日本語を哲学する
【はじめに】
世界経済がアメリカ発のグローバルスタンダードに巻き込まれてきたように、言葉の世界でも英語がグローバルスタンダードとなってから久しい時がたつ。それにもかかわらず、いまなお、日本人の欧米コンプレックスと英語に対する苦手意識は克服されているとはいえない状況である。
この状況は、異文化間、異言語間に大きな壁が横たわっていることを意味している。しかし果たしてこの壁は、原理的に乗り越え不可能なものなのか、それとも条件さえ整えれば、ほとんど完全に近い状態にまで乗り越えることができるものなのか。
この種の問いは、じつは古くて新しく、昔から「翻訳は可能か」という問いの形で繰り返されてきたものである。しかしこの問題は、可能か不可能かに明快な答えを与えるところに意味があるのではない。問いが問いのままで依然として残るところに意味があるのだ。
この問いはまた、「普遍人間性」の想定に軸足を置いてものを考えるのか、個々の文化共同体の伝統とかナショナリティといったものに軸足を置いてものを考えるのかという問いに通ずるものである。こちらの問いにも、二元論のどちらか一方に身を寄せればいいといった簡単な解決はあり得ない。
現実には、明治時代以降、膨大な翻訳努力が積み上げられてきて、いまでは欧米文化圏の言語に対する理解は相当のところまで成熟している。また最近ではバイリンガルも増加の一途である。相手の母語の背後にある生活感覚を互いに共有できさえすれば、日常生活における微妙な心情の交感なども可能になる。国際結婚がさしたる破綻もなく成立している事情を見れば、異文化間でのコミュニケーションが深いレベルで実現しているのは事実であろう。
だが一方では、それぞれの言語文化の地域特性を最も象徴する例として「詩歌」的言語のたぐいが存在する。私たち普通の日本人にとって、短歌や俳句(ことに短歌)がかもし出す「趣」は、奇を衒った難解なものでないかぎりたちどころに理解できるが、これを欧米人に理解してもらうのは至難のわざであると誰もが感じるであろう。散文的に砕いて翻訳すれば、指示的な「意味」は伝わるだろうが(現にそれは行なわれているが)、その芸術的な「趣」が精確に浸透したとはとても思えない。
逆も真なりで、西洋の韻文を、西洋人が感じているはずの興趣そのままに私たち普通の日本人にわかってもらおうとしても、そこにはどうしても無理がはたらくと思われる。たとえば上田敏の訳詩集『海潮音』はそれ自体、著者の「歌心」の才と血のにじむような努力とが結実した成果であろうが、これは西洋の歌心をそのままに伝えることができたというよりも、むしろそれを素材として日本人の歌心に訴えることに成功した一種の創作であったと考えられる。翻訳とは、もともとそのようなクリエイティヴな作業である。
欧米語、特に英語と、日本語との間に横たわる「壁」、およびそれに対する日本人の心理についてまずは触れたが、ここにはもう少し具体的に噛み砕いて考えてみなくてはならない問題が伏在している。それをいまある程度整理し、便宜上、①日本語を取り巻く歴史的社会的環境にかかわるもの(外部)と、②言葉の本質・特質にかかわるもの(内部)とに分けて簡単に列挙してみよう。
①
a.日本人は、幕末維新以来、圧倒的な西洋近代文明の流入によって、これまでの生活様式、政治制度、文化的態度などの根本的な変容を迫られたが、完全にその力に支配されたわけではなかった。
b.日本人は、第二次世界大戦の大敗北によって、さまざまな意味での欧米文化の「進歩性と強さ」とを思い知らされたために、さらに開かれた再適応を余儀なくされた(特にアメリカナイゼーション)。しかし、それでも欧米文化をそのまま受け入れたわけではなく、独特の消化吸収と変奏を成し遂げて今日に至っている。これは良し悪しの問題を一応度外視して言えることである。
c.この事情は、かつて中華文明を摂取していく過程で、漢字かな混じり文や日本仏教に象徴されるような特有の文化を築き上げたこととよく似ている。というよりも、その同じ精神の延長上に位置づけられる。
