和辻哲郎(1889~1950)
その2
六 倫理と道徳は何が違うか
〈 団体は静的なる有ではなくして、動的に、行為的関連において存在するものである。前に一定の仕方に
よって行為せられたということは、後にこの仕方を外れることを不可能にするものではない。従って共
同存在はあらゆる瞬間にその破滅の危機を蔵している。しかも人間存在は、人間存在であるがゆえに、
無限に共同存在の実現に向かっている。そこからしてすでに実現せされた行為的関連の仕方が、それに
もかかわらずなお当(まさ)に為さるべき仕方としても働くのである。だから倫理は単なる当為ではな
くしてすでに有るとともに、また単なる当為ではなくしてすでにあるとともに、また単なる当為ではな
くしてすでにあるとともに、また単なる有の法則ではなくして無限に実現せらるべきものなのである。〉
倫理に対する本質観取(現象学に基づき反証として挙げていけば)、(竹田青嗣が「自由」を規定す
る方法と比べてみてください。)をするならば、
・道徳は具体的な禁止と命令によって成り立つが、倫理はア・プリオリ(先験的)にはそのようなも
のを持たない。
・道徳は法との対比(前者は内面の規範、後者は外的な規範)で対等に論じられることがおおいが、
倫理はむしろ法の構成を考えるときの思考基盤として、法をも広く包摂する。
・道徳は固定的・静的であるが、倫理はむしろ「たえず動く精神」と考えられる。
・道徳は文化によって異なる相対性を持つが、倫理はどんな時代どんな社会にあっても必ず人間生
活の根底で作用しているという意味で一種の絶対性、抽象性を保存している。
・人に優しく親切で弱い者を救ってくれる人のことを「道徳的な人」とはいうが、「倫理的な人」
とはまずいわない。
・たとえば、ニーチエや「罪と罰」のラスコーリニコフを反道徳的思想の持ち主と呼ぶことはでき
るが、彼らは反面、道徳問題で苦悩して頭をおかしくすることからして、極めて倫理的な突き詰
めを行っているとみなして差支えないと考えられる。
以上を突き詰めていくと、道徳とはある共同性の中で固定された内面的戒律である。倫理とは、
それら諸道徳のあり方の妥当性をたえず問い続ける、人類にとっての普遍的な精神活動である。
したがって、人間社会ではどこでも「倫理学」(「学」とは問い続ける営みである。)が、
「何が倫理的であるの か、何がより正しいすじみちであるのか」という問い、が成り立つ場
所がある。
七 和辻倫理学における善悪の原理
倫理とは、それら諸道徳のあり方の妥当性をたえず問い続ける、人類にとっての普遍的な精神活動で
ある、ならば「善悪」とは何なのか、という問いが生じる。
人間の本質を「間柄」的存在として把握する。(私見:確か、精神科医の木村敏が、人間の精神の病
は、「じんかん」(人間、人と人とのあいだ)の病であると言っていたように思います。)
「間柄」を媒介するのは長い歴史的過程を積み重ねてきた「実践的行為的連関」である。
抽象的には、全と個の弁証法的運動として捉えられ、
具体的には、それぞれの人間における社会性と個人性との矛盾の統一、となる。
〈 人は何らかの共同性から背き出ることにおいて己の根源から背き出る。この背き出る運動は行為とし
て共同性の破壊であり自己の根源への背反である。だからそれは共同体にあずかる他の人たちからヨ
シとせられぬのみならず、自己の最奥の本質からもヨシとせられぬ。それが「悪」と呼ばれるのであ
る。(中略)何らかの共同体から背き出ることにおいて己の根源から背き出た人は、さらにその背反
を否定して己の根源に帰ろうとする。この還帰もまた何らかの共同体を実現するという仕方において
行われる。この運動もまた人間の行為として、個別性の止揚、人倫的合一の実現、自己の根源への復
帰を意味する。だからそれは共同性にあずかる人々からヨシとせられるのみならず、自己の最奥の本
質からもヨシとせられる。それが「善」である。してみれば、ここでヨシとする感情に基づいて善の
価値が成り立つのではなく、行為自体がその本源への還帰の方向であるがゆえにヨシとせられるので
ある。)(文中の部位はシューラ―の引用)本論1章第五節)
ここだけを(浅く)読めば、共同性から背反することが「悪」であり、共同性へ復帰することが
「善」である、となるが、反論として、
ア どんな現実的な共同性も有限相対的なものに過ぎないのであるから、背反自体が「悪」であれば、
同時に「悪」そのものの絶対的な本質を言い当てられなくなる。
イ(和辻がいうように)全体性からの背反として個別化することは、人間存在の無限の運動の一契機
として積極的な意味が込められており、単純に「悪」とは決めつけられず、「これは悪しき共同体
である」という自覚を持った個人が、その共同性から背反する行為は、むしろ「善」というべきで
はないのか。
〈 絶対的否定性の自己還帰の運動は、自己背反の契機なしにはあり得ない。愛の結合や自己犠牲は善と
されるが、しかしこの「善」があるためにはまず個人の独立化すなわち悪がなくてはならぬのである。
そうすれば悪は善を可能にする契機であり、したがって悪ではなくなる。(中略)そのごとく個人の
独立なくして人倫的合一も実現されえない。(中略)その限り個人の独立は善であり、全体性からの
独立も善である。否定の運動が動的に進展して停滞しない限り、善に転化しない悪はないのである。
(中略)独立化の運動はその背反的な性格においてはあらゆる悪の根源であり、還帰運動の契機とすれ
ばあらゆる善の必須条件となるものであるが、背反をさえなし得ずして停滞する人間存在は、また還
帰へもなし得ぬ。すなわち悪に堪え得ぬものは善をも実現しえない。独立化の運動を停止して共同性
のなかに眠るのは、畢竟人間存在の自覚的本質の喪失であり、したがっていわゆる「畜群」への頽落
である。(中略)しかし、また他の場合には、独立性の止揚すなわち否定の否定による還帰運動の停
滞(中略)が見られる。(中略)それは一時的な否定において否定の働きを停滞せしめることにほか
ならない。そうしてこの停滞とともに背反の積極的意義は失われてしまうのである。背反が還帰の運
動の契機として善を成り立たしめるのであるが、その連関から引き離された場合には、もはや善に転
化しえない悪の根源となる。それは悪の固定であって、古来極悪とせられるものに相応する。 〉
(本論1章第五節)
こうして、共同性の内部においても、背反した場合においても、「善」と「悪」の契機は両義性
として存在する。共同性から個人へ、個人から共同性へと転化していく人間存在の本来的な運動過程
を「停滞」させることが、絶対的な「悪」なのである。
(小浜は)このくだりで、「善悪」とは何かという問題を見事に説いて見せた和辻の論理性と洞察
力の凄さに深い感動を味わった。他にこれほどの優れた善悪規定はない。
決定版といっても過言ではない。
いかに優れているか列挙すると、
ア 善悪相対主義を克服している。
素朴な善悪概念での思考停止 ×
シニカルな相対主義による善悪否定での思考停止 ×(私見:ポスト・モダン?)
