うちの息子が大学生時代(今もすんでいますが)を、鳥取県の鳥取市と米子市で過ごして以来、数多く鳥取県をおとずれ、すっかり、なれ親しんだなじみの県になってしまいました。娘がすごした、現在の東広島市、広島県は、何度おとずれたとしても、同じ山陽地区に属しながら、疎遠な感じがするのに比べて、奇妙な気持ちがするところです。
このたび、久しぶりに鳥取県米子近郊、島根県、松江、出雲も訪ねてみて、私は、むしろ、島根・鳥取と、山口県の西部・北部を含め、山陰文化圏というようなものに惹かれているのではないか、と思ったところです。更にことばを重ねると、歴史を重ねた「敗者の歴史」に惹かれるのではないか、となんとなく思ってしまうのです。まず、前提として、私、中国地方民の一部として言わせてもらえば、中国地方は、山陰・山陽と、くっきりと線引きが可能です。
なかなか、主流になれない文化圏、といえば、反発を食らうでしょうが、山陰地区といえば、古来は、大陸との行き来が盛んな先進国であり、大和朝廷に対峙、敗北した出雲族の拠点でもあり、古代では、比類のない先進国であった、といわれており(私が仕事で出た研修で地元大学の講師が力説された)、かつて決して、「山陰地区」ではなかった、といわれるところです。しかしながら、うちの息子に言わせれば、地区民の気質は、陰気で、うちにこもりがちであり、容易に他人に心を明かさない、冬は冬で、陰鬱な天気で、雪が降れば家に閉じこもる、と、述べており、それは私に言わせれば、まるで京都人のようであり((井上何某さんの指摘は別にして)、私は、かつて、京都人に対しては、「権威ばっかりあてに寄りかかる、こいつらは心底田舎者である」と深く思ったことがあります。鳥取県民についても、県民性とか、それは一見さんにはわからない、よかれ悪しかれ、「いなか者」であるしかないのは確かであるのかもしれません。もちろん、私の直感が、山陽地区の田舎者の感覚の派生形態であることも確かなことですが。
京都での大学時代(1970年代後半)に、鳥取から来たサークルの後輩が居ましたが、京大に落ちたのでやむを得ず、ここに来た、といっており、彼は同時に家庭音楽教育崩れのジャズピアノの奏者でありました。当時、彼が言うには、少しばかり、はめを外した高校時代の仲間内の行動が、地元で「共産党」といわれた、と述懐しており、いなか出身の私としても、「すげー、いなか(田舎者及び田舎気風)」と思ったことがあります。彼は、地元の名門高校出身であり、大学とは、「京大である」ということとなっていたそうです。私が現認した際(2000年初頭)も、今も、地元予備校のキャッチコピーは、「京大進学会」とか「京大進学コース」とか、街角で見ればそうなっており、ここは京都を目指す文化圏なんだ、と思ってしまいます。田舎者は、おしなべて京都に上洛するのです。
それはそうと、彼の言説によっても、かつて、ジャズは鳥取できわめて人気があり、彼の時代から、いなかでは、ジャズは、当時、日常・月並みに対する反逆と、旧弊を嫌う新しい文化のおとずれであったようです。このあたりのなんとなく同時代的な雰囲気は、山陽地区側での、当時のわれわれの地域の実情と通低するところがあります。
当時、ジャズとは、アメリカ黒人などの社会的な疎外者、非白人の被収奪者による自前の音楽というような「共同幻想」に裏打ちされ、1970年代の学生運動時代にも膾炙(とてもよくわかります。)され、実際のところどこにもジャズ喫茶店などいくらもあったのですが、しかし、山陽地区(ことに山口)では、80年代ころにはとどめをさされています。
同様に、学生ばかり多い京都ですら、昔、通ったようなジャズ喫茶など、その後再訪しても、いつの間にか見なくなりました。しかしながら、米子市や松江市など、平成大合併の前では人口はそれぞれ、15万、20万程度の地方都市ではありましたが、うちの息子の学生時代、2000年代の最初のころにおいてさえも、ジャズライブの飲食店があるのにはびっくりしました。そうそうに有名なプロがくるわけでなく、普段は大学や地元のジャズ愛好者が、ノーギャラに近いように演奏していたようですが、複数の立派なビッグバンドもあり、愛好者も数多くあるようでした。松江には、老舗のライブハウスもあったそうです。それぞれ、動員人数が少ないとしても、これらの施設は、主催者の心意気のように開場・運営していたのですね。都会文化への過剰な迎合といってしまえば身もふたもない話ですが、田舎の少数派の先鋭化しがちな傾向はよくわかります。
