日本語を哲学する3
ここで、ニーチェの言うアポロ的、ディオニソス的という区別を、視覚の特性、聴覚の特性という先に述べた区別に結びつけたとしても、それほど的外れではないと思う。
視覚は、それを感じる主体と対象との距離を前提として成り立つ。視覚は眼前の空間を区画づけるはたらきであり、その区画づけにおいて、主体の意識はこちら側にあり、よほどのことがない限りその安定が保たれている。個体性としての〈自我〉はこの知覚によってさほど動揺することがない。つまり、この知覚のあり方は、そもそも、「対象」という概念の生みの親なのであり、デカルトが置いたような、主観と客観という認識論上の二項対立原理も、この視覚特性のあり方によって支えられているのである。
これに対して、聴覚、すなわち音響の知覚はそうではない。すでに述べたように、それは、時間の流れそのものを通して実現されるので、意識の持続に常に寄り添い、不安な内面を呼び起こし、かつ、そのつどの情緒のあり方を直接に・具体的に決定づける。そこには主体に向き合う「対象」なるものは存在しない。「個」としての主体の安定性は必然的に脅かされる。言い換えると、それは自他の区別をどうでもよいものとし、身体を内部から揺さぶり、ハメルンの笛吹きのように、感情という、もともと共同的にしか成立しない境地のほうへ私たちを誘惑する。かくて主観と客観という対立図式は、この時意味を失う。ニーチェが音楽について言った「個体性を破壊するものとしての意志の理念」という解釈は、こうして、少し用語を変え、別のヴァリアントを考えれば、じつは音響一般に当てはまるのである。
そこで、いままで述べてきたことをもっと端的に表現し直しておく。すなわち、音響は、いま、ここにある単なる物理的な身体から私たちを時間的に超越させ、そのことによって私たちに共通の「内面」そのものの形成にあずかる。
ここで「内面」という言葉を、孤立した個人の疎通不可能な心のあり方、というように捉えないでほしい。意識がある内容で満たされ、心が活動している時、それがさしあたり他人に通じなくても、そのはたらきはそもそも構造として共同的な営みであり、響き合いなのである。この点については後述する。
また、私たちはまず確固たる内面をもち、しかるのちその内面にやってくる音をとらえるのではない。「内面」なる観念の保持は、直接的・感性的には「音響」(と、その否定態としての静寂)によって、またより人間的な意味では、他者や自分の「音声」(と、その否定態としての沈黙)によって、そしてさらに、より社会的な意味では、「音声言語」(と、その否定態としての無言)によって、そのつどさまざまな仕方で支えられるのである。
現代の生活シーンで以上のことをよく示す例を挙げよう。
電話が鳴る。それだけで私たちは多少とも意識を動揺させられる。また時間帯によっては、日常生活の規範を脅かされ、迷惑で非常識だという判断がはたらく。
次に、しかたなく出てみると、相手は自分のことばかりしゃべる苦手な人だが、間柄上、むげに短く切り上げるわけにもいかない。まあ、久しぶりの電話だし、非常識な時間ではなし、差し迫った用事があるわけではなし、ということでともかく話を聞くことにする。
たとえばこんな場合でも、相手がこちらの状況や気持ちを思いやってくれずに長々と話し続けていて、しかもその話題がこちらに関心のないことであれば、やっぱりだんだんいらいらしてくるだろう。これは相手の話し声とその中身に意識を集中して寄り添わせなくてはならないからで、途中で自分の関心が他に移りかけていたとしても受話器から離れるわけにいかない。このことの心理的なストレス、じれったい感じは、音響のあり方がそれを聴く人の内面を深く拘束・規定しているところから来る。
これに対して、メールならどうだろうか。音響によって意識が決まった時間、拘束され規定されるわけではないので、いくらくだらないことがだらだらと長く書いてあっても、それによって直接にいらいら感が募るということはないだろう。読むのが面倒ならまたあとで読み直せばよいわけだし、返事もいますぐしなくてよい。
かつて電車の中で声を出して通話している人を迷惑がる風潮があり、この風潮の是非についても議論があったが、いまではメールで処理できるので、通話する人自体をほとんど見かけなくなった。わずかな期間のうちに技術が知恵をはたらかせて、問題そのものをたちまち解消してしまったのだ。
この技術が人口に膾炙したのは、単にすぐ思いを伝えることができて便利だからだけではない。電話に比べて、お互いに「音による迷惑感」を感じないで済むので、人間関係がスムーズに進むというメリットを私たちが歓迎したからである。
