わが町、地産地消の「のんた鮨」(甲評価)のメニューです。後方、左手より、アジしょうがの巻物、右手さんまあぶり握り、前方、わが愛食する、生イカ梅巻きです。本日は、巻物を中心に、構成してみました。
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山口県に存するわが町は、地方都市ですが、商工業都市という位置づけになっており、したがって、周辺からの買い物客が多く、そして、路線に沿って、外食レストランが林立しています。それはそれで、店舗の早い回転でレストランの有為転変もあるのですが、同じ場所で長期間延命していくのは大変なようです。
私は「美食をしたい」とはあまり思わないのですが、皆と同様で「高くてまずいもの」は願い下げです。それなら、年金受給者とすれば、「自分でつくる」、という手段を選びます。
うちの妻は、自分で職を持っており、現在も現役ですが、外食する際は、長年の夫婦としての寄与分として、必ず、私に負担を求めてきます。要するに、あらゆる外食は、私の負担と出捐のもとであるということです。そして、「まずい店は嫌だ」と公言しており、妥協しても「安くてもうまい店ならまあいい」、ということとなります。
世のオヤジと同様に、私は、生涯を通じ、飲み食いに命を懸けてこなかったので、当該経験値とその累積が欠如しており、「うまい、まずい」は分かるつもりでいたのですが、感覚の鈍磨というか、最近、それもあやしくなってきました。
ついでに脱線しますが、妻との外食の食事中に、「何か楽しい話をしろ」、とか、「話題を探して楽しませるのがあんた(わが地方での男女相互の尊称)の役割り」とか、強弁し、こちらは「いまさら何を話すというのだ」、「接待を受けるのであれば、一度くらいありがとうくらい言ってみろ」、「赤の他人(バカ左翼ではない。)でも、メシを食わしてやればお礼ぐらい言うぞ」、と内心で思うのですが、怖いので言えません。
しかし、ひとたび反論すれば、ルーティン・スイッチが入り、結婚以来、私が何をしたと、あることないこと言い出す(最近それは巧妙なパフォーマンスではないのかとひそかに疑っている。)ので、それは、上、中、下の、下策です。
それは、人間というものは、そのネガティブなエネルギーを、愚かしいことであろうと何であろうとある対象に全力で注ぐことに努力と精力を支払い、またそれに長けていることを思い知ります。
増しては、脱原発とかにかかわる、労組OBとか、パヨクのオヤジ、ババアを見ていればよく分かりますね。いい年をして「バカの一つ覚え」というものはあるわけです。しかし、それならば、たとえ多少の孤立や、孤独を支払ってもこちとらも黙っておれませんが。
閑話休題、時に接待(?)で、すし屋に行こうとしても、うちの妻は、その店舗を明確に選びます。長期デフレのもとで、いまさら、カウンター(つけ台)というのかに座らせていただくことはなくなり、寿司といえばひたすら回転寿司にいくこととなりました。
路線沿いのすし屋を、列挙すれば、「はま寿司」、「かっぱ寿司」、「スシロー」、「のん太鮨」といくらもあります。ほとんどは、全国チエーンのすし屋かも知れませんが、最期の「のん太鮨」は、地場のすし屋であり、県内産の魚介類を中心に扱うことを売りにしています。
オリコンの全国回転寿司ランキングをみていると、7位にスシロー、9位にはま寿司、10位にかっぱ寿司が登場します。
今のくるくる寿司は、昔日を思えば、うそのような進化を遂げており、多彩な客層に対応するように、寿司のみならず、ラーメンやうどんまであります。ショートケーキや、パフェ類もあり、コーヒーももちろんのこと、うどん屋や、喫茶店をも網羅しているような常態です。
うちでは、そのときの同伴者や、施設によって、どこに行くかを区分けしています。
おそらく、他の客の方々も、同伴者によっては、行くべき寿司屋を選んでいるように思われます。「選択の自由」は、たとえ小さなものでも、とても大事なことです。
車椅子で移動する妻の母については、バリアフリーがより徹底している、スシローへ、孫が同伴のときは、新幹線デリバリーと到着アナウンスが徹底している、かっぱ寿司へ、味とか、ネタというのか、少し高級感を望むのであれば、地場の「のん太鮨」へ行くこととしています。