人間が社会を構成し、その社会を誰にとっても良いものとする努力が厳然としてある以上、絶
対的な根拠がなければ理に合わない。「善悪」には絶対的な根拠規定が可能(和辻は可能であっ
た。)
イ 特定の行為そのもの(例えば殺人)だけをさして、絶対悪とすることはできない、という心理が、
よくわきまえられている。
「汝殺すべからず」は、倫理規定ではなく、道徳的規定であり、相対的規定である。(戦争時、
平和時の違い)(社会の容認する殺人(敵の殲滅、正当防衛、犯罪人の処罰など)
和辻は、道徳の相対性を知悉しているがゆえに、意図的に異なる方法をとっている。(具体的な
行為そのもので、善悪判断はできない。)
ウ これまで、さまざまな倫理思想でこの難問題の、善悪を絶対的に根拠づけようとしてきたが、
(和辻の善悪規定は)人間存在がどういう本質を持っているかという、人間論哲学から、必然的に
演繹されているため、もしこの「間柄」と「実践的行為的連関」と「全体と個との弁証法的な運
動」の哲学が人間を総体として把握する広がりを持つならば、これまでの様々な倫理思想を包括
しうる力を持つ。
エ 共同性からの背反・独立そのものを「悪」とはみなさず、むしろ「善=本源への還帰の運動」へ
と向かう否定的契機とみなし、背反や独立への固着と停滞を「悪」として、返す刀で創造性を扼殺
する共同体への眠り込みを「畜群」への頽落と規定する和辻の倫理思想は、私たちの生活実感に見
事に適合している。
EX)かく乱行為はすべて悪いのか?
テロ(?) ×、オーム ×
中世の一向一揆 △
キリストの行動 ○、大化の改新 ○
畜群への頽落(発展の停止した共同性への眠り込み) 植民地時代のアジア
オ そもそも道徳感情や価値感情といった人格の一部が善悪の原理になるといった論理は本末が転
倒している。高潔な人格の持ち主の道徳感情や価値感情は、善悪の原理の原因ではなくむしろ結
果として個人のなかに根づいたものである。
これを普通私たちは「良心」と言っているが、良心は初めから存在していたのではなく、共同態
としての人間が歴史過程を通して徐々に自ら根づかせたものである。
EX)戦争は悪であるという思想
男女平等は公正であるという思想
このように(道徳)感情は、歴史的社会的に作られていくのであり、道徳感情(良心)は、善悪
の原理をなすのではなく、なぜ一定の道徳感情や価値感情が存在するのかが説明されなくてはなら
ない。
和辻はそれに対し「人間存在の理法」を善悪の原理とする。
この関係論的・動態論的な理法が根拠になって、その総体としての構造の中から価値感情が生まれて
くる。
EX)不平等はなぜ悪いか?
人間が、生産活動や商取引や政治活動などの「実践的行為的連関」を通して、極端な格差が共同社会
の存続を危うくしひいてはそこに属する個々人をも危機に陥れるという知恵を学んできたからである。
(私見:ここあたりは小浜の独壇場でしょう。)
和辻は、「本源への還帰」へと向かう無限の運動が人間存在の本来的あり方であり、全体からの背反と
全体への復帰とをひとつの連続過程と捉えているから、背反それ自体はつねに善悪どちらの契機にもなり
うる両義的なものであるという論理を徹底して貫いている。
そのため、背反それ自体ではなく、背反の固定化すなわち「停滞」による、還帰の運動との関連からの
引き離されこそが「悪」であるという規定になっている。
このように、善悪に関する和辻の考察には人間存在とは何かという確固とした哲学的・形而上学的裏付
けによって基礎づけられている。
八 人間同士の信頼はなぜ成り立つのか
和辻の「本源への還帰」という場合の「本源」とは一体何を意味しているのであろうか。彼の本質規定
からすれば、それは「間柄」としての人間本質、関係存在としての人間本質を意味している。
本質への還帰とは、そうした人間体質への「帰来」ということとなる。
和辻哲学のキーワードとして、「信頼」という言葉がある。
「人間存在は同時に信頼の関係であり、人間関係のあるところに同時に信頼が成り立つのである。」(本
論2章第六節)
〈 信頼の現象は単に他を信ずるというだけではない。自他の関係における不定の未来に対してあらか
じめ決定的態度をとることである。かかることの可能である所以は、人間存在において我々の背負
っている過去が同時にわれわれの目指していく未来であるからにほかならない。我々の現前の行為
はこの過去と未来との同一において行われる。すなわち我々は行為において帰来するのである。そ
の行為の負っている過去はさしずめ昨日の間柄であるにしても、その間柄は何かを為し、何かを為
さないということにおいて成り立っていた。そうしてその為し、あるいは為さないことには同様に
帰来の運動にほかならなかった。したがって過去は無限に通ずる帰来の運動である。またその行為
の目指している未来はさしずめ明日の間柄であるとしても、この間柄がまた何かを為し、あるいは
為さないことによって成り立つ筈である。だからそれも帰来の運動として無限に動いていく。現前
の行為はかかる運動を背負いつつかかる運動を目指していくのである。この行為の系列全体を通じ
て動くものは否定による本来性への回帰にほかならない。現前の行為はこの運動の一環として、帰
来という動的構造を持つのである。だからそれがいかに有限な人間存在であっても、本来性より出
でて本来性に還るという根源的方法は失われない。我々の出てきた本が我々の行く先である。すな
わち本末究境等である。ここに不定の未来に対してあらかじめ決定的態度をとるということの最も
深い根拠が存するのである。 〉
人間同士の「信頼」が可能であるのは、未来にむかっての行為と目されるものが、過去の行為的連関の
関係を条件としながら常に人間の本来性から出て、本来性に帰りくるところに成り立つとの根拠にしてい
る。(「信頼」という人間の善性に着目しているが)はたしてそうなのかという問題が生じる。
私たちは(多くの)行為において、純粋な「信頼」を媒介としてではなく、むしろ、いくらかの不信を
も「信頼」しつつ(計算済みで)何かを為したりなさなかったりしているのではないか。
EX)買い物をする場合の状況(信頼のなかにある不信:お金と商品の相互引き渡し)
考え方とすれば、不信があらかじめ「信頼」に盛り込まれているからこそ、人は倫理的な構えを必要と
する。
「不信」は、(和辻のひそみに倣えば)「信頼」の否定態であるが、この「否定態」こそが逆説的に人
倫を支えていると考えことも不可能ではない。
九 ハイデガーの「本来性」とは逆
人間存在の本来性とは?
