親鸞(1173~1262)①
親鸞については、すでにこのシリーズの一回目で法然を扱った際、親鸞人気の絶大さに比べて、彼の直接の師である法然の、思想家としての真価が正当な評価を受けていないと述べて、両者の比較検討を行いました。
そうして私個人としては、その宗教革命家としての偉大さにおいて、法然は親鸞に優るという結論に達しました。
よく知られているように、親鸞の弟子・唯円は、親鸞の没後三十年ほどを経て、師の言葉を思い出しながら『歎異抄』という書物を著しました。この書の中に、師である親鸞の、人をハッとさせる逆説的な言葉がいくつも登場しています。
近現代の大方の読者は、難しい教典や経典の注釈書(たとえば法然の『選択本願念仏集』や親鸞の『教行信証』)を通して彼らの思想を読み取るより、『歎異抄』に出てくるアフォリズムのような逆説的な言葉に魅せられて親鸞ファンになったのでしょう。かくいう私も例外ではありませんでした。
私が最も印象づけられた親鸞の言葉は、『歎異抄』十三節の「わが心のよくて殺さぬにはあらず」でした。世の中のすべては「業縁」によるのであって、人を殺さないでいられるのも自分が善意志を持っているからではない、どんなに善意志を持っていても、ある「業縁」(現代なら「状況」というべきでしょう)に置かれれば千人でも万人でも殺してしまうことがある……。
この思想は、人が道徳的であるためには何が必要かという倫理学的な問いそのものを相対化しています。個人の自由意志で「善」が実現できるわけではない。その意味で、たとえばカントの個人主義的な道徳論の枠組みなどに見られる近代人のさかしらをはるかに超えた深みを湛えている――私はそう感じて、永らく座右の銘としてきたのです。
現在でも、親鸞の残した言葉のなかで、少なくともこの一句だけは名言中の名言と思っています。もちろん彼はこの言葉を阿弥陀仏への絶対的な帰依という宗教的な文脈の中で用いているので、その他力信仰をそのまま近代人の意識に適用することには無理が伴います。そこには中世という時代がもたらした一種の仏教的ペシミズムが濃厚に漂っています。ですから、近代がもたらした紛れもない光明――平和でさえあれば普通の人が簡単には死ななくなったこと――を経験した地点から見れば、苛酷な現実に対する諦念をただ合理化する説教と見えるかもしれません。しかし他方では、近代社会は複雑で巨大な暴力的システムと化しており、個人の無力や不安や煩悩を実感させる場面にも事欠きません。そのことに思い至るとき、親鸞のこの言葉が俄然現実味を帯びてきます。現代人の心の奥底でもこの言葉は鳴り響いており、その力はけっして衰えてはいないのです。
けれども『歎異抄』成立のいきさつや、ここに書かれた親鸞自身の言葉とされるもの、また『歎異抄』全体の構成などによく目を配りますと、それらの言葉だけをよすがとして親鸞の思想に傾倒する前に、いくつかの留保をつけなくてはなりません。
第一に、唯円のこの書は、老い先の短くなった(と自ら記しています)自分が、念仏宗徒たちの間に異説がはびこっている状態を憂え、将来を案じて三十年前の記憶を懸命に掘り起こし、親鸞上人の「お言葉」によってもう一度自ら信ずるところを権威づけようとしたものです。これは親鸞の書ではなく、何よりも老唯円の書なのです。
老いぼれているから記憶が正確ではないなどと言いたいのではありません。そうではなく、登場する親鸞の言葉が唯円自身の切実な動機に大きく囲繞されている点を見逃してはならないと言いたいのです。そういう彼の一種の強烈な編集意図に思い及ばずに、ただ親鸞の言葉の断片だけを抽出してありがたがると、九十年も生きた親鸞の人となりが浮かび上がらず、彼の思想はただこれだけのアフォリズム的表現に凝縮されているという思い違いをしてしまいます。またここに盛られた唯円独特の思想をも読み落とすことになりかねません。