d.その理由として、とりあえず次のことが考えられる。日本人はもともと島国という地勢のゆえに、等質性の高い文化伝統を維持してきたため、シャイで内向き、外に進出してゆくことが苦手な国民性を持つ。だから、強い政治的・文化的な力が押し寄せてきたときには、それに対抗して押し返すのではなく、ひとまず受け入れた上で、自分たちの腹の中でその衝撃を徐々に和らげながら、自分たちになじむものに鋳直してゆくのである。
②
a.言語表現は、もともと、「あらかじめ存在する同じ真実、客観的な真理」の共有を目的としていない。
b.言語表現とは、単に「思想」を伝える「手段」ではなく、「思想」そのものである。言いかえると、大は一定のラング全体から小は各単語のレベルに至るまで、表現形式が違えばそれは思想を異にしているとみなすべきである。この考え方は厳密に貫かれる必要がある。なぜそのように考えたほうがよいのかは、すでに言語論の内部に立ちいることになるので、後述する。
c.日本語は、印欧語、中国語などとその文法構造を根本的に異にしている。この構造の違いは、①のc・dで述べた事情と呼応する関係にある。ただしここでは、どちらが「因」でどちらが「果」であるかという因果関係論理をナイーブに提出することはできない。
さて、この論考で考えを深めて行きたいと思うのは、①の文明論的な問題意識ではない。これは多くの人がすでに試みているので、私がそれに加えてオリジナリティを示すだけの用意を特に持っているわけではない。
ここで追究しようとするのは、もっぱら②の側面に関してである。現在の見通しとしては、特に②のcについての考察を出発点としつつ、では、日本語的思考の特質とは何であるのか、そこから、どんな世界把握の仕方を取り出すことができ、いかにすればそれを人間の普遍的な本質の解明に寄与させるところまで到達させられるのか、というのが私の問題意識の最も重要な点である。
大風呂敷を広げたので、できるかどうかはまったく五里霧中だが、右の記述からわかるように、私は比較文明論的な結論をゴールとは考えていない。彼我の文化がこんなに違うなどといって面白がっているのは、もはやつまらないことである。
そうではなく、私が目ざしているのは、まず、日本の言語文化のなかには、これまで注目されてこなかった「哲学的課題」の材料が豊富に眠っているという点に読者の注意を促すことにある。次にそれを通して、もしその課題の解明ができるなら、日本語を日本語で哲学した成果を、人間認識、人生問題などの普遍的なテーマに接続させて、これまで未熟であった新しい形での世界発信が可能になることを示そうという点にある。
だが以上の問題意識の中心に突入する前に、その準備作業として、②のaとb、つまり、そもそも「言語」一般とは何であるかということについて、私なりの言語本質論、言語観について述べておきたい。それをしないで、いきなり論の対象を日本語に特定すると、ともすれば一般と特殊との関係が見えにくくなり、本来の問題意識から逸脱していつの間にか特殊性の提示だけで終わってしまう危険がある。場合によっては、無自覚な日本賛美に酔い痴れるごとき営みに帰着しかねない。
これから述べる言語本質論についてはいろいろと異論があるかもしれないが、私としては、優れた先達の力を借りながら永年考えてきた末の一応の結論である。
また、この言語本質論は、私がこれまで折に触れて発表してきたいくつかの書物での文章と重複する部分が多い。関心を抱かれた読者は、そちらのほうも合わせて参照していただければさいわいである(『吉本隆明』・『「恋する身体」の人間学』以上筑摩書房・『なぜ私はここに「いる」のか』・『ことばはなぜ通じないのか』以上PHP研究所・『エロス身体論』平凡社・『人はなぜ働かなくてはならないのか』・『人はなぜ死ななければならないのか』以上洋泉社・『日本の七大思想家』幻冬舎。
という表現が、妙にしっくりきました!