天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「ごめんね、青春」の面白さについて(その2)

2015-05-24 15:03:09 | 映画・テレビドラマなど

 引き続き、少し古いのですがアップさせてください。
   
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「ごめんね、青春!」のおもしろさについて その2
                       H26.12.6
引き続き、「ごめんね、青春!」の話に戻ります。
見のがしていたので、ユーチューブで第一話、第二話を見てみました。特に、第一話の出来が良いように思いました(ブラックタイガーの出現がとても印象的です。)。びっくりしました。ドラマでもなんでも、番組放映が終わると、すぐ、ユーチューブにアップされるんですね、中国語字幕バージョンなのでそれもびっくりしました(彼らは日本(東夷;日本古代への蔑称)のテレビドラマを視るのか。)。
生徒会長の転校という感動ドラマをコロッと切り替え、今回は、性同一性障害の息子(男子校の生徒)を持つ権力者の理事長のエピソードになります。お金持ちのあととりで、気弱で優しい男子生徒は尼僧姿の制服(小さい銀のロザリオも付いています。)に憧れ、駅のトイレで着替え楽しく通学します。理事長はそれを放置、容認した学校に激怒し、合併白紙、文化祭中止と言い渡します。学園ドラマの王道の設定ですよね。
ブラックタイガーこと蜂矢先生(満島ひかり)に挑発された原先生(錦戸くん)は、一回目単身理事長宅に乗り込み門前払い、二回目生徒代表と連れ立ち生徒全員署名を集めて嘆願に行って門前払い、最期に蜂矢先生と一緒に訪問したところ、予想に反し会ってくれることとなり、おそるおそる玄関に入ると、女装した理事長が出迎えます。
「息子のために本を100冊以上読んだ」、と理事長は苦衷をかたります。「気持ちを理解するため、女装で近くのマックスバリューに買い物に行った」、と家族写真を見せながら、息子が息子でないことの苦しみを述べます。ブラックタイガーは、「じゃー、明日、息子さんと、原先生の授業に出てください」、と言い渡します。何の相談もなかった原先生が仰天したのはいうまでもありません。激論をしつつの帰り道、蜂谷先生は「あなたがすきだから」とカミングアウトしてしまいます。「返事は明日までにお願いしますね」、と。
翌日の授業、悩み多き原先生は、昔の学生制服姿で登場し、色々、性同一性障害について力説します。教室後方で、男子校、女子高の校長と、蜂谷先生が授業を批評します。「ま、泥臭い」、「月並みだねー」、「もっと響く言葉はないのかしら」、とか。とても笑えます。
「もういい」、「今になって、息子が息子でなくなった苦悩がわかるか」、激昂した理事長が、立ち上がりました。その時、同じく立ち上がって父の後ろでめそめそ泣く息子が目に入ります。終始一貫、反抗もなにもせず、父親に寄り添い、「ごめんね、ごめんね」、と、べしょ、べしょと泣くばかりの息子が。振り返った理事長は「上の娘二人は、家に寄り付きもしない。お前もそうなるのか」、「ぼくはそんなことはしないよ。ずっと一緒にいるよ。」その時、父親は和解します。絵にかいたような、理想の家族などはないことに、気づいて、少なくとも、思いやりのある優しい息子ではないかと。
最初から、クドカンは、どのように、このシチュエーションを脚本で納めるのか、と興味深々でしたが、本当に感心しました。実際に、現実的な有効性まで考えてしまいました。
理事長は、納得した後の判断は早く、「合併だろうと、別々だろうとどっちでもいい、好きにして」、と帰ってしまいました。男子校、女子高の校長たちは大喜びです。