ハイデカーと和辻との真っ向からの対立
ハイデカー 普通の人間が平均的日常を生きるとき、死すべき存在を直視せず、
隠ぺい装置を作る。空談と好奇心曖昧性。これらの支配によって、世間の人たちは「共
同空間」のもとに存する。・・・「頽落」(人間存在の非本来的なあり方)(惰性に流
され日常生活を送ってしまう)
(ひるがえって、)現存在の本来的なありかたとは、「死を、その本質である「現存在
の最も自己的な、没交渉的な、確実ではあるが不定な、追い越しえない可能性」として
直視し、そこへ立ちかえることである。そしてこの覚悟性(あらかじめ自分の避けられ
ない運命に対し腹を固めるということである。)によって、はじめて「良心の呼び声」
が聞こえてくる。
「良心の呼び声」とは、明らかに人間が(個人で)真の倫理性に目覚めるということ
で、ハイデカーは、倫理の立ち上がる場所を、日常的な人間交流のさなかに求めず、逆
にひとり孤独と死に向きあう地点に求めている。
(小浜は、)違和感を感じ批判してきた。(「癒しとしての死の哲学」「人はなぜ死ななければならな
いのか」小浜逸郎)
ハイデカーの方法は、人間を孤立した個人として捉える誤謬に陥っており、かつまた、キリスト教神
学の現代バージョンにほかならない。
倫理とは、(和辻の指摘を待つまでもなく)、関係存在(間柄存在)としての「人間」のあり方から必
然的に要請される精神の構えだからである。
和辻の徹底性について以下のように論ずる。
〈 しかるにハイデガーは、自他の間の主体的な張りを全然視界外におき、死の現象を通じて、ただ「自」
の全有可能性をのみ見るのである。従ってそこから人間存在の本来性と非本来性とについての、全然
逆倒された見解が生じてくる。(中略)右のごとき本来性の転倒は「死の覚悟」の意義を充分理解せ
しめなかった。ハイデカーの「死の覚悟」にあらわるる本来の面目は、あくまで「個人」のそれであ
って「人間」のそれではない。死の覚悟は自他の連関路となって、慈悲の行に究極するがゆえに、は
じめて「人間」の本来の面目を開示するのである。(中略)また彼は負い目あることを規定するにあ
たっても通例社会的に現れる負い目の現象から全然社会関係を排除することによって負い目の存在論
的規定を得ようとする。(中略)
この規定は他人との連関を抜き去ったものであるから、そこから他人に対する関係が出てくるはずは
ない。負い目が他人に対する関係であるためには、右のごとき負い目の規定のほかに自他関係そのも
のが加わってこなくてはならない。(中略)
そのとき始めて個人存在の有限性が他人に対する負い目の可能根拠であるといわれうる。(中略)し
かるにハイデガーは、「果たすべきもの」が単に個人の死に過ぎず、良心の声によって負い目の可能
性に呼びさまされることが単に死の覚悟に過ぎないことを主張しつつ、しかもそれらが道徳性の存在
論的制約をなすと説くのである。これは、神と人との関係から道徳性を説いた中世的な立場からただ
神だけを抜き去って説こうとする抽象的な考えであって、道徳性の真相にふれるところがない。 〉
(本論1章第五節)
キリスト教文化圏の倫理性 ---「個人と神」との関係にのみ倫理性、道徳性の根拠をおこうとする全
体的な傾向への痛烈な違和感(私見:遠藤周作などの通俗的な小説に同様に感じました。)
(結果的に、パスカル、カント、キルケゴールも批判の対象になる。)
(小浜)人間は現世において関係を背負いながら、しかも個人としてはそれぞれバラバラに死んでいく
存在である。たとえば借金を抱えつつ、それを未済のまま死んでしまうことがありうる。つまり「個人存
在の有限性」がのがれられない事実としてあるために、具体的な「関係」の方はどうしても完全に精算す
るわけにはいかないのである。誰もが人間として抱えるそういう根源的な不条理によく目を凝らすならば、
現世における自他関係と個人死(あるいは離別)との処理のつかなさの感覚こそが、倫理道徳の発生場所
なのであって、ハイデガーのように「本来性(自己にかえること)」なる抽象を施したうえで、その中に
道徳の根拠を定位することは、現実の「負い目」の成立条件を隠ぺいすることにほかならない。
和辻はそのようにいいたかった。
(単純化すれば)
西洋に負いては、神と個人というタテの関係に善悪の根拠を求めるのに対し、日本ではあくまで
「世間」の具体的な人間関係を捨象せず、いわばヨコの関係に善悪の根拠を求める(私見:よ-く理解
できます。)。
(差異を興がるのではなく)人間存在の「張り」(空間性)を重視する和辻に組みする。
(タテの西洋的思考にせよ、よく考えれば、自分たちの観念が、実は人間存在の関係論的なあり方を観念
化したものに過ぎないということに納得せざるを得ないのではないか。)
十 和辻・ヘーゲルに見る経済的組織の内在的人倫性
倫理学第3章は、「人倫的組織」として、哲学的考察を現実に適用した章である。
二人共同体としての夫婦、親子、兄弟姉妹、家族共同体全体、親族、地縁共同体、経済的組織、文化共
同体、そして国家と続き、これらの代表的な共同体における、それぞれ人倫の特質が詳しく論じられている。
(小浜が評価する点)
ア 企業などで代表される「経済的組織(その総合は市民社会を形作る)」は、他の人倫的組織と同
様に、本来、内在的な人倫性を備えているのだと主張している点である。
イ 「欲望充足を目的とする私的経済人」という近代西洋の発想になる経済学的仮定から経済的組織
を論ずることが、特殊な歴史的、社会的事情から発したものであり、経済組織に本来備わっている
人倫性の事実を見ない、偏頗なものであることを指摘すること。(現在では常識的な認識となっ
た。)
〈 欲望充足を基礎概念とする経済学にあっては、経済活動において結ばれる人間関係は欲望満足のため
の手段にすぎないのではあるが、原始経済の事実が示すことに拠れば、経済活動において結ばれる人
間関係は人倫的組織としてそれ自身の意義を保ち、欲望満足はただこの組織実現のための媒介に過ぎ
ないのである。 〉(本論3章第五節)
〈 人は己の職分において家族共同体や、隣人共同体を超えた広汎な公共的共同存在を実現するのである。
この人倫的な意義にとっては、職分の差別は問題ではなく、ただいかにその職分をいかに良くつくし
