本日は、本来の「硬派」らしく、「男」としての戦いについて触れてみたい、と思います。
ご承知のように、WOWWOWという有料サテライト放送のチャンネルがあり、実は創設時から、当該チャンネルに加入しました。私は地方に居住しており、ケーブルテレビに加入もしておらず、家人に言わせれば、贅沢と言われつつ、唯一、有料サテライトを契約しています。最初の売りは、映画見放題というものでしたが、そのうち飽きて、主目的が変わってしまいました。
ボクシングの観戦です。
私の10代、20代は、日本人の世界チャンピオンが多くおりました。当時の世相というか、「あしたのジョー」に影響されてか、当時のテレビも熱心に扱い、経済も相対安定期という時代だったのか、「ハングリーボクサー」というイメージがもてはやされ、具志堅用高とか、浜田剛史とか、多回数防衛チャンピオンとか、数階級制覇チャンピオンも片手で足りないほどでした(奇しくも、二人とも沖縄(古モンゴル系)出身者ですよね。)。しかし、日本が豊かになったのかどうなのか、だんだん、チャンピオンの数や、ボクシングの人気自体が凋落していきました。
40歳代で再会した、ボクシングは実に魅力的でした。
日常生活では、実際のストリートファイトは違法ですが、大きな本場のショービジネスでは、鍛えた男同士が、リングの中で打ち合う姿は、直接体を張った真剣な戦いと、それに伴い、ほぼ必ず訪れる最期のカタルシスへの期待とその実相を観客に与えてくれます。少なくとも、リングに上がった同重量の彼らは、国籍、貧富、社会的地位を超え、同一の条件で戦うこととなります。現実の社会で仮構され、いかにも真実であるかのような、自由競争や機会均等などの形式的平等性を、裸になって、直接体を張って倒しあうという、見るものにとっても、溜飲が下がる戦いです。良い試合も、悪い試合もありますが、身銭を切った観客は、その覚悟や、真剣味の無い試合には容赦なくブーイングを浴びせます。生意気だろうと、ヤなやつだろうと、勝つ者には、勝つだけの理由があるのです。
競技者の背後には、歴然たる社会的な不平等があるのが前提の話ですが、現在のように、敗者、勝者を見えにくくするシステムの中で、必死で修練した者同士の、真摯で、本気の戦いは、立ち会った者に、最後は感動すら覚えさせます。
ボクシングは、グローブ装着とか厳しいルールのもとではありますが、相互で立ち上がり、上半身で戦うスポーツは、正直なところどうしても人種的優劣を考えてしまいます。狩猟民族が少ない(?)黄色人種は、上半身の筋肉の付き方自体が不利に思えるところです。外国人の平均的なミドル級(72.575kgまで)をウエルター級(66.678kgまで)までに絞った、パウンド・フォー・パウンドとしての試合では、俊敏で威力ある相互の戦いはほれぼれとするようにみえるところです。
この番組は、格闘技担当アナウンサー高柳謙一さんと、かの名チャンピオン浜田剛史さんと、プロモーター兼ボクシング評論家のジョー小泉さんとの掛け合いで行われます。ジョー小泉さんは、若いころボクシングに夢中となり、父親に勘当されそうになったというほどのボクシングフリーク(いわゆる拳キチ)で、英語は堪能、メキシカンたちのスペイン語(メキシコ圏)も十分に理解できます。
彼は、若いころトレーナーやカットマン(止血専門の技術者)をやっていたという筋金いりです。謙虚な人柄ながら、アメリカのショービジネスやボクシング理論に通しょうし、浜田元チャンピオンと、小泉さんが、ラウンドごとに採点しますが、浜田さんを覆す説明をして、時々、普段は温厚な浜田さんが「むっ」とするのがご愛嬌でした。しかし、ほぼ日本だけを主戦場とした浜田さんと、外国(ことに本場アメリカ(ビジネスになる、という意味です。))を主戦場に戦ってきた(プロモーター、マッチメイカーなど)小泉さんの組み合わせは絶妙で、その差異を、名アナウンサー高柳さんがうまいこと、あおったり、なだめたりで仕切ります(ついでながら、小泉さんはダジャレの大家です)。