その後、原先生が呼び出すと、「返事は?」と蜂谷先生が聞きます。「最初は、友達から」、原先生が答えると、「は、(こんなに思っているのに)友達から?」蜂谷先生は激怒します。原先生は、どうやら、納得させて、ふたりは、握手で締めます。(いわゆるエキセントリックでイタイ女ですが、勢いと行動力と、真情あふれる満嶋ひかりもとても魅力的です。私にはよくわかりませんが、場面ごとに変わる彼女の衣装も見どころのようです。)
新たな展開が始まります。
その夜の、地元のミニFM局のDJ(校長先生)に、キーパーソン、今まで失踪したままだった親友の三女の元ガールフレンド(蜂谷先生の姉)が電話してきます。「誰に、ごめんねしたいの?」、の問いに、火事の後で、ただ一人話しかけてくれたボーイフレンドの親友(原先生)が今は好きです、退学した元ボーイフレンドに、ごめんね、との答えです。ラジオを聴いていた、ひきずっている(火事とか失恋とか)原先生は、必死に追いかけ、FM局まで行きましたが、もちろん会えません(かくれDJの校長に出会いました。)。
翌日、取材したいとルポライターが学校に乗り込んできます。失踪していた蜂谷ゆうこ(親友の元ガールフレンド)、蜂谷先生の姉です。これから、原先生をめぐる、姉妹の、火花を散らす三角関係が始まりそうです。
同時に、原先生のエロオヤジ(風間杜男)の再婚話が舞い込みます。
(母は、菩薩になってしまったとはいえ)マザコンの原先生は心底狼狽し、混乱します。
この話は、次回からです。
このドラマは、12月21日までだそうです。あと3回です。
忙しいと思いますが、年末の娯楽に是非どうぞ。
宮藤官九郎は「大人計画」とかいう小劇場(松尾スズキとかいます。)で俳優もやっています。小劇場の劇では、脇役が主役を食うのが当たり前のようなところがあり(常に真剣勝負みたいです。)、毎回焦点が変わる、このドラマの脇役が本当に充実しています。度ごとに、女子高と男子校の合併、生徒同士のあつれき、先生と生徒の恋愛、先生同士の恋愛、理事長の専横と先生と生徒の連合しての戦いなど、扱うテーマがあり、連綿として続いてきた昔からの学園ドラマのパターンを揶揄し(からかい)、批評し、解体して行きます。しかし、解体されたなら、そのあと、再構築しなければなりません、原先生の努力が笑えます。はまり役です。
前回触れなかったけれど、これは、強くなった、女性に対するオマージュ(賛歌)でもあるドラマです。明らかに、教室内の主導権(教室内カースト)は、女子生徒が握っています。「しょうがねーだろうな」、と視聴者に思わせるようにドラマは展開し、しかし推進力だった、女子高の生徒会長が転校し、先が読めなくなりました。今回も、蜂矢先生、脇役の女子生徒、男子生徒、脇役が光り輝いています。また、当初からの伏線だった、原先生の親友と相愛で火事騒ぎで失踪した当時の三女の元生徒会長(ルポライターゆうこ)が登場しました。先行き、予断を許しません。
今回の、ドラマ中で、クドカンはドラマ性の解体を狙ったのか、ドラマ中で、東京に行った生徒会長がでて来ます。女子高を去り、都会風の私服になった彼女は、明らかに、オーラが失せています。改めて、制服の偉大さがわかります。男子校も、本来紫の詰襟の制服です。学園ドラマは、明らかに制服ですね。私見で言わせてもらえば、前々から時々見かけるブレザー制服とかバカにみえます。見栄えのしない思春期の日本人の男は、詰襟でないとだめ、というのが持論です(時代が変わったとも言われましたが)。かつて、桑田佳介が言っていましたが、「下に何を着ようと自由なのだから」、同感です。
 年末に、とても楽しませてもらってます。
今回は、男子校の生徒会長(半田君)の出番が少なかった。
次は、誰が主役を食うのか楽しみです。

