倫理の起源36
それでは、それぞれの基本モードのもつ倫理的な意義と、相互の連関について述べていくことにしよう。
1.性愛(エロス)
一人の男と一人の女とが愛し合って心身が結ばれる場合、そこにはどんな倫理性もはたらいていないように見える。たしかに、性愛や恋愛を、単なる生理学的な抽象としての「性的欲望」の発現現象とみなすなら、そのこと自体に人倫の関与する余地はないと言えるかもしれない。
しかし、人間においては、異性を好きになるということには、種族保存に行き着くとか、よい子孫を残すことに行き着くといった生殖の過程からははみ出してしまう要因がもともと含まれている。人間の性愛は、けっしてただの「本能」(生得的・自然的な力の発揮)ではない。それは、当事者の心的な過程(情の交換、関係の持続、妄想の発展、相互の自己演出、葛藤、嫉妬、過剰な盛り上がり、一人よがり、幻滅、憎悪など)を必然的にはらむのである。論理的に言えば、まさにこのこと、人間の性愛や恋愛がただの「本能」ではないということ、つまりそれが反自然であるということそのものが、内在的な人倫性を要求するのである。では、それはどういうかたちであらわれるだろうか。
このことを明らかにするために、まず人間の性愛感情、性愛行動の特質を列挙してみよう。
第一に、人間は発情期を喪失している。同じことの裏側として、成熟した人間個体は、潜在的にはいつでもどこでも性行動が可能である。なぜそうなったのかはよくわからないが、おそらく自己意識の異常な発達に原因があるのだろう。あるいはこの因果関係は逆かもしれない。いずれにしても、人間は関係の状況の中で自分自身がたえずどのような位置を占めているか、どのような評価を受けているかということを気にする存在であるから、このことの裏返しとして、エロス的な欲望(満たされなさの感覚)をポテンシャルとして常に抱えるようになったと言い得るのではないか。
第二に、人間個体の性的な成熟には、他の動物に比べて異常に時間がかかる(約12~15年)。犬は1年、馬は3年ほどで生殖可能な年齢になる。象の平均寿命は人間に近く約70年だが、それでも性成熟は10年ほどと言われている。これはたぶん、人間が未熟児として生まれてくることに関係があるだろう。
ところが人間はすでに複雑な社会関係(文化)を張り巡らしている。そのただなかに生まれてきた子どもは、早くからこの社会関係のなかに投げ込まれて、肉体的な成熟以前に、人と人とのかかわり方を学習する過程を強いられる。このため、「エロス的なかかわりの心」というべきものが、異様なほどに発達する。生殖が可能な年齢になっていないのに、「初恋は5歳の時」などというのはよく聞かれる話である。つまり、人間はみな多かれ少なかれ「耳年増」なのである。
このことは、人間の性愛のあり方を、まさに感情に彩られたものとして作り上げることに貢献する。簡単にいえば、動物に比べて「好き嫌い」の心をはるかに繊細に育てているのである。
第三に、以上二つから導かれるのだが、人間の性愛感情や性愛行動は、基本的に「妄想的」なあり方をしている。妄想的という意味は、二つあって、一つは、欲望の「対象」が多様に拡散していること、もう一つは、欲望の対象が同じでもその充足の「方法」がいろいろあること。
前者は、通常の異性愛以外に、同性愛、少年少女愛、フェティシズム、ペットの愛玩、獣姦、死体愛好癖、スカトロジーその他。後者は、サディズム、マゾヒズム、露出症、窃視症、近親姦、痴漢、自慰その他。
これらのことは、いずれも、人間の性愛感情、性愛行動が、自然の生殖のサイクルから、大きくはみ出していることを示している。こんな「性的」な動物はほかにいないと言ってもよい。
さて、そういう事態を背景として、性愛における倫理というものがどういうかたちで成り立ちうるかを考えてみよう。
基本的な条件はこうである。快楽の追求が、相手の人格を無視したかたちでは充足されないと当事者が感じること。言い換えれば、相手もまたこちらの存在と意志と行動によって快(歓び)を感じているにちがいない、とこちらが実感できること。そしてそうでなければ、自分の快楽も満たされないと思えること。相手の快や幸福が、自分のそれと重なっていると感じられること。
この条件が満たされるとき、そこに性愛に内在的な人倫性が成立する。
性愛において、人は特定の一者を選び他を排除する。その選択の行為のなかに、その人だけを特に大切にし、その人との関係だけを媒介として幸福を実現させようという意志がすでに含まれている。
