柳北は吉備津神社に参拝して、その前後に宮内の遊郭でも游んだと思われるのですが、その記は、あまりにも神社のかんさびて威風堂々としていた姿に敬意を示したのか、何も書き残してはいません。後で少し触れたいとはお思いますが、金比羅宮への参詣の時、そこの遊郭で遊んだことについて詳しく書き残しております。
とにかく、その柳北は吉備津神社については、大変感動してか、詳しくその由来なども説明してあります。
"この宮は大吉備津彦の尊を祭ると聞く。帝の時、鬼酋あり、この地に住む鬼悌を呪阻せんとて鯉に化し板倉川を下る。帝これを射殺し給ふ。いま、足守より西二里許に鬼の城という山あり・・・。”
と。その鬼の城をちょっと・・・・
総社市奥坂にあります。斉明天皇の時(663年頃白村江の戦い)百済を助けよう朝鮮に出兵したのですが、新羅と唐の連合軍に徹底的に敗れ、その仕返しを恐れ、その防御態勢のために作ったお城だといわれています。(日本歴史に記録のないない城)その城跡が「鬼ノ城<キノジョウ>」と呼ばれ,後の桃太郎伝説の鬼の住む場所として伝説となって残ったものです。
その昔話を聞いた柳北が
"鬼ノ城とうふ山あり”
と書いたのです。その「鬼の城」の写真を
なお「板倉川」とは、これも何時頃まであったのかはわからないのですが、江戸の初期頃には、まだ、高梁川が総社市の山際を東に流れて、足守川を合流して、吉備津辺りから南に流れ、その川口が庭瀬辺り(川入)にあったのです。その吉備津付近を流れる川が板倉川という名に代わっていたらしいのです。
とにかく、その柳北は吉備津神社については、大変感動してか、詳しくその由来なども説明してあります。
"この宮は大吉備津彦の尊を祭ると聞く。帝の時、鬼酋あり、この地に住む鬼悌を呪阻せんとて鯉に化し板倉川を下る。帝これを射殺し給ふ。いま、足守より西二里許に鬼の城という山あり・・・。”
と。その鬼の城をちょっと・・・・
総社市奥坂にあります。斉明天皇の時(663年頃白村江の戦い)百済を助けよう朝鮮に出兵したのですが、新羅と唐の連合軍に徹底的に敗れ、その仕返しを恐れ、その防御態勢のために作ったお城だといわれています。(日本歴史に記録のないない城)その城跡が「鬼ノ城<キノジョウ>」と呼ばれ,後の桃太郎伝説の鬼の住む場所として伝説となって残ったものです。
その昔話を聞いた柳北が
"鬼ノ城とうふ山あり”
と書いたのです。その「鬼の城」の写真を
なお「板倉川」とは、これも何時頃まであったのかはわからないのですが、江戸の初期頃には、まだ、高梁川が総社市の山際を東に流れて、足守川を合流して、吉備津辺りから南に流れ、その川口が庭瀬辺り(川入)にあったのです。その吉備津付近を流れる川が板倉川という名に代わっていたらしいのです。
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