ているかのみが問われなくてはならない。おのが利福のみを念として職業に従事するのは職分を尽く
すことにはならない。公共的な世間のためにこの職業において奉仕する、というのが職分の自覚であ
る。 〉( 同前 )
(小浜によれば)労働はそれを行うことによって、当の個人の社会的人格が他から承認される不可欠の媒
介であって、自ら人間としてのアイデンティティを獲得するための最大の条件であるといいたいところであ
る。(小浜逸郎「人はなぜ働かなくてはならないのか」)
和辻とヘーゲルの比較について
(小浜の好きな、ヘーゲルの言葉を引用して)
〈 金持ちはあれこれ購入して、たくさんのお金を支払うが、世間ではよく、そんなことはしないで、そ
の金を貧乏人に施せばいいのに、という。実際、金持ちの慈善行為は金を施すのと同じことなのだが、
金を施すより、労働の対価としてだけお金を支出する方がずっと道徳的です。それによって他人の自
由を承認することになるのですから。
だから、市民社会の文明化が進むと、慈善施設はだんだん減少していくので、というのも、自分の必
要とするものを自分で手に入れるのが人間らしいことだからです。全体の暮らしが慈善を土台とする
よりは、産業を土台とする方がはるかに人間らしい共同体です。 〉(ヘーゲル「法哲学講座」)
(私見)ユニセフの飢餓キャンペーンを連想しませんか?夕食時にBSで流される放送は不道徳的(?)で
す。飢餓は第一義的に、その飢餓を所掌する政治権力に責任があり(吉本が言ってます。))、それ以
外の国の人々で、アジアやアフリカで貧困を解決しようとしている人は、現に、特産物の生産や、特産
手芸などの育成を実施しているではありませんか。東北大震災でも同じではないでしょうか。寄付では
なく、経済活動を支援する基盤整備と、購買協力がまず先でしょう。安い正義はやめにして、個々の自
立した民族国家としての、本来的な支援が欲しい、ものです。(できないのは、政治の貧困です。)無
条件の寄付は人間の堕落にもつながるのです。一方的な贈与を皆が望むとは思えません。また、贈与に
依存する国家も集団も不健康で、本来的に貧困な存在です。全世界から寄付で賄われる、国連は別にし
ても(あまり期待しないことです)。
和辻の人倫性は、「贈り物」「奉仕」といったような、人間の活動に含まれる個と共同との二重の意義を
繰り込んでいないきらいがあるのに対し、ヘーゲルのそれは、人間がいかなる時代・社会にあっても、奴隷
的拘束からの自由を求める存在である、という本質規定をはずしていない点である。
和辻の「奉仕」は現代ではそぐわないが、職業人は有能になればなるほど「相互奉仕」の精神の大切さを
実感するし、逆に「相互奉仕」の精神を大切にすることは有能であることの条件である。
十一 人間の暗黒面への視線の欠如
和辻倫理学の物足りなさ・・・人間の暗黒面に対する戦いが希薄である。
なぜなら、和辻自身の調和的、円満な資質は美や優しさを愛する心と連動し、宗教に対しても過
度に寛容となる。
EX)キリスト教の血で血を洗う陰残な歴史と、植民地支配の道具となった歴史、その暗黒
面に触れないことは許されない。(ニーチェの苛烈な根源的な思想(思想は血で書け)
との比較)
穏健で調和的で肯定的な姿勢であり、彼の「文化史」的記述を予定調和的な枠組みに閉じ込める結
果となってしまっている。
〈 土着的農村生活はしばしばかかる隣人的存在共同を実現している。(中略)そこでも人はある「家」に
うまれるが、しかしその家は本来すでに「隣り」と並んだものであり、したがって初めより隣り合う家
にあっては、親たちはすでに久しく隣人的存在共同を、すなわち遠くの親戚よりも親しい間柄を形成し
ている。そこに生まれた子らにとっては、隣の親たちは記憶以前よりさまざまの配慮や慈しみを加えた
親しい人たちであり、隣の子らは記憶以前よりさまざまの遊びをともにした仲間である。そこに緊密な
存在の共同、深い相互の信頼、家族に似た愛情などの成立するのは当然であろう。かくて育った子らが
ようやく労働に参加しうるに至れば、そこには労働の共同や利害の共同が待っている。一本の溝は彼ら
にとっては共同の灌漑を意味する。そこに豊かに水が流れ始めれば彼らの心は共に稲の苗に集中してく
る。麦を刈り田を植えるころの村人の存在は、いわば交響楽のようにともに鼓動しともに鳴っているの
である。 〉
これは、ほとんど桃源郷である。
現実には、しょっちゅう水利の争いを起こしたり、畔を密かに動かす陰湿ないたちごっこに明け暮れ
たり、・・・固定的な人間関係のため、少々の違和を奏でるものを村八分にしたり、・・・・
和辻は祝祭を無条件に共同の喜びの爆発のように描いているが、祭りという「ハレ」が、「ケ」とい
うつらさや葛藤の息抜きであったこと、「ケンカみこし」と言って、普段から気に食わない家を祭りの
際にこれ幸いと破壊してしまう風習は(筆者の小さいとき存在した)あった。
現在都会に住む大多数にとっては、隣人共同体といっても全くピンとこない。
昔も今も和辻が描くような牧歌的な隣人共同体は幻想としてしか存在しない。
和辻の功績として、その基礎をなす「間柄存在における実践的行為的関連」という人間感を徹底的かつ
体系的に展開してみせたという意味で、普遍的水準に到達している、と考える。そして、あの緊張した戦
争期において、西洋の並み居る巨大な思想家と対等な立場で格闘を演じ大いに善戦したことを、世界に対
し何度でも発信したい。
その2
六 倫理と道徳は何が違うか
〈 団体は静的なる有ではなくして、動的に、行為的関連において存在するものである。前に一定の仕方に
よって行為せられたということは、後にこの仕方を外れることを不可能にするものではない。従って共
同存在はあらゆる瞬間にその破滅の危機を蔵している。しかも人間存在は、人間存在であるがゆえに、
無限に共同存在の実現に向かっている。そこからしてすでに実現せされた行為的関連の仕方が、それに
もかかわらずなお当(まさ)に為さるべき仕方としても働くのである。だから倫理は単なる当為ではな
くしてすでに有るとともに、また単なる当為ではなくしてすでにあるとともに、また単なる当為ではな
