福沢諭吉(1835~1901)
一 アメリカ的価値観に殺がれた日本思想の独自性
あ 戦後の思想家三人、丸山眞男、吉本隆明、大森荘蔵は、戦後の支配的イデオロギーの影響を強く
受けすぎており、西洋近代思想との対峙という視点からは、服従度が強すぎたり、混乱していたり、
中途半端であるとの印象が強い。
い 戦前に自前の思想原理を確立させた、時枝誠記、小林秀雄、和辻哲郎の三人はそれぞれに固有の
意味合いにおいて、西洋近代思想の難点を克服しより普遍的な思考の成果をしえていると思われた。
昔の人の方が偉かったのである。
なぜそうなのかは、(差異として捉えれば)戦後のアメリカ的価値観の席巻で、価値観の浸透が、
日本思想の自前性、自立性をかなりの程度殺いでしまった。(丸山が指摘するように)いかに日本
人が変わり身の早さをその「執拗底音」にしているにせよ、敗北の衝撃からの自前性の復元には時
間がかかる。
福沢諭吉は、幕末維新の混乱期から日本近代国家の建設期にかけて最大最強のオピニオン・リー
ダーとして活躍し、「一身にして二世を生きた」(福沢自身の言葉)わけであり、その時代の気運
そのものが彼の思想を鍛え上げ、その時代にふさわしいものにまで結実させた。
二 あらゆる思想がナショナリズムであった時代
近代の概念規定
西洋にたまたま近代が早くおとずれたものであり、この言葉の概念の持つ普遍性は、いずれどの国を
も席巻するものであった。
ア 政治的「近代」 法(ルール)による統治。その理念として、自由、平等、民主主義、個人の
人権の尊重
イ 経済的「近代」 資本主義の支配。その基礎原理として伝統的共同的な規範からの個々人の欲
望の解放
ウ 学問的「近代」 実証主義、客観主義、自然科学的唯物論の支配
エ 文化的「近代」 伝統宗教のドグマの否定、科学技術への信頼
オ 社会的「近代」 都市社会、情報社会、世界均一性(グローバリゼーション)志向
大体このようなところであろう。
そしてこのような流れに人間の生活すべてを支配するわけにはいかないという異和感情があるとき
(どこにでも、誰にでも多少はあるに決まっているのだが)、それは反近代主義として結晶する傾向
を持つ((Ex)アメリカの原理主義的なカトリシズム(進化論の否定、避妊・堕胎の禁止など))。
日本の近代史
欧米経由のグローバリゼーション(帝国主義、植民地政策を含む。)の力を受動的に受け止め、それにどう対
処するかの苦闘の歴史であった。
近代の苦闘の意味は、逆らいえない大きな流れにのみこまれながらも、どのように己の国民的アイデンティ
ティや政治的・文化的主体性を確保・維持するかという課題に集中された。
福沢がいきた日本近代の黎明期、建設期においては、この課題の重要性が殊に際立って現れることに
なる。ナショナリズムの確立である。
ナショナリズム(という)言葉自体、非常に広い外延を持っていて、互いに異なる三つの概念、国家
主義、国民主義、国粋主義をすべて内包するもの(佐伯啓思)と分類整理している。
ア 国家主義 国家を最高価値とし、個人との関係を持ち込めば、個人の生命を国家にささげると
いう犠牲的道徳価値が含意される。
(その行為が)崇高と思われるかどうかは、それぞれの価値感情にゆだねられる。
イ 国民主義 国民(複数)こそが最高の価値であり、国家を軽視するわけではないが、それはあ
くまでひとりひとりの国民のための国家であって、この場合は国家は著しく機能主義的な把握を許
すこととなる。それは人権(個人の生命・身体・財産・精神)をあたうかぎり保証した民主主義国
家でなくてはならない。
ウ 国粋主義 初めから、排外的な情念に彩られており、この概念でナショナリズムという言葉を
用いるとき、かろうじて、戦前の一時期の皇国史観のような極端な価値観を背負わせることとなる
であろう。
語の関連からたどってみると、ナショナルがネイションから起源し、「国民」「民族」がこの観念の
中核にあり、ネイティブ、ネイチュア、ナチュラルへと関連させていえば、「土着の」、「自然な」
「もとの」「本来の」といった概念に結びついていく。この関連でナショナリズム概念を考えれば、民
族主義、土着主義ともいえるし、場合によっては限りなく共同体の多元性を認める立場を範囲内に収め
ることも可能である。
一方、ネーション・ステートという言葉があり、普通「国民国家」と訳されるが、この言葉は近代国
家の本質的構造を表す概念として使われており、この用法で、ネイションは「国家」ではなく「国民」
であり、ステートの方は、国民を統合する組織形態、統治の状態を表わす。
ここにおいて、(無用の混乱をさけるために)、ナショナリズムという言葉を、過去、現在、未来に
わたる国民の安寧と諸権利(福沢のように「権理」という言葉を当てたいところだが)とを保障する機構
としての国家をその限りで肯定し、その建設と維持発展とを不断に目指す思想、というように定義してお
く。(ナショナリズムという言葉から、戦後の日本国民が抱きがちな情緒的マイナスイメージをひとまず
振り払っておきたい。また、この言葉が、旧弊を捨て新しい優れたものを取り入れる進取の気性という意
味ではないかのように考える戦後生まれの誤解を退けておきたい、ためである。)
私注 「権利」という言葉は、明治の創成期に外国法典を和訳した際に、原語に忠実であれば、「権理」
が正しかったそうであり、(現在のように)私的利害を場合によっては無原則に主張するものではもと
よりなかったそうです。
福沢が生きた時代は、あらゆる思想がナショナリズムに帰着するしかないような時代であり、新しく現わ
れたあらゆる政治思想、社会思想は、全てナショナリズムであり、それ以外に政治や社会を論じる者たちの
生き残る道はなかった。
福澤は、正真正銘の、それも卓越したナショナリストであった。
その心は、日本が否応もなく世界に自らを開いていかなければならない局面に立たされた時に、いかにす
れば西洋列強の攻勢に屈せずに一国の独立と国民の幸福を確保することができるか、という問題を文字通り、
いのちをかけて考え抜いた思想家という意味である。ここには、保守思想家・進歩的思想家、右左といった、
後世のわかりやすい理解枠組みによる抑え込みを許さない、時代そのものの迫力が見事に刻印されている。
三 「複眼性」ゆえの誤解されやすさ
誤解されやすい特徴・・・福澤の「複眼性」または「両眼性」、自由思想家(決してリベラリストではない。)
の特質としての変幻自在性