実際のところ、ボクシングのためだけに、WOWOWを続けたようなものです。
その間に、多くの名チャンピオンを見てきました。印象的なところを上げると、いくらもあるのですが、多階級制覇チャンピオン、メキシコの善玉ゴールデンボーイ、オスカー・デ・ラ・ホーヤ、アメリカの悪玉エクスキューター(処刑人)バーナード・ホプキンス(註)、変則のアラブ系イギリス人ナジーム・ハメドなど、様々な毛色の変わったチャンピオンが登場しました。それぞれ楽しませてくれました。しかし、いずれにせよ勝たなければ意味がない、わけです。敗者には、何も与えられない、という勝負の鉄則です。
小泉さんに言わせれば、昔は、ファイター(攻撃中心、防御抜きで相手を打ち倒すボクシング=あしたのジョータイプのボクシング)、ボクサー(防御中心でカウンターなど有効打を狙うスマートボクシング)タイプと分けられたが、進化したボクシングでは、そのような欠点のあるボクサーは生きていけなくなった、といいます。
「角を矯めて牛を殺す」、といいますが、今の、多階級、多回数防衛チャンピオンは、攻撃だけでも駄目だし、ボクサータイプだけでも駄目なのです、いいところだけ伸ばすのではなく、両方を兼ね備えないと、いずれ数回で敗けてしまう、どこかしら、欠点のある選手は、必ずつまずく、それを、目の前で、何度となく、見せつけられました。天分に恵まれたチャンピオンも、ひとたび負ければそのまま駄目になるケースも、その反対に、修練と、執念で上り詰めたようなチャンピオンは、しぶとく生き延びる場合もありました。
豊かな日本の、世界チャンピオンは、日本国でのタイトル取得以来は、外国ではタイトルマッチはしない、などが、かつては定説でした。最近、アメリカでの防衛に成功したチャンピオン、西岡、山中などが出てきたのは喜ばしいことです。
アメリカのラスベガスなどを主戦場で戦うのは、本国で食えない、貧困国(たとえばフィリピン、ウクライナ、アフリカ諸国、中南米諸国など)の挑戦者と、少数のチャンピオンたちでした。そういう意味では、プロスポーツは、世界市場を求め、早くからグローバル化しているのかもしれません。せめて、スポーツだけはと、選手と同国の多国籍のファンたちが、それぞれ自国系のボクサーを応援するのは面白いものです。
しかし、アメリカのみならず、他国からアメリカに渡る一芸に秀でた有望選手も、よっぽど秀でた、トレーナーに拾われ、周到に鍛えられないと、長く生きてはいけないところです。
やっぱり、国民性というか、恵まれない素質の日本人ボクサーも、ひたすらまじめに練習し、勝負に臨む努力は欠かさないようです。
いずれにせよ、プロスポーツにナショナリティ優先(自国民応援)の経路が無いと、とてもつまらない、ものですが、場合によっては、興奮した対戦相手の応援者(客)同士の殴り合いまでありました。
今も忘れられませんが、放映が始まった最初の頃ですが、小泉さんが、国境に近いさる町(メキシコ)でタイトルマッチに臨むあるアメリカ人(黒人)挑戦者が、地元の文化や食事をぼろぼろにけなしたという逸話を披露しました。
「なぜだかわかりますか?」と高柳アナウンサーに尋ね、「どういうことなんですか?」と高柳アナウンサーが話を返すと、「彼はね、敵地で不利に戦うときに、観客をあえて挑発して、敵に廻して、孤立無縁で自分自身を高めるんですよ」、「そんな戦い方もあります。」との回答でした。
これは、私が、今まで、プロスポーツを見た中で聞いた最高の言葉でした。
私にそんな戦い方ができただろうか、と、孤独と孤立をあえて招きよせ、実力以上を発揮しようとする、「男」として、なんとすさまじい、いさぎよい戦い方ではないでしょうか?
