( 8月です。お盆の月ですので、皆で死者について考えましょう。 )
ジョー・オドンネル、「火葬場の少年」をめぐって
この写真を、かつて、お盆の戦争特集ドキュメンタリーなどで見たことがおありでしょうか?
これを見たのは、NHKの番組で特集した、ジョー・オドンネルさんという太平洋戦争当時の従軍カメラマンが、敗戦後の日本ことに被爆後の長崎で隠し撮りしたいくつかの写真に係る物語でした。私は、統一した経緯をこの番組で、初めて知りました。
以前どこかで見かけた、この「火葬場の少年」に強い印象を受け、逆引きで、ジョー・オドンネルにたどりついてはいましたが、彼の人となりと、写真にまつわる逸話は、興味深いものでした。しかし、私の印象はNHKの主題と微妙にずれてしまい、彼がやむにやまれず撮影した数多くの被爆者たちや子供たちの悲惨な、直接的な写真に比べて、より、この写真だけにやはり強い印象を受けました。なぜなのか、考えてみました。
写真のキャプションを述べて見ますと、膨大な原爆の被害者を葬るための、野辺送り(そんな生易しいものではなかったかも知れませんが)野焼きの火葬場の光景です。小学生の男の子が、火葬の順番を待つため、直立して、ワイヤーで引かれた線の前で待っています。彼は、死んだ弟を背負い紐でおぶり、唇を血が出るほどかみ締めているのです。
彼の目線は、弟を見送る悲しみと、「小国民」として死者を弔う緊張と使命感、そして家族を含め死んでいった数多くの死者に対する敬意と哀しみに見開かれています。(私には、彼があたかも死者たちに、敬礼をしているようにも思えます。)
まず、家族とは何かについて考えます。
かつて、ヘーゲルが(精神現象学の中で)述べたのは、家族の本質は、「愛の直接性」などと甘いことだけをいっているのではなく、「家族は、その一員の死体を、自己意識を持たない自然の意志のままに放置せずに正しく葬ることによって、死者に「人間としての尊厳」を付与しなおすという使命と役割を最初からもっている、なぜなら性愛的な結合やそこから生じた親子関係にもとづく情感の交感と共有とは、「やがては、ばらばらに死すべき存在」としての個々の人間身体のあり方をたがいに深く気にかけるということとほとんど同義だからである」(小浜逸郎「エロス身体論」での脚注)と、読んだことがあります。
もう少し具体的にいえば、「家族が亡くなれば、葬儀を行い、獣や動物に襲われないように埋葬し、その存在(魂?)とその存在にまつわるもの(人間的諸関係でいいと思います。)を祖霊のもとに返していく」ということです。これを家族に課された「神々の掟」といいます。
しかしながら、本来、年を経た年長者によって行われるべき厳粛な葬儀が、逆に、年端の行かぬ子供の手によって、自分の父母や、兄弟姉妹の幼い幼児の葬儀を、行わざるを得ないことが、いかに理不尽で、没義道なことなのか、考察せざるを得ないところです。
オドンネルさんは、戦争従軍写真家としてこれらをひそかに撮影し、戦後何十年も後に行った当時のアメリカ国内の巡回写真展で、改めて戦争の悲惨さを訴えたとき、「原爆投下は当然」との世論の雰囲気の中で、在郷軍人会の反発や世論の憤激の中で十字砲火を浴びたのですが、なぜか、この写真のみが、毅然として佇立する誇り高い子供の像のみが、アメリカの、一部の人々には、賞賛され、深い印象を与えたのか、よく納得できます。
私が想うオドンネルさんもそうではないかと推し量りますが、やはり、写真の、彼(少年)の姿勢は、「人間として、死者に対しこれ以上何をすればよいのか」という、ぎりぎりの、崇高な、尊敬すべき姿なのです。
今更ながら、私自身、「聖戦であった」とか、「日本軍国主義の敗北」とか、毛筋も信じていませんが、「最初に、弱いもの、年老いたもの、大衆を、敵の前に差し出す」(シモーヌ・ヴェイユ)戦争の不道徳性(?)は大変よくわかります。(現在、私が目にしている世界グローバル化を引き金にして引き起こされる、開発途上国の戦争・内戦においてもしかりなのです。)
かつてのアメリカ主導のイラク戦争、ロシアとウクライナ問題でも、イスラエルとガザ地区の紛争でも、大国の覇権主義が平然と横行しています。個人的に私は、イラク戦争の不道徳性、ロシアによる民間旅客機の撃墜のみならず、発電所を破壊し、学校まで破壊し、子どもたちまで殺戮するイスラエルの軍国主義ぶりを決して許すことはできません。(ユダヤ人思想家、ハンナ・アーレントは地下で怒っているぞ)
同様に現在の日本も、強大な(ろくでもない)覇権国家に囲まれ、いつ紛争に巻き込まれるかも知れません。一人の大人の意見として、「積極的平和主義」で結構ですが、独立国家として、日本が戦争にまきこまれないよう条件整備をすることは当然のことだと思います。国際社会の、まぎれもない弱肉強食の国家の紛争に、国民全体を巻き揉まないのは、曲がりなりにも近代を経由した国民国家の政治の当然の役割だと思うからです。