一般に、騒音はどんな種類のものであれ、聞きたくなくても聞こえてしまうので心を騒がせて迷惑だが、視覚像は内面を直接に侵襲する可能性が低く、かなりグロテスクな像でも距離さえあれば比較的冷静に見ていられるし、見たくなければ見なければよいという回避の道がいつも残されている。視覚像は明らかに身体に向き合う「対象」だが、聴覚印象は、それを「対象」として「内面」からもぎ話すことができないのである。
音響が私たちの意識の流れそのものを支配している例として、次のような場合を考えることもできる。この例は、音響から音声言語への枝分かれの意味を認識する点で、非常に重要である。
レストランや呑み屋では、必ずと言ってよいほどBGMが流れている。しかしその音量は、会話の邪魔にならないようにごく低い程度に抑えられている。逆に、コンサート会場で話し声を立てることは、最大のマナー違反である。二つの質の異なる音響が、同時に同じ程度に主体の聴覚を占めることはできない。私の友人でも音楽好きの人と、音楽よりも会話のほうが好きな人とがいて、前者のタイプの人は、会話の途中でも、ある音楽が聞こえてくると、会話を中断して、「あ、この曲、いいですね」などと言う。逆に後者のタイプの人は、私がある音楽を聴いてもらいたいと思ってCDをかけても、すぐに我慢がならずに話し始めて、音楽を自分からBGMにしてしまう。
そこで考えるべきなのは、同じ音響でも、音楽や騒音のように、言葉ではない音と、言葉としての音(音声言語)とは、いったい何が違っているのかという問題である。
だがこの問題は難問ではない。音声言語は、音響でありつつ、「指示的な意味」を必ず伴っているので、私たちの主要な関心はそちらの方に惹きつけられ、その純粋に音響的な側面は、背景に退いてしまうのである。背景に退きはするが、しかしまったくなくなってしまうわけではない。話し手の身体性は、声の調子、強弱、美醜などとしてたえず現前しているので、じつは私たちは話されている言葉の「指示的な意味」に注意を集中させつつ、一方では、音楽や騒音のように、言葉の音響的部分を体で受け止めてもいるのだ。
サルトルはたしか、この言葉のもつ「指示的な意味性」のことを「透明性」と呼んでいた。なるほど言葉は、それが発せられることによって、それ自身によって相手の精神の視界を塞ぐのではなく、むしろ自分自身を透明人間のようにしながらその向こう側のなにものかを指し示そうとする。しかし、音楽や騒音はそうではない。それは、快にせよ不快にせよ、直ちに聞くものの気分を左右するので、それ自体が「不透明」(モノと同じように、しかしそれとは違った仕方で立ちはだかる「存在性」そのもの)だということができる。だから、意味のまったく分からない外国語は、まるで音楽か騒音のように聞こえるのである。
事務的な言語は、「透明性」が高い。しかし言葉の芸術家である詩人や歌人は、言葉の創造的な駆使によって、この「透明性」つまりただの「指示的な意味性」からできるだけ逃れようとする。彼が目指しているのは、言葉を音楽のような不透明なものにできるだけ近づけようとすることである。完全に音楽にしてしまうことは絶望的である。また、そうなってしまったら、詩歌とは言えない。指示的な意味性を保ちつつ、それと音楽性との融合を目指すところに、現実の詩歌が成立する。
詩人、歌人たちは、この融合の試みに自らを託すのである。だから限りなく音楽的な詩歌というものが明らかに存在する。たとえば、百人一首に蝉丸の次の歌がある。
これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき
この歌は、指示的な意味としては、さほどの名歌とは言えない。もちろん、大坂の関という空間的な場での足しげき人々の行き交いと、出会っては別離してゆく人の世のはかなさという時間的な含みが懸けられているところに独特の技巧を感じさせはする。しかし、エロス的な意味で深い情趣が込められているとは言えまい。ところが幼い子どもが百人一首に接する時、ほとんど例外なくこの歌を意味も分からずにいち早く覚えて面白がる。それは、詳しく分析するまでもなく、この歌には、子どもにとって意味の分からない語彙がほとんどなく、しかも音韻の連なり具合が、たんへんいい調子だからである。
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