「ごめんね、青春」の面白さについて(完結編)

2015-05-24 15:02:29 | 映画・テレビドラマなど
 引きつづき恐縮ですが、完結編です。

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「ごめんね、青春!」のおもしろさについて 完結編
                       H26.12.23
最終回、「ごめんね、青春!」が、12月21日終わりました。
いよいよ大団円を迎えます。
前回放映分で、父(エロオヤジ)や母(今の観音菩薩です。)すら、当時、火事の真相をうすうす察し、原先生を守るためにそれを隠したことに気付いた原先生は、耐え切れず、蜂矢先生に罪を告白します。深夜、校舎の屋上に呼び出され、色々(?) 期待しつつやって来た、蜂矢先生は、当然、激昂します。「好きな男の子と夜校舎にいただけで、女の子(姉のゆう子)はあんな仕打ちを受けたの」、「私が(あなたを)好きだから許してくれるとでも思ったの」、ごもっともです。同時に、原先生は、「蜂矢先生、あなたが好きです」とカミングアウトしてしまいます。ただでさえ混乱した蜂矢先生ですが、最期は、「私は伊豆っ箱 (註1)の奇跡、ピンクのつり革伝説 (註2) を信じます。」、「二人で乗り越えましょう」、と、手を握り合い宣言してくれました。
 合同文化祭の当日になりました。笑えます。遠藤ちゃんの相撲ミュージカル、ハヤオシクイズ、海老沢たちの2つにわれた男みこし、生徒会長と成田のお化け屋敷、さすがにクドカンです。笑えます。(詳しいことは、ユーチューブでどうぞ。大変面白いです。)中井さん(三女の元生徒会長)がゲストでやってきて、彼女のデザインしたピンクのギンガムテェック(それぐらい知ってらい!)(AKBの歌にもあった、青春の柄なんですね。)のコスチュームで、かわいく喫茶店のウエイトレスです。「ありがとう」、という原先生に、「一つだけお願いがあります」、と彼女は言います。後夜祭で是非やりたいことがあるのです。
 ふたを開ければ、ファイアストームの前で、全員でフォークダンスです。だっせー、
言いながらも、みんな結構嬉しそうです。原先生と手を取り合いながら、元生徒会長は「先生と一緒で、最高のクラスでした」、といい、彼女の青春と恋にけりをつけます。 
おお青春、原先生は、いよいよカミングアウトの決意を固めます。
(詳しいことは、ユーチューブでどうぞ。大変面白いです。)
 覚悟を決めた原先生は、蜂矢ゆうこ(現在ルポライターで、原先生の親友と相愛で火事騒ぎで失踪した当時の三女の元生徒会長、蜂谷先生の姉)に、当時のいきさつを語ります、彼女に待ちぼうけをくらい、礼拝堂の屋上でキスする彼女と親友のシルエットに向けて、泣きながら、花火を20発撃ちこんだことを。
 とんでもない告白を聞いて、泣き腫らした目で去ろうとするゆう子に、「おねーちゃん、原先生を許してあげて」、「おねーちゃんが私にしたことは全て赦すから」、ゆう子も、「あなたも大人になったわね」と、長い不在と、不仲を経て、彼女たちも和解します。イタイ女、蜂矢先生も、原先生を許せば、合わない質の姉も赦せるのです。
 同じころ、原先生のエロオヤジも、息子の罪を、蜂谷父に告白していました。「俺は、全てを失ったんだぞ」、父親も憤激します。しかし、互いに飲み友達になっていたことといい、蜂矢父は「ゆう子」を信じきれなかったこと、二人とも「ごめんね!青春」で告白していたことでもあり、最期は和解します(彼らは「蒲田行進曲」での相棒です。クドカンは、よくこんないたずらをします。二人ともいい役者になったものです)。
 青春祭(合同文化祭)の最終日、ミス青春に、村井守君(性同一性障害障害である、村井理事長の息子)が選ばれました。ミスター青春に、原平助先生が選ばれましたが、固い顔でみんなの前に立った原先生は、ポケットから辞表を取りだし、告白を始めます。
