み替える必要がある。
九州電力のやらせ問題でも、電力会社特有の自社しか通用しない、論理で、世間を押しきろうとする体質が露呈された。

地域独占で、電力の安定供給という大義名分のもとに、世間常識と、どれ程ずれた感覚を持った企業体質になっていたか。今回の福島事故をきっかけにして、そのことが、白日のもとにさらされた。

東電は、一時的にせよ。国家管理と、ならざるを得ないが情勢だが、この機会を利用して、全国の発電送電・電力供給のあり方を組み換えなければ、コストカットをしなければ、価格が世界一高い電力の供給では、産業界が世界とたちうちできない。おそらく今までの惰性で自己改革は出来ないだろうから、この際に再構築、し直した方が良い。


















大阪府教育条例案

2012年02月01日 | Weblog
大阪府教育条例案 7,153位 / 1,679,553ブログ

三時間に及ぶ府教育委員会や教育委員との議論のすえ、橋下側は議論は完勝したと言った.僕はそうだろうと思う。
初めて教育条例案が示されたときに、教委側はなんと言ったか
1,この案が提出されるのなら総辞職も辞なさい。
2,対案を出せば、橋下提案を認めたことになるから、対案は出さないとつっぱった。

教育委員側の発言は幼稚すぎて話にならない。総辞職までちらつかせて、逆らってみたが、誰ひとり辞職しない。如何にいい加減な連中があきれた。自分が言ったことに全く責任感が無い。今日の新聞には「最初の維新案の見たときは腰を抜かしたが意味合いは非常に変わったと」と教育委員長は言うが、本当に世間知らずの馬鹿だと思った。言わずもがなのことを言って、馬脚ばかり露出している。世間の目がどういうものなのか判っていないのじゃないか。
僕は聞きたい。何故辞職しないのだ?自己名誉のためにその地位にしがみつきたいのか。大の大人が子供のような反応をしてみっとも無い限りである。
2,対案を出しているでは無いか。では橋下提案を認めたことになるのだな。そして議論は完敗している。辞職までちらつかせて完敗か。
ようするに君たちは世間知らずの未熟者だ
何事も世間常識の流れを察知して動かさないと、君らクラスの頭や経験ではとても橋本氏に議論をして勝てる見込みは無いよ。両者の議論を見ていると、大人の議論にはなっていない。
何故こうも違うのか。その出自から考えて見ると、片方は世間知らずの公務員経験しか無いのに、橋本氏の方は世間の苦労を知っている。そして彼は根底に公務員の有り様を変えなければという信念を持っている。そこに大きな違いがある。世論はどちらを支持するか。答えは明白である。
もっと世間の風というものを、真摯に勉強したらどうか。