くしてすでにあるとともに、また単なる有の法則ではなくして無限に実現せらるべきものなのである。〉
倫理に対する本質観取(現象学に基づき反証として挙げていけば)、(竹田青嗣が「自由」を規定す
る方法と比べてみてください。)をするならば、
・道徳は具体的な禁止と命令によって成り立つが、倫理はア・プリオリ(先験的)にはそのようなも
のを持たない。
・道徳は法との対比(前者は内面の規範、後者は外的な規範)で対等に論じられることがおおいが、
倫理はむしろ法の構成を考えるときの思考基盤として、法をも広く包摂する。
・道徳は固定的・静的であるが、倫理はむしろ「たえず動く精神」と考えられる。
・道徳は文化によって異なる相対性を持つが、倫理はどんな時代どんな社会にあっても必ず人間生
活の根底で作用しているという意味で一種の絶対性、抽象性を保存している。
・人に優しく親切で弱い者を救ってくれる人のことを「道徳的な人」とはいうが、「倫理的な人」
とはまずいわない。
・たとえば、ニーチエや「罪と罰」のラスコーリニコフを反道徳的思想の持ち主と呼ぶことはでき
るが、彼らは反面、道徳問題で苦悩して頭をおかしくすることからして、極めて倫理的な突き詰
めを行っているとみなして差支えないと考えられる。
以上を突き詰めていくと、道徳とはある共同性の中で固定された内面的戒律である。倫理とは、
それら諸道徳のあり方の妥当性をたえず問い続ける、人類にとっての普遍的な精神活動である。
したがって、人間社会ではどこでも「倫理学」(「学」とは問い続ける営みである。)が、
「何が倫理的であるの か、何がより正しいすじみちであるのか」という問い、が成り立つ場
所がある。
七 和辻倫理学における善悪の原理
倫理とは、それら諸道徳のあり方の妥当性をたえず問い続ける、人類にとっての普遍的な精神活動で
ある、ならば「善悪」とは何なのか、という問いが生じる。
人間の本質を「間柄」的存在として把握する。(私見:確か、精神科医の木村敏が、人間の精神の病
は、「じんかん」(人間、人と人とのあいだ)の病であると言っていたように思います。)
「間柄」を媒介するのは長い歴史的過程を積み重ねてきた「実践的行為的連関」である。
抽象的には、全と個の弁証法的運動として捉えられ、
具体的には、それぞれの人間における社会性と個人性との矛盾の統一、となる。
〈 人は何らかの共同性から背き出ることにおいて己の根源から背き出る。この背き出る運動は行為とし
て共同性の破壊であり自己の根源への背反である。だからそれは共同体にあずかる他の人たちからヨ
シとせられぬのみならず、自己の最奥の本質からもヨシとせられぬ。それが「悪」と呼ばれるのであ
る。(中略)何らかの共同体から背き出ることにおいて己の根源から背き出た人は、さらにその背反
を否定して己の根源に帰ろうとする。この還帰もまた何らかの共同体を実現するという仕方において
行われる。この運動もまた人間の行為として、個別性の止揚、人倫的合一の実現、自己の根源への復
帰を意味する。だからそれは共同性にあずかる人々からヨシとせられるのみならず、自己の最奥の本
質からもヨシとせられる。それが「善」である。してみれば、ここでヨシとする感情に基づいて善の
価値が成り立つのではなく、行為自体がその本源への還帰の方向であるがゆえにヨシとせられるので
ある。)(文中の部位はシューラ―の引用)本論1章第五節)
ここだけを(浅く)読めば、共同性から背反することが「悪」であり、共同性へ復帰することが
「善」である、となるが、反論として、
ア どんな現実的な共同性も有限相対的なものに過ぎないのであるから、背反自体が「悪」であれば、
同時に「悪」そのものの絶対的な本質を言い当てられなくなる。
イ(和辻がいうように)全体性からの背反として個別化することは、人間存在の無限の運動の一契機
として積極的な意味が込められており、単純に「悪」とは決めつけられず、「これは悪しき共同体
である」という自覚を持った個人が、その共同性から背反する行為は、むしろ「善」というべきで
はないのか。
〈 絶対的否定性の自己還帰の運動は、自己背反の契機なしにはあり得ない。愛の結合や自己犠牲は善と
されるが、しかしこの「善」があるためにはまず個人の独立化すなわち悪がなくてはならぬのである。
そうすれば悪は善を可能にする契機であり、したがって悪ではなくなる。(中略)そのごとく個人の
独立なくして人倫的合一も実現されえない。(中略)その限り個人の独立は善であり、全体性からの
独立も善である。否定の運動が動的に進展して停滞しない限り、善に転化しない悪はないのである。
(中略)独立化の運動はその背反的な性格においてはあらゆる悪の根源であり、還帰運動の契機とすれ
ばあらゆる善の必須条件となるものであるが、背反をさえなし得ずして停滞する人間存在は、また還
帰へもなし得ぬ。すなわち悪に堪え得ぬものは善をも実現しえない。独立化の運動を停止して共同性
のなかに眠るのは、畢竟人間存在の自覚的本質の喪失であり、したがっていわゆる「畜群」への頽落
である。(中略)しかし、また他の場合には、独立性の止揚すなわち否定の否定による還帰運動の停
滞(中略)が見られる。(中略)それは一時的な否定において否定の働きを停滞せしめることにほか
ならない。そうしてこの停滞とともに背反の積極的意義は失われてしまうのである。背反が還帰の運
動の契機として善を成り立たしめるのであるが、その連関から引き離された場合には、もはや善に転
化しえない悪の根源となる。それは悪の固定であって、古来極悪とせられるものに相応する。 〉
(本論1章第五節)
こうして、共同性の内部においても、背反した場合においても、「善」と「悪」の契機は両義性
として存在する。共同性から個人へ、個人から共同性へと転化していく人間存在の本来的な運動過程
を「停滞」させることが、絶対的な「悪」なのである。
(小浜は)このくだりで、「善悪」とは何かという問題を見事に説いて見せた和辻の論理性と洞察
力の凄さに深い感動を味わった。他にこれほどの優れた善悪規定はない。
決定版といっても過言ではない。
いかに優れているか列挙すると、
ア 善悪相対主義を克服している。
素朴な善悪概念での思考停止 ×
シニカルな相対主義による善悪否定での思考停止 ×(私見:ポスト・モダン?)