事実この作品で、親鸞自身の「お言葉」が直接紹介されている部分は、全体の四分の一に及ばず、唯円の語りの中に出てくる親鸞の言葉を全てこれに加えても、全体の36%にすぎません。いま唯円の思想がどんな性格のものであるかについては割愛しますが、ご関心のある方は拙訳『歎異抄』(PHP研究所)の解説部分をお読みください。ともあれ、この一事をもってしても、『歎異抄』一篇の中に親鸞の思想や人間性をすべて読み取ったと考えることがいかに片手落ちであるかがわかるでしょう。
留保の第二点目。
その鋭いアフォリズム的表現のいくつかですが、これらの中には、前後の文脈との関係で読むと、自分の尺度や好みに合わせた近現代人の解釈が必ずしも適切ではないことに気づきます。宗教的言語以外に知の言葉を持たなかった当時の社会背景の下ではごく当然のことを言っているにすぎないものがけっこう多いのです。具体例を挙げましょう。
①「とても地獄は一定すみかぞかし」【二節】。
この前後には、自分は師である法然の言葉を正しいと固く信じているので、たとえ法然上人の専修念仏の教えを信じたために地獄に落ちたとしても騙されたとは思わないし、後悔もしないと書かれています。
つまりこれは、ごく単純に念仏信仰の揺るぎなさを強調した言葉であって、自分の罪深さの自覚や末法の世のありさまを表現したものではありません。デスペレートなニュアンスは少しもないのです。
②「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」【五節】。
これは一見、個人主義的な信仰心を述べているようですがまったく違います。生きとし生けるものはみな生死を離れられず互いに父母兄弟となってきたのであって、往生して仏になってこそ、まだ仏になりきらない人を救うことができる。だからこの世にある間に父母を救おうと念仏を唱えても、それは自力のはからいにすぎず、他力浄土門の教えからすれば不可能なことなのだという理法を語っているのです。
この言葉は、まだ世俗との妥協に至っていない新しい宗派というものがもつ一種の普遍的性格を物語っています。そもそもどんな宗教も、その勃興期には世俗道徳や惰性化した社会慣習に叛逆する要素を不可欠としています。仏教の場合には、眷属の絆をまずいったんは断ち切って、同じ教えのもとに結ばれた師弟関係を何よりも尊重します。
釈迦も王族の身分を捨てることによって初めて自分の信念を貫き、その教えを広めることができました。法然に始まる念仏宗も、親鸞が生きた時代にはまだ新興宗教でした。ですから親鸞のこの言葉は、堕落した日本仏教界を見直して、もう一度釈迦の教えの本源に帰れという一つのメッセージの意味を持つのです。
③「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」【六節】
これは、人はそれぞれだから各人信ずるがままに行くがよいと言っているように聞こえますが、前後を読むと、弟子の取り合いをするような争い事を、専修念仏の教えに背くものとしてきつく戒めていることがわかります。つまり弥陀のはからいによってこそ念仏を唱えることができるので、自分の弟子として囲い込んで念仏行を指導するなどという態度こそは、自力を恃んだ傲慢だというわけですね。これも他力の教えに忠実な言葉と言えます。
④「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」【後序】
これも信仰は一人ひとりの心の中にあるものという個人主義的な態度の表明のように見えます。しかしそうではなく、自分を含めた誰もが煩悩具足の凡夫であって、阿弥陀様はそういう人にこそ目をかけてくれるのだという第十八願の真実を象徴的に語っているのです。つまり自分自身を前世からの業がかくも深い凡夫の一人であると見立てて、その自覚を告白したものだと解釈できます。
以上を要するに、これらの言葉は何か新しい「思想」を開示したものではなく、むしろ他力浄土門の教えを、親鸞一流の端的な表現でそのまま踏襲したものなのです。その意味で法然のそれを一歩も出るものではありません。親鸞自身が甦ったら必ずそのとおりと言うでしょう。
留保の第三点目。