 会場はしゅんとなりましたが、告白するにつれ、聖三島の校長先生(斉藤ゆき)が詰問します。「なぜ、すぐ届けなかったの」、「学校が好きだったから」、原先生は、学校が好きだったから、やり直したかったから、底辺校から、必死で、勉強して、教職を目指したのです。「社会的責任は」、「教師としての責任は」、更に続く、校長の厳しい追及に、元三女の神保ちゃんが「どうでもいいじゃん」、と言い出しました。そこの「ちんちくりん」と、見とがめた、校長に対し、「うちら皆、共学になってうれしいし、(平ちゃんの)昔のことなんかどうでもいいじゃん」、といいます。聞きとがめた、校長に、「先生が放火したわけじゃなく、放火魔が先生になったんでしょ」といい、蜂矢先生は思わず苦笑してしまいました。そのうち生徒たちから、「うちら4歳のころでしょ」、「共学になって楽しいんだからもういいじゃん」と口々に言い出し、会場が騒然となりました。
 その時、平助の元親友の、さとしが、警察を連れて乱入です。
 校長室で、刑事から、当時の捜査で、犯人の特定が出来なったこと、隣の建物から打ち上げた花火がたまたま空いていたと仮定して、窓ガラスを経由して、建物に入って火事の原因になった可能性は、0.001%くらいであることなどの説明を受けました、ロケット花火自体は現場にあったけど、隣の建物から発射されたことは証明できにくい、ということでしょうか。関係者全員で、その話を聞いて一件落着です。どさくさのうちに、校長が軽く、自分のDJ勤務を話すと、告白したみんなが大ヒンシュクです。結局、一番悪いのは、校長になってしまいました。
 皆で、会場片付けをし終わって、一列に並んだ時、落ちこぼれの成田君が、一歩進み出て、「俺ら、これから卒業して、就職して、生きていくだろうけど、これから何一ついいことがなかったとしても、今日が生涯で一番幸せな日だと思います」、と、原先生にお礼の言葉を申し述べます(皆の大拍手)。確かに、要らざることですが、今後底辺校を卒業した彼らに、そんなにいいことばかりあるとは思えない、青春時代の最期に、皆と共有する楽しい思い出ができたこと、は生涯の宝でしょう、クドカンはやっぱりうまいわ、青春ドラマの王道といいましたが、そのとおりの展開でしたね。
 後は、後日譚(たん;話)です。
 原先生は学校を辞め、校長先生はDJを辞めました。校長の代わりにDJ(二代目かば焼き三太郎)になった原先生に、校長から電話です。合併で、降格になった校長は、第三教頭ということになり、ひたすらグチ話です。打ち切った原先生に、「なにそれ、昔のDJはもっと優しかったよな。」、地域FMの「ごめんね、青春」は、これでひと段落となります。(二代目は、滑舌で、頼りなく、どうしようもないですが)
 とても上質のコメディであったこのドラマは、それゆえに考えさせられます。今後も原先生には、たとえ確率が0.001%だったにせよ、一生自らの行動の後ろめたさ(後ろメタファー(暗喩)、観音菩薩というのがあったけど:後ろめたさを感じる人には平助のか~ちゃんが顕現するそうです。)(意味不明)と、他人を巻き添えにした悔恨は一生続くでしょう、指に刺さったとげのように、気になり、彼の心は痛むでしょう。私の好きな、スガシカオの歌「ぼくの心の やらかい場所を 今でも締め付ける」わけです。皆さん、人間決していいことばかりはしませんから、皆、若いころの言葉や行動の後ろめたさや、卑怯な振る舞いだったとか、他人を傷つけたこととかありません?
この際、告らせてもらおうじゃないですか、「ごめんね!青春」と。若さゆえ、未熟ゆえ、私はあなた(たち)を苦しめ、悲しめた、と。
また、実際のところ、「反省」のないところに、救いがあるとも思えない、と思われるわけです。
三年生の卒業式の日、「原平助君」と呼ばれて、学ラン姿の原先生が登段します。
 尼僧姿の校長先生が、卒業証書授与のあと、小声で、「やっと、青春を卒業しましたね」と、はなむけの言葉です。
 年末にとてもいいドラマがあり、観ている方は幸せでした。
 原先生と蜂矢先生の行く末とか、卒業生の行く末とか含め、面白い場面をいっぱい落としていますので、是非ユーチューブでどうぞ。
 後は、皆さん、良い連休を、ということですね。

