以上のような例のほかにも、黙っていることが言語的な意味を表わすケースというのは、数限りなく想定することができる。
たとえば――
・相手を軽蔑しているので、相手が何を言っても冷ややかに無視している場合
・相手が何を言っているのかよくわからないので、ボーっとしている場合
・ヘマなことを言ったり、つまらないオヤジギャグを飛ばしたりした後に座がシーンと白けてしまう場合
・相手の勢いに気おされて黙ってしまう場合
・突然の不幸に見舞われた友人のもとに駆けつけたが、あまりのことに友人に言葉をかけることができない場合
・他の人に累が及ぶことを配慮して、その人にかかわるあることを口にしない場合
・一座の和を乱すことを考えて出しゃばらないようにしている場合
・黙っていた方が態度として美しく立派であると感じられる場合
・メール交換を続けていたが、このへんで断ち切らないとお互いの感情がもつれてしまうと判断して、相手を傷つけないかを忖度しつつ、途中でやめる場合……等々。
もはやいちいちこれらの意義を例証する煩に堪えないが、いずれの場合にも、そこにそれぞれの沈黙の「言語的意味」がせり出していることは明瞭である。
一般的に言って、沈黙の言語的意味について考えるには、言語活動の資格を持つ者のうち、聞き手、読み手の側にとっての意味についても押さえておかなくてはならない。つまりこちらの発信に対する相手の沈黙は、こちらにとっての了解または誤解、共感または猜疑などの生みの親でもある。
相手の沈黙によって、自分の言いたいことや思いを相手が理解してくれたとわかる場合もあれば、黙っているその表情次第では、相手がこちらの発言に対していやな感情を抱いたのではないかと疑りたくなる場合もある。
相手の沈黙が何かを雄弁に語っている(ように思える)ことがあるという意味において、ここでも沈黙が言語的意味を持つことが証せられるのである。
要するに、あらゆる言語的コミュニケーションにおいて、沈黙は常に発語と隣り合わせているのであって、言葉の選択行為そのもののうちに、選ばれないで捨てられた「まぼろしの言葉」が同時存在するのである。ある場においてある言葉を発したということは、すなわち、別のある言葉を発しなかったということである。発語された言葉は、沈黙に取り囲まれて、あるいは沈黙に引きずられて初めて成立する、と言い換えてもよい。
さてこの発語が沈黙に取り囲まれて、あるいは沈黙に引きずられて成立するという一般的事情のうち、両者が言語主体の存在状態そのものとどのように対応しているかという点に着目してみよう。
ごく簡単に言えば、発語は、主体どうしの「距離」が近すぎても遠すぎても成立しない。適切な距離において、その距離に適応した発語がなされるのである。
この「距離」という概念は、物理的距離と精神的距離とに分けて考える必要がある。
前者は、文字通り、身体間の距離であって、原始的な状態では、目の前にいないで離れている人、遠くにいる人には発信できないし、身体をぴたりと接触させている時というのは、抱擁や暴力沙汰や格闘技や性行動のような場合であるから、発語は事実上不要であるか、または最小限度に抑えられる。
後者の精神的距離については、次のようなことが考えられる。
発達した文明状態では、物理的な意味での身体間距離はさほど問題にならず、原理的には宇宙空間にいる人物とも交信が可能である。したがって、ここでの「距離」とは、①それぞれの個人主体の心理的距離、②言語共同体間の文化的距離、③その両方、のいずれかを指している。
これらの場合において、距離が近すぎても遠すぎても発語が成立しないということの意味は、近すぎる場合には、あまりに分かり合えているために余計な言葉が必要ないということであり、遠すぎる場合には、言葉が通じないことが骨身にしみてわかっているために、はじめから発語を断念するということである。
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←――――――― 発語 ―――――――→
←沈黙 \ / 沈黙→
言葉以前の通い合いがある \ / 通じないので断念する
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さらにこれを上記①②に即して整理すると、以下の表のようになる。
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| | 近すぎる | 遠すぎる |
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|①個人主体の心理的距離 |例:愛し合っている二人 |例:見知らぬ人どうし|
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|②言語共同体間の文化的距離 |例:同じ村の住人 |例:異国人どうし |
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