批判者が、(守旧派)であれば、伝統を否定する西洋追従主義者 と考え、批判者が、(リベラ
ル進歩派)であれば、民意を顧みない国権主義者 とする。
(Ex)ヘーゲル 右からは進歩主義者
左からは国家主義者 と言われた。(大きな思想の宿命)
四 「天賦の人権」でなく「天賦の不平等」
「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」
の後に、
「そういわれているのに、なぜ世の中はこれほど賢愚、貴賤、貧富の差が動かしがたくあるのかといえば、
元をたどっていくとその原因は学問をしたかしないかに帰着する。」
もちろん福澤は、この社会が平等に作られているなどとは少しも思っていなかったし、また能力、地位、
貧富、階級などの格差がなくなる完全平等な社会が実現可能だとも、そういう理想が素晴らしいなどとは
毛頭考えていなかった。
そのような空想を掲げるのはあまりに現実主義者だった。
人間が平等であるべきなのは、「権利通義」の領域に限ると何度も繰り返している。
法的人格とすればすべての人は平等に扱われるが、その他の点で人間がそれぞれ不平等な条件を背負って
いるのは動かしようもない事実であるとみなしていた。「天賦の人権」など信じてもいなかったし、鼓吹し
たこともない。
彼が「天賦」というときは、それはむしろ逆に「天下の不平等」を人々に気付かせるためである。
〈 左れば、天賦の身体に大小強弱あり、心の働きにも亦大小強弱なかる可からず。此睹易き事にして、古今
識者の大いに注意せざるは怪しむに堪えたり。(中略)如何に牽強付会の説を作るも、人の身体の強弱に
は天賦あり、心の強弱には天賦なしとの口実はなかる可し。畢竟、世の教育家が其教育奨励の方便の為に
事実を公言するのを憚り、遂に天賦論を抹殺して一般に之を忘れたるものなり。固より愚民多き世の中な
れば、無天賦論の方便も、時には可ならんと雖も、事実を忘れて、之が為に遠大の処置を誤るは憂う可き
の大なるものと言う可し。 〉(「時事小言」第六篇・明治14年)
他の教育者と同様に、「学問によって人は平等になる」、というラッパを吹きはしたが、前者が、ラッパ
を吹いているうちにそれを本当と信じて「事実を忘れてしまう」につれても、彼は常に「天賦不平等」の自
覚を持っていた。
五 国権と民権は相調和すべきもの
〈 政権を強大にして確乎不抜の基を立るは、政府たるものの一大主義にして政体の種類を問わず、独裁にて
も立憲にても、又或は合衆政治にても、苟もこの主義を誤るものは、一日も社会の安寧を維持する能わざ
るや明なり。合衆政治など云えば、其の字面を見て国民の寄合所帯のごとくに思はれ、何事も簡易便利に
して、官民の差別もなく、随て政令の威厳もなきもののように誤り認めるものあらんと雖も、唯是れ字面
上の想像のみ。其実際において政権の厳なる、或いは常に独立国の右に出るもの多し。 〉(「時事小言」
第六篇・明治14年)
福澤が民権論者であったか、国権論者であったか二者択一的な問いは、福澤思想にとって特に意味はない。
当時の世界帝国(英国)の威力の秘密は、ミドルクラス(ミッズルカラッス)(中間層)の力と喝破した。
維新革命は、たかまりつつあった「民」の気風である。
政治権力の強大さは、近代社会においては、「民」の承認のもとでこそ保障されるものであり、いったん国
権の機構が整備されるや、その権力の機能は、「民」の安寧に寄与する範囲で十全に果たされるべきである。
ここでは、原理上、国権と民権の対立などと云う命題は存在せず、逆に両者はそれぞれの持ち分を守り、そ
れぞれの不足するところを補い合い、そこに有機的な連絡性が常に維持されるのでなくてはならない。
それが、福澤諭吉の理念であった。
当時の民権思想は、決して国権それ自体と対立するものではなかった。
(封建制を打破して、天皇を中心とした強力な国民統合の体制を構築していくという基本的な方向性は同一)
(「ナショナリズム その神話と論理」 橋川文三)
藩閥体制は彼らにとって、「君側の奸」であった。
福澤は、日本の伝統的な権力偏重と、それにこびへつらい私利のために政府を利用することしか考えない民
衆の卑屈さを繰り返し批判し、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」(「文明論之概略」巻之五・
明治8年)と口を酸っぱくして嘆いた。
〈 中央の専制のみが先行し、それを支えるにふさわしい「民」の政治的気風や経済的実力が伴っていない、そ
れを官民相携えて進むべき健全なナショナリズム(国民主義=国家主義)の育成こそが焦眉の急であった、
当時の状況 〉
(機構上きちんとして「合衆政治」の権力の強大さは、独裁国のそれにも優るとも劣らないこと)、「合衆政
治」(デモクラシー)が実際の機構として整備されている場合は、大統領制にせよ議員内閣制にせよ、単なる
「民衆の支配」などではなく、確乎とした代議政治であること、そこに必ず権力の集中があってこそ正当に機
能するものであることを主張しており、適格な判断である。 〉
六 福澤は武士道を称揚したのか
福澤は、平等主義者でもなく、無原則な民主主義者でもなく、社会の安寧を守るためには正統的な国家権力の
存在が不可避であり、智徳相備えた中間層の存在こそがそれを支える主導部分と考えていたこと(「良識」に立
脚して自論を組み立てる思想家であったこと(西部邁))・・・・・・・一種の「精神のアリストクラシー」の
信奉者
*私註:アリストクラシー(貴族主義と訳されます。貴族主義政治(選民による政治)への志向とでもすべ
きでしょうか。)今でいうとノーブレスオブリージュとでもいうべきでしょうか。
西郷隆盛の擁護(丁丑公論)(ていちゅうこうろん)
(西郷隆盛が下野してから若手の不平士族の突き上げに遂に屈して西南戦争を起こしたてん末に絡めて)
彼のように度量の広い大人物をあのような窮地に追い込んだのは政府の責任であり、大きな損失である、
と政府を論難した。
(未発表) (以下省略)
ナショナリズムの昂揚期や、権力の弾圧の強い社会では、命をかえりみず、主義や信念に奉ずる気運が高
まるというのはよくみられる現象であり、福澤のなかにことさら武士道を嗅ぎ出す必要はないものである。
後の、勝海舟や榎本武揚(旧幕臣でありながら敗色が明らかになればさっさと降参して政府の要職に就いた)
に対する批判も、リーダーのあまりにあっさりとした変節ぶり(殊に榎本は五稜郭の戦いで多くの部下を戦