一人の排他的な相手の運命(人格、生命、身体、生活)を丸ごと引き受けて、大切にしようと思うこと、自分自身の運命をそこに一致させたいと熱望すること、相手の不在や相手との別れを哀しい事実として真剣に捉え、それを克服しようとすること、これらがその人倫性の内容である。
これはふつう、「愛」という言葉が真に肯定的な文脈で使われている時に実現している事態である。相手が自分を本気で好きになってくれていると感じるのでなければ、また逆に自分が相手のことを本気で好きになっていることを表現できるのでなければ、すべての恋は中絶する。現実的には、関係を維持するためにいくらでも妥協の余地がありうるが、それが妥協であることは、相手にも自分にもすぐに感知される。
だからこの場合に人倫性の成立に抵触し背反する状態・行為とは、強引な接触に及ぼうとすること、そりが合わないために一方または両方の熱が冷めること、浮気や不倫のように、他の相手に関心を移すこと、などであろう。
一般の性愛関係においては、相思相愛であることが互いに確認できるなら、そこにはすでに人倫性が存在する。相手を選ばれたひとりとして互いに尊重する心が不可避的に伴うからである。その心が欠落している場合には相思相愛は成り立たない。相思相愛が真に成り立つ場合、カントがこだわったような自愛、他愛の区別、自分のためか相手のためかといった言葉による境界づけや選択の意義は消滅している。言い換えれば、相手のためがすなわち自分のためであり、自分のためがすなわち相手のためなのである。
また片想いである場合には、強引な接触をせずに、相手の気を引くための手練手管をきちんと磨き、相手が喜んでくれるような手続きを踏むこと(ジェントルマンシップ)、そこに人倫性が認められる。気を引くための手練手管などといえば、いかにも狡猾に相手を籠絡するように聴こえるが、これは、たとえばオペラにおける口説きの歌に込められた情熱を見てもわかるように、一種の涙ぐましい努力なのである。そうしてその努力の意味は、相手の人格や意向を無視して欲望を満たそうとする道をけっして選ばす、あくまでも相手が心から自分の方を向いてくれることを目指しているところに求められる。それは、十分に人倫にかなったことである。
もう一つ考えるべきなのは、性愛行為において、男は女を孕ませる可能性をもち、女は妊娠する可能性をもつというほとんど絶対的な性差の問題である。もし性愛関係を結ぶことになった者同士が、お互いを大切に思う心を人倫の基本として納得するなら、男は女に負担をかけるこの片務性に大いに配慮すべきだろう。彼女が「この人の子どもがほしい」と心底望んでおり、経済的にも余裕がある場合ならさほど問題ないが、必ずしもそうではないことが多いからである。
また売買春は、性愛の人倫性が最低限に抑えられた状態と言えるが、まったく人倫性が認められないわけではない。売買春は一方が他方に金銭を支払うという経済行為としての共通了解のもとに成立する。最もドライで情が絡まないその場限りの共通了解が成立しているように見える。しかし、まさに合意による経済行為が存在するというそのこと自体が、買われる人格と身体に対する一定の尊重の精神のはたらきを示しているのである。
このように言えば、一部の人は顔をしかめて、「愛がお金で買えるわけがない」とか、「売春を肯定したいための男の勝手な理屈だ」とか、「娼婦が賎業として軽蔑される事実をどう考えるのか」などの非難をさしむけてくるかもしれない。しかし私は、売春や買春は道徳的な行為であると言っているのではない。大部分の売買春が、当事者の社会人としての合意によって成立するという事実、それが一方から他方への暴力的な(強姦のような)行為ではなく対価を支払うという事実のうちに、人間が文化的動物であることの本性が象徴されていると言っているのである。これはよいか悪いかの問題ではない。
もちろん、合意とは言っても、買われる側には「半ば強いられてやむを得ず」とか「生きていくためにしかたなく」とか「手っ取り早くお金を貯めるために」などの事情が背景にあることは否めない。また、買う側には、欲望の過剰を生理的に処理したいという一方的な理由が存在することもたしかである。そこには明らかに男女のセクシュアリティの非対称性が関与している(逆パターンもあるが、それは「例外」であり、この非対称性に対する反証にはなりえない)。
