安永年間(1780年ごろ)岡山藩の上級武士で、早くから隠居して気ままに自分の趣味に打つこんだ「
“土肥経平<ドヒツネヒラ>”
と云う人がおられました。著書に
「寸簸之塵<キビノチリ>」
があります。「キビノチリ」、即ち、吉備の地理の事をいろいろと書いた本です。
此の中の最初に「石上韴霊社」や「簸川」についての記事が見られます。此の中で、彼は「スサノヲ」(素盞鳴命)が葦原中国に降り給う場所、かの脚摩乳手摩乳に合った場所、を「出雲」ではなく、「備前」であったと、古事記にはない説を書いたのです。この説に付いて、本居宣長も知っていたのでしょう 次のように書いております。
“「此の剱吉備邇在る」とあるにつきて、須佐之男命の蛇を斬たまひしも、実は備前ノ国なり。故に簸ノ川といふも備前にあり、出雲の斐ノ川にあらず、と云う説もあれど、信<ウケ>られず”
と。きっぱりと此の土肥経平の説を否定しています。私もそれでいいのではと思っておるのですが、どなたかご意見はございませんか???
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