『歎異抄』の中で「悪人正機説」として最も有名な「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」【三節】という逆説表現ですが、法然を論じた時に言及したように、これは親鸞の独創ではありません。くどいようですが、ここでもう一度、法然の『一期物語』から引きましょう。
≪われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり。……善人なお生る。いわんや悪人をや。……この宗は悪人を手本となし、善人まで摂するなり。≫
悪人(=煩悩を抱えているために積善をまっとうしえない人、凡夫)がまず手本(弥陀の救済の第一の対象)であって、そのうえで善人も摂取してくれる――この鮮やかな思想的転回は、すでに法然が完全に成し遂げているのです。
悪人正機説を親鸞の独創と誤解している人は、次の二つの歴史的経緯に無意識に影響されているのです。
一つは「浄土真宗」中興の祖である蓮如によって、親鸞の開祖としての盛名が定着したこと。同時代から室町時代にかけて、親鸞の名はほとんどまったく知られていませんでした。
二つ目は、大正五年に発表された倉田百三の『出家とその弟子』が大ヒットしたために、それ以降、短くて読みやすい『歎異抄』への関心が一気に高まったこと。
ここには歴史の皮肉ともいうべき事態とともに、「宗教」ではなく「思想」好きの近代人の、片思い的な深読みの現象が見られます。
こう言ったからといって、私は親鸞を貶めようという意図を持っているわけではまったくありません。ただ、文献とそれが生まれた歴史的背景とを誠実にたどる限り、法然をさしおいて親鸞だけを特別の宗教改革者(革命的思想家)とみなす理由は何もないということを強調したいだけです。
人間的魅力としてはどうか、という問いが持ち上がるでしょう。親鸞はたしかに法然と違って公然と肉食妻帯に踏み切りました。ところがじつは後述のように、彼は妻帯に主体的に踏み切ったのではないのです。
また越後流罪以降、東国で精力的に布教につとめたという、法然にはない行跡があります。つまり実践的宗教改革者としての側面ですね。東国は荒々しい「もののふ」たちが跋扈し、賎しい身分の者たちがその日その日を暮らす社会です。そうした地域でこそ、「非僧非俗」に自ら身をやつした親鸞の本領が発揮されたに違いない――この見立ては、おそらく正しいでしょう。
『歎異抄』にも、親鸞の言葉として、漁師や猟師や商人や農民など、みな同じで、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」【十三節】というくだりが出てきます。これは殺生戒の空しさを突いた言葉ですが、いかにも庶民の中に入って生きたのでなければ出てこない具体性が感じられます。
そこがほとんど貴族や高僧たちの取り巻く「世間」の中で一生を過ごした法然との違いといえばいえます。しかし法然の説法を聴きに集まった人々には多くの一般庶民が含まれていましたし、晩年の土佐流罪(じつは讃岐)の際には、じかに民衆に念仏宗を説いてもいます。(つづく)
「歎異抄」が読みやすいということは、それが仏教や浄土真宗の教義の解説をすることが第一のテーマになっているのではなく、あくまで親鸞の人間的魅力を語ろうとしていることにあるからでしょう。
あなたは、親鸞はたんなる法然のエピゴーネンにすぎないといわれるのだが、自分を捨ててエピゴーネンに徹しようとした親鸞独自の人間性というのもあるわけで、法然は法然の人間的な魅力や偉大さがあるとしても、親鸞にだって親鸞だけの人間的な魅力や偉大さがあったのではないのですか。
念仏信仰だろうと禅だろうと、「自己放下」というテーマはやっぱりあるわけで。
>「とても地獄は一定すみかぞかし」…つまりこれは、ごく単純に念仏信仰の揺るぎなさを強調した言葉であって、自分の罪深さの自覚や末法の世のありさまを表現したものではありません。<
そんなこと言ったって、「自分の罪深さの自覚や末法の世のありさま」に対する深い嘆きがなければ「念仏信仰のゆるぎなさ」なんか得られないでしょう。
そしてあなただって、