私たちが、時に滞在した米子市は、駅そばには、田舎では珍しいような、高層の商工会議所ビルがそびえ、後で聞けば、米子は「山陰信販」の発祥の地であり、流通の拠点と繁栄の歴史があり、北前船の経済にどのように組み込まれていたかは調べておりませんが、中海から、船で米などを運ぶ水路が古い商家の連なりの中を人造運河などが設営されており、縁接する旧商家の蔵の景色とあいまって、往時の繁栄が思い浮かべられる、雰囲気のあるところです。米子は、都市形態は、商業都市というべきか、デパートもあり、近在からの買い物客も多く、衣食住の拠点のようで、他にも皆生温泉や、大山の遠景が望める弓ヶ浜など、観光地や名所に恵まれた美しい場所です。また、砂洲のような道路を境港に向かえば、日本海有数の漁業水揚げ基地(例の松葉ガニや生マグロが有名ですが)境港に繫がっていきます。
ところで、米子市にも、松江市にも、空港が整備され、首都、東京から、一時間程度の所要時間で、日帰りで往復が可能になりました。これは大きいですね、交通関係の進展は、人の流れも、意識をも変えていくのですね。
私の知っている料理屋さんも、東京出店という運びとなり、どうぞお願いします、といっていたので、東京志向に転換していったのかもしれません。そういえば、「米子鬼太郎空港」も整備され、あれは(私も60年代の鬼太郎シリーズは大好きですが)根強く、資質的に惹かれるというか、こどもたちを含めた熱心なファンも多いと思われ、東京圏などから新たな人の流れが形成されているのかも知れない、ところです。現在のNHK朝ドラ「ひよっこ」を見ていても、昭和30年、40年代の関東圏の茨城県民でさえ、東京にあこがれ、その愛憎の的にもなり、無原則に都会を受け入れるのですね、ましては、当時、東京までどのように行けばいいのか、山陽側(岡山)まで遠征しなければならなかった、山陰住民であれが、もっとその感情の振幅が大きかったかもしれない、ところです。
現在、わが山口県と東京間は、新幹線で4時間半くらいの時間がかかりますが、考えてみれば、あの、70年代後半など、誰もが大学に行くようになった時代に、同級生にしても、みな東京に行きたがり、「京都へ行きたい」などというのは異端だったように思われます。改めて、交通関係というか、人や文化の流れ(感覚や意識の流れを含め)は、こうもわれわれの観念というか、思考や、感情を刺激し、拘束するものかと思われるところです。
かつて、米子に行こうと思えば、山口から新幹線で岡山に行き、特急列車で米子に行き着くしかありませんでした。乗り換えもあり(ジーゼルカーでした。)、時間もかかり、大変でした。
車での移動ということとなれば、まず、山陽自動車道から、広島で中国自動車道に乗り換え、岡山県の新見インターで下車し、例の後醍醐天皇が隠岐に流刑になった通路といわれる国道180号明知(あけち)峠を経由して、米子へ抜ける道であり、片道で5時間くらい要しました。古代からある古い道沿いというのは、趣があり、沿線の景色も、縁接するよしず張りの商売屋の物売りなどでは、見たこともない産物もあり、大変興味深いところです。沿線の観光施設では、包丁や、鎌、なたなど、製鉄文化に根ざした特産品を売っています。びっくりしたのは、どうも古代のものと思われる英雄の面が売ってあり、出雲神の国譲りの大国主命のみならず、やまと朝廷にまつろわぬ(戦いを挑み破れた)出雲神も同時に陳列されてあり、この地区の方々の内なる複雑なる思いを察するところです。
また、山陰地区は、水量が豊富で、斐伊川や、日野川など日本海に注ぐ、一級河川などの大きな河が多く、大山(だいせん)などの中国山地の裾野を流れる大きな清流に沿って走る道路を走るのは、実際、気持ちのよいものです。冬季の、降雪時は、状況は一変しますが、山陽側ではみられない、豊かな自然ではあります。その意味で、とても懐かしいような景観と風土です。
さて、ここから、主題です。
前から、大山への連絡路を走るたびに、表記の写真美術館(以下「写真館」と称します。)を目にしていました。ものを知らない私は、彼がどんな写真家なのかまったく知りませんでした。
たまたま、NHKEテレの、日曜美術館を見ていたとき、佐野元春氏がゲストで、この写真館を案内されながら、植田正治の写真に対する思い入れを語っていました。
その際に見たのが、砂漠を舞台にした演出写真でした。あ、これは知っている、ということで、このたび、当該写真館に寄ってみたところです。
