時宜に合わぬ感想ですが・・・・・・
*********************************************
ひ こ う き 雲
荒井由美 作詞・作曲(1973.11)
白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる
空に憧れて 空を かけていく
あの子の 命は ひこうき雲
高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人にはわからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ
空に憧れて 空を かけていく
あの子の 命は ひこうき雲
空に憧れて 空を かけていく
あの子の 命は ひこうき雲
名作、「風立ちぬ」のDVD発売が、平成26年6月18日となっているそうです。
最近すぐ、回顧的になってしまいますが、先日、あの映画をみたとき、余りに印象的だった最後の主題歌、「ひこうき雲」について触れてみたいと思います。「風たちぬ」の内容については先に触れたとおりですが、このたび、様々な人のブログで、映画同様、この曲が、セットで大変な人気(リバイバル)であることを知り、なるほど(私だけではなかった。)、と膝を叩いた次第です。
というのが、恥ずかしながらご披露しますが、例のXPサービス終了騒ぎで、家のPCの更新をとうとうせずに済まし、ドコモのタブレットを買っつまいました。ブログを立ち上げる器量もなく、ツイッターもむなしいので、久しぶりのネットサーフィンで他人のブログを覗いていましたが、このたび、とあるブログで、「風立ちぬ」の愛好者=「ひこうき雲」の愛好者を見つけたのです。
彼が言うには、感覚的におばはんになってしまった松任家由美はもういい(この点同感です。)、青春期で「死」が身近で新鮮な、青春時代の感性を残したようなアーチストの歌がいい、という選考です。(blog.goo.ne.jp/mdcdc568 美津島明編集「直言の宴」)
彼の選ぶベストスリーとして、三位、長谷川きよし、二位小谷(オダニ)美紗子、一位、小柳淳子(ジャズシンガー)となっていました(詳しくはブログをどうぞ)。
You Tube で検索が可能ですが、長谷川きよしは削除されたかも知れません(後に復活)。
私の感覚では、一位と二位は入れ替わるかもしれませんが、彼女たちのひこうき雲を聞けば、「風たちぬ」の映画が想い起され、松任家由美バージョンの最後のタイトルロールでは、涙が出るように感動的な曲だったのを再度、思いだしました。
この曲は、荒井由美が高校生の時作った歌だそうです。
若いときは、とても死が身近に、時に親密になる時期があるもので、当時の荒井由美の、とても直截で、悲しく、明るく素直な気持ちがそのまま伝わってくるようないい歌です。
彼女は、1954年生まれ(知らなかった!)で、高校生のころといえば、俺と同じじゃん、ということになります。老舗の呉服屋のお嬢さんだったと思いますが、1974年当時の生意気盛りの高・大学生の男は、色ものと思えた荒井由美などあまり聞かなかった、今回映画を見て、初めて、いい歌だったんだなー、と腑に落ちたようなところです。
(試みに荒井由美「ひこうき雲」のアルバムの曲を列記すると、「ひこうき雲」、「曇り空」、「恋のスーパーパラシューター」、「海と空の輝きに向けて」、「きっと言える」、「ベルベット・イ-スター」、「紙ヒコーキ」、「雨の街を」、「返事はいらない」、「そのまま」、ということです。皆さんにとって印象深い曲がありますか?「夜の街を」は、愛好者が多かったので、さすがに私も知っています。)
この歌も、「風立ちぬ」という映画作品も、私には、昔好きだった小説の中で、(主人公の實朝が、平家物語の琵琶語りを聞きながら) 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。・・・・・・平家(へいけ)ハアカルイ。」(「右大臣實朝」(太宰治)、と、独白した、武門の権力闘争の渦中で陰惨で悲劇的な最期を遂げた天才歌人の言葉を、想起させます。
また、私には、小林秀雄が、戦争末期に、同様に「実朝」の最期に触れながら、真珠湾攻撃に参加した若い兵士たちに共通する気持ちを、「感傷もなく、邪念も交えず透きとおっている。」、「その叫びはかなしいが、訴えるのではなく求めるのでもない、彼(ら)には、凡そ武装というものがない」(「實朝」(小林秀雄))と論じたのと、その情感(?)の質は通底しているようにも感じられます。
