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■【きょうの人】 1227 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革 ■ ケプラー,ヨハネス ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計 ■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功

2020-12-27 13:15:56 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1227 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革 ■ ケプラー,ヨハネス ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計 ■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革


 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)


 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

■ ケプラー,ヨハネス ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計


 Johannes Kepler
 1571年12月27日 - 1630年11月15日


 ドイツの天文学者で、天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られています。

 理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえます。また数学者、自然哲学者、占星術師という顔も持っていたそうです。

 ケプラーは、1571年12月27日、神聖ローマ帝国で居酒屋を営んでいたハインリヒ・ケプラーとカタリーナ・ケプラーの間に生まれました。母のカタリーナは宿屋の娘 Katharina Guldenmannとして生まれ、ヒーラーとして薬草を用いて治療を行っていた人だったそうです。

 ケプラー家の経済状況は貧しくなりつつあり、父のハインリヒは収入を得るため傭兵となり、ヨハネスが5歳の時に家族と離ればなれになり、17才の折に死別しました。

 ヨハネスは、4歳の時に天然痘にかかり視力を低下させ、手もいくぶん不自由でした。

 6歳の時1577年の大彗星を目撃し、天文学に関心を持ったようです。

 ケプラー以前の天文学では、「完全なる神は完全なる運動を造られる」と考えられていたことから「惑星は中心の星の周囲を完全な円軌道で運行する」と考えられていました。

 一方で、惑星は逆行運動をすることが知られていました。

 ケプラーは、周転円の考えを導入することでそれを解決し、最終的にはクラウディオス・プトレマイオスによる地球中心説(天動説)を説明したのです。

 しかし、コペルニクスにより地動説が唱えられ、ケプラーの影はかすれてしまいました。

 ところが、ティコ・ブラーエによる、火星観測の正確なデータをもとに、地球の軌道は完全な円にかなり近いのですが、火星の軌道は楕円でることを照明するケプラーの第一法則の発見へ繋げました。

 ケプラーは、ケプラー式望遠鏡を設計しました。しかし、自分で政策をすることは中田壮です。

 

■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功


 すずき さぶろうすけ
 1868年1月21日(慶応3年12月27日)- 1931年3月29日


 日本の実業家で、味の素の創設者です。

 明治17年(1884年)18歳で2代目三郎助を襲名、呉服商辻井家の次女テルを妻に迎えますが、三郎助の商売は当初は順調でしたが、次第に資金繰りに躓き、それを埋めるために米相場に手を染めていました。

 商売を、かじめ焼きに代えましたが、国内で生産過剰となったヨード製品に目を付けます。かじめ焼きが輸出され、日露戦争で需要が高まり、莫大な利益を上げました。

 明治41年(1908年)、東京帝国大学の池田菊苗がグルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許が認められました。鈴木は知己を通じて開発中から池田博士と面談して、この特許の実施契約を得ました。

 弟に研究を任せ、はじめはうまく行かなかった味の素ですが、それが市場に受け入れられ、今日の味の素社の基礎を築くことができました。
 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

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 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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■【きょうの人】 1226 ■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家 ■ 徳川 家康 生誕

2020-12-27 11:21:28 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1226 ■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家 ■ 徳川 家康 生誕

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家


 ふじさわ しゅうへい
 1927年(昭和2年)12月26日-1997年(平成9年)1月26日)


 山形県鶴岡市出身の小説家で、本名、小菅留治(こすげ とめじ)といいます。

 江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残しています。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名です。

 長女遠藤展子は、エッセイストで、2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」を開館しました。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-tsuruoka/yamagata-tsuruoka.htm

 実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになります。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素です。

 1946年に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進みます。一級上には無着成恭がいました。

 入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加しました。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれています。

 初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、地味な作家でしたが、1976年刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変わりました。綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきたのです。

 藤沢は、これについて 「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んでき、北国風のユーモアが目覚めたといえます。

 1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする短篇集を書く一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだします。

 1984年以降になりますと、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作を相次いで発表・刊行します。

 テレビドラマ化された「せみしぐれ」に見られるようなおふくと清四郎などを通して情感溢れる描写が私の心に響きます。

 

■ 徳川 家康 生誕


 とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康
 天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)- 元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)
 主君 今川義元 → 今川氏真 → 足利義昭 →織田信長[2]→ 豊臣秀吉→豊臣秀頼


 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で、天下人と呼ばれます。安祥松平家9代当主で、徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖です。

 家系は、三河国の国人土豪・松平氏、旧称は松平元康(まつだいら もとやす)で、戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開き、三英傑のひとりといわれます。

 幼名は、竹千代、通称は次郎三郎で、のちに蔵人佐とも呼ばれていたようです。諱は今川義元より元信(もとのぶ)を授かり、元康とも名乗っていましたが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改めました。

 本姓は、私的には源氏を称していましたが、徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるほど、ブランディングを目的として苗字にはこだわりました。天正16年(1588年)以降に源氏を再び称しています。

 このことから、家康の出自は、それほど良いとは言えず、それを糊塗するための戦略でしょう。そこから読み取れることは、一般に知られるほどには肝が据わった男ではなく、小心な面を持っていたのではないかと、勝手に、独断と偏見でもって感じています。

 家康につきましては、多くを語る必要がないほど、よく知られています。
 

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

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