大吉備津彦命は吉備地方に来て温羅を退治したり、東海に派遣した武渟河別命と一緒に出雲振根命を討つなどしたりして大活躍されますが、その後の命の業績は記紀には何も記されてはいません。しかし、その後、命は吉備の地に留まりこの地方を鎮めて、「二百八十一歳で薨去され、お墓は吉備の中山の茶臼山あり」と社伝に書かれております。
ここからでもわかるように、当時、天皇の政治勢力範囲は大和を始め、せいぜい奈良盆地を中心としたごく狭い京畿地域に限られていたのです。それを孝霊天皇の時代頃から、漸次、拡張していたのです。言い換えれば、戦略戦争を始めて、領土拡張を図っていた帝国主義的な政策なのです。武力による勢力拡張時代に入っていたのです。その武力による領土拡張政策を正当化するために作り上げたのが千三百年前に書かれた「古事記」や「日本書紀」です。これらの「国史」として作られた日本の歴史書は、天皇家の都合で作り上げられた有りもしないおとぎ話的な架空な歴史だといっても違いありません。
そう考えると、吉備津彦命が退治たとする吉備地方に住み着いて異国の鬼
『温羅<ウラ>』
は、本当は「鬼」ではなく、当時、この吉備地方を治めていた心ある知恵ある優しい豪族ではなかったのかと思われます。当時の吉備地方の住民には、鬼は、かえって侵略してきた天皇一族ではなかったのではと思われるのです。それは、現在の『香港騒動』のような、従来からの政治体制とは全く違った支配者の心理の働く強制的態度を見た吉備の住民が反対して抵抗したのを天皇側から見て「鬼」としたのではないでしょうか???
そうでなかったならば、あの恐ろしい住民の敵「鬼」が、どうして、吉備津神社の守り神として神殿内に丑寅神社としてお祭りされているのかわかりませんもの。
このことは、大吉備津彦命も今までの吉備の首長であった『温羅」を自分の守り神として取り込むことによって吉備地方の住民を鎮撫した????のではとも考えておりますが・・・
御𠮟りは覚悟で????
ここからでもわかるように、当時、天皇の政治勢力範囲は大和を始め、せいぜい奈良盆地を中心としたごく狭い京畿地域に限られていたのです。それを孝霊天皇の時代頃から、漸次、拡張していたのです。言い換えれば、戦略戦争を始めて、領土拡張を図っていた帝国主義的な政策なのです。武力による勢力拡張時代に入っていたのです。その武力による領土拡張政策を正当化するために作り上げたのが千三百年前に書かれた「古事記」や「日本書紀」です。これらの「国史」として作られた日本の歴史書は、天皇家の都合で作り上げられた有りもしないおとぎ話的な架空な歴史だといっても違いありません。
そう考えると、吉備津彦命が退治たとする吉備地方に住み着いて異国の鬼
『温羅<ウラ>』
は、本当は「鬼」ではなく、当時、この吉備地方を治めていた心ある知恵ある優しい豪族ではなかったのかと思われます。当時の吉備地方の住民には、鬼は、かえって侵略してきた天皇一族ではなかったのではと思われるのです。それは、現在の『香港騒動』のような、従来からの政治体制とは全く違った支配者の心理の働く強制的態度を見た吉備の住民が反対して抵抗したのを天皇側から見て「鬼」としたのではないでしょうか???
そうでなかったならば、あの恐ろしい住民の敵「鬼」が、どうして、吉備津神社の守り神として神殿内に丑寅神社としてお祭りされているのかわかりませんもの。
このことは、大吉備津彦命も今までの吉備の首長であった『温羅」を自分の守り神として取り込むことによって吉備地方の住民を鎮撫した????のではとも考えておりますが・・・
御𠮟りは覚悟で????
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