死させている)を非難していることに注意すべきである。
福澤は、「一命を顧みない犠牲的精神に共感はするけれども、それだけを行動として貫こうとしても、
「万機公論に決すべき」今日にあっては、玉砕するだけだから、尚武の精神を「変化」「変形」せしめて、
今日の時代に適応させるべきだ、その変形の役割を担うのが政府だ」、と主張している。
福沢諭吉に対し、勝海舟(江戸城の無血開城)が論じた言葉
「 行藏は我に存す。毀誉褒貶(きよほうへん)は人の常(他人の主張)、我に関せず、我に関わらず。
(勝海舟の言葉)なのである。」 出典 (明治書院)新釈漢文大系6 『荀子 下 』
私註:海舟批判書状の『痩我慢の説』への返事(ネットから抜粋)
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議
論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。
」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬ
ことと考えています。)
七 西洋文明とは受け入れざるを得ない麻疹(ましん)
「学問のすすめ」で、西洋文明の優れている点、いち早く日本が取り入れるべき点を強調したが、同時に無
批判に西洋文明のすべてを受け入れようとする西洋心酔者流、開化先生流の軽薄さを激しく批判した。
健全なナショナリストとしての福澤、マージナルマンとしての福澤(西部邁)
*マージナル‐マン【marginal man】
文化の異なる複数の集団に属し、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団
の境界にいる人。境界人。周辺人。
西洋文明のアジア進出を、麻疹として捉えている。
西洋文明には害もあることを明言しつつ、なお利益の方が多いので、それを選ぶほかない。いち早く
感染させて軽症のレベルにとどめ、免疫を得させることが肝要である。
国益主義、功利主義、リアリストとしての福澤
EX) 朝鮮の独立を目指した金玉均が起こしたクーデター(甲申事変)に際し、日本に逃れてき
た金玉均をかくまったが、清国政府に配慮した日本政府は、本人を小笠原に流した(金は上
海で暗殺される)。
清と朝鮮に対し、否定的な評価
後に帝国主義といわれ、日本もその仲間入りを果たすこととなった、「文明」の風潮を麻疹に譬えている
こと は、その避けられない流れを避けられないがゆえに受け入れざるを得ないと考えていたことをよく象徴
しており、同時に、国際社会の主流を決してそのまま肯定しているものではなく、一種のやくざ世界のように、
「力による勝負」の場と見抜いていた。
「文明」とはこのとき、力の強さを表わす指標以外の何者でもなかった。
ある主義や風潮への「惑溺」を何よりも嫌った福澤が、このような覚めた目で世界を突き放して見通すこと
ができたのは、彼がその思想体質として、機能主義・功利主義の精神を身体に沁み込ませていたことにほかな
らない。
(ただ一つ、キリスト教に対する見解は矛盾がある。)
(後 略)
八 機能主義的・功利主義的なナショナリスト
これまで、福沢諭吉は、近代国家形成期のさなかにあって、明確にその運命の如何を自覚したナショナリスト
であることを説く同時に、彼の機能主義的・功利主義的発想をも強調してきた。
この(相矛盾する)性格を融合させた思想家が現にいたのだ。
彼は、愛国心や祖国愛といったような心情的要素を「偏頗心」(へんぱしん)といって突き放した表現で語
る。
また、重要なことは、この人間社会が、事実上、互いの幸福を最大の動機として組み立てられ、それを目指
して回転しているという現実、その現実の重さに気付くことであり、福澤は直感的にその現実を知り尽くした
思想家だった。
また、その直感は、彼が優れたナショナリストであった事実と少しも矛盾しないし、ナショナリストにして、
機能主義・功利主義ということこそ、思想家・福澤の真の面目がある。
〈 殊に日本国民の如きは、数百年来、君臣情誼の空気中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は、唯こ
の情誼の一点に依頼するにあらざれば、国の安寧を維持するの方略あるべからず。すなわち帝室の大切
にして至尊至重なる由縁なり。況や社会治乱の原因は常に形体にあらずして、精神より生ずるもの多き
においてをや。我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。其の功徳至大なりと云う可し。 〉
(「帝室論」(明治15年))
社会秩序が乱れるのは、情誼にもとづくいたずらな対立にあるのだから、そうした信念対立が非妥協的に
なって恐ろしい事態を引き起こさないためには、人民の激した感情を慰撫する不偏不党の大きな緩和勢力がな
ければならず、それはあらゆる政治勢力を超越したすべての日本人にとって精神の源となるような形をとって
おかなくてはならない。
それこそが「帝室」の役割だというのである。
「国の安寧を維持するの方略(方便)」ときっぱり言い切っている。
立憲君主体制での皇室の機能を的確に論じたもので、後の「天皇機関説」の先取りを為すものである。(帝
国憲法の公布と帝国議会の開会の数年前)統治というものは、ダブルスタンダードをもともと本質構造として
抱えるのであって、いわば「顕教・密教」の密教部分では、天皇が立憲君主制の一機能に過ぎないことは自明
のことであった。
福澤は、皇室へのあまりのひいき感情から、皇室第一主義の「官権党」なるものを作って「党」として政治
参加するような傾向を危険なものとして退けている。
こうした極端な党派性の伸張がやがて極端な皇国思想を生み、昭和の軍国主義につながり、中庸と均衡を重
んじ「惑溺」を排した福澤の最もよしとしない傾向であった。
九 公智・公徳、両方の必要性
国体論への言及
国体 その国の国民が政治の実権を握っていること
例外)傀儡政権、GHQ主導などは例外(占領下は国体は失われていた。)
ナショナリズムの実質的な確立を維持することで、意味がある。
知と徳について
智徳は人間精神の発展にとってもどちらも欠いてはならない車の両輪のように重要な要素であり、知と
徳にはそれぞれ私的なものと公的なものがあり、
私徳、公徳、私智、公智があり、
私徳は、潔白や謙遜のように、一心の内に属するもの、
公徳は、公平や勇強などのように人間の交際上に現われるはたらき、