さらに言えば、かつては管理売春が当たり前のシステムとして生きており、まだ幼い本人が知らないうちに身売りされていたなどの例にも事欠かなかった。「苦界」とか「地獄」などと呼ばれたゆえんである(現在、このようなシステムが少なくとも法的には公認されなくなったということは、明らかに人類史の進歩なのである)。
しかしそれにもかかわらず、「春を売る」という行為の継続のうちに、まったく主体性が認められないかといえば、そうとは言えない。それは言わば、あるようなないようなものである。一般に売買はその目標が人格にかかわるサービスであろうとなかろうと(じつはあらゆる売買行為は多少とも人格にかかわっている)、一つの関係を実現する行為なのであり、それは何かを得るために「代わりのもの」を提供するという、人間にしか可能でない行為である。買う人がいるから売るのであり、売る人がいるから買うのである。
ところで人間の性愛関係は、刹那刹那の生物的快楽の充足ではなく、必ずそこに互いのこれからの成り行きに対する「心」の交錯がいくぶんかは含まれている。一夜の売春の場合ですらそういうものが発酵しうる基盤を持っている。「公衆便所」などという蔑視に満ちたネガティヴな言葉が生まれるのも、人々が、この「心」の交錯が成立する可能性について理解しているからこそである。それは人々の期待と理想を逆説的に表現しており、つまりは人々は、時間に耐える「心」のありかたをいつも求めているのである。その求めこそ、「人倫」と称すべきなのだ。
さらに、遊郭のような世界の発達は、性関係を核としながら、その周辺にこの「心」の交錯が多様に展開する様を示してあまりある。遊郭は文字通り遊びの文化だが、ただの刹那的な遊びではなく、まさに時間に耐える文化であることにおいて、義理人情、しきたり、黙契、格付け、タブー、遊女のプライドや階層意識など、人倫にかかわるテーマが必然的に入り込んでくるのである。
*売買春に関する以上の記述に関しては、拙著『なぜ人を殺してはいけないのか』(7月3日PHP文庫として刊行予定)の「売春(買春)は悪か」の章を参考にしていただければ幸いです。
それでは、それぞれの基本モードのもつ倫理的な意義と、相互の連関について述べていくことにしよう。
1.性愛(エロス)
一人の男と一人の女とが愛し合って心身が結ばれる場合、そこにはどんな倫理性もはたらいていないように見える。たしかに、性愛や恋愛を、単なる生理学的な抽象としての「性的欲望」の発現現象とみなすなら、そのこと自体に人倫の関与する余地はないと言えるかもしれない。
しかし、人間においては、異性を好きになるということには、種族保存に行き着くとか、よい子孫を残すことに行き着くといった生殖の過程からははみ出してしまう要因がもともと含まれている。人間の性愛は、けっしてただの「本能」(生得的・自然的な力の発揮)ではない。それは、当事者の心的な過程(情の交換、関係の持続、妄想の発展、相互の自己演出、葛藤、嫉妬、過剰な盛り上がり、一人よがり、幻滅、憎悪など)を必然的にはらむのである。論理的に言えば、まさにこのこと、人間の性愛や恋愛がただの「本能」ではないということ、つまりそれが反自然であるということそのものが、内在的な人倫性を要求するのである。では、それはどういうかたちであらわれるだろうか。
このことを明らかにするために、まず人間の性愛感情、性愛行動の特質を列挙してみよう。
第一に、人間は発情期を喪失している。同じことの裏側として、成熟した人間個体は、潜在的にはいつでもどこでも性行動が可能である。なぜそうなったのかはよくわからないが、おそらく自己意識の異常な発達に原因があるのだろう。あるいはこの因果関係は逆かもしれない。いずれにしても、人間は関係の状況の中で自分自身がたえずどのような位置を占めているか、どのような評価を受けているかということを気にする存在であるから、このことの裏返しとして、エロス的な欲望(満たされなさの感覚)をポテンシャルとして常に抱えるようになったと言い得るのではないか。
第二に、人間個体の性的な成熟には、他の動物に比べて異常に時間がかかる(約12~15年)。犬は1年、馬は3年ほどで生殖可能な年齢になる。象の平均寿命は人間に近く約70年だが、それでも性成熟は10年ほどと言われている。これはたぶん、人間が未熟児として生まれてくることに関係があるだろう。