現代では、こんな戦い方は困難で有害かもしれません、しかし、結果は別にして、ホームタウンデシジョン(地元有利の判定)など虚仮にするだけの迫力があります。
いずれにしても、ボクシングの要諦は、相手に打たれずに、相手を効果的に打つのがセオリーです。これはボクシングのみならず、あらゆる「戦い」に共通する常道ですが。
(註)バーナード・ホプキンス
善玉オスカー・デ・ラ・ホーヤを手ひどく叩きのめした悪役は、現在49歳で今もライトヘビー級のチャンピオンです。俺は、悪役であろうとなんであろうと、強い、悔しかったら叩きのめしてみろ、と傲慢な態度を崩さず、世俗の権威や良識を認めない、そのスタイルはむしろ小気味よく、今も、黒人として、悪役として、アメリカ社会での彼の戦いを貫き生き残っている、私のとても好きな選手です。節制により、今も見事なファイターの体型です。今後も、彼の試合では、時々見せる真剣なファイトと、レフリーのすきをついて高等な反則をしまくりでしょうが。)
ご承知のように、WOWWOWという有料サテライト放送のチャンネルがあり、実は創設時から、当該チャンネルに加入しました。私は地方に居住しており、ケーブルテレビに加入もしておらず、家人に言わせれば、贅沢と言われつつ、唯一、有料サテライトを契約しています。最初の売りは、映画見放題というものでしたが、そのうち飽きて、主目的が変わってしまいました。
ボクシングの観戦です。
私の10代、20代は、日本人の世界チャンピオンが多くおりました。当時の世相というか、「あしたのジョー」に影響されてか、当時のテレビも熱心に扱い、経済も相対安定期という時代だったのか、「ハングリーボクサー」というイメージがもてはやされ、具志堅用高とか、浜田剛史とか、多回数防衛チャンピオンとか、数階級制覇チャンピオンも片手で足りないほどでした(奇しくも、二人とも沖縄(古モンゴル系)出身者ですよね。)。しかし、日本が豊かになったのかどうなのか、だんだん、チャンピオンの数や、ボクシングの人気自体が凋落していきました。
40歳代で再会した、ボクシングは実に魅力的でした。
日常生活では、実際のストリートファイトは違法ですが、大きな本場のショービジネスでは、鍛えた男同士が、リングの中で打ち合う姿は、直接体を張った真剣な戦いと、それに伴い、ほぼ必ず訪れる最期のカタルシスへの期待とその実相を観客に与えてくれます。少なくとも、リングに上がった同重量の彼らは、国籍、貧富、社会的地位を超え、同一の条件で戦うこととなります。現実の社会で仮構され、いかにも真実であるかのような、自由競争や機会均等などの形式的平等性を、裸になって、直接体を張って倒しあうという、見るものにとっても、溜飲が下がる戦いです。良い試合も、悪い試合もありますが、身銭を切った観客は、その覚悟や、真剣味の無い試合には容赦なくブーイングを浴びせます。生意気だろうと、ヤなやつだろうと、勝つ者には、勝つだけの理由があるのです。
競技者の背後には、歴然たる社会的な不平等があるのが前提の話ですが、現在のように、敗者、勝者を見えにくくするシステムの中で、必死で修練した者同士の、真摯で、本気の戦いは、立ち会った者に、最後は感動すら覚えさせます。
ボクシングは、グローブ装着とか厳しいルールのもとではありますが、相互で立ち上がり、上半身で戦うスポーツは、正直なところどうしても人種的優劣を考えてしまいます。狩猟民族が少ない(?)黄色人種は、上半身の筋肉の付き方自体が不利に思えるところです。外国人の平均的なミドル級(72.575kgまで)をウエルター級(66.678kgまで)までに絞った、パウンド・フォー・パウンドとしての試合では、俊敏で威力ある相互の戦いはほれぼれとするようにみえるところです。
この番組は、格闘技担当アナウンサー高柳謙一さんと、かの名チャンピオン浜田剛史さんと、プロモーター兼ボクシング評論家のジョー小泉さんとの掛け合いで行われます。ジョー小泉さんは、若いころボクシングに夢中となり、父親に勘当されそうになったというほどのボクシングフリーク(いわゆる拳キチ)で、英語は堪能、メキシカンたちのスペイン語(メキシコ圏)も十分に理解できます。
彼は、若いころトレーナーやカットマン(止血専門の技術者)をやっていたという筋金いりです。謙虚な人柄ながら、アメリカのショービジネスやボクシング理論に通しょうし、浜田元チャンピオンと、小泉さんが、ラウンドごとに採点しますが、浜田さんを覆す説明をして、時々、普段は温厚な浜田さんが「むっ」とするのがご愛嬌でした。しかし、ほぼ日本だけを主戦場とした浜田さんと、外国(ことに本場アメリカ(ビジネスになる、という意味です。))を主戦場に戦ってきた(プロモーター、マッチメイカーなど)小泉さんの組み合わせは絶妙で、その差異を、名アナウンサー高柳さんがうまいこと、あおったり、なだめたりで仕切ります(ついでながら、小泉さんはダジャレの大家です)。
