壬申元年(674年)七月二日の事です。
大友皇子の数万の軍勢は吉野を出発した大海人皇子軍と戦うべく不破ノ関に進駐すべく犬上川に集結します。ここで何がどのようになったか、書紀には全く何も書かれてないのですが、唯、「時に、近江、山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等に命せて、数万の衆を率て、将に不破を襲はむとして、犬上川の浜に軍す。」書いた後に、突然、何も説明なしに、ただ
”山部王。為蘇賀臣果安。巨勢臣比等。見殺”
と。
これをどう解釈すればいいのでしょうか??よくわかりません。仕方ありません。水戸光圀の「大日本史」を紐解くと、そこには
「山部王、果安・人が為に殺された。」
と。
その時の近江軍の大将が「山部王」だとは理解できますが、ではなぜ、その将である人を、この緊急事態の時に、その家臣の「果安・比等」が殺さなくてはならなかったのでしょうか???そして、さらに、不可解なことは、軍の大将がいなくなったのですから、当然、戦いなどできるはずがありませんから近江軍は大津に退却しますが、帰った後で
「果安、犬上より返りて、頸を刺して死せぬ。」
とあります。(壬申元年七月朔日)。どうして「果安が自殺してしたのでしょうか。また比等は??」不思議ですね???
これらの記事を見ると、近江軍は、その原因は不明ですが、内部分裂がおこり力が次第に弱まっていたことが伺われます。更に、奈良に進駐していた近江軍も大海人皇子軍に破れます。いよいよ大友皇子は追いつめられます。なお、光圀の大日本史では「大友皇子」が天智天皇崩御後「天皇の位に即く」と書かれています。即ち、「弘文天皇」です。
大友皇子の数万の軍勢は吉野を出発した大海人皇子軍と戦うべく不破ノ関に進駐すべく犬上川に集結します。ここで何がどのようになったか、書紀には全く何も書かれてないのですが、唯、「時に、近江、山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等に命せて、数万の衆を率て、将に不破を襲はむとして、犬上川の浜に軍す。」書いた後に、突然、何も説明なしに、ただ
”山部王。為蘇賀臣果安。巨勢臣比等。見殺”
と。
これをどう解釈すればいいのでしょうか??よくわかりません。仕方ありません。水戸光圀の「大日本史」を紐解くと、そこには
「山部王、果安・人が為に殺された。」
と。
その時の近江軍の大将が「山部王」だとは理解できますが、ではなぜ、その将である人を、この緊急事態の時に、その家臣の「果安・比等」が殺さなくてはならなかったのでしょうか???そして、さらに、不可解なことは、軍の大将がいなくなったのですから、当然、戦いなどできるはずがありませんから近江軍は大津に退却しますが、帰った後で
「果安、犬上より返りて、頸を刺して死せぬ。」
とあります。(壬申元年七月朔日)。どうして「果安が自殺してしたのでしょうか。また比等は??」不思議ですね???
これらの記事を見ると、近江軍は、その原因は不明ですが、内部分裂がおこり力が次第に弱まっていたことが伺われます。更に、奈良に進駐していた近江軍も大海人皇子軍に破れます。いよいよ大友皇子は追いつめられます。なお、光圀の大日本史では「大友皇子」が天智天皇崩御後「天皇の位に即く」と書かれています。即ち、「弘文天皇」です。
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