>「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」…つまり自分自身を前世からの業がかくも深い凡夫の一人であると見立てて、その自覚を告白したものだと解釈できます。<
といっておられるじゃないですか。
そりゃあ、親鸞の思考や行動には、つねに「自分の罪深さの自覚」はともなっていたでしょう。だから、世俗を捨てた宗教者の道に邁進しようと仏教の勉学に励んでいても、師の法然から嫁をもらえといわれたら、「とても地獄は一定すみかぞかし」の決心でそれに従った。そうやって師のエピゴーネンに徹することが師を超える契機になったという逆説も成り立つ。「藍は藍より出でて藍より青し」というようなことです。
>「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」<
これが「個人主義的な信仰心を述べている」だなんて、誰も思いませんよ。あんまり読者をバカにしないでください。「仏教の場合には、眷属の絆をまずいったんは断ち切って、同じ教えのもとに結ばれた師弟関係を何よりも尊重します」といっても、
「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」
ともいっているわけじゃないですか。親鸞にとっては、師弟関係など、どうでもよかったのでしょう。つまりそれは、「相互関係」ではなく、あくまで「一方的な関係」だということ。念仏を唱えれば阿弥陀如来が浄土に連れて行ってくれるなんて思うな、ひたすら阿弥陀如来のことを想え、たとえそれが地獄に堕ちる道であってもひたすら一方的に阿弥陀如来のことを想え、というのが念仏信仰の基本なのではないのですか。そうやって親鸞は「とても地獄は一定すみかぞかし」といった。そういう「一方的な関係」にわが身をあずけながら、「相互関係」というものを否定した。自分には法然上人に可愛がってもらったという満足などない、ひたすら法然上人のことを想っているだけだ、という。念仏を唱えれば父母が救われるというようなことなど当てにするな。たとえそれが人類滅亡の道であってもひたすら念仏を唱えるだけだ、ということ。おそらく親鸞は、そういう地平を見ていた。それが「とても地獄は一定すみかぞかし」ということでしょう。
あなたの歎異抄の読みは、自分の勝手な物差しで測るだけで、ブレまくっているのですよ。あなたは、素人が何か言ってくると、すぐに「私の著作を読みなさい」という。そうやって「自分の弟子として囲い込んで指導する」ということばかりしたがる。それがあなたのマスコミ知識人として生き延びる道かもしれないが、親鸞にとって比叡山を下りて佐渡に流されてゆくということは、そういういっさいの「生き延びる道」を放棄することだったし、それは日本列島の伝統である「無常」の死生観や世界観に浸されてゆくことでもあった。なんのかのといっても浄土真宗がやがて日本列島でいちばん大きな教団に育っていったのは、そうした日本列島の伝統というか歴史風土にもっとも深くフィットしていたからでしょう。浄土真宗は、「救済」なんか説いていない。「救済を放棄する」ことを説いているだけだ。まあ禅であれ念仏信仰であれ、中世の新興宗教なんか、ほとんどがそういう「無常」のコンセプトの上に成り立っていた。
歎異抄は、浄土真宗の教義を解説する著作だったのではない。親鸞の人間的な魅力と日本列島の「無常」という歴史風土が浮かび上がる表現になっている。唯円だって、みずからの死に際して、親鸞に対する一方的な「遠い憧れ」と、そのころの日本人の誰もが通る道である「無常」に身を浸しながらそれを綴っていったのでしょう。教団のイデオローグとしての使命感でそれを書いたのではない。誰だって死んでゆくときは「ひとり」であり、その感慨の上に立って書かずにいられないことを書いていただけでしょう。彼もまた、親鸞のエピゴーネンとして死んでゆこうとしていた。
まあ、そうやって「伝統」というのは受け継がれているわけで、あなたたちの騒々しい自意識によってではない。