私智とは、物の理を極めてこれに応ずること、
公智とは、人事(人や人に関連する事柄について)何が重大で、何が軽少あるかをよく判断し、時と場
所を察するはたらき、とする。
徳の特性として、私的なもの(内面の自己満足)に限定されやすく、その内容も古今東西ほとんどかわ
らない が、智の内容は無限に多様であり、いったん獲得されれば失われることがない。
徳はそれ自体自足的だが、智はもともと発展性をその本質として持っているので、その特性に徳が加わ
ることにより文明の無限の領野が開けてくる。
教育の根本精神は、自立心を培うこと、視野を広めて他者世界への想像力を養うことで、一方が他方を
互いに支えることであることから、徳育か知育かの問題ではない。
EX)反ゆとり教育、反徳育優先主義
福澤はひたすら、公智「世界に向かって視野を開き、人事に関する適切な判断力を養うこと」の重要性
を説いた。
福澤の知識論は、時間の経過に耐える普遍的な力を秘めていた。
十 福澤の時代と共通する現代の課題
福澤は、「文明の無限の発展」という最長期的な理念をまず大前提として、その途上にあるすべ
ての国が自らその理念を最大限に取り入れるところに近代国家の目標を見出し、その出発点に立っている日本
においては、まずひとりひとりの人間が文明の成果を正しく取り入れつつ、それぞれの立場でふさわしい形で
自立精神を養うこと、そしてそのことが国家の独立を確立するための必須条件であると考えた、ということで
あろうか。この考えかたに沿って「近代ナショナリズム」という概念を措定することがまっとうなやり方と思
う。
福澤は、日清戦争と日露戦争の間の、日本近代社会の黎明期と建設期の間になくなった。(希望に満ちた明
るいトーン)
(その後、明治末期から大正と、暗い困難な時代を経由する。)
( 中 略 )
現在の国際環境は、200もの大小の主権国家が群雄割拠する一種の「やくざ世界」なのだと言ってよい。つ
まり、他国と深く交渉しつつ自国の安全保障上の配慮を決しておろそかにしてはならないという点において、
福澤の生きた時代と共通する問題を私たちは抱えている。能天気な平和主義など、世界から笑われるだけであ
る。(ただ福澤の現代版はまだあらわれていない。)
福澤の強靭かつ柔軟な、そして良い意味でのプラグマティックな思想家魂をきちんと参照することによって、
現在の閉そく状況からの脱却のために必要とされる最も基本的な精神の構えといったものに対する示唆を得る
ことであろう。
ア 旧訓を参考にしつつ新しい時代にふさわしい新しいナショナリズムのあり方を構想すること。
イ 正負いずれの感情的反応をも超克した理性的な「ナショナリズム」概 念を鍛えなおすこと。
(私見: 終わりに当たって)
70年代の学生運動は、「反帝、反スタ(反米・反ソ)」という旗印で、当時の二極化の世界体制に抗うとい
うスタンスをとっていました。それは世界規模で考えても、当時、最も良識的な思想であったと思われます
(もし歴史的意義があるとすれば、これはその多くの部分を吉本などの少数のまともな知識人に負っています
。)。
その後、世界中の「左翼」(?)国家が、スターリン、毛沢東、カストロやポルポトなど、社会主義に名を借
りた全体主義‘収容所’国家の成立と裏面での大虐殺の実態、それらの影響下で馬鹿な理念を金科玉条にした
後進国(?)の指導者の退廃と無能ぶりとが徐々にわかってくるにつれ、「左翼国家」が自国民と他国の大衆
に対しいかにでたらめでろくでもないことをしているのかとか、また、後進国(?)のどうしようもないナショナ
リズムの状況とが徐々にわかってくるにつれ、対抗措置として、当面「(真の)左翼のナショナリスト」を名
乗ることにしました。
また、そのあとも、時代の推移とともに、「左翼」の歴史的な敗北と、無慈悲な資本主義の隆盛と実態、ま
たムスリム国家の中世のような宗教国家ぶりも視えてきてしまい、昔から疑い深い学生であった私は、その後
は、何と名乗るべきか戸惑うばかりでした(バカらしいけど、さー、よく、わからない、というのが本音でし
た)。
しかし、世界規模では今後とも「民族国家」の止揚(?)が困難であり、グローバリゼーションの進展が文
化と文化の対立の激化と、いわゆるやくざ社会のような力による制圧を招き、また、先の国連の事務総長のよ
うに安いナショナリズムに基づく恥知らずな発言が国際レベルで受容されるなら、調整機関としての国連にあ
まり期待ができないものとも考えられます。
この本「日本の七大思想家」を読んできて、苦闘の時代を生きてきた先人たちに学べないのは愧ずべきこと
である、という認識を新たにし、「奇跡のような」明治維新をやり遂げた「偉人」たちの成果を、馬鹿な政治
的指導者の浅慮のもとに棒に振るのは、私たちの祖霊に対して済まない、と(私は)思います。
「革新」という言葉も死語となりましたが、思想的な誤びゅう、思いちがい、「安い」正義はいつの時代にも
澎湃として起き上がり、無責任で、無節操な人々に支持されるものなのです。
「私たち」は、現在に不可避的に問われている、真正の「ナショナリズム」の現状を認識すること、「共同幻
想」につながる、国家、社会、家族についての自己の考察と内部了解を起点に、自らを鍛えつつ、馬鹿な理念
にだまされたり、足をすくわれたりせず、生きていきたいものです。
(小浜さんのいう教育の後半目的「視野を広め、他者世界に関わる想像力を養うこと」は、本当に大事なこと
です。)
小浜の認識はさらっと書いてありますが、彼の達成は大変優れたものです。社会科学の概念は鍛えに鍛えた
ものですから、つまらない理念に覆されること(自分がくつがえされたらそこまでですが)は決してないもの
です。例えば、このたびの「教育」の概念規定も見事な達成です。応用もききますので、本と同様に、何かの
時に、レジュメも見返してください。
個人的にいえば、吉本体験以来、吉本に助けられながら、日本の思想家、世界の思相家・哲学者の著書に触
れてゆきました。また、後継者としての、小浜逸郎、竹田青嗣、瀬尾育生など、様々な批評家、社会学者、文
学者の名前や著書にも触れていきました。
マルクス、ヘーゲル、ハイデカーなど改めて大きな思想に知り合う契機もありました。
今回の皆様方が、それぞれに触れられ、深化され、「さらに先に行くこと」を願っています。
私にとっての関心は、ジョージ・オーウエルではないのですが、「右であれ、左であれわが祖国」なのです。
一 アメリカ的価値観に殺がれた日本思想の独自性
