例の先生からご教授のありました通りに、お教えに従って日本書紀の「允恭天皇の七年」の所をひも解いてみました。そこには、「衣通郎女<ソトオリノイラツメ>」について、古事記と違って”弟媛”という名で出ております。その人は天皇の皇女ではなく、皇后の妹として登場するのです。
允恭天皇の年の十二月一日に、新居の落成のお祝の会が催されたのです。その席で、天皇は琴を引かれ、その曲に合わせて皇后は舞いを舞われたのです。当時の風習として舞いを舞った人は、その座の長に「奉娘子也<オミナヲ タテマツル」と言うのが習わしだったのです。
ちょと、この風習どう思われます。普通なら、舞いを舞ってその褒美に何かを賜るのですが、この場合は、それとは反対に、舞った人から、それも、その座の長に”娘子<オミナ>”を差し出さなければならなかったのです。これが、五世紀の初めでなくて、現代なら、女性の人権を守る団体等から幾重もの抗議が届けられそうですが。どこかの知事みたいに、それこそ、周囲の人達から、敵からも味方からも、槍玉にあげられて四苦八苦しなくてはならない騒動になりましょうに。側女を差し出すのですから、そんなんに簡単に舞うことなんかできないのが普通です。そんなことを知っていたのに、どうして、皇后は舞いなんか舞ったのでしょうかね。
だから、この時、皇后は、何にも云わないで済ましていたのでしょう。すると、天皇が、即刻。「どうして娘子の名を云わないのか」と尋ねられます。余程、云いたくなかったのでしょう。皇后は、「ああ、しまった。踊りなんか、しなければよかった」と、思ったのかもしれません。その言葉を無視して、再び。舞います。
さて、この結末はどうなると思いますか。皇后の思いは如何に。そんな悪習でも、当時は従わなければならない掟があったのでしょうか???どうなりますか
まあ、こんなこと一々取り上げておりますと、又、とんでもない時間の浪費になるなあと思いながら書いております。「ええかげんに せえよ」と云われそうですが、退屈だとは思うのですがお付き合いください。お願いします。!!!!!
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