キューピーヘアーのたらたら日記

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『福井コンピュータ ワンマンだからできた「全員経営」』 小林眞

2009-03-19 15:06:28 | 
この本が出版されたのが、去年のちょうど今頃。

「ふん、デカいビルを建てたかと思うと、今度は自伝か。

 こんな田舎の中小企業の社長の自伝なんぞ誰が読む?!」

と、キューピーはほとんど一瞥もくれなかった。

小林眞社長がどんな育ち方をし、

どうやって会社を急成長させ、

現在の福井コンピュータがどんな規模になっているのか、

今日まで知らずにいた。


ごめんなさい。

そして、この本を薦めてくださったFさん、ありがとう。


かいつまんで書こう。

小林社長は昭和17年、北朝鮮:清津(せいしん)の生まれ。

父親は出版会社を経営していたが、

終戦を向かえ敦賀市に引き揚げてきた。

小林社長が小学校に入学した頃から、父に愛人ができて

ほとんど家に寄り付かなくなった。

もちろん金も家に入れない。

家は貧しくなり、小林少年は下着まで近所の子供のお古を着せられていたそうだ。

困り果てた母親は、行商をするようになる。

朝市で仕入れた海産物を、滋賀県の山あいの村々まで汽車に乗って売りに行くのだ。

体が弱かった母親は無理がたたり胆のうを患い、やがて病に伏せる。

中学生になっていた小林少年は家計を助けるため学校を休み、

汽車通学の同級生たちに隠れてこそこそと滋賀県まで、

塩サバ、イカ、身欠きニシン、コロッケ、海苔などを売りに行くのだった。


この時代に、人情のありがたさを身に沁みて覚え、

それは、この本のあちこちに出てくる「私は性善説論者だ」という言葉に表れている。

また、この頃覚えた商売の機微も、後々の人生で役に立つこととなる。


中学を卒業後、自動車修理工場に就職するも、怪我をして辞めてしまう。

その後、石川県の繊維会社に集団就職するが、

期待していたのとは大違いの劣悪な労働環境だった。

そんな中、労働運動と出会い組合を組織し、委員長に抜擢されるが、

それが憂き目に出て会社を解雇されてしまう。

その後の人生も、たびたび不運が身に降りかかり、何度も転職しなければならなかった。

鉄工所、機械の設計・加工請負、保険の外交、タクシー運転手など十社以上も転職を重ねた。

そして、最後に高卒と履歴を詐称して雇われたのが、

測量機器、計算機の販売をしていたカネコだった。

この時、32才、コンピュータとの運命的な出会いを果たす。


はあ、疲れたあ。

久々のブログ更新だもんね。

最近のキューピーはライブチャットに嵌っちゃってて、

いかんいかん。

実はキューピー、福井コンピュータの社員さんとは、

かれこれ24年くらい前だけど、いっしょに仕事をさせてもらったことがあるんです~。

その時、その社員さんが、

「CADはいいですよ~。将来が明るいですよ~。」

と、僕に耳打ちしてくれたのを憶えている。

愚鈍なキューピーは、CADのソフトを使って図面でも引く外注の仕事でもしているのかと、

まさかそのパッケージソフトそのものを自社開発しているとは思いもよらなかった。


福井コンピュータの成功は、

小林眞+コンピュータの出会いじゃなく、

(キューピー+コンピュータの出会いだってあったのだ)

小林眞+コンピュータ+測量計算・CADの出会いが鍵なのだ。

キューピーたち、どこにでもいる下層下請け外注請負プログラマーとは違い、

独自のパッケージ製品を開発・販売できたフィールドに出会えた意味が重要なのだ。


とまあ、運のよさばかりを言ってもしょうがありますまい。

CADのパッケージソフトを開発していた会社は他にもあるのだ。

その熾烈な競争に打ち勝った企業努力を褒めることなしに

この記事を終えてしまってはなりますまい。


皆さ~ん、福井コンピュータは今や東証一部上場企業ですよ~。

福井は社長さんの数は全国一ですが、

創業者が一部上場を果たしたのは、「福井コンピュータ」がオンリーワンですってよ。

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1 コメント

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Unknown (株式会社エコランド)
2011-01-16 16:52:48
当社では測量機器の買取をしておりますので、是非ブログに遊びに来てください★
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