あ 戦後の思想家三人、丸山眞男、吉本隆明、大森荘蔵は、戦後の支配的イデオロギーの影響を強く
受けすぎており、西洋近代思想との対峙という視点からは、服従度が強すぎたり、混乱していたり、
中途半端であるとの印象が強い。
い 戦前に自前の思想原理を確立させた、時枝誠記、小林秀雄、和辻哲郎の三人はそれぞれに固有の
意味合いにおいて、西洋近代思想の難点を克服しより普遍的な思考の成果をしえていると思われた。
昔の人の方が偉かったのである。
なぜそうなのかは、(差異として捉えれば)戦後のアメリカ的価値観の席巻で、価値観の浸透が、
日本思想の自前性、自立性をかなりの程度殺いでしまった。(丸山が指摘するように)いかに日本
人が変わり身の早さをその「執拗底音」にしているにせよ、敗北の衝撃からの自前性の復元には時
間がかかる。
福沢諭吉は、幕末維新の混乱期から日本近代国家の建設期にかけて最大最強のオピニオン・リー
ダーとして活躍し、「一身にして二世を生きた」(福沢自身の言葉)わけであり、その時代の気運
そのものが彼の思想を鍛え上げ、その時代にふさわしいものにまで結実させた。
二 あらゆる思想がナショナリズムであった時代
近代の概念規定
西洋にたまたま近代が早くおとずれたものであり、この言葉の概念の持つ普遍性は、いずれどの国を
も席巻するものであった。
ア 政治的「近代」 法(ルール)による統治。その理念として、自由、平等、民主主義、個人の
人権の尊重
イ 経済的「近代」 資本主義の支配。その基礎原理として伝統的共同的な規範からの個々人の欲
望の解放
ウ 学問的「近代」 実証主義、客観主義、自然科学的唯物論の支配
エ 文化的「近代」 伝統宗教のドグマの否定、科学技術への信頼
オ 社会的「近代」 都市社会、情報社会、世界均一性(グローバリゼーション)志向
大体このようなところであろう。
そしてこのような流れに人間の生活すべてを支配するわけにはいかないという異和感情があるとき
(どこにでも、誰にでも多少はあるに決まっているのだが)、それは反近代主義として結晶する傾向
を持つ((Ex)アメリカの原理主義的なカトリシズム(進化論の否定、避妊・堕胎の禁止など))。
日本の近代史
欧米経由のグローバリゼーション(帝国主義、植民地政策を含む。)の力を受動的に受け止め、それにどう対
処するかの苦闘の歴史であった。
近代の苦闘の意味は、逆らいえない大きな流れにのみこまれながらも、どのように己の国民的アイデンティ
ティや政治的・文化的主体性を確保・維持するかという課題に集中された。
福沢がいきた日本近代の黎明期、建設期においては、この課題の重要性が殊に際立って現れることに
なる。ナショナリズムの確立である。
ナショナリズム(という)言葉自体、非常に広い外延を持っていて、互いに異なる三つの概念、国家
主義、国民主義、国粋主義をすべて内包するもの(佐伯啓思)と分類整理している。
ア 国家主義 国家を最高価値とし、個人との関係を持ち込めば、個人の生命を国家にささげると
いう犠牲的道徳価値が含意される。
(その行為が)崇高と思われるかどうかは、それぞれの価値感情にゆだねられる。
イ 国民主義 国民(複数)こそが最高の価値であり、国家を軽視するわけではないが、それはあ
くまでひとりひとりの国民のための国家であって、この場合は国家は著しく機能主義的な把握を許
すこととなる。それは人権(個人の生命・身体・財産・精神)をあたうかぎり保証した民主主義国
家でなくてはならない。
ウ 国粋主義 初めから、排外的な情念に彩られており、この概念でナショナリズムという言葉を
用いるとき、かろうじて、戦前の一時期の皇国史観のような極端な価値観を背負わせることとなる
であろう。
語の関連からたどってみると、ナショナルがネイションから起源し、「国民」「民族」がこの観念の
中核にあり、ネイティブ、ネイチュア、ナチュラルへと関連させていえば、「土着の」、「自然な」
「もとの」「本来の」といった概念に結びついていく。この関連でナショナリズム概念を考えれば、民
族主義、土着主義ともいえるし、場合によっては限りなく共同体の多元性を認める立場を範囲内に収め
ることも可能である。
一方、ネーション・ステートという言葉があり、普通「国民国家」と訳されるが、この言葉は近代国
家の本質的構造を表す概念として使われており、この用法で、ネイションは「国家」ではなく「国民」
であり、ステートの方は、国民を統合する組織形態、統治の状態を表わす。
ここにおいて、(無用の混乱をさけるために)、ナショナリズムという言葉を、過去、現在、未来に
わたる国民の安寧と諸権利(福沢のように「権理」という言葉を当てたいところだが)とを保障する機構
としての国家をその限りで肯定し、その建設と維持発展とを不断に目指す思想、というように定義してお
く。(ナショナリズムという言葉から、戦後の日本国民が抱きがちな情緒的マイナスイメージをひとまず
振り払っておきたい。また、この言葉が、旧弊を捨て新しい優れたものを取り入れる進取の気性という意
味ではないかのように考える戦後生まれの誤解を退けておきたい、ためである。)
私注 「権利」という言葉は、明治の創成期に外国法典を和訳した際に、原語に忠実であれば、「権理」
が正しかったそうであり、(現在のように)私的利害を場合によっては無原則に主張するものではもと
よりなかったそうです。
福沢が生きた時代は、あらゆる思想がナショナリズムに帰着するしかないような時代であり、新しく現わ
れたあらゆる政治思想、社会思想は、全てナショナリズムであり、それ以外に政治や社会を論じる者たちの
生き残る道はなかった。
福澤は、正真正銘の、それも卓越したナショナリストであった。
その心は、日本が否応もなく世界に自らを開いていかなければならない局面に立たされた時に、いかにす
れば西洋列強の攻勢に屈せずに一国の独立と国民の幸福を確保することができるか、という問題を文字通り、
いのちをかけて考え抜いた思想家という意味である。ここには、保守思想家・進歩的思想家、右左といった、
後世のわかりやすい理解枠組みによる抑え込みを許さない、時代そのものの迫力が見事に刻印されている。
三 「複眼性」ゆえの誤解されやすさ
誤解されやすい特徴・・・福澤の「複眼性」または「両眼性」、自由思想家(決してリベラリストではない。)
の特質としての変幻自在性
批判者が、(守旧派)であれば、伝統を否定する西洋追従主義者 と考え、批判者が、(リベラ