したがって、それぞれ、一長一短があり、オリコン調査などを考えれば、それぞれ、回答者が熟慮(?) し、回答するのでしょうが、このたび、私は、以下のように、「甲乙丙丁」(こう・おつ・へい・てい)で、論功行賞します。
甲「スシロー」、マグロネタがおいしい(西日本ではなかなかおいしいマグロがありません。)、地場産(萩市産のウニとか)のメニューを使っている、他のネタも比較的良い、しかし、とても混む。地場産のネタを使った、「のんた鮓」もこれに入れる。
乙「かっぱ寿司」、店内のベルトを新幹線が走行していて、注文しやすく幼児を連れても入りやすい、メニューの種類が多く、単価が安い、待ち合い場所も広い、しかし、ネタがあまり良くない。
さがって、丁、「はま寿司」、愛想が悪い。入店して、「いらっしゃいませ」といわれないのは、初めての体験だった。
先ごろ、山口市に寄った際、わが町に店舗がない、「くら寿司」に寄ってみることとしました。後でオリコンを見てみると、中・四国の「くら寿司」はトップです。
私は個食ですので、カウンターを指定しますが、まず、皿のカバーの開け方から指導を受けます。ベルトを流れる皿を見ていると、おしなべてカバーがかかっており、中のネタが全く見えないが、まあ、品質劣化を防ぐために、そんなものでしょう。
椅子は、よくない、はっきり言って粗末です。
粉の煎茶、普通の寿司屋と似たようなものでしょう。
しょうゆを差す皿を探すと、「廃止しました。」、との回答です。「じゃ、ネタの上から注ぐのか」、と聞くと、「そのとおりです。」との回答です。
これは、醤油かけご飯か、懐かしい、と、貧しかった昭和30年代に郷愁を感じます。
同時に、あっけにとられて、早急に退散しようと決意するこちらです。
そのとき、目の前のカウンターの下に、奇妙な四角く長細い矩形の穴があるのを発見しました。これは、何なんだろうかと、のぞいてみました。
よく読めば、食べ終わった皿を投入してください、と書いてあります。
「おむすびころりん」ではないですが、ためしに一皿目を投入すると。「がちゃん」とステンの板にあたり、ベルトコンベアが自動的に動き出すのですね。
非常に不快です。たとえ、同時に、「おむすびころりん」の童(わらべ)うたが流れたとしても(ユーモアというものです。)です。
したがって、評価は「戊」(ぼ;昔日の評価基準、甲乙丙丁の評価外です。)です。
私のように個(孤)食が多い人間でも、外食においては、おいしい、楽しい、変わったものも食べてみたい、など、何がしかの共同幻想を、食事をするたびに、良いイメージをいだきたいのです。それは、昼食にラーメンを選ぶのか、カレーを選ぶのか、そのようなつましく、まずしい選択においてもご同様です。
「えさ」のように供給される、食事に、味は別にしても、その空虚さや、無意味さに、「えさをあてがわれる」人は耐え切れないわけです。
これは、ロシアラーゲリ(旧ソビエトの強制収用所)で、ノルマ達成のための最低限のえさを与えられたのと同様なのか、などと思われ、振り返れば、学生時代の日共(もちろん日本共産党です。)傘下の「生協食堂」を連想し、落胆するより、怒りを覚えてしまう。
私は、常時、30数年にわたり、職場配達のまかない弁当(通称「赤弁」)を食べ続けたが、その実態は、肉体労働者向けで、カロリーが高いこともあったが、貧乏な私はついぞ飽きなかった。
少なくとも、日々の工夫と、利用者の意見の反映と、利用者にメニューをあらかじめ出すなどの思いやりが感じられたからである。配達のおばちゃんの、笑顔も良かった。
「くら寿司」よ、しょうゆ皿を廃し、皿を片付ける経費を除いて、単価を抑え、商品の質を保持するというかも知れないが、「恥を知れ」、お前らのやっていることは、強制収容所で、収容者の上前をはねたり、賄賂を要求したりしたロシアラーゲリの看守や管理者よりもっと汚いことを、民間企業として組織的に行っている。それは、おそらく、利己的な、営業上と管理上の、いわゆる合理的な見地からである。
君たちに、「おもてなし」などと高度なことは言わないが、客の意向に配慮することなく、日本国の良い伝統であるところの、客人(まろうど)に対する「思いやりと察し」の文化に後足で砂をかけ、伝統やよき古い文化や見下し、ひいては文化、社会秩序を破壊する、グローバリズムに迎合し、浅はかにも、よりよかったはずの日本社会を解体しつつあるのである。