人間が社会を構成し、その社会を誰にとっても良いものとする努力が厳然としてある以上、絶
対的な根拠がなければ理に合わない。「善悪」には絶対的な根拠規定が可能(和辻は可能であっ
た。)
イ 特定の行為そのもの(例えば殺人)だけをさして、絶対悪とすることはできない、という心理が、
よくわきまえられている。
「汝殺すべからず」は、倫理規定ではなく、道徳的規定であり、相対的規定である。(戦争時、
平和時の違い)(社会の容認する殺人(敵の殲滅、正当防衛、犯罪人の処罰など)
和辻は、道徳の相対性を知悉しているがゆえに、意図的に異なる方法をとっている。(具体的な
行為そのもので、善悪判断はできない。)
ウ これまで、さまざまな倫理思想でこの難問題の、善悪を絶対的に根拠づけようとしてきたが、
(和辻の善悪規定は)人間存在がどういう本質を持っているかという、人間論哲学から、必然的に
演繹されているため、もしこの「間柄」と「実践的行為的連関」と「全体と個との弁証法的な運
動」の哲学が人間を総体として把握する広がりを持つならば、これまでの様々な倫理思想を包括
しうる力を持つ。
エ 共同性からの背反・独立そのものを「悪」とはみなさず、むしろ「善=本源への還帰の運動」へ
と向かう否定的契機とみなし、背反や独立への固着と停滞を「悪」として、返す刀で創造性を扼殺
する共同体への眠り込みを「畜群」への頽落と規定する和辻の倫理思想は、私たちの生活実感に見
事に適合している。
EX)かく乱行為はすべて悪いのか?
テロ(?) ×、オーム ×
中世の一向一揆 △
キリストの行動 ○、大化の改新 ○
畜群への頽落(発展の停止した共同性への眠り込み) 植民地時代のアジア
オ そもそも道徳感情や価値感情といった人格の一部が善悪の原理になるといった論理は本末が転
倒している。高潔な人格の持ち主の道徳感情や価値感情は、善悪の原理の原因ではなくむしろ結
果として個人のなかに根づいたものである。
これを普通私たちは「良心」と言っているが、良心は初めから存在していたのではなく、共同態
としての人間が歴史過程を通して徐々に自ら根づかせたものである。
EX)戦争は悪であるという思想
男女平等は公正であるという思想
このように(道徳)感情は、歴史的社会的に作られていくのであり、道徳感情(良心)は、善悪
の原理をなすのではなく、なぜ一定の道徳感情や価値感情が存在するのかが説明されなくてはなら
ない。
和辻はそれに対し「人間存在の理法」を善悪の原理とする。
この関係論的・動態論的な理法が根拠になって、その総体としての構造の中から価値感情が生まれて
くる。
EX)不平等はなぜ悪いか?
人間が、生産活動や商取引や政治活動などの「実践的行為的連関」を通して、極端な格差が共同社会
の存続を危うくしひいてはそこに属する個々人をも危機に陥れるという知恵を学んできたからである。
(私見:ここあたりは小浜の独壇場でしょう。)
和辻は、「本源への還帰」へと向かう無限の運動が人間存在の本来的あり方であり、全体からの背反と
全体への復帰とをひとつの連続過程と捉えているから、背反それ自体はつねに善悪どちらの契機にもなり
うる両義的なものであるという論理を徹底して貫いている。
そのため、背反それ自体ではなく、背反の固定化すなわち「停滞」による、還帰の運動との関連からの
引き離されこそが「悪」であるという規定になっている。
このように、善悪に関する和辻の考察には人間存在とは何かという確固とした哲学的・形而上学的裏付
けによって基礎づけられている。
八 人間同士の信頼はなぜ成り立つのか
和辻の「本源への還帰」という場合の「本源」とは一体何を意味しているのであろうか。彼の本質規定
からすれば、それは「間柄」としての人間本質、関係存在としての人間本質を意味している。
本質への還帰とは、そうした人間体質への「帰来」ということとなる。
和辻哲学のキーワードとして、「信頼」という言葉がある。
「人間存在は同時に信頼の関係であり、人間関係のあるところに同時に信頼が成り立つのである。」(本
論2章第六節)
〈 信頼の現象は単に他を信ずるというだけではない。自他の関係における不定の未来に対してあらか
じめ決定的態度をとることである。かかることの可能である所以は、人間存在において我々の背負
っている過去が同時にわれわれの目指していく未来であるからにほかならない。我々の現前の行為
はこの過去と未来との同一において行われる。すなわち我々は行為において帰来するのである。そ
の行為の負っている過去はさしずめ昨日の間柄であるにしても、その間柄は何かを為し、何かを為
さないということにおいて成り立っていた。そうしてその為し、あるいは為さないことには同様に
帰来の運動にほかならなかった。したがって過去は無限に通ずる帰来の運動である。またその行為
の目指している未来はさしずめ明日の間柄であるとしても、この間柄がまた何かを為し、あるいは
為さないことによって成り立つ筈である。だからそれも帰来の運動として無限に動いていく。現前
の行為はかかる運動を背負いつつかかる運動を目指していくのである。この行為の系列全体を通じ
て動くものは否定による本来性への回帰にほかならない。現前の行為はこの運動の一環として、帰
来という動的構造を持つのである。だからそれがいかに有限な人間存在であっても、本来性より出
でて本来性に還るという根源的方法は失われない。我々の出てきた本が我々の行く先である。すな
わち本末究境等である。ここに不定の未来に対してあらかじめ決定的態度をとるということの最も
深い根拠が存するのである。 〉
人間同士の「信頼」が可能であるのは、未来にむかっての行為と目されるものが、過去の行為的連関の
関係を条件としながら常に人間の本来性から出て、本来性に帰りくるところに成り立つとの根拠にしてい
る。(「信頼」という人間の善性に着目しているが)はたしてそうなのかという問題が生じる。
私たちは(多くの)行為において、純粋な「信頼」を媒介としてではなく、むしろ、いくらかの不信を
も「信頼」しつつ(計算済みで)何かを為したりなさなかったりしているのではないか。
EX)買い物をする場合の状況(信頼のなかにある不信:お金と商品の相互引き渡し)
考え方とすれば、不信があらかじめ「信頼」に盛り込まれているからこそ、人は倫理的な構えを必要と
する。
「不信」は、(和辻のひそみに倣えば)「信頼」の否定態であるが、この「否定態」こそが逆説的に人
倫を支えていると考えことも不可能ではない。
九 ハイデガーの「本来性」とは逆
人間存在の本来性とは?