ところが人間はすでに複雑な社会関係(文化)を張り巡らしている。そのただなかに生まれてきた子どもは、早くからこの社会関係のなかに投げ込まれて、肉体的な成熟以前に、人と人とのかかわり方を学習する過程を強いられる。このため、「エロス的なかかわりの心」というべきものが、異様なほどに発達する。生殖が可能な年齢になっていないのに、「初恋は5歳の時」などというのはよく聞かれる話である。つまり、人間はみな多かれ少なかれ「耳年増」なのである。
このことは、人間の性愛のあり方を、まさに感情に彩られたものとして作り上げることに貢献する。簡単にいえば、動物に比べて「好き嫌い」の心をはるかに繊細に育てているのである。
第三に、以上二つから導かれるのだが、人間の性愛感情や性愛行動は、基本的に「妄想的」なあり方をしている。妄想的という意味は、二つあって、一つは、欲望の「対象」が多様に拡散していること、もう一つは、欲望の対象が同じでもその充足の「方法」がいろいろあること。
前者は、通常の異性愛以外に、同性愛、少年少女愛、フェティシズム、ペットの愛玩、獣姦、死体愛好癖、スカトロジーその他。後者は、サディズム、マゾヒズム、露出症、窃視症、近親姦、痴漢、自慰その他。
これらのことは、いずれも、人間の性愛感情、性愛行動が、自然の生殖のサイクルから、大きくはみ出していることを示している。こんな「性的」な動物はほかにいないと言ってもよい。
さて、そういう事態を背景として、性愛における倫理というものがどういうかたちで成り立ちうるかを考えてみよう。
基本的な条件はこうである。快楽の追求が、相手の人格を無視したかたちでは充足されないと当事者が感じること。言い換えれば、相手もまたこちらの存在と意志と行動によって快(歓び)を感じているにちがいない、とこちらが実感できること。そしてそうでなければ、自分の快楽も満たされないと思えること。相手の快や幸福が、自分のそれと重なっていると感じられること。
この条件が満たされるとき、そこに性愛に内在的な人倫性が成立する。
性愛において、人は特定の一者を選び他を排除する。その選択の行為のなかに、その人だけを特に大切にし、その人との関係だけを媒介として幸福を実現させようという意志がすでに含まれている。
一人の排他的な相手の運命(人格、生命、身体、生活)を丸ごと引き受けて、大切にしようと思うこと、自分自身の運命をそこに一致させたいと熱望すること、相手の不在や相手との別れを哀しい事実として真剣に捉え、それを克服しようとすること、これらがその人倫性の内容である。
これはふつう、「愛」という言葉が真に肯定的な文脈で使われている時に実現している事態である。相手が自分を本気で好きになってくれていると感じるのでなければ、また逆に自分が相手のことを本気で好きになっていることを表現できるのでなければ、すべての恋は中絶する。現実的には、関係を維持するためにいくらでも妥協の余地がありうるが、それが妥協であることは、相手にも自分にもすぐに感知される。
だからこの場合に人倫性の成立に抵触し背反する状態・行為とは、強引な接触に及ぼうとすること、そりが合わないために一方または両方の熱が冷めること、浮気や不倫のように、他の相手に関心を移すこと、などであろう。
一般の性愛関係においては、相思相愛であることが互いに確認できるなら、そこにはすでに人倫性が存在する。相手を選ばれたひとりとして互いに尊重する心が不可避的に伴うからである。その心が欠落している場合には相思相愛は成り立たない。相思相愛が真に成り立つ場合、カントがこだわったような自愛、他愛の区別、自分のためか相手のためかといった言葉による境界づけや選択の意義は消滅している。言い換えれば、相手のためがすなわち自分のためであり、自分のためがすなわち相手のためなのである。
また片想いである場合には、強引な接触をせずに、相手の気を引くための手練手管をきちんと磨き、相手が喜んでくれるような手続きを踏むこと(ジェントルマンシップ)、そこに人倫性が認められる。気を引くための手練手管などといえば、いかにも狡猾に相手を籠絡するように聴こえるが、これは、たとえばオペラにおける口説きの歌に込められた情熱を見てもわかるように、一種の涙ぐましい努力なのである。そうしてその努力の意味は、相手の人格や意向を無視して欲望を満たそうとする道をけっして選ばす、あくまでも相手が心から自分の方を向いてくれることを目指しているところに求められる。それは、十分に人倫にかなったことである。