(註1) 伊豆っ箱
伊豆箱根登山鉄道の略称:聖三島女学院高校、仏教底辺校両校の通学私鉄、私も一度だけ箱根に行くのに乗りました(何を隠そう、元箱根であった、竹田青嗣のヘーゲル講座に行きました。)。彼らが通学するであろう沿線は、ローカルな雰囲気でとてもいい電車です。

(註2) ピンクのハート形つり革伝説
(話していなかったかも知れませんが)、一日に一度、伊豆っ箱の全車両の一箇所にだけ、ピンクのハート型のつり革が一個だけあり、それを握った男女は必ず結ばれるという、聖三島女学院高校に伝わる都市伝説です。先に、生徒の引率でシーパラダイスに行った両先生は偶然二人で握ってしまい、無頓着だった原先生に比べ、運命を信じる女、三女のブラックタイガーこと蜂矢先生の恋は始まり、燃え上がったのです。

「ごめんね、青春」の面白さについて(その1)

2015-05-24 14:03:52 | 映画・テレビドラマなど

 少し古くて恐縮ですが、このたびアップさせてください。
    天道公平

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「ごめんね、青春!」のおもしろさについて
                       H26.11.28
みなさん、ご存じですか。日曜日9時、TYSで、東芝日曜劇場「ごめんね、青春!」というドラマがあることです。脚本はもちろん宮藤官九郎です。
熱心な「クドカン」ファンではなく、前回の「あまちゃん」以降彼のテレビドラマはみていませんが、今回もまた、テンポの速さと、切れ味のよさで勝負です。
名門のカソリック女子高と、禅宗系の底辺校の仏教高校の合併問題を絡めて、正統的な学園ドラマをベース(青い山脈から金八先生までの長い系譜があるでしょう。)に、いつものとおり徹底的なパロディと、(クドカンの)批評を加えます。
主役の、過去を引きずる気弱そうな男子教師(過去の女子高の礼拝堂の火事に責任がありそうです。)のセリフ回しのつたなさと頼りなさ、満嶋ひかりの扮する三女(聖三島女学院高校だそうです。)のブラックタイガーこと、英語教師のエキセントリックな演技、毎回とても楽しいです。合併の第一段階として、彼らは、カソリックの女子高と
隣接の仏教の男子高に派遣され、それぞれ混合クラスを担任します。
 最初に男子校に乗り込んだ、満嶋ひかりは、尼僧姿の制服の女子生徒を従え、「いいか、君たち、私たちは全員処女です。手を出したら、ぶっころす(相応の覚悟をしなさい)。」と啖呵を切り、男子生徒をびびらせます(惚れた男子生徒もいましたが)。
 喜ぶ男子生徒を引き連れ、三女の混合クラスに入った男子教師は、びびりながらも、仏教高校の生徒と、プライドの高い女子生徒の間を取り持とうとします。国語教師らしく、おずおずと、漢字をベースに相互の融和と寛容を解いていきます。この辺りは結構聞かせどころです。満嶋ひかりが行う英語の訓話をベースにした、相互理解や、協調を説く授業と同様に。この辺りは、ドタバタに終わらせない、批評と、解釈があります。
クドカンのドラマは、とにかく脇役がすごいのです。彼自身が、舞台で脇役を務めているかも知れず、脇役が主役を食うか、笑いながらも、狂気にまで引っ張っていくような凄味があります。殊に、アルバイトで、匿名で地元のミニFM局のDJをやる仏教高の校長の生瀬勝久が、番組に架かってくる電話に応えながら、毎回、ドラマの狂言廻しをやります。二面生活を演じ、怪演です。
男子教師の家族がまたすごいのです。火事の原因を引き起こし、当時の親友と相愛の三女のガールフレンドに対し恋のさや当てで陥れたかもしれない、という男性教師の後ろめたさを指摘するため、彼(男性教師)の死んだ母親が、菩薩姿で顕現(森下愛子)し、息子をあれこれ批評するのです。大根の森下愛子が、老けたなりに、とてもいい味を出しています。また、父親役の住職、風間杜夫が、エロオヤジを熱演しています。笑えます。高校生の脇役が、女子高生も男子高生もとてもいい、回を重ねるにつれ、女子高の生徒会長((黒島何とかいう人です。)がきりっとしたいい子で魅力的です。)がどんどん活躍をし始め、男子校の生徒会長(半田君)が、すぐ脱ぎたがる体育バカみたいな子ですが、家庭崩壊をアルバイトで支える長男で、バカのため、告った相手方の満嶋ひかりやほかの女の子に翻弄されます。笑えます。毎度、やり込められる彼の演技はペーソスがあるというべきでしょうか。
他には、男子高の養護教諭を務める40を超えた、いかずの養護教諭の坂井真紀先生でしょうか、高校内の相関図に介入し、なりすましメールで、彼らに助言を与え、最期は渦中に巻き込まれます。笑えます。こんないい女優さんとは知りませんでした。(前回のドラマ、「あまちゃん」で復活した、小泉今日子がとてもよかったように)
あらゆる脇役にコメントしてみたいところですが、みんな生き生きして楽しそうに演技しているように思えます。それぞれのエピソードが興味深く、ところどころ舞台俳優のような深みに届きそうな時があります。何に対しても「過剰」なのがクドカンの持ち味ですが、思わず笑ってしまう、深いセリフもちりばめられています。普段、日が当たらないような脇役たちに知らず知らずに愛着がわきます。
 学園ドラマですから、結局、恋愛ドタバタドラマになりますが、最期は「ごめんね、青春!」で、こんな高校にいたかった、若いときはよかった、とか視聴者に思わせます。上質なコメディです。生瀬勝久ではないのですが、昔の恥ずかしい思い出には、「ごめんね、青春」、と謝ればいいのです。時間の経過が、ほぼ均等に、それを許してくれるのです。満嶋ひかりのテンパった演技は笑えるし、男子教師(錦戸何とか君です。)の 気弱な演技とのやり取りは絶妙で、次はどうなるんだろうと期待を持たせます。
 いつものように達者なクドカンですから、今回も劇中で、「三島コロッケ」とか、「みしまるくん」、「みしまるこちゃん」とか地元のゆるキャラや、三島市の看板行事がドラマの中に次々と波状的に登場します。取り上げ方が上手で、サービス精神も旺盛で、たぶん今まで地味だった地元ゆるキャラが脚光を浴び、やっぱり笑えます。
彼のドラマは、既に、あちこち村おこしとか使われていると思いますが、「三島コロッケ」とか、今後、どれくらいヒットするか、それも楽しみです。
視られた方は結構ですが、このドラマは既に六回くらい経過していますが、いまからでも是非お勧めします。(詳しくは、TBS、HPをどうぞ)

