福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

今井町のルーツは?❓. かつて『大和の金は今井が七分』と言われたほど繁栄した今井町の町屋風景はいいね。

2016-10-23 08:16:42 | ★奈良方面も面白い❗️❣️
飛鳥川に架かる蘇武橋を渡ると、現在も、江戸時代そのままの佇まいと情緒を残す町です。
畝傍山も近い。





⚫︎今井町の井戸『蘇武乃井』が、飛鳥川の畔、蘇武橋を渡った所にある

聖徳太子が水を飲まれたとも、愛馬の黒駒に水を与えた井戸とも伝えられている。

この井戸で水を汲む『滑車』が高木家にて保存されていた

左の展示されている滑車

●今井町のルーツは?
今井の地名は1386年興福寺一乗院の文書にみえますが、今井町の成立は戦国の世、天文年間(1532〜1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部によって建てられた称念寺が今井町の起りとと言われている。農民等の門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進める為であった。後に、諸国の浪人や商人が集められ、町場を形成しました。この様な町を寺内町と言われている。
世は戦国時代。野武士や盗賊、他宗派、大名などからの攻撃を避ける為に、周辺に濠と土居を張り巡らせ、僧侶や門徒を守る為の武力が備えられました。見通しのきかない筋違いの道路や、九つの門跡がそれを物語っています。


●町並みを散策










●指定重要文化財で最も古い建物
⚫︎今西家住宅
慶安3年(1650年)棟札
今西家は、惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権が委ねられていた。当初は、川井氏を名乗っていたが、郡山城主松平忠明から薦められ5代目から今西氏を名乗る様になった。と・・・


外観は、白漆喰塗り籠めで、入母屋造り、本瓦葺きで、堂々の城郭風の外観。


●指定重要文化財で最も新しい建物
⚫︎高木家住宅
切り妻造り、本瓦葺きの2階建てで、1階、2階共2列6室型の部屋となっている。
幕末の頃の上層町屋の好例と言われている。
お話では、来客専用の客間が設けられているのは最も新しい建物だからとの事です。又、武士専用の玄関も設けられている。


客間の釘も見えない様に施されている。縁起の良い桃


酒造業を営んでいた

当時の帳場
行燈
蘇武乃井で、使用されていた滑車:左です




●今日は、時間不足でした。午後は、逆光シーンも多いので午前中に再訪したい。
門跡跡や寺院もある。快晴のタイミングで訪ねよう。

●紙半豊田記念館を訪ねた。いやあ、ビックリですね。
よくこれだけ綺麗に残ってるもんだと驚きです。時代文庫小説に出てくる品々の現物を見て納得、又、当時の江戸の地図。新吉原と記載されていた。
もう一度、見て見たい。


堺市から行くのにチョット遠いのが・・・・・まあ、近鉄特急を利用しよう!!

余談ですが〜
⚫︎一向宗の勢力拡大は大変な武力集団化していた、天下統一を狙っていた織田信長と一向宗は敵対し、各地で一向一揆が起こってしまった。
今井町も濠を深くして厳重武装で反抗していたが、本願寺の降伏に伴い、交流の深かった堺の豪商や明智光秀の取りなしで武装放棄した。その後は、商工業都市として繁栄した。
⚫︎江戸幕府も一目置いた財力。特別の権利を許され自治都市に。
当時、1000軒をも越す家を有する今井町は、破格の規模でした。しかも、肥料、木綿、味噌、酒等の取引も盛んで、大名相手の金融業も活躍。独自の紙幣『今井札』も流通し、
◇大和の金は今井が七分
◇金の虫干し玄関まで
と言われるほど繁栄したそうです。
⚫︎明治維新により、富豪が消滅し、大正時代に鉄道の開通で賑わいは駅周辺に移りました。