ル進歩派)であれば、民意を顧みない国権主義者 とする。
(Ex)ヘーゲル 右からは進歩主義者
左からは国家主義者 と言われた。(大きな思想の宿命)
四 「天賦の人権」でなく「天賦の不平等」
「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」
の後に、
「そういわれているのに、なぜ世の中はこれほど賢愚、貴賤、貧富の差が動かしがたくあるのかといえば、
元をたどっていくとその原因は学問をしたかしないかに帰着する。」
もちろん福澤は、この社会が平等に作られているなどとは少しも思っていなかったし、また能力、地位、
貧富、階級などの格差がなくなる完全平等な社会が実現可能だとも、そういう理想が素晴らしいなどとは
毛頭考えていなかった。
そのような空想を掲げるのはあまりに現実主義者だった。
人間が平等であるべきなのは、「権利通義」の領域に限ると何度も繰り返している。
法的人格とすればすべての人は平等に扱われるが、その他の点で人間がそれぞれ不平等な条件を背負って
いるのは動かしようもない事実であるとみなしていた。「天賦の人権」など信じてもいなかったし、鼓吹し
たこともない。
彼が「天賦」というときは、それはむしろ逆に「天下の不平等」を人々に気付かせるためである。
〈 左れば、天賦の身体に大小強弱あり、心の働きにも亦大小強弱なかる可からず。此睹易き事にして、古今
識者の大いに注意せざるは怪しむに堪えたり。(中略)如何に牽強付会の説を作るも、人の身体の強弱に
は天賦あり、心の強弱には天賦なしとの口実はなかる可し。畢竟、世の教育家が其教育奨励の方便の為に
事実を公言するのを憚り、遂に天賦論を抹殺して一般に之を忘れたるものなり。固より愚民多き世の中な
れば、無天賦論の方便も、時には可ならんと雖も、事実を忘れて、之が為に遠大の処置を誤るは憂う可き
の大なるものと言う可し。 〉(「時事小言」第六篇・明治14年)
他の教育者と同様に、「学問によって人は平等になる」、というラッパを吹きはしたが、前者が、ラッパ
を吹いているうちにそれを本当と信じて「事実を忘れてしまう」につれても、彼は常に「天賦不平等」の自
覚を持っていた。
五 国権と民権は相調和すべきもの
〈 政権を強大にして確乎不抜の基を立るは、政府たるものの一大主義にして政体の種類を問わず、独裁にて
も立憲にても、又或は合衆政治にても、苟もこの主義を誤るものは、一日も社会の安寧を維持する能わざ
るや明なり。合衆政治など云えば、其の字面を見て国民の寄合所帯のごとくに思はれ、何事も簡易便利に
して、官民の差別もなく、随て政令の威厳もなきもののように誤り認めるものあらんと雖も、唯是れ字面
上の想像のみ。其実際において政権の厳なる、或いは常に独立国の右に出るもの多し。 〉(「時事小言」
第六篇・明治14年)
福澤が民権論者であったか、国権論者であったか二者択一的な問いは、福澤思想にとって特に意味はない。
当時の世界帝国(英国)の威力の秘密は、ミドルクラス(ミッズルカラッス)(中間層)の力と喝破した。
維新革命は、たかまりつつあった「民」の気風である。
政治権力の強大さは、近代社会においては、「民」の承認のもとでこそ保障されるものであり、いったん国
権の機構が整備されるや、その権力の機能は、「民」の安寧に寄与する範囲で十全に果たされるべきである。
ここでは、原理上、国権と民権の対立などと云う命題は存在せず、逆に両者はそれぞれの持ち分を守り、そ
れぞれの不足するところを補い合い、そこに有機的な連絡性が常に維持されるのでなくてはならない。
それが、福澤諭吉の理念であった。
当時の民権思想は、決して国権それ自体と対立するものではなかった。
(封建制を打破して、天皇を中心とした強力な国民統合の体制を構築していくという基本的な方向性は同一)
(「ナショナリズム その神話と論理」 橋川文三)
藩閥体制は彼らにとって、「君側の奸」であった。
福澤は、日本の伝統的な権力偏重と、それにこびへつらい私利のために政府を利用することしか考えない民
衆の卑屈さを繰り返し批判し、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」(「文明論之概略」巻之五・
明治8年)と口を酸っぱくして嘆いた。
〈 中央の専制のみが先行し、それを支えるにふさわしい「民」の政治的気風や経済的実力が伴っていない、そ
れを官民相携えて進むべき健全なナショナリズム(国民主義=国家主義)の育成こそが焦眉の急であった、
当時の状況 〉
(機構上きちんとして「合衆政治」の権力の強大さは、独裁国のそれにも優るとも劣らないこと)、「合衆政
治」(デモクラシー)が実際の機構として整備されている場合は、大統領制にせよ議員内閣制にせよ、単なる
「民衆の支配」などではなく、確乎とした代議政治であること、そこに必ず権力の集中があってこそ正当に機
能するものであることを主張しており、適格な判断である。 〉
六 福澤は武士道を称揚したのか
福澤は、平等主義者でもなく、無原則な民主主義者でもなく、社会の安寧を守るためには正統的な国家権力の
存在が不可避であり、智徳相備えた中間層の存在こそがそれを支える主導部分と考えていたこと(「良識」に立
脚して自論を組み立てる思想家であったこと(西部邁))・・・・・・・一種の「精神のアリストクラシー」の
信奉者
*私註:アリストクラシー(貴族主義と訳されます。貴族主義政治(選民による政治)への志向とでもすべ
きでしょうか。)今でいうとノーブレスオブリージュとでもいうべきでしょうか。
西郷隆盛の擁護(丁丑公論)(ていちゅうこうろん)
(西郷隆盛が下野してから若手の不平士族の突き上げに遂に屈して西南戦争を起こしたてん末に絡めて)
彼のように度量の広い大人物をあのような窮地に追い込んだのは政府の責任であり、大きな損失である、
と政府を論難した。
(未発表) (以下省略)
ナショナリズムの昂揚期や、権力の弾圧の強い社会では、命をかえりみず、主義や信念に奉ずる気運が高
まるというのはよくみられる現象であり、福澤のなかにことさら武士道を嗅ぎ出す必要はないものである。
後の、勝海舟や榎本武揚(旧幕臣でありながら敗色が明らかになればさっさと降参して政府の要職に就いた)
に対する批判も、リーダーのあまりにあっさりとした変節ぶり(殊に榎本は五稜郭の戦いで多くの部下を戦
死させている)を非難していることに注意すべきである。