これは、「文学」の本質の話です。あらゆる「厳しい」状況の中でも、文学の慰藉(慰めとよろこび)は、求めるものにその場所は確保されなければならない、という話です。
このブログの主催者は若いし、戦中派(戦争中に青春時代を過ごした人)や、われわれのような生粋の戦後派と、太宰治や小林秀雄のような、近代以降、明治期の文学者をつなぐ、いわば、共通の理念(「エートス」と言っていいです。)でも共同主観性でもいいのですが、相互に波打つ共通の感情の流れを感じてしまいます。
もし、当時の若者たちが、「明るかった」とすれば、現実を改変しようと、自分の実存をかけ戦ったとしても、最後にどうしても現実が二者択一で強いてくるのであれば、従容として、滅びという現実をも受け入れる、その覚悟と静謐な気持ちの動きに、世代を超えて感動する、ということではないかと思われます。
これは、何も、現実の危機的な状況に追い込まれても抵抗もなにもしない、ということではなく、人は歴史の可変的な部分のそれぞれの局面で、必死で戦うべきであろうし、逆にそんな政治的経済的状況に追い込まれることを許してはならない、また敗者を賛美するわけでもない、それは、私にとっては、「風立ちぬ」の主人公たちの、必敗や、死が不可避であった時代の雄々しく絶望的な戦いに重なっていきます。(小林秀雄も、「戦が始まった以上、いつ銃をとらなくてはならないかも知れない。・・・・・・文学者として銃をとるとは無意味のことである。戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。」(私注記:自分は国民が否応なく受け入ざるを得なかった戦争に行って他の人たちと同様に黙って死のう)、と書いているではありませんか。)
私の決して好きでないキリスト教でも、「○よ、変え得るものを変える勇気と、変え得えないものを受け入れる勇気を与えたまえ」、というではないですか(昔、山本直樹の漫画で読んだのですが)。
でも、決して、彼らはそうはしない、と私は思います。
これは、プラスとかマイナスの問題ではない、と思われます。「日本人」は日本人の「感覚」で動くだろうと考えられるからです。
*********************************************
ひ こ う き 雲
荒井由美 作詞・作曲(1973.11)
白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる
空に憧れて 空を かけていく
あの子の 命は ひこうき雲
高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人にはわからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ
空に憧れて 空を かけていく
あの子の 命は ひこうき雲
空に憧れて 空を かけていく
あの子の 命は ひこうき雲
名作、「風立ちぬ」のDVD発売が、平成26年6月18日となっているそうです。
最近すぐ、回顧的になってしまいますが、先日、あの映画をみたとき、余りに印象的だった最後の主題歌、「ひこうき雲」について触れてみたいと思います。「風たちぬ」の内容については先に触れたとおりですが、このたび、様々な人のブログで、映画同様、この曲が、セットで大変な人気(リバイバル)であることを知り、なるほど(私だけではなかった。)、と膝を叩いた次第です。
というのが、恥ずかしながらご披露しますが、例のXPサービス終了騒ぎで、家のPCの更新をとうとうせずに済まし、ドコモのタブレットを買っつまいました。ブログを立ち上げる器量もなく、ツイッターもむなしいので、久しぶりのネットサーフィンで他人のブログを覗いていましたが、このたび、とあるブログで、「風立ちぬ」の愛好者=「ひこうき雲」の愛好者を見つけたのです。
彼が言うには、感覚的におばはんになってしまった松任家由美はもういい(この点同感です。)、青春期で「死」が身近で新鮮な、青春時代の感性を残したようなアーチストの歌がいい、という選考です。(blog.goo.ne.jp/mdcdc568 美津島明編集「直言の宴」)
彼の選ぶベストスリーとして、三位、長谷川きよし、二位小谷(オダニ)美紗子、一位、小柳淳子(ジャズシンガー)となっていました(詳しくはブログをどうぞ)。