ひとつ飛ばしの隣席に、学生のようなおにいちゃんが、独り、黙然と、ぼそぼそ、寿司を食っていたが、私も、カウンターをたたいて、憤然として立ち上がり、「あんたも怒れよ!」というべきかも知れなかった。しかし、私はそこまでできない。非常に残念だが。
若いうちから、この腐ったサービスを受け続け、それが常態と思われたら、人は反抗することも怒ることもできない。怒りも、自尊心すら失って、ひたすら敗者として耐え続けるしかない。
それこそ、「Born in the U.S.A 」(アメリカに生まれて)(ブルース・スプリングスティーン)ならぬ、日本国に生まれ、その生育環境において、よき伝統・文化に遭遇できず、地域社会や共生の喜びも、日本人としての他者への共感も、他者による承認も、それによる慰藉も安心感も感じられなくなってしまえば、どうであろう、例の「慰安婦報道」で、不健康なルサンチマンに基づき、日本国及び日本国民に対して、虚偽・敵対報道を繰り返す、売国奴、朝日新聞記者のようになってしまいはしないか。
早々と退散しようとした際、ポイントがつくので、楽天カードはお持ちですか、とレジできかれ、どうもこの経営会社は、あの「楽天」と、強い業務提携をしているということがよく分かりました。
そうであれば企業文化が似通っているとは言いませんが、客のあしらいから、サービスの切り捨て方、商品管理に至るまで、「楽天」の経営理念が反映しているのか、あるいは猿真似なのか、と邪推してしまいます。
ところで、楽天社長の三木谷さん、あなたは、楽天グループの総帥として、まずは父君に続き、二代に渡る経済学究者として官立大学の経済学部で優秀な成績を収められ、その後ビジネスに置かれても遺憾なく当該優秀な手腕を発揮され、一代で楽天グループを立ち上げられた立志伝中の大実業家です。
自身の阪神淡路大震災の罹災体験などを通じて、経営者の理念として被災地に多大な寄付をされ、プロ球団「楽天」の運営もされ、そしてまた、安倍首相のブレーンとして真価を発揮され、自由放任経済の擁護と、誰かの進歩を妨げる、「規制緩和」の撤廃に多大な貢献をされた方です。安倍首相に対しても、遺憾なくその影響力を駆使され、日本国にグローバリズムを定着するため、多大な貢献をされました。
また、何よりも、自らの経済理論の実践のためなのか、富めるものとして、貧者(敗者)に対し、慈善家として、富者の「所得の再配分」の実現として大きな貢献をされているとも聞き及んでいます(一握りの勝者・特権者でも、舌も出さないような強欲なやつもいくらもいるでしょうから。)。
このたび、財務省なのか、新自由主義の経済学者たちなのか、一部の経済人なのか、あるいは愚かな政治屋によってなのか、安倍政権は、何度も棚上げにしていた、消費税を引き上げる、世紀の愚策の決断をしました。これで、デフレ低迷期の日本経済はとどめをさされ、そして、われわれの子・孫どもたちに、安心・安全の未来はありません。
私は、近々、完全年金受給者に移項しますが、貧者の一人として、いずれ、くるくる寿司さえ使う余裕がなくなるかもしれません。
また、その引上げ転化ができない、そして、結果的に自らの仕事への自負心を失ったり、利用者に対する「人間的なサービス」の質を落とせない、心ある中小の外食屋たちは滅んでいくかも知れません。尊いことに、人の生業というものは、利潤率、合理性だけで営なまれるものではないからです。
我慢の限界閾値を超えた結果、完全シャッター商店街や、郊外で朽ちていくような、レストランなどを見るたび、私の心が痛みます。
ですから、この際、三木谷さん、あなたの統括する「楽天グループ」に組する「くら寿司」に対し、勝者(富める者)の義務として、ノーブレス・オブリージュの精神を発揮され、安易にくるくる寿司しか利用せざるを得ない敗者(貧民)に対し、あなたの持ち前のそのアグレッシブで、強いリーダーシップと、影響力を発揮・駆使して、当該「くら寿司」を、今後利用する顧客(貧者)に対し、まともなサービスを復活し、たまたま立ち寄った貧民(敗者)に対し、立ち直れないような屈辱感と敗北感を与えないように、適正な、ごく普通の「やさしい」サービスを心がけるように、助言していただけないでしょうか。
末筆ながら、日本国グローバル推進企業の先頭を走られる三木谷様、「楽天」様、御社の「英語公用語」方針の中で、「アグレッシブ」などと、教養のない貧民が、心ない言葉を吐いたことをお詫びします。
「アグレッシブ」は、住む世界、立場を変えれば、ほめ言葉に転化するかも知れませんが(笑い)。