福澤は、「一命を顧みない犠牲的精神に共感はするけれども、それだけを行動として貫こうとしても、
「万機公論に決すべき」今日にあっては、玉砕するだけだから、尚武の精神を「変化」「変形」せしめて、
今日の時代に適応させるべきだ、その変形の役割を担うのが政府だ」、と主張している。
福沢諭吉に対し、勝海舟(江戸城の無血開城)が論じた言葉
「 行藏は我に存す。毀誉褒貶(きよほうへん)は人の常(他人の主張)、我に関せず、我に関わらず。
(勝海舟の言葉)なのである。」 出典 (明治書院)新釈漢文大系6 『荀子 下 』
私註:海舟批判書状の『痩我慢の説』への返事(ネットから抜粋)
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議
論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。
」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬ
ことと考えています。)
七 西洋文明とは受け入れざるを得ない麻疹(ましん)
「学問のすすめ」で、西洋文明の優れている点、いち早く日本が取り入れるべき点を強調したが、同時に無
批判に西洋文明のすべてを受け入れようとする西洋心酔者流、開化先生流の軽薄さを激しく批判した。
健全なナショナリストとしての福澤、マージナルマンとしての福澤(西部邁)
*マージナル‐マン【marginal man】
文化の異なる複数の集団に属し、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団
の境界にいる人。境界人。周辺人。
西洋文明のアジア進出を、麻疹として捉えている。
西洋文明には害もあることを明言しつつ、なお利益の方が多いので、それを選ぶほかない。いち早く
感染させて軽症のレベルにとどめ、免疫を得させることが肝要である。
国益主義、功利主義、リアリストとしての福澤
EX) 朝鮮の独立を目指した金玉均が起こしたクーデター(甲申事変)に際し、日本に逃れてき
た金玉均をかくまったが、清国政府に配慮した日本政府は、本人を小笠原に流した(金は上
海で暗殺される)。
清と朝鮮に対し、否定的な評価
後に帝国主義といわれ、日本もその仲間入りを果たすこととなった、「文明」の風潮を麻疹に譬えている
こと は、その避けられない流れを避けられないがゆえに受け入れざるを得ないと考えていたことをよく象徴
しており、同時に、国際社会の主流を決してそのまま肯定しているものではなく、一種のやくざ世界のように、
「力による勝負」の場と見抜いていた。
「文明」とはこのとき、力の強さを表わす指標以外の何者でもなかった。
ある主義や風潮への「惑溺」を何よりも嫌った福澤が、このような覚めた目で世界を突き放して見通すこと
ができたのは、彼がその思想体質として、機能主義・功利主義の精神を身体に沁み込ませていたことにほかな
らない。
(ただ一つ、キリスト教に対する見解は矛盾がある。)
(後 略)
八 機能主義的・功利主義的なナショナリスト
これまで、福沢諭吉は、近代国家形成期のさなかにあって、明確にその運命の如何を自覚したナショナリスト
であることを説く同時に、彼の機能主義的・功利主義的発想をも強調してきた。
この(相矛盾する)性格を融合させた思想家が現にいたのだ。
彼は、愛国心や祖国愛といったような心情的要素を「偏頗心」(へんぱしん)といって突き放した表現で語
る。
また、重要なことは、この人間社会が、事実上、互いの幸福を最大の動機として組み立てられ、それを目指
して回転しているという現実、その現実の重さに気付くことであり、福澤は直感的にその現実を知り尽くした
思想家だった。
また、その直感は、彼が優れたナショナリストであった事実と少しも矛盾しないし、ナショナリストにして、
機能主義・功利主義ということこそ、思想家・福澤の真の面目がある。
〈 殊に日本国民の如きは、数百年来、君臣情誼の空気中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は、唯こ
の情誼の一点に依頼するにあらざれば、国の安寧を維持するの方略あるべからず。すなわち帝室の大切
にして至尊至重なる由縁なり。況や社会治乱の原因は常に形体にあらずして、精神より生ずるもの多き
においてをや。我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。其の功徳至大なりと云う可し。 〉
(「帝室論」(明治15年))
社会秩序が乱れるのは、情誼にもとづくいたずらな対立にあるのだから、そうした信念対立が非妥協的に
なって恐ろしい事態を引き起こさないためには、人民の激した感情を慰撫する不偏不党の大きな緩和勢力がな
ければならず、それはあらゆる政治勢力を超越したすべての日本人にとって精神の源となるような形をとって
おかなくてはならない。
それこそが「帝室」の役割だというのである。
「国の安寧を維持するの方略(方便)」ときっぱり言い切っている。
立憲君主体制での皇室の機能を的確に論じたもので、後の「天皇機関説」の先取りを為すものである。(帝
国憲法の公布と帝国議会の開会の数年前)統治というものは、ダブルスタンダードをもともと本質構造として
抱えるのであって、いわば「顕教・密教」の密教部分では、天皇が立憲君主制の一機能に過ぎないことは自明
のことであった。
福澤は、皇室へのあまりのひいき感情から、皇室第一主義の「官権党」なるものを作って「党」として政治
参加するような傾向を危険なものとして退けている。
こうした極端な党派性の伸張がやがて極端な皇国思想を生み、昭和の軍国主義につながり、中庸と均衡を重
んじ「惑溺」を排した福澤の最もよしとしない傾向であった。
九 公智・公徳、両方の必要性
国体論への言及
国体 その国の国民が政治の実権を握っていること
例外)傀儡政権、GHQ主導などは例外(占領下は国体は失われていた。)
ナショナリズムの実質的な確立を維持することで、意味がある。
知と徳について
智徳は人間精神の発展にとってもどちらも欠いてはならない車の両輪のように重要な要素であり、知と
徳にはそれぞれ私的なものと公的なものがあり、
私徳、公徳、私智、公智があり、
私徳は、潔白や謙遜のように、一心の内に属するもの、
公徳は、公平や勇強などのように人間の交際上に現われるはたらき、
私智とは、物の理を極めてこれに応ずること、