You Tube で検索が可能ですが、長谷川きよしは削除されたかも知れません(後に復活)。
私の感覚では、一位と二位は入れ替わるかもしれませんが、彼女たちのひこうき雲を聞けば、「風たちぬ」の映画が想い起され、松任家由美バージョンの最後のタイトルロールでは、涙が出るように感動的な曲だったのを再度、思いだしました。
この曲は、荒井由美が高校生の時作った歌だそうです。
若いときは、とても死が身近に、時に親密になる時期があるもので、当時の荒井由美の、とても直截で、悲しく、明るく素直な気持ちがそのまま伝わってくるようないい歌です。
彼女は、1954年生まれ(知らなかった!)で、高校生のころといえば、俺と同じじゃん、ということになります。老舗の呉服屋のお嬢さんだったと思いますが、1974年当時の生意気盛りの高・大学生の男は、色ものと思えた荒井由美などあまり聞かなかった、今回映画を見て、初めて、いい歌だったんだなー、と腑に落ちたようなところです。
(試みに荒井由美「ひこうき雲」のアルバムの曲を列記すると、「ひこうき雲」、「曇り空」、「恋のスーパーパラシューター」、「海と空の輝きに向けて」、「きっと言える」、「ベルベット・イ-スター」、「紙ヒコーキ」、「雨の街を」、「返事はいらない」、「そのまま」、ということです。皆さんにとって印象深い曲がありますか?「夜の街を」は、愛好者が多かったので、さすがに私も知っています。)
この歌も、「風立ちぬ」という映画作品も、私には、昔好きだった小説の中で、(主人公の實朝が、平家物語の琵琶語りを聞きながら) 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。・・・・・・平家(へいけ)ハアカルイ。」(「右大臣實朝」(太宰治)、と、独白した、武門の権力闘争の渦中で陰惨で悲劇的な最期を遂げた天才歌人の言葉を、想起させます。
また、私には、小林秀雄が、戦争末期に、同様に「実朝」の最期に触れながら、真珠湾攻撃に参加した若い兵士たちに共通する気持ちを、「感傷もなく、邪念も交えず透きとおっている。」、「その叫びはかなしいが、訴えるのではなく求めるのでもない、彼(ら)には、凡そ武装というものがない」(「實朝」(小林秀雄))と論じたのと、その情感(?)の質は通底しているようにも感じられます。
これは、「文学」の本質の話です。あらゆる「厳しい」状況の中でも、文学の慰藉(慰めとよろこび)は、求めるものにその場所は確保されなければならない、という話です。
このブログの主催者は若いし、戦中派(戦争中に青春時代を過ごした人)や、われわれのような生粋の戦後派と、太宰治や小林秀雄のような、近代以降、明治期の文学者をつなぐ、いわば、共通の理念(「エートス」と言っていいです。)でも共同主観性でもいいのですが、相互に波打つ共通の感情の流れを感じてしまいます。
もし、当時の若者たちが、「明るかった」とすれば、現実を改変しようと、自分の実存をかけ戦ったとしても、最後にどうしても現実が二者択一で強いてくるのであれば、従容として、滅びという現実をも受け入れる、その覚悟と静謐な気持ちの動きに、世代を超えて感動する、ということではないかと思われます。
これは、何も、現実の危機的な状況に追い込まれても抵抗もなにもしない、ということではなく、人は歴史の可変的な部分のそれぞれの局面で、必死で戦うべきであろうし、逆にそんな政治的経済的状況に追い込まれることを許してはならない、また敗者を賛美するわけでもない、それは、私にとっては、「風立ちぬ」の主人公たちの、必敗や、死が不可避であった時代の雄々しく絶望的な戦いに重なっていきます。(小林秀雄も、「戦が始まった以上、いつ銃をとらなくてはならないかも知れない。・・・・・・文学者として銃をとるとは無意味のことである。戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。」(私注記:自分は国民が否応なく受け入ざるを得なかった戦争に行って他の人たちと同様に黙って死のう)、と書いているではありませんか。)
私の決して好きでないキリスト教でも、「○よ、変え得るものを変える勇気と、変え得えないものを受け入れる勇気を与えたまえ」、というではないですか(昔、山本直樹の漫画で読んだのですが)。
でも、決して、彼らはそうはしない、と私は思います。
これは、プラスとかマイナスの問題ではない、と思われます。「日本人」は日本人の「感覚」で動くだろうと考えられるからです。