この写真館は、米子市の隣接の伯耆町(ほうきちょう)に在り、中心地から10kmくらいの大山の裾野の草地の中に建ったコンクリート打ち放しのモダンな建物であり、その展示は、遠景の大山を借景にする彼の代表作の演出など、さまざまに工夫を凝らしています。
鳥取といえば砂漠でなり、われわれもかつて、修学旅行などで行った覚えがあるのですが、なにぶん、遠い上に、交通の便が悪いところで、最近はあまり行くことはありません。鳥取県の都市(?)は、二極化しているようで、西部の米子(松江)文化圏、東部の鳥取市文化圏と仮に名づけますが、鳥取市は、どうも官庁街であるようで、少し気取ったそのあり方が鼻につき、また外国人の居住があるせいなのかやたらに焼肉屋が多く、加齢によって、あまり食指が動かなくなった私とすれば、滞在等は好みません。しかし、鳥取砂丘は、その名に恥ずることのない、驚嘆する自然の美しさと、また立派な観光地であり、こどものころ、あるいは高校生のとき友人と語らって立ち寄った際(あれは三島由紀夫の割腹自殺の年であった。)、奇妙で、不思議な光景と、だだっ広くいくつも起伏のある砂丘を見たときに、大海に接したときのように大きな明るい開放感がありました。刻々と変化する砂地の風紋や、水色の海との対比を見ると、人の心を解きほぐすような光景に思えます。
日本海側の、海浜の白砂青松の美しさについては別のブログ(「清流で泳ぐことの快感」)で触れましたが、鳥取県の海浜も、島根県に勝るとも劣らず、砂丘以外の場所でも、目の細かい美しい砂と、美しい浜辺が広く見られます。
ところで、戦前から、植田氏は、砂丘を舞台にした、企画演出写真をたくさん撮っており、戦後になって、本格的に、その砂丘で、家族を並べたり、モデルを使ったりして、家族像や、人間や、かさや杖、帽子などを使った演出写真を作っています。どれもに、ユーモアがあり、砂漠にある奇妙な人間の開放感とあいまって、見るものに開放感を与え、同時に時間の流れに抗するような永遠性を与えてくれるような光景があります。
ことに、着物姿の植田氏の細君や、学生服の二人の男の子、一人は三角巾で肩を吊り、片方は自転車に乗っています、白い晴れ着のワンピースを着て一輪の花を持った女の子(和子さん、家族から「カコ」と愛称された一人娘のようです。)たちの、砂丘上で横一列の集合写真など、被写体とカメラ側との気持ちのやり取りまで伝わるようで、大変興味深い写真です。彼は、この主題を何度も何度も繰り返しています。彼は、後年フランスから勲章をもらっているようですが、その写真は、知的で、シュールで、日本的でないようでありながら、実は日本的であるという面白い写真となっており、砂丘という風土が、被写体の彼ら全体に大きな影響を与えているように思えます。昔の写真ですから、写真機の性能に応じ現場で長時間拘束(暑かったろうなー)されたでしょうが、彼の家族一同、喜んで協力したようです。
彼は、もともと洋画家志望でしたが家族の反対で挫折し、地元で写真館をやる傍ら、写真芸術家の道を選んだようですが、終生、鳥取を離れなかったようです。
歳のせいか(また言ってしまったが)、近代以降の忘れられたような日本の風景や日本人の姿の写真にとても感興がわき、ことに、私はいなか育ちというバイアスがかかっており、古い時代の周辺地区の街角の光景に心が動いてしまいますが、私が未生か、ものごころもつかないころの、いなかの風景に(境港出身の漫画家水木しげるの「のんのんばあ」で描かれた彼の幼年期の記憶も興味深いところですが)、わがふるさとより更にいなかの光景に、心底惹かれるのを覚えます(ああ昭和)。
標記の写真は、彼の後年の「童暦」という写真集の一つであり、彼の代表作とはいえないかも知れませんが、村の鎮守のお祭りに、一軒だけやってきた行商の露天商に小銭を握り締めて並ぶこどもたちの生態が、活写されています。魔法の箱のような、大きな茶櫃に何が入っているのでしょう。異族のような露天のおやじは、うまいこと言って、こどもをさらって、箱つめにして、サーカスか何かに売り飛ばすやもしれません。背景の鎮守の森と、地区民全員の畏怖と敬意を以て扱われる社殿が背後にそびえ、いなかの景色は固定されています。私にとって、懐かしく、寂しいようで、また敬うべき光景です。
ところで、かつて、北朝鮮工作員によって佐渡島から、拉致、誘拐され、一生を棒に振るような体験をした、曽我ひとみさんは、大きなリュックサックに、声を出せないように逆さに突っ込まれて拉致されたと聞いている(彼女の少女期においてさぞ恐かったろう)、それはまるで私が幼年期さんざん脅かされたひとさらいの仕打ちであり、あたかも「共同幻想論」の中での山人によるかどわかしにも思えるこのような行為の現実が、他国独裁国家による一般住民大衆に対する恥知らずの仕打ちが、ついこの前でもあったわけであり、なかなか、昭和も遠くにならないわけです。