公智とは、人事(人や人に関連する事柄について)何が重大で、何が軽少あるかをよく判断し、時と場
所を察するはたらき、とする。
徳の特性として、私的なもの(内面の自己満足)に限定されやすく、その内容も古今東西ほとんどかわ
らない が、智の内容は無限に多様であり、いったん獲得されれば失われることがない。
徳はそれ自体自足的だが、智はもともと発展性をその本質として持っているので、その特性に徳が加わ
ることにより文明の無限の領野が開けてくる。
教育の根本精神は、自立心を培うこと、視野を広めて他者世界への想像力を養うことで、一方が他方を
互いに支えることであることから、徳育か知育かの問題ではない。
EX)反ゆとり教育、反徳育優先主義
福澤はひたすら、公智「世界に向かって視野を開き、人事に関する適切な判断力を養うこと」の重要性
を説いた。
福澤の知識論は、時間の経過に耐える普遍的な力を秘めていた。
十 福澤の時代と共通する現代の課題
福澤は、「文明の無限の発展」という最長期的な理念をまず大前提として、その途上にあるすべ
ての国が自らその理念を最大限に取り入れるところに近代国家の目標を見出し、その出発点に立っている日本
においては、まずひとりひとりの人間が文明の成果を正しく取り入れつつ、それぞれの立場でふさわしい形で
自立精神を養うこと、そしてそのことが国家の独立を確立するための必須条件であると考えた、ということで
あろうか。この考えかたに沿って「近代ナショナリズム」という概念を措定することがまっとうなやり方と思
う。
福澤は、日清戦争と日露戦争の間の、日本近代社会の黎明期と建設期の間になくなった。(希望に満ちた明
るいトーン)
(その後、明治末期から大正と、暗い困難な時代を経由する。)
( 中 略 )
現在の国際環境は、200もの大小の主権国家が群雄割拠する一種の「やくざ世界」なのだと言ってよい。つ
まり、他国と深く交渉しつつ自国の安全保障上の配慮を決しておろそかにしてはならないという点において、
福澤の生きた時代と共通する問題を私たちは抱えている。能天気な平和主義など、世界から笑われるだけであ
る。(ただ福澤の現代版はまだあらわれていない。)
福澤の強靭かつ柔軟な、そして良い意味でのプラグマティックな思想家魂をきちんと参照することによって、
現在の閉そく状況からの脱却のために必要とされる最も基本的な精神の構えといったものに対する示唆を得る
ことであろう。
ア 旧訓を参考にしつつ新しい時代にふさわしい新しいナショナリズムのあり方を構想すること。
イ 正負いずれの感情的反応をも超克した理性的な「ナショナリズム」概 念を鍛えなおすこと。
(私見: 終わりに当たって)
70年代の学生運動は、「反帝、反スタ(反米・反ソ)」という旗印で、当時の二極化の世界体制に抗うとい
うスタンスをとっていました。それは世界規模で考えても、当時、最も良識的な思想であったと思われます
(もし歴史的意義があるとすれば、これはその多くの部分を吉本などの少数のまともな知識人に負っています
。)。
その後、世界中の「左翼」(?)国家が、スターリン、毛沢東、カストロやポルポトなど、社会主義に名を借
りた全体主義‘収容所’国家の成立と裏面での大虐殺の実態、それらの影響下で馬鹿な理念を金科玉条にした
後進国(?)の指導者の退廃と無能ぶりとが徐々にわかってくるにつれ、「左翼国家」が自国民と他国の大衆
に対しいかにでたらめでろくでもないことをしているのかとか、また、後進国(?)のどうしようもないナショナ
リズムの状況とが徐々にわかってくるにつれ、対抗措置として、当面「(真の)左翼のナショナリスト」を名
乗ることにしました。
また、そのあとも、時代の推移とともに、「左翼」の歴史的な敗北と、無慈悲な資本主義の隆盛と実態、ま
たムスリム国家の中世のような宗教国家ぶりも視えてきてしまい、昔から疑い深い学生であった私は、その後
は、何と名乗るべきか戸惑うばかりでした(バカらしいけど、さー、よく、わからない、というのが本音でし
た)。
しかし、世界規模では今後とも「民族国家」の止揚(?)が困難であり、グローバリゼーションの進展が文
化と文化の対立の激化と、いわゆるやくざ社会のような力による制圧を招き、また、先の国連の事務総長のよ
うに安いナショナリズムに基づく恥知らずな発言が国際レベルで受容されるなら、調整機関としての国連にあ
まり期待ができないものとも考えられます。
この本「日本の七大思想家」を読んできて、苦闘の時代を生きてきた先人たちに学べないのは愧ずべきこと
である、という認識を新たにし、「奇跡のような」明治維新をやり遂げた「偉人」たちの成果を、馬鹿な政治
的指導者の浅慮のもとに棒に振るのは、私たちの祖霊に対して済まない、と(私は)思います。
「革新」という言葉も死語となりましたが、思想的な誤びゅう、思いちがい、「安い」正義はいつの時代にも
澎湃として起き上がり、無責任で、無節操な人々に支持されるものなのです。
「私たち」は、現在に不可避的に問われている、真正の「ナショナリズム」の現状を認識すること、「共同幻
想」につながる、国家、社会、家族についての自己の考察と内部了解を起点に、自らを鍛えつつ、馬鹿な理念
にだまされたり、足をすくわれたりせず、生きていきたいものです。
(小浜さんのいう教育の後半目的「視野を広め、他者世界に関わる想像力を養うこと」は、本当に大事なこと
です。)
小浜の認識はさらっと書いてありますが、彼の達成は大変優れたものです。社会科学の概念は鍛えに鍛えた
ものですから、つまらない理念に覆されること(自分がくつがえされたらそこまでですが)は決してないもの
です。例えば、このたびの「教育」の概念規定も見事な達成です。応用もききますので、本と同様に、何かの
時に、レジュメも見返してください。
個人的にいえば、吉本体験以来、吉本に助けられながら、日本の思想家、世界の思相家・哲学者の著書に触
れてゆきました。また、後継者としての、小浜逸郎、竹田青嗣、瀬尾育生など、様々な批評家、社会学者、文
学者の名前や著書にも触れていきました。
マルクス、ヘーゲル、ハイデカーなど改めて大きな思想に知り合う契機もありました。
今回の皆様方が、それぞれに触れられ、深化され、「さらに先に行くこと」を願っています。
私にとっての関心は、ジョージ・オーウエルではないのですが、「右であれ、左であれわが祖国」なのです。
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