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■【きょうの人】 0505 ■ 鑑真 唐招提寺ゆかりの律宗の開祖 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖 ■ 日朗 日蓮を師として法を学ぶ

2021-05-05 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0505  鑑真 唐招提寺ゆかりの律宗の開祖 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖 ■ 日朗 日蓮を師として法を学ぶ

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 日朗 日蓮を師として法を学ぶ

 にちろう
 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日)

 鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。

 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。

 1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。

 日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。

 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。

 1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。


■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖

 せんよ
 享禄3年(1530年)- 慶長9年5月5日(1604年6月2日)

 室町時代の僧で、「専誉僧正(せんよそうじょう)」の名で知られ、真言宗豊山派の第一祖です。

 和泉国大鳥郡(現・大阪府堺市)において、石垣氏に生まれ、天文11年(1542年)に出家し、専誉と称するようになりました。

 天正12年(1584年)に根来寺学頭に就任し、羽柴秀吉による根来焼き討ち後、高野山・醍醐寺・和泉国分寺に移りました。その後、豊臣秀長に招聘されて長谷寺に入山し、慶長9年(1604年)5月5日、75歳で入寂しました。


 鑑真 唐招提寺ゆかりの律宗の開祖

 がんじん、旧字体: 鑑眞
 688年〈持統天皇2年〉- 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉

 奈良時代の帰化僧で、日本における律宗の開祖。俗姓は淳于です。

 唐の揚州江陽県の生まれ、14歳で智満について得度し、大雲寺に住むことになりました。

 18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年、弘景について登壇受具し律宗・天台宗を学びました。

 鑑真が学んだ律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派です。

 鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。

 揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請されました。

 鑑真は、荒天などで六回の渡海を試み、ようやく日本にたどり着きました。

 最初の渡海は、743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放されました。その後は、荒天などに阻まれました。

 天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)、ようやく大宰府に到着しました。

 鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に、平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受けました。

 孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなりました。

 聖武天皇より伝法大法師位を賜り、常設の東大寺戒壇院が、大仏殿のそばに建立されました。

 その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていくことになりました。

 その後、伽藍を建立し、唐律招提案を賜い、日本の戒律宗の祖師となりました。76歳でこの世を去りました。

  

 

 

 

 

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■【きょうの人】 0504 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖​​​​​​​

2021-05-04 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0504 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖​​​​​​​

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■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家

 いけの たいが
 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心とした文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。


■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖​​​​​​​

 せんよ
 享禄3年(1530年)- 慶長9年5月5日(1604年6月2日)

 室町時代の僧で、「専誉僧正(せんよそうじょう)」の名で知られ、真言宗豊山派の第一祖です。

 和泉国大鳥郡(現・大阪府堺市)において、石垣氏に生まれ、天文11年(1542年)に出家し、専誉と称するようになりました。

 天正12年(1584年)に根来寺学頭に就任し、羽柴秀吉による根来焼き討ち後、高野山・醍醐寺・和泉国分寺に移りました。その後、豊臣秀長に招聘されて長谷寺に入山し、慶長9年(1604年)5月5日、75歳で入寂しました。

 

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■【きょうの人】 0503 微妙大師授翁宗弼 後醍醐天皇との繋がり

2021-05-03 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0503 微妙大師授翁宗弼 後醍醐天皇との繋がり

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■ 微妙大師授翁宗弼 後醍醐天皇との繋がり

 

 びみょうだいし じゅおうそうひつ
 永仁4年(1296年)- 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日)

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、諱は、後醍醐天皇から授かった宗弼、39歳で出家し、字は授翁です。諡号は、円鑑国師、微妙大師です。父は南朝忠臣藤原宣房で、宗弼は、万里小路藤房と同一人物とする説もあります。

 建武の新政の際には、後醍醐天皇を諫めたが受け入れられず、ひそかに洛北岩倉で不二大徳に支持して得度しました。20年間隠遁した後、京都妙心寺の関山慧玄に参禅して、その法を継ぎ、妙心寺2世となりました。


 宗弼は、客観的なものの見方をすることができる人だったようで、後醍醐天皇による建武の新政における考え方に危機感を持ちました。天皇を諫めましたが、聴く耳を持たなかったようで、足利尊氏が離反するなど、人心掌握力にも欠けていたようです。

 ビジネスパーソンが、変革など、何か、ことを起こそうというときには、周到なる準備が必要です。また、周囲の人間をキチンと掌握していませんと、離反者が出てしまいます。一人離反者が出ますと、離反する人が続出してしまう懸念がありますので、離反者が出ないように、心する必要があります。

 起こそうとするコンサルタントデプトは何かを、明確にし、それを関係者に周知徹底する必要があります。


【妙心寺サイト】

 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の本山です。

 インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。

 1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。

 お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。

 開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。

 自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

 

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■【きょうの人】 0502 ■ 聖武天皇 藤原氏の影響大であったようです

2021-05-02 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0502 ■ 聖武天皇 藤原氏の影響大であったようです

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■ 聖武天皇 藤原氏の影響大であったようです

 しょうむてんのう
 701年〈大宝元年〉-756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)

 日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉で、諱は首(おびと)、尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)ともいいます。

 文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子です。

 父・文武天皇に、7歳で死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはありませんでした。このため、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位しました。

 最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入りましたが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者でした。

 天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整えることになりました。

 天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出しています。

 病弱でありましたが、その功績は、後世でも認められています。

 

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■【きょうの人】 0501 ■ 大塩 平八郎 没 大塩平八郎の乱の首謀者

2021-05-01 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0501 ■ 大塩 平八郎 没 大塩平八郎の乱の首謀者

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■ 大塩 平八郎 没 大塩平八郎の乱の首謀者

 おおしお へいはちろう
 寛政5年1月22日(1793年3月4日)-天保8年3月27日(1837年5月1日)

 江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力で、大塩平八郎の乱を起こしました。

 通称は、平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)、字は子起、号は中斎です。

 揚羽の家紋を持ちます大塩家は、今川氏の末流で、代々大坂東町奉行組与力を務めていました。平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたります。

 大塩平八郎の欄を蜂起する前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で、甲斐国「天保騒動(郡内騒動)」や、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生しました。

 各地で不穏な動きが出て、砲術を中心とする軍事訓練が開始されました。

 大潮は、蔵書を処分するなどして私財をなげうって、救済活動を行います。しかし、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考えました。

 天保8年に門人、民衆と共に蜂起します。大塩平八郎の乱です。腐敗した役人にも目をつぶることができなかったのでしょう。

 しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなり、蜂起は不発に終わりました。

 その後、一旦は、逃げ延びましたが、告発により、再び窮地に追いやられ短刀と火薬を用いて自決することになりました。享年45でした。

 

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