
この本が出版されたのが、去年のちょうど今頃。
「ふん、デカいビルを建てたかと思うと、今度は自伝か。
こんな田舎の中小企業の社長の自伝なんぞ誰が読む?!」
と、キューピーはほとんど一瞥もくれなかった。
小林眞社長がどんな育ち方をし、
どうやって会社を急成長させ、
現在の福井コンピュータがどんな規模になっているのか、
今日まで知らずにいた。
ごめんなさい。
そして、この本を薦めてくださったFさん、ありがとう。
かいつまんで書こう。
小林社長は昭和17年、北朝鮮:清津(せいしん)の生まれ。
父親は出版会社を経営していたが、
終戦を向かえ敦賀市に引き揚げてきた。
小林社長が小学校に入学した頃から、父に愛人ができて
ほとんど家に寄り付かなくなった。
もちろん金も家に入れない。
家は貧しくなり、小林少年は下着まで近所の子供のお古を着せられていたそうだ。
困り果てた母親は、行商をするようになる。
朝市で仕入れた海産物を、滋賀県の山あいの村々まで汽車に乗って売りに行くのだ。
体が弱かった母親は無理がたたり胆のうを患い、やがて病に伏せる。
中学生になっていた小林少年は家計を助けるため学校を休み、
汽車通学の同級生たちに隠れてこそこそと滋賀県まで、
塩サバ、イカ、身欠きニシン、コロッケ、海苔などを売りに行くのだった。
この時代に、人情のありがたさを身に沁みて覚え、
それは、この本のあちこちに出てくる「私は性善説論者だ」という言葉に表れている。
また、この頃覚えた商売の機微も、後々の人生で役に立つこととなる。
中学を卒業後、自動車修理工場に就職するも、怪我をして辞めてしまう。
その後、石川県の繊維会社に集団就職するが、
期待していたのとは大違いの劣悪な労働環境だった。
そんな中、労働運動と出会い組合を組織し、委員長に抜擢されるが、
それが憂き目に出て会社を解雇されてしまう。
その後の人生も、たびたび不運が身に降りかかり、何度も転職しなければならなかった。
鉄工所、機械の設計・加工請負、保険の外交、タクシー運転手など十社以上も転職を重ねた。
そして、最後に高卒と履歴を詐称して雇われたのが、
測量機器、計算機の販売をしていたカネコだった。
この時、32才、コンピュータとの運命的な出会いを果たす。
はあ、疲れたあ。
久々のブログ更新だもんね。
最近のキューピーはライブチャットに嵌っちゃってて、
いかんいかん。
実はキューピー、福井コンピュータの社員さんとは、
かれこれ24年くらい前だけど、いっしょに仕事をさせてもらったことがあるんです~。
その時、その社員さんが、
「CADはいいですよ~。将来が明るいですよ~。」
と、僕に耳打ちしてくれたのを憶えている。
愚鈍なキューピーは、CADのソフトを使って図面でも引く外注の仕事でもしているのかと、
まさかそのパッケージソフトそのものを自社開発しているとは思いもよらなかった。
福井コンピュータの成功は、
小林眞+コンピュータの出会いじゃなく、
(キューピー+コンピュータの出会いだってあったのだ)
小林眞+コンピュータ+測量計算・CADの出会いが鍵なのだ。
キューピーたち、どこにでもいる下層下請け外注請負プログラマーとは違い、
独自のパッケージ製品を開発・販売できたフィールドに出会えた意味が重要なのだ。
とまあ、運のよさばかりを言ってもしょうがありますまい。
CADのパッケージソフトを開発していた会社は他にもあるのだ。
その熾烈な競争に打ち勝った企業努力を褒めることなしに
この記事を終えてしまってはなりますまい。
皆さ~ん、福井コンピュータは今や東証一部上場企業ですよ~。
福井は社長さんの数は全国一ですが、
創業者が一部上場を果たしたのは、「福井コンピュータ」がオンリーワンですってよ。