サザンオールスターズの正統性について

2015-05-24 10:28:35 | 歌謡曲・歌手・音楽
サザンオールスターズ(桑田圭祐)の正統性について
                                 H27.3.8
            栞のテーマ(1974年)
                           桑田圭祐作詞・作曲
彼女が髪を指で かきあげただけ
それがシビレルしぐさ
こころにいつも あなただけを 映しているの

恋は言葉じゃなく 二人だけの Story yeah
Lady my lady my lady
I wonder if you can love me
Oh no・・・・

彼氏にナニをいわれ 泣いているのか
知らないふり でも
涙の中にいつも 思い出が見えるから

渚にしなやかに通り過ぎてく Melody  yeah
Lady my lady my lady
I love you more than you love me
Oh no・・・・

つれないそぶりの Long-brown-hair
ね、どうしてなの なぜに泣けるの
ひところのアナタに戻る
この時こそ大事な Twight - light- game

彼女が髪を指で かきあげただけ
それがシビレルしぐさ
こころにいつも あなただけを 映しているの

このまま二人して 小麦色のMelody yeah
Lady my lady my lady
No-one could love you like I do
Oh no・・・・
やっぱりこの歌が、私にとって一番印象深い曲です。ただ、読むだけならば、特に詞に深みがあるとも思われず、「ただの歌詞じゃねえか、こんなもん」という桑田圭祐の言葉そのままですが、やっぱり当時は、とっても新しい歌でした。もし、ご存じないならばユー・チューブなどで聴いてみてください。
音楽として聞けばとても素敵な曲です(私も今でも歌います。)。
 英文を交えたこの歌詞は、それまでの愛を妨げる(?) 逆境の状況、家族、社会の有形無形のあつれきを超えた、自由な性愛の全肯定というような曲であり、男女お互いの親和力と親密さやその行き違いの悲しみを上手に掬い上げています。本当に良質なラブソングです(今でもそう思います)。
 これは、「ステレオ太陽族」というアルバムに入っていたと思いますが、アルバム全体がとても新しい音楽で、性愛を赤裸々に歌いながらも、親しみやすく、明るい雰囲気がありました。桑田圭祐は、私と同年で、青山学院の軽音出身だったと思いますが、私が就職して二、三年後くらいに、爆発的に売れだしたと覚えています。彼らの年齢は、はっきり言ってひつじ年還暦です。彼らのバンドは、桑田自身のやんちゃで、ノリのよい雰囲気に触発されたバンドで、彼の姉が大好きだったというビートルズからアメリカロックに至るまで、あらゆるポップスを透過した、桑田の音楽のセンスと、だみ声のボーカルが売りでした(そういえば昔コンサートに行ったのでした。)。
 「愛しのエリー」、とか、「私はピアノ」とか大変印象深い好きな曲です。
 中期(?)の、「愛の言霊」とか「 Tunami 」とかもいい曲です。それから40年近く経過し、いまだに人気バンドを続けているのですから、それはそれで大したものです。

