「興」です。書紀によると「安康天皇」の時代です。460年頃のお話です
「興は、それまでの国王と同じように、中国への忠誠を引き続いて、外敵を取り除く垣根となって、辺境の地を安らかにしてくれている。だから、興に対しても爵位を授け、今までどうりに「安東将軍倭国王」とせよ」
と。朝鮮半島を含めて「安東」ですから、東アジヤ一帯を軍事的に統括する役目(使持節)を、当時の大国「宋王」から認められたのです。大変な権力を倭王にあたえられたのです。この宋書にある「讃」の宋王に[貢物を持って伺かがう」のは、例の高句麗「広開土王碑」の刻文にある倭軍を追い払う事件のわずか20年後の出来事なのです。素直に倭王の命を聞く高句麗の王ではなかったのではと思われますがどうでしょうか。
そこら辺りの事情は吉田東伍の「日韓古史断」をひもとけばと思っておりますが、余り専門的になりますので私の力ではどうにかなりそうにもありません??
なお、ご存じとは思いますが、この「広開土王碑」に刻まれた文字の一部ですが見てください。こんな字なのです
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