「ふん、デカいビルを建てたかと思うと、今度は自伝か。
こんな田舎の中小企業の社長の自伝なんぞ誰が読む?!」
と、キューピーはほとんど一瞥もくれなかった。
小林眞社長がどんな育ち方をし、
どうやって会社を急成長させ、
現在の福井コンピュータがどんな規模になっているのか、
今日まで知らずにいた。
ごめんなさい。
そして、この本を薦めてくださったFさん、ありがとう。
かいつまんで書こう。
小林社長は昭和17年、北朝鮮:清津(せいしん)の生まれ。
父親は出版会社を経営していたが、
終戦を向かえ敦賀市に引き揚げてきた。
小林社長が小学校に入学した頃から、父に愛人ができて
ほとんど家に寄り付かなくなった。
もちろん金も家に入れない。
家は貧しくなり、小林少年は下着まで近所の子供のお古を着せられていたそうだ。
困り果てた母親は、行商をするようになる。
朝市で仕入れた海産物を、滋賀県の山あいの村々まで汽車に乗って売りに行くのだ。
体が弱かった母親は無理がたたり胆のうを患い、やがて病に伏せる。
中学生になっていた小林少年は家計を助けるため学校を休み、
汽車通学の同級生たちに隠れてこそこそと滋賀県まで、
塩サバ、イカ、身欠きニシン、コロッケ、海苔などを売りに行くのだった。
この時代に、人情のありがたさを身に沁みて覚え、
それは、この本のあちこちに出てくる「私は性善説論者だ」という言葉に表れている。
また、この頃覚えた商売の機微も、後々の人生で役に立つこととなる。
中学を卒業後、自動車修理工場に就職するも、怪我をして辞めてしまう。
その後、石川県の繊維会社に集団就職するが、
期待していたのとは大違いの劣悪な労働環境だった。
そんな中、労働運動と出会い組合を組織し、委員長に抜擢されるが、
それが憂き目に出て会社を解雇されてしまう。
その後の人生も、たびたび不運が身に降りかかり、何度も転職しなければならなかった。
鉄工所、機械の設計・加工請負、保険の外交、タクシー運転手など十社以上も転職を重ねた。
そして、最後に高卒と履歴を詐称して雇われたのが、
測量機器、計算機の販売をしていたカネコだった。
この時、32才、コンピュータとの運命的な出会いを果たす。
はあ、疲れたあ。
久々のブログ更新だもんね。
最近のキューピーはライブチャットに嵌っちゃってて、
いかんいかん。
実はキューピー、福井コンピュータの社員さんとは、
かれこれ24年くらい前だけど、いっしょに仕事をさせてもらったことがあるんです~。
その時、その社員さんが、
「CADはいいですよ~。将来が明るいですよ~。」
と、僕に耳打ちしてくれたのを憶えている。
愚鈍なキューピーは、CADのソフトを使って図面でも引く外注の仕事でもしているのかと、
まさかそのパッケージソフトそのものを自社開発しているとは思いもよらなかった。
福井コンピュータの成功は、
小林眞+コンピュータの出会いじゃなく、
(キューピー+コンピュータの出会いだってあったのだ)
小林眞+コンピュータ+測量計算・CADの出会いが鍵なのだ。
キューピーたち、どこにでもいる下層下請け外注請負プログラマーとは違い、
独自のパッケージ製品を開発・販売できたフィールドに出会えた意味が重要なのだ。
とまあ、運のよさばかりを言ってもしょうがありますまい。
CADのパッケージソフトを開発していた会社は他にもあるのだ。
その熾烈な競争に打ち勝った企業努力を褒めることなしに
この記事を終えてしまってはなりますまい。
皆さ~ん、福井コンピュータは今や東証一部上場企業ですよ~。
福井は社長さんの数は全国一ですが、
創業者が一部上場を果たしたのは、「福井コンピュータ」がオンリーワンですってよ。