じーちゃんが畑に来たら じゃがいもの収穫をこどもたちにさせてやってほしいとたのもうと 待ちかまえているのですが、 なかなかこない。 いつ見ても 最近じーちゃんが餌付けしているとおぼしき すずめをでっかくしたような鳥が つがいで 畑をぴょんぴょん歩いているばかり。 あれはつぐみ? ひよどり? じーちゃんが太らせたすずめ? 太らせて食うのか? すずめのお宿に連れていってもらうのか?
じーちゃんの実家でたんぼもやってるので 田植えの手伝いにいってるのかもしれませんね。
田植えって 春のお日柄がよろしくて 人手もあるときに 一気にやっちゃえばいいのかとおもってましたが、 水を張っていい時期って 決まってるんですってね。
川でも用水路でも 上流の人がいきなり水を引き入れちゃうと 下流のほうに水が行かなくなるので、 下のほうから堰きとめていって 順に水を入れていくんだそうです。 逆に雨や雪どけ水が多い年などは 下から堰き止めると 上であふれてしまうので、 上から取っていくんだそうです。 毎年かなり有機的な判断と協力がひつようなんですね。
じーちゃんは畑をして たんぼや寺や町内行事の手伝いに呼ばれ、 ばーちゃんは孫の世話をしたり 繕い物をたのまれたり、 毎日けっこういそがしそうです。 当地は共働き世帯のほうがポピュラーなので じじばばあっての子育て、 という織り込み済みなところもありますが、 じぶんがひつようとされていると日々感じられるのは 精神的にも安定するし いいことですよね。 たいへんだろうけど。 まあ、 桃が流れてくるのを待ってるよりは ずっといいんじゃないでしょうか。
踏切で電車見物。 おともは ファミマのたれつくね串しそ味、 ムスコはフライドポテト。
電車を見ているムスコは とてもたのしそうで、 「きょうはね~ 特急と在来線と貨物と~ あとすれちがい(電車どうしのすれちがい) を見たら帰りま~す」 と宣言して、 わくわくと待っています。
逆に ひつようとされず お世話されるだけの存在になってしまうと、 家族に囲まれていて 気にかけてくれる人がたくさんいて 愛情をいっぱい受けていても 孤独なんじゃないかなとおもいます。 わたしの想像ですけど。
「こういう村に住んでいると、いちばん切ないのが貧乏ってことだ。 それとね、自分が人のためになっているか、いないかということだな。 この2つが満たされていればね、 この地域に関係なく、 みんな日本中生きていける気がするよ。 これが 『おめえはいても関係がねえ』 っていわれたうえに銭がねえってんじゃ死んでいくしかねえ。 本当に、 こんな寂しいところでな」 小川の庄 おやき村の 代表 権田市郎氏
「スロービジネスのすすめ」 より
こどもって 椅子にくっついたばねのような存在で、 やれやれやっと座れると椅子についた瞬間に あれしてこれしてと用事をいいだし また立ち上がらなきゃいけないというようなことばかりで、 いらいらすることもありますが、 親を無限にひつようとしてくれています。
成人してすっかりおっさんになったオットでも 過呼吸で倒れたとき わたしに呼んでくれとたのんだのが 「救急車とばーちゃん」。 ばーちゃんも 「親のカオが見たいわ」 とぶつぶつ言いながらも いつもちゃんと来てくれます。
つまり、 子育てしてるあいだはもちろん 子育て後も ずっと子は親をひつようとしてくれているんですね。
それって 子をもった瞬間から (ペットでもそうですよね) 本当の孤独とは無縁になったということ。
ひざが・・・ ムスコのズボンのひざが抜ける・・・・・
というわけで、 はやくムスコにネコを飼ってやりたいんですけど (お世話されるだけの末っ子ムスコにもお世話する存在を!) この論理でオットを説得できるでしょうか・・・・・・
じーちゃんの実家でたんぼもやってるので 田植えの手伝いにいってるのかもしれませんね。
田植えって 春のお日柄がよろしくて 人手もあるときに 一気にやっちゃえばいいのかとおもってましたが、 水を張っていい時期って 決まってるんですってね。
川でも用水路でも 上流の人がいきなり水を引き入れちゃうと 下流のほうに水が行かなくなるので、 下のほうから堰きとめていって 順に水を入れていくんだそうです。 逆に雨や雪どけ水が多い年などは 下から堰き止めると 上であふれてしまうので、 上から取っていくんだそうです。 毎年かなり有機的な判断と協力がひつようなんですね。
じーちゃんは畑をして たんぼや寺や町内行事の手伝いに呼ばれ、 ばーちゃんは孫の世話をしたり 繕い物をたのまれたり、 毎日けっこういそがしそうです。 当地は共働き世帯のほうがポピュラーなので じじばばあっての子育て、 という織り込み済みなところもありますが、 じぶんがひつようとされていると日々感じられるのは 精神的にも安定するし いいことですよね。 たいへんだろうけど。 まあ、 桃が流れてくるのを待ってるよりは ずっといいんじゃないでしょうか。
踏切で電車見物。 おともは ファミマのたれつくね串しそ味、 ムスコはフライドポテト。
電車を見ているムスコは とてもたのしそうで、 「きょうはね~ 特急と在来線と貨物と~ あとすれちがい(電車どうしのすれちがい) を見たら帰りま~す」 と宣言して、 わくわくと待っています。
逆に ひつようとされず お世話されるだけの存在になってしまうと、 家族に囲まれていて 気にかけてくれる人がたくさんいて 愛情をいっぱい受けていても 孤独なんじゃないかなとおもいます。 わたしの想像ですけど。
「こういう村に住んでいると、いちばん切ないのが貧乏ってことだ。 それとね、自分が人のためになっているか、いないかということだな。 この2つが満たされていればね、 この地域に関係なく、 みんな日本中生きていける気がするよ。 これが 『おめえはいても関係がねえ』 っていわれたうえに銭がねえってんじゃ死んでいくしかねえ。 本当に、 こんな寂しいところでな」 小川の庄 おやき村の 代表 権田市郎氏
「スロービジネスのすすめ」 より
こどもって 椅子にくっついたばねのような存在で、 やれやれやっと座れると椅子についた瞬間に あれしてこれしてと用事をいいだし また立ち上がらなきゃいけないというようなことばかりで、 いらいらすることもありますが、 親を無限にひつようとしてくれています。
成人してすっかりおっさんになったオットでも 過呼吸で倒れたとき わたしに呼んでくれとたのんだのが 「救急車とばーちゃん」。 ばーちゃんも 「親のカオが見たいわ」 とぶつぶつ言いながらも いつもちゃんと来てくれます。
つまり、 子育てしてるあいだはもちろん 子育て後も ずっと子は親をひつようとしてくれているんですね。
それって 子をもった瞬間から (ペットでもそうですよね) 本当の孤独とは無縁になったということ。
ひざが・・・ ムスコのズボンのひざが抜ける・・・・・
というわけで、 はやくムスコにネコを飼ってやりたいんですけど (お世話されるだけの末っ子ムスコにもお世話する存在を!) この論理でオットを説得できるでしょうか・・・・・・