 昨年末、WOWWOWで、「ひつじ年の、ひつじ年による、ひつじ年のためのコンサート」が放映されました。サザンがメンバーの内訌で休止していた際も、彼は「ひとり紅白」と銘打って、大みそかにコンサートをやっていました。もともとは、AAA(Act against aids)支援コンサートとして、主に、彼の支持者の若者のための、エイズ撲滅のためのチャリティコンサートだったのですが、回を重ね、グループの休止により「ひとり紅白歌合戦」に変わって行きました。
彼は出身が茅ケ崎市であり、家業でキャバレー経営(?)していたと聞き、私の居住・生育環境とは全く異なりますが、年代的に、その選曲は、よく得心が行きます(ザ・ピーナッツ、西田佐知子、タイガース、尾崎紀代彦、とか、ただし、土着的な、ど演歌、とかは、少ないようです。少なくとも、多くは私の印象的な曲(アンソロジー)とダブっています。)。日本のポップスのゴールデンエイジというところでしょうか。
 一般的な歌謡曲の、男と女の「二人の世界」は、何よりも大事で、本質的、という歌謡曲の王道を歩むものです。

 今年の、「ひつじコンサート」で、復活したサザンが歌ったのが下記の曲です。
    ピースとハイライト

 なにげなく見たニュースで
 お隣の人が怒っていた
 今までどんなに対話(はな)しても
 それぞれの主張は変わらない

 教科書は現代史を
やる前に時間切れ
そこが一番知りたいのに
なんでそうなっちゃうの?

希望の苗を植えて行こうよ
地上に愛をそだてていこうよ
未来に平和の花咲くまでは・・・憂鬱(Blue)
絵空事かな?お伽噺かな?
互いの幸せ願うことなど

歴史を照らし合わせて
助け合えたらいいじゃない 
硬い拳を振り上げても
心開かない

都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は・・・狂気(Insane)
20世紀で懲りた筈でしょう?
燻(くすぶ)る火種が燃え上がるだけ

いろんな事情があるけどさ
知ろうよ 互いのイイところ!!

希望の苗を植えて行こうよ
地上に愛を育てようよ
この素晴らしい地球(ふるさと)に生まれ
悲しい過去も 愚かな行為も
人間(ひと)は何故に忘れてしまう?