しかしながら、現在、地勢的、歴史的に、明らかに日本国家に軍事的な脅威と、現実に戦争遂行をやりかねない(現に経済戦争を、人民抑圧軍(天安門事件以降の中共国軍の呼称)の軍事力を背景に実施している)中共に対し、つい先ごろ、かの日本国の政府一部と企業団体が、覇権国家中共の前で、でっちあげ南京事件、ねつ造従軍慰安婦問題を棚上げにして、誇るべき日本の歴史と、戦災の被害者に対し、何の顧慮をもすることなく、目先の私的経済活動のために、膝を屈するのを見ました(私はあの行列の中にいなかったことを誇りに思う。)。
変節した宮崎駿さんの優れたアニメ、「風立ちぬ」の中で、戦時下で飢えた姉弟に対し、情けをかけようと声をかけた主人公(例の菓子シベリアを渡そうとするエピソードです。)に対し、姉はいわれのない施しは受けないと、きっぱり断ったその誇りの高さと、しつけの確かさ、この写真の中で、野辺送りのためたった一人で死した弟を背負った少年の毅然とした態度、かつての日本人はなんと誇り高い人間であったのか、翻って、あなた方は、卑しい態度とまでは言わないが、経済問題は別問題、と言挙げる前に、いざという時に、銃後の弱者(一般国民)に対する支援の準備と必要な配慮は出来ているのか。
場合によっては、覇権国家と戦って、非戦闘員も否応なしに巻き込まれる現代戦の中で、最終的には武力行使を含めて、弱者を守るのが、国民国家及びその構成員の当然の責務であると思う(宮崎さんあなたは子供たちですら逃れられない運命の中で誇りをかけて戦った自作での描写を覚えていますか。それが、当時だまされていたとか、悪だったとか今のあなたに決して言わせない。)。
また、君たちは、300万人と推定される日本人の戦災被害者に対し、その死の意味と問題を自らの問題として総括することなく、自治立法もできず、原爆投下を強行した他国から侮られ、過去の自国民の苦しみを思いやることなく、現在また将来の国民の、安心安全を考慮することもなく、止むを得ず選択した今のところ精一杯の日米安保条約に基づく「米軍基地の移転」に反対するのか。国民国家として、緊急発動権も、自衛の手段もなく、将来、日本国内戦に及ぶかもしれない状況の中で、弱者、国民を敵の前に放りだすのか、これは、国家総動員体制にあった戦争中より、もっと「不道徳な」ことではないのか?
再度、オドンネルさんの話に戻りますが、オドンネルさんは、この写真を隠し持ち、40年間封印していました。67歳のとき、わが内なる炎(?)にせかされるように、地方の放送局や、巡回写真展を通じ、公開し、「私は、国家のために誇りを持ってたたかった。しかし、やはり、あの戦争は間違いだった。」と、写真の公開活動を始めました。その当時の反発は、前述したとおりですが、妻に去られ、息子にそむかれ、「なぜ、(外国の敗戦国のことで)私たちの家庭を犠牲にするのか」と責められたといいます。しかし、彼の気持ちは、よくわかるような気がします。自分の残年数を数え、自己に強いられ、とうとう、不可避的にしゃべりだしたのでしょう。彼は、再来日の際、モデルの少年を必死で探したらしいのですが、彼には結局会えなかったようです(嗚呼)。
「原爆は戦争を終わらすために必要だった。」という発想には、日本人として、強い憤りを覚えます(とてもバカな一部の卑劣な日本人にも)。彼らの「想像力の貧困と欠如」、は明らかなものでしょう。
今は故人となったオドンネルさんの志に深く謝するとともに、皆さんにとって、かつての戦争とその犠牲者の問題が、また、現在の日本を囲む地勢的、歴史的状況をどう視野に挙げているのか、このたびおたずねしたいところです。
私たちにとって、8月は、やっぱり、戦没者や銃後の無辜の犠牲者そして祖霊たちに対して、わたしたち個々の家族の死者たちを安んじて彼岸に返していくために、「死を想え」(メメント・モリ)の時期なのです。
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この写真に対する、オドンネルさんの説明
目撃者の眼 報道写真家 ジョー・オダネル
1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして
立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年
の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
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