ハイデカーと和辻との真っ向からの対立
ハイデカー 普通の人間が平均的日常を生きるとき、死すべき存在を直視せず、
隠ぺい装置を作る。空談と好奇心曖昧性。これらの支配によって、世間の人たちは「共
同空間」のもとに存する。・・・「頽落」(人間存在の非本来的なあり方)(惰性に流
され日常生活を送ってしまう)
(ひるがえって、)現存在の本来的なありかたとは、「死を、その本質である「現存在
の最も自己的な、没交渉的な、確実ではあるが不定な、追い越しえない可能性」として
直視し、そこへ立ちかえることである。そしてこの覚悟性(あらかじめ自分の避けられ
ない運命に対し腹を固めるということである。)によって、はじめて「良心の呼び声」
が聞こえてくる。
「良心の呼び声」とは、明らかに人間が(個人で)真の倫理性に目覚めるということ
で、ハイデカーは、倫理の立ち上がる場所を、日常的な人間交流のさなかに求めず、逆
にひとり孤独と死に向きあう地点に求めている。
(小浜は、)違和感を感じ批判してきた。(「癒しとしての死の哲学」「人はなぜ死ななければならな
いのか」小浜逸郎)
ハイデカーの方法は、人間を孤立した個人として捉える誤謬に陥っており、かつまた、キリスト教神
学の現代バージョンにほかならない。
倫理とは、(和辻の指摘を待つまでもなく)、関係存在(間柄存在)としての「人間」のあり方から必
然的に要請される精神の構えだからである。
和辻の徹底性について以下のように論ずる。
〈 しかるにハイデガーは、自他の間の主体的な張りを全然視界外におき、死の現象を通じて、ただ「自」
の全有可能性をのみ見るのである。従ってそこから人間存在の本来性と非本来性とについての、全然
逆倒された見解が生じてくる。(中略)右のごとき本来性の転倒は「死の覚悟」の意義を充分理解せ
しめなかった。ハイデカーの「死の覚悟」にあらわるる本来の面目は、あくまで「個人」のそれであ
って「人間」のそれではない。死の覚悟は自他の連関路となって、慈悲の行に究極するがゆえに、は
じめて「人間」の本来の面目を開示するのである。(中略)また彼は負い目あることを規定するにあ
たっても通例社会的に現れる負い目の現象から全然社会関係を排除することによって負い目の存在論
的規定を得ようとする。(中略)
この規定は他人との連関を抜き去ったものであるから、そこから他人に対する関係が出てくるはずは
ない。負い目が他人に対する関係であるためには、右のごとき負い目の規定のほかに自他関係そのも
のが加わってこなくてはならない。(中略)
そのとき始めて個人存在の有限性が他人に対する負い目の可能根拠であるといわれうる。(中略)し
かるにハイデガーは、「果たすべきもの」が単に個人の死に過ぎず、良心の声によって負い目の可能
性に呼びさまされることが単に死の覚悟に過ぎないことを主張しつつ、しかもそれらが道徳性の存在
論的制約をなすと説くのである。これは、神と人との関係から道徳性を説いた中世的な立場からただ
神だけを抜き去って説こうとする抽象的な考えであって、道徳性の真相にふれるところがない。 〉
(本論1章第五節)
キリスト教文化圏の倫理性 ---「個人と神」との関係にのみ倫理性、道徳性の根拠をおこうとする全
体的な傾向への痛烈な違和感(私見:遠藤周作などの通俗的な小説に同様に感じました。)
(結果的に、パスカル、カント、キルケゴールも批判の対象になる。)
(小浜)人間は現世において関係を背負いながら、しかも個人としてはそれぞれバラバラに死んでいく
存在である。たとえば借金を抱えつつ、それを未済のまま死んでしまうことがありうる。つまり「個人存
在の有限性」がのがれられない事実としてあるために、具体的な「関係」の方はどうしても完全に精算す
るわけにはいかないのである。誰もが人間として抱えるそういう根源的な不条理によく目を凝らすならば、
現世における自他関係と個人死(あるいは離別)との処理のつかなさの感覚こそが、倫理道徳の発生場所
なのであって、ハイデガーのように「本来性(自己にかえること)」なる抽象を施したうえで、その中に
道徳の根拠を定位することは、現実の「負い目」の成立条件を隠ぺいすることにほかならない。
和辻はそのようにいいたかった。
(単純化すれば)
西洋に負いては、神と個人というタテの関係に善悪の根拠を求めるのに対し、日本ではあくまで
「世間」の具体的な人間関係を捨象せず、いわばヨコの関係に善悪の根拠を求める(私見:よ-く理解
できます。)。
(差異を興がるのではなく)人間存在の「張り」(空間性)を重視する和辻に組みする。
(タテの西洋的思考にせよ、よく考えれば、自分たちの観念が、実は人間存在の関係論的なあり方を観念
化したものに過ぎないということに納得せざるを得ないのではないか。)
十 和辻・ヘーゲルに見る経済的組織の内在的人倫性
倫理学第3章は、「人倫的組織」として、哲学的考察を現実に適用した章である。
二人共同体としての夫婦、親子、兄弟姉妹、家族共同体全体、親族、地縁共同体、経済的組織、文化共
同体、そして国家と続き、これらの代表的な共同体における、それぞれ人倫の特質が詳しく論じられている。
(小浜が評価する点)
ア 企業などで代表される「経済的組織(その総合は市民社会を形作る)」は、他の人倫的組織と同
様に、本来、内在的な人倫性を備えているのだと主張している点である。
イ 「欲望充足を目的とする私的経済人」という近代西洋の発想になる経済学的仮定から経済的組織
を論ずることが、特殊な歴史的、社会的事情から発したものであり、経済組織に本来備わっている
人倫性の事実を見ない、偏頗なものであることを指摘すること。(現在では常識的な認識となっ
た。)
〈 欲望充足を基礎概念とする経済学にあっては、経済活動において結ばれる人間関係は欲望満足のため
の手段にすぎないのではあるが、原始経済の事実が示すことに拠れば、経済活動において結ばれる人
