“此葦原中国者随命既献也”
<コノ アシハラノナカツクニハ ミコトノ マニマニ スデニ タテマツラム>とです。これで、ひとまず、一件落着です。
蘇かし、どうも不思議に思えることがあります。どうでしょうか??それはオホクニは出雲の国の支配者です。それがどうして、ここでは
“葦原中国”
と、日本の国全体の統治者然の如くに言ったのでしょうかね。当然、当時は、出雲の国だけではなく、吉備の国も筑紫の国も、この葦原中国にはあったはずです。オホクニは伯耆の国や越国辺りまでは、その勢力を伸ばしていたことは古事記から読みとれるのでが???他国まで支配していたようには思われませんが???
此処で、一つ、このオホクニが他の国を尋ねたという言い伝えがあることはあるのですが??・それをご紹介します。
私が生まれたのは、が平安時代の「類聚和名抄」にある備中国の賀夜郡に「日羽」というのがありますが、そこに「美袋」という大変難しい呼び方をする集落があります。この名前の由来が、此の大黒様から付けられたのだと言われております。もうお分かりだと思います。「袋」とは、オホクニが持ち歩いたあの「袋」から付けられた名前です。古老は言います。
「昔々の事じゃった。ある時なあ、出雲の大黒様がのう。重たえ大きな袋を肩にして、吉備の国へおいでんさったんじゃ。高梁川を下られてのう、夜になったけいえのう。ダイコクサンはこの地でとまられたんじゃ。そこが、今、「大国山」という名前になっておるんじゃ。そして、持っておったおおけえ袋を、ぼっけええ、つかれておったけえのう、そけえ放り投げるように置いたんじゃと。わかるじゃろう・・・だいこくさんがその袋を置いた所がまるい平地となって広がったんじゃと。そこが、それからぼっけえ美しい平地に生まれ変わったんじゃと。
だから、これ以後、此の地が
「ここは、ダイコクさんがかちいでおった袋の後で、ものすごうきれえなところだったもんで」此の地が「美袋<ミナギ>」と呼ばれ様になったんなじゃと。
<コノ アシハラノナカツクニハ ミコトノ マニマニ スデニ タテマツラム>とです。これで、ひとまず、一件落着です。
蘇かし、どうも不思議に思えることがあります。どうでしょうか??それはオホクニは出雲の国の支配者です。それがどうして、ここでは
“葦原中国”
と、日本の国全体の統治者然の如くに言ったのでしょうかね。当然、当時は、出雲の国だけではなく、吉備の国も筑紫の国も、この葦原中国にはあったはずです。オホクニは伯耆の国や越国辺りまでは、その勢力を伸ばしていたことは古事記から読みとれるのでが???他国まで支配していたようには思われませんが???
此処で、一つ、このオホクニが他の国を尋ねたという言い伝えがあることはあるのですが??・それをご紹介します。
私が生まれたのは、が平安時代の「類聚和名抄」にある備中国の賀夜郡に「日羽」というのがありますが、そこに「美袋」という大変難しい呼び方をする集落があります。この名前の由来が、此の大黒様から付けられたのだと言われております。もうお分かりだと思います。「袋」とは、オホクニが持ち歩いたあの「袋」から付けられた名前です。古老は言います。
「昔々の事じゃった。ある時なあ、出雲の大黒様がのう。重たえ大きな袋を肩にして、吉備の国へおいでんさったんじゃ。高梁川を下られてのう、夜になったけいえのう。ダイコクサンはこの地でとまられたんじゃ。そこが、今、「大国山」という名前になっておるんじゃ。そして、持っておったおおけえ袋を、ぼっけええ、つかれておったけえのう、そけえ放り投げるように置いたんじゃと。わかるじゃろう・・・だいこくさんがその袋を置いた所がまるい平地となって広がったんじゃと。そこが、それからぼっけえ美しい平地に生まれ変わったんじゃと。
だから、これ以後、此の地が
「ここは、ダイコクさんがかちいでおった袋の後で、ものすごうきれえなところだったもんで」此の地が「美袋<ミナギ>」と呼ばれ様になったんなじゃと。
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