もう一つ考えるべきなのは、性愛行為において、男は女を孕ませる可能性をもち、女は妊娠する可能性をもつというほとんど絶対的な性差の問題である。もし性愛関係を結ぶことになった者同士が、お互いを大切に思う心を人倫の基本として納得するなら、男は女に負担をかけるこの片務性に大いに配慮すべきだろう。彼女が「この人の子どもがほしい」と心底望んでおり、経済的にも余裕がある場合ならさほど問題ないが、必ずしもそうではないことが多いからである。
また売買春は、性愛の人倫性が最低限に抑えられた状態と言えるが、まったく人倫性が認められないわけではない。売買春は一方が他方に金銭を支払うという経済行為としての共通了解のもとに成立する。最もドライで情が絡まないその場限りの共通了解が成立しているように見える。しかし、まさに合意による経済行為が存在するというそのこと自体が、買われる人格と身体に対する一定の尊重の精神のはたらきを示しているのである。
このように言えば、一部の人は顔をしかめて、「愛がお金で買えるわけがない」とか、「売春を肯定したいための男の勝手な理屈だ」とか、「娼婦が賎業として軽蔑される事実をどう考えるのか」などの非難をさしむけてくるかもしれない。しかし私は、売春や買春は道徳的な行為であると言っているのではない。大部分の売買春が、当事者の社会人としての合意によって成立するという事実、それが一方から他方への暴力的な(強姦のような)行為ではなく対価を支払うという事実のうちに、人間が文化的動物であることの本性が象徴されていると言っているのである。これはよいか悪いかの問題ではない。
もちろん、合意とは言っても、買われる側には「半ば強いられてやむを得ず」とか「生きていくためにしかたなく」とか「手っ取り早くお金を貯めるために」などの事情が背景にあることは否めない。また、買う側には、欲望の過剰を生理的に処理したいという一方的な理由が存在することもたしかである。そこには明らかに男女のセクシュアリティの非対称性が関与している(逆パターンもあるが、それは「例外」であり、この非対称性に対する反証にはなりえない)。
さらに言えば、かつては管理売春が当たり前のシステムとして生きており、まだ幼い本人が知らないうちに身売りされていたなどの例にも事欠かなかった。「苦界」とか「地獄」などと呼ばれたゆえんである(現在、このようなシステムが少なくとも法的には公認されなくなったということは、明らかに人類史の進歩なのである)。
しかしそれにもかかわらず、「春を売る」という行為の継続のうちに、まったく主体性が認められないかといえば、そうとは言えない。それは言わば、あるようなないようなものである。一般に売買はその目標が人格にかかわるサービスであろうとなかろうと(じつはあらゆる売買行為は多少とも人格にかかわっている)、一つの関係を実現する行為なのであり、それは何かを得るために「代わりのもの」を提供するという、人間にしか可能でない行為である。買う人がいるから売るのであり、売る人がいるから買うのである。
ところで人間の性愛関係は、刹那刹那の生物的快楽の充足ではなく、必ずそこに互いのこれからの成り行きに対する「心」の交錯がいくぶんかは含まれている。一夜の売春の場合ですらそういうものが発酵しうる基盤を持っている。「公衆便所」などという蔑視に満ちたネガティヴな言葉が生まれるのも、人々が、この「心」の交錯が成立する可能性について理解しているからこそである。それは人々の期待と理想を逆説的に表現しており、つまりは人々は、時間に耐える「心」のありかたをいつも求めているのである。その求めこそ、「人倫」と称すべきなのだ。
さらに、遊郭のような世界の発達は、性関係を核としながら、その周辺にこの「心」の交錯が多様に展開する様を示してあまりある。遊郭は文字通り遊びの文化だが、ただの刹那的な遊びではなく、まさに時間に耐える文化であることにおいて、義理人情、しきたり、黙契、格付け、タブー、遊女のプライドや階層意識など、人倫にかかわるテーマが必然的に入り込んでくるのである。
*売買春に関する以上の記述に関しては、拙著『なぜ人を殺してはいけないのか』(7月3日PHP文庫として刊行予定)の「売春(買春)は悪か」の章を参考にしていただければ幸いです。
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