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称賛とへつらいを区別しろ
わが国の人々は、大概は感情の表現が下手な方だ。特に、職場の上司に対する尊敬とか感謝の表現は、なぜかへつらっているようで、ためらってしまう人も度々見ることができる。
「私が、職場の上司にへつらうことができる性格ならば、ずっと出世が早いはずだ。」
このように話す人は、おそらく内心へつらいの必要性を切実に感じているかも知れない。
へつらうことを日常として全く良心の呵責を感じない腹黒い人とか、謀略を練る傾向の強い性格に該当される。しかし大概の場合、へつらうことが上手い人は、誰よりも心のストレスを多く感じるものだ。
尊敬しない人を尊敬する振りをしなければならず、好きでない人に好感を表さなければならない脅迫観念が、いつもその人を支配しているから、あせって神経質的な人になりやすい。そのような人が結局ある程度の地位に上がった時に、下の人を、召使を使うようにしようとする小市民的な根性を表すようになる。
職場の上司に対する尊敬心がにじみ出てきて、それを言葉で表現することは決してへつらいではない。へつらうというのは、何か見返りを期待しながら言う言葉とか行動を意味するのだ。
仮に、業務を推進するところにおいては、いずれにしても上司から学ぶ点が多いのは事実だ。そういう時、「部長はどうやって仕事をそのように早くなさいますか。」とか、「やっぱり部長は考えるところが違いますね。」ということは、称賛でありへつらいではない。
本当にへつらう人は、第3者がはっきりとわかるものだ。
「あの人はいつもへつらってばかりいる人だ。」
第3者にこのような評価を受ける人は、大概、へつらって見返りを提供することができる人ならば、誰にでも唇につばを塗ったような話をする。しかし、そのような言葉とか行動から全く一貫性を発見できないから、他の人の目にも嫌悪感を与えるへつらい上手として映るのだ。
「いいえ。」といわなければならない時に、「本当に大したものです。」と言う人、他の人が思うところでは明白に間違っていることを置いても、ためらわずに権力のあるほうにつく人、こんなは人が正に嫌悪感を与えるへつらい上手だ。
これと反対に、称賛したり尊敬心を表すことは、何の対価も望まないで、ただ心からにじみ出てくるものだ。自分が相手の行為を通して何か感動を受けたりした時、それを正直に表現することは、人間の自然な美徳だということができる。
「心の中では、あの人本当にすごい、そのように思いながらもそれを言葉で表現しようとしたら、なぜか照れくさくて卑屈な感じがして、、、」
内省的な性格の人がこのようなことを言うが、称賛の言葉が上手く出てこないならば、無理やり表現しようと努力しなくてもいい。他人がその人を称賛する時、横でうなずく目で見つめることだけでも十分だ。そして、その人と目が合った時、「私もそのように考えます。」ぐらいの誠意のある挨拶をしたらいい。それだけでもあなたの真心は相手に十分に伝わるはずだ。
称賛の言葉が口から出ないからと遠巻きに立ったままで笑っていたら、何の助けにもならない。むしろ、皆がその人を称賛するのに、あなた一人があざ笑っているような誤解を買うものだ。どんなに話す才能がなくても、自分が称賛してやりたい人に称賛の言葉を差し出すことのできる勇気ぐらいはなければならない。
真実の心がこもった称賛は、どんなにたくさん言っても言う人の体面を傷つけない。他人を称賛しながら心の中で罪の意識を持ったならば、それは本当の称賛ではない。何か対価を望んで心にもない称賛をするから喜びの代わりに罪の意識が湧いてくるのだ。
称賛の言葉が必ず長い必要はない。本当に感動した時に出てくる言葉は、意外に短くて簡単なものだ。
他の人のそのような長い称賛よりは、むしろ「本当に私は今回のことを通して部長に多くのことを学びました。」と簡単に言うあなたの真摯な態度が、より真実に受け取られるはずだ。
洗練された話術よりは、真実な心がこもった言葉一言がもっと重要だということを覚えておきなさい。
※ 本当の称賛は称賛された人と称賛する人、双方をうれしくさせる。
称賛された人がその称賛によって驕慢になったならば、その人は称賛を
受ける資格がない人だ。称賛は受ける人を謙遜にさせ
称賛する人をむしろ高くしてやる役割をする。