ここから、変調します。
ここ鳥取は、自民党の有力政治家、石破茂氏の選挙区です。
自民党の領袖といわれ、ポスト安倍候補といわれる、鳥取県を選挙区にする、石破茂さん、あなたを最初にテレビで見たとき、あなたは、少しなまっており、東北出身の代議士か何かなのと思っておりました。また、そのとつとつとした話しぶりが、都会人に受け、人気がある、とも聞いて、都会人とはそんな甘いものかと思っていました。
また、あなたは、どうも、私の出身大学より偏差値の高い名門私大の法学部の出身と聞き及び、きっと優秀な方なのでしょう。
取材に応じ、とわずがたりに話される中で、庶民感覚の発露のためでしょうか、キャンディーズのファンだったと聞きました。また私より、2歳若いと聞き、そうですね、彼女たちは、当時は大変な人気でした。あまり、目立たなかったミキちゃんが好きだったというのはなかなか渋い好みです。殊に、「私たち、普通の女の子に帰りたいんです」との彼女たちの意向で、解散コンサートを大々的にした際は、老若問わず男ども大熱狂の時期でした。
しかし、私は、最期の「政治の世代」に属する人間であり、手放しで、アイドルに熱狂する非政治的大学生も、党派に入った政治的大学生と同様に、どうしても好きになれませんでした。私より2歳若いあなたの、K大時代には、「政治の時代」は終焉していたかもしれない、しかし、第二次オイルショックから、右肩上がりの時代に移行する時期に、あなたはどのような「政治的」体験をされたのでしょうか。クリスチャンになられたとは聞いていますが、どうも父祖の時代から、政治家の家系であり、由緒正しい党人政治家として、家庭でも英才教育を受けられたのかもしれません。
しかしながら、現在のあなたの防衛問題に対する見解や、経済問題に関する見解は決して同意できません。
先般の南シナ海域の覇権国家中共によって行われている南アジア及び日本の地域の安全を脅かす行為にも危機意識が欠如したうえで、なんら有効な手段を採ることをことを怠り、なんせ「媚中派」と称され、現在「強兵富国」政策をとり、アメリカの太平洋艦隊すらなめ切ったような危険な覇権国家に対して、国民の安心安全について、きわめて無自覚ではありませんか。このたび、私は、松江市によりましたが、島根県は、「竹島問題」ついて、県民の安心安全、ひいては日本国の安心安全に努めるため、懸命な努力と対応をしています。領土問題を端緒に、他国に、なめられると、ろくな結果にならないのは、かつての愚宰相、菅直人の教訓を見れば明らかではないでしょうか。野党時代にあなたはそれを見ていなかったのか。あなたの、選挙区は、北朝鮮にきわめて近いわけでしょう、もし「あなたに組する」選挙民の頭上になんの弾頭かわからないが、大陸間弾道弾も発射可能という、ミサイル攻撃をされたら、どんな言い訳をするのですか。
引き続き、あなたは、財務省になめ切られ、財政政策にも、デフレ対策の常道の景気浮揚の公共事業にも無頓着で、TPP大賛成、無原則な消費税増税承認、あなたが、東京で醜悪なグローバリズムに荷担・推進している間に、あなたの選挙区は、疲弊し、あなたの選挙民も、あなたの選挙区も、干上がってしまいはしないのか、このたび、山陰自動車道も、松江自動車道も通行したが、まことに利用勝手が悪い、なぜ早急に複線化しないのか、山陽側にあんな半端な社会資本はないぞ、直ちに建設国債を発行し、地方の弱点を克服し再生をするのが、鳥取に地盤を持つあなたの喫緊の課題ではないのか、日本国を出て行けず、地方を出て行けず、地方で、僻すう地で、農業や林業で細々と国土の保全と、安心・安全を守っている、あなたの選挙民に対し、悪いことをしていると思っていないのか、「景気は回復している」と、財務省の詐術にくみして、消費税増税に荷担するなど、派閥の領袖として恥ずかしくないのか、いいことなど少しもないではないですか。
少なくとも、財政政策は別にして、防衛問題については、安倍晋三氏は逃げていない。
やっぱり、山陽側は、間違いなく山陰側に勝っている、少なくとも人材的に。
あなたが、怠っているうちに、私の好きな山陰側の自然や文化や歴史が干上がってしまうことを、私は恐れている。
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