愛することを躊躇(ためら)わないで

書き写していて、(私が聞いた皆の感想のとおり)あまり面白くない、わけですが、共に老いた私も、桑田圭祐もいまさら、恋の歌など書くのは難しいのだろうか、という憮然とした気持ちでしょうか。しかし、この歌を聴いていたら、政治的なバイアスのかかった「憲法9条の会」とか、「脱・原発」とか歌うとかより(晩年の忌野清志郎とか馬鹿な唄を歌っていたぞ)、はるかに誠実な態度でありはしないのか、と思われます。
 実際に、国家間の個々の信念対立は、宗教と同じで、「自由の相互承認」しか方法はないよね、お互いの差異と信念を尊重し、妥協点を見つけるしか共存の道はない、わけですから。
 また、西欧流の強引な「グローバリゼーション」で、文化、芸術、歌だろうと、無理やり世界均質化を図ろうとしても、それは現在のようにもめるだけです。
 そこらあたりの、解決困難な問題や、それぞれ抱えた民族国家の問題、歴史の見方の問題、民族問題にちゅうちょする気持ちと、解決手段はないのかね、と唄うだけでも、桑田圭祐はずいぶんましな歌手(?)なのです。
 加齢と、日本ポップスへの貢献、反エイズキャンペーンへの貢献からか、去年桑田圭祐さんは紫綬褒章を受章されました。紫綬褒章は、芸道というか芸能人の功績に対する褒章であり、彼の今までの実績を考えれば至極当然のことと思います。
 コンサートで、彼が紫綬褒章をポケットから取り出し、「これが紫綬褒章です」、と皆に見せていました。「へー、なるほど」と思ってみていましたが、放映後、「不謹慎だ」、「敬意が足りない」とか、ネットで炎上したそうです。
同世代として、「もらったものをどう見せようと勝手だろ」、と思うのは私だけでしょうか?逆に、彼の功績をちゃらにして、普通の特に功績もない人間が(太宰治流にいえば「(人は、)ただ生きているだけでいいのよ」かもしれないが)安い「正義」で、賞賛に値する人を、数や徒党をたのみに批判する下劣な精神にいら立ちます。こういうのを、大衆のルサンチマン(他者に対するやっかみ・怨念)というのではないでしょうか。
 若い人は知らないかも知れませんが、昔、永井荷風という著名な作家が年金付きということで文化勲章を受章した際に、その勲章を浅草のヌードレビューのお気に入りの踊り子に身に着けさせ、踊らせ鑑賞したという逸話がありますが、国家、世俗、通俗を憎みぬいた、反骨の文学者永井荷風には当然の行為かも知れません。これに比べると、桑田圭祐の行為は何と温和なものではないでしょうか?
ついでに申しあげますと、荷風は典型的な徹底した近代人で、自己、自我を縛る結婚は生涯放棄し、独居で、最期に馴染みのカツ丼屋で体調悪くおう吐し、他人に迷惑をかけられないとおう吐したカツ丼を再度飲み込み、カツ丼屋を去った後、そのまま、独居所帯で、胃潰瘍で悶え死にをしたのだろうとの逸話のある人です。また、文化勲章の年金を含め、莫大な金額の貯金通帳を残し、他人のためにも働かないが、他人の世話にもならない、という、ある意味潔い作法を生涯通した人です。しかし、渡欧体験や、渡米体験を通じて、日本の知識人や、日本の薄っぺらな近代と文明を憎み、また当時の軍部の専制を憎んだひとで、反近代とでもいうべく、フーゾク狂いのひひ爺いとして花柳界を愛好し、妾契約を結んだりしながらも、狎れ合い、もたれ合いを拒否し、孤独と孤立を通した人であり、その徹底性と、彼の文学者としての業績は、燦然として残っている、というわけです。
一般的な世俗の権威や常識は、誰にでも有効とは限らない訳なのです。(なぜそれなら彼が国家から勲章をもらったかといえば、叙勲による老後の年金が欲しかったらしい。)
私も、高校の時、国語の授業で「墨東奇談」を無理やり読まされ、当時そんなに感心はしません(わかる年代というものがあるよね)でしたが、後年、彼の日記集「断腸亭日常」を読んだ時は大変興味深いものでした。

栄典授与は、決定に至る申請審査中は、交通違反ですら違反行為があれば失着するとのことですが、栄典授与後は、個々の所存の問題です。私には功績がないので、紫綬褒章は受けられませんが、もし受賞したなら、ポケットに入れて皆に見せびらかせて歩くかも知れません、私の勝手です(引かれ者の小唄かも知れないが)。

 まだまだ、今年も新しい取り組みをする意欲的な、桑田圭祐ですが、現在は同年の明石家さんまとかにも衰えが見えているようでもあり、彼の復活を祈っています。私たちは側面から、彼の営為を妨げるつまらない世論は、ちゃんと批評しましょう。

 余計なことながら、「若者は恋をしなさい」といいましょう。
 また、被害者意識から(?) 暴走が多い今日この頃の老人には、ひひ爺いは各自の勝手ですが、「公序良俗を踏み外さないように」、といいましょう。