間関係は人倫的組織としてそれ自身の意義を保ち、欲望満足はただこの組織実現のための媒介に過ぎ
ないのである。 〉(本論3章第五節)
〈 人は己の職分において家族共同体や、隣人共同体を超えた広汎な公共的共同存在を実現するのである。
この人倫的な意義にとっては、職分の差別は問題ではなく、ただいかにその職分をいかに良くつくし
ているかのみが問われなくてはならない。おのが利福のみを念として職業に従事するのは職分を尽く
すことにはならない。公共的な世間のためにこの職業において奉仕する、というのが職分の自覚であ
る。 〉( 同前 )
(小浜によれば)労働はそれを行うことによって、当の個人の社会的人格が他から承認される不可欠の媒
介であって、自ら人間としてのアイデンティティを獲得するための最大の条件であるといいたいところであ
る。(小浜逸郎「人はなぜ働かなくてはならないのか」)
和辻とヘーゲルの比較について
(小浜の好きな、ヘーゲルの言葉を引用して)
〈 金持ちはあれこれ購入して、たくさんのお金を支払うが、世間ではよく、そんなことはしないで、そ
の金を貧乏人に施せばいいのに、という。実際、金持ちの慈善行為は金を施すのと同じことなのだが、
金を施すより、労働の対価としてだけお金を支出する方がずっと道徳的です。それによって他人の自
由を承認することになるのですから。
だから、市民社会の文明化が進むと、慈善施設はだんだん減少していくので、というのも、自分の必
要とするものを自分で手に入れるのが人間らしいことだからです。全体の暮らしが慈善を土台とする
よりは、産業を土台とする方がはるかに人間らしい共同体です。 〉(ヘーゲル「法哲学講座」)
(私見)ユニセフの飢餓キャンペーンを連想しませんか?夕食時にBSで流される放送は不道徳的(?)で
す。飢餓は第一義的に、その飢餓を所掌する政治権力に責任があり(吉本が言ってます。))、それ以
外の国の人々で、アジアやアフリカで貧困を解決しようとしている人は、現に、特産物の生産や、特産
手芸などの育成を実施しているではありませんか。東北大震災でも同じではないでしょうか。寄付では
なく、経済活動を支援する基盤整備と、購買協力がまず先でしょう。安い正義はやめにして、個々の自
立した民族国家としての、本来的な支援が欲しい、ものです。(できないのは、政治の貧困です。)無
条件の寄付は人間の堕落にもつながるのです。一方的な贈与を皆が望むとは思えません。また、贈与に
依存する国家も集団も不健康で、本来的に貧困な存在です。全世界から寄付で賄われる、国連は別にし
ても(あまり期待しないことです)。
和辻の人倫性は、「贈り物」「奉仕」といったような、人間の活動に含まれる個と共同との二重の意義を
繰り込んでいないきらいがあるのに対し、ヘーゲルのそれは、人間がいかなる時代・社会にあっても、奴隷
的拘束からの自由を求める存在である、という本質規定をはずしていない点である。
和辻の「奉仕」は現代ではそぐわないが、職業人は有能になればなるほど「相互奉仕」の精神の大切さを
実感するし、逆に「相互奉仕」の精神を大切にすることは有能であることの条件である。
十一 人間の暗黒面への視線の欠如
和辻倫理学の物足りなさ・・・人間の暗黒面に対する戦いが希薄である。
なぜなら、和辻自身の調和的、円満な資質は美や優しさを愛する心と連動し、宗教に対しても過
度に寛容となる。
EX)キリスト教の血で血を洗う陰残な歴史と、植民地支配の道具となった歴史、その暗黒
面に触れないことは許されない。(ニーチェの苛烈な根源的な思想(思想は血で書け)
との比較)
穏健で調和的で肯定的な姿勢であり、彼の「文化史」的記述を予定調和的な枠組みに閉じ込める結
果となってしまっている。
〈 土着的農村生活はしばしばかかる隣人的存在共同を実現している。(中略)そこでも人はある「家」に
うまれるが、しかしその家は本来すでに「隣り」と並んだものであり、したがって初めより隣り合う家
にあっては、親たちはすでに久しく隣人的存在共同を、すなわち遠くの親戚よりも親しい間柄を形成し
ている。そこに生まれた子らにとっては、隣の親たちは記憶以前よりさまざまの配慮や慈しみを加えた
親しい人たちであり、隣の子らは記憶以前よりさまざまの遊びをともにした仲間である。そこに緊密な
存在の共同、深い相互の信頼、家族に似た愛情などの成立するのは当然であろう。かくて育った子らが
ようやく労働に参加しうるに至れば、そこには労働の共同や利害の共同が待っている。一本の溝は彼ら
にとっては共同の灌漑を意味する。そこに豊かに水が流れ始めれば彼らの心は共に稲の苗に集中してく
る。麦を刈り田を植えるころの村人の存在は、いわば交響楽のようにともに鼓動しともに鳴っているの
である。 〉
これは、ほとんど桃源郷である。
現実には、しょっちゅう水利の争いを起こしたり、畔を密かに動かす陰湿ないたちごっこに明け暮れ
たり、・・・固定的な人間関係のため、少々の違和を奏でるものを村八分にしたり、・・・・
和辻は祝祭を無条件に共同の喜びの爆発のように描いているが、祭りという「ハレ」が、「ケ」とい
うつらさや葛藤の息抜きであったこと、「ケンカみこし」と言って、普段から気に食わない家を祭りの
際にこれ幸いと破壊してしまう風習は(筆者の小さいとき存在した)あった。
現在都会に住む大多数にとっては、隣人共同体といっても全くピンとこない。
昔も今も和辻が描くような牧歌的な隣人共同体は幻想としてしか存在しない。
和辻の功績として、その基礎をなす「間柄存在における実践的行為的関連」という人間感を徹底的かつ
体系的に展開してみせたという意味で、普遍的水準に到達している、と考える。そして、あの緊張した戦
争期において、西洋の並み居る巨大な思想家と対等な立場で格闘を演じ大いに善戦したことを、世界に対
し何度でも発信したい。
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