実際のところ、ボクシングのためだけに、WOWOWを続けたようなものです。
その間に、多くの名チャンピオンを見てきました。印象的なところを上げると、いくらもあるのですが、多階級制覇チャンピオン、メキシコの善玉ゴールデンボーイ、オスカー・デ・ラ・ホーヤ、アメリカの悪玉エクスキューター(処刑人)バーナード・ホプキンス(註)、変則のアラブ系イギリス人ナジーム・ハメドなど、様々な毛色の変わったチャンピオンが登場しました。それぞれ楽しませてくれました。しかし、いずれにせよ勝たなければ意味がない、わけです。敗者には、何も与えられない、という勝負の鉄則です。
小泉さんに言わせれば、昔は、ファイター(攻撃中心、防御抜きで相手を打ち倒すボクシング=あしたのジョータイプのボクシング)、ボクサー(防御中心でカウンターなど有効打を狙うスマートボクシング)タイプと分けられたが、進化したボクシングでは、そのような欠点のあるボクサーは生きていけなくなった、といいます。
「角を矯めて牛を殺す」、といいますが、今の、多階級、多回数防衛チャンピオンは、攻撃だけでも駄目だし、ボクサータイプだけでも駄目なのです、いいところだけ伸ばすのではなく、両方を兼ね備えないと、いずれ数回で敗けてしまう、どこかしら、欠点のある選手は、必ずつまずく、それを、目の前で、何度となく、見せつけられました。天分に恵まれたチャンピオンも、ひとたび負ければそのまま駄目になるケースも、その反対に、修練と、執念で上り詰めたようなチャンピオンは、しぶとく生き延びる場合もありました。
豊かな日本の、世界チャンピオンは、日本国でのタイトル取得以来は、外国ではタイトルマッチはしない、などが、かつては定説でした。最近、アメリカでの防衛に成功したチャンピオン、西岡、山中などが出てきたのは喜ばしいことです。
アメリカのラスベガスなどを主戦場で戦うのは、本国で食えない、貧困国(たとえばフィリピン、ウクライナ、アフリカ諸国、中南米諸国など)の挑戦者と、少数のチャンピオンたちでした。そういう意味では、プロスポーツは、世界市場を求め、早くからグローバル化しているのかもしれません。せめて、スポーツだけはと、選手と同国の多国籍のファンたちが、それぞれ自国系のボクサーを応援するのは面白いものです。
しかし、アメリカのみならず、他国からアメリカに渡る一芸に秀でた有望選手も、よっぽど秀でた、トレーナーに拾われ、周到に鍛えられないと、長く生きてはいけないところです。
やっぱり、国民性というか、恵まれない素質の日本人ボクサーも、ひたすらまじめに練習し、勝負に臨む努力は欠かさないようです。
いずれにせよ、プロスポーツにナショナリティ優先(自国民応援)の経路が無いと、とてもつまらない、ものですが、場合によっては、興奮した対戦相手の応援者(客)同士の殴り合いまでありました。
今も忘れられませんが、放映が始まった最初の頃ですが、小泉さんが、国境に近いさる町(メキシコ)でタイトルマッチに臨むあるアメリカ人(黒人)挑戦者が、地元の文化や食事をぼろぼろにけなしたという逸話を披露しました。
「なぜだかわかりますか?」と高柳アナウンサーに尋ね、「どういうことなんですか?」と高柳アナウンサーが話を返すと、「彼はね、敵地で不利に戦うときに、観客をあえて挑発して、敵に廻して、孤立無縁で自分自身を高めるんですよ」、「そんな戦い方もあります。」との回答でした。
これは、私が、今まで、プロスポーツを見た中で聞いた最高の言葉でした。
私にそんな戦い方ができただろうか、と、孤独と孤立をあえて招きよせ、実力以上を発揮しようとする、「男」として、なんとすさまじい、いさぎよい戦い方ではないでしょうか?
現代では、こんな戦い方は困難で有害かもしれません、しかし、結果は別にして、ホームタウンデシジョン(地元有利の判定)など虚仮にするだけの迫力があります。
いずれにしても、ボクシングの要諦は、相手に打たれずに、相手を効果的に打つのがセオリーです。これはボクシングのみならず、あらゆる「戦い」に共通する常道ですが。
(註)バーナード・ホプキンス
善玉オスカー・デ・ラ・ホーヤを手ひどく叩きのめした悪役は、現在49歳で今もライトヘビー級のチャンピオンです。俺は、悪役であろうとなんであろうと、強い、悔しかったら叩きのめしてみろ、と傲慢な態度を崩さず、世俗の権威や良識を認めない、そのスタイルはむしろ小気味よく、今も、黒人として、悪役として、アメリカ社会での彼の戦いを貫き生き残っている、私のとても好きな選手です。節制により、今も見事なファイターの体型です。今後も、彼の試合では、時々見せる真剣なファイトと、レフリーのすきをついて高等な反則をしまくりでしょうが。)
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