天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

大瀧詠一(1948-2013)に対する私的なオマージュ

2017-09-13 20:45:27 | 歌謡曲・歌手・音楽
大瀧詠一氏がなくなられて、しばらく経ちましたが、かつて、私も、私なりに彼を偲ぶこととして、彼の曲及び彼の活動していた時代についての思い出と、彼の達成について謝意を表するため一文を草したことがありましたが、文案がどこかへ行ってしまいました。
このたび、久しぶりに、彼の曲を聞くことがあり、やはり、私には、彼の歌曲はいまだに色あせてないように思われました。
一昨年は、東京国際フォーラムで、彼の属した、「ハッピイ・エンド」というグループについて記念コンサートが開かれたとも聞きました。テレビで見ていても、当該「ハッピイ・エンド」に係るオマージュ行事として、その後の、歌手・グループの追悼番組も催されており、必ずしもファンは私だけでないと、思いいたりました。

以上のような経緯で、以下のように述べてみたい、と思います。
私が、最初に、「はっぴいえんど」を見たのは、中学生(昭和40年代後半)の頃くらいだと思いますが、彼らは、当時政治的フォークソング(?) の大看板、岡林信康のバックバンドをやっていました。岡林信康のことについては別の機会に述べることがあるかも知れませんが、その後の彼らの身の処し方(?)を見ていると、彼らに政治的な背景は薄かったように思われます。
むしろ、その後の彼らの発言、「日本語でロックをやりたい」などと、あわせて考えれば、政治的な時代ではあったが、私が思うに、やはり「音楽のための音楽」を、と主張できる、独自に音作りや好みに合う音楽を好む、スタジオミュージシャンへの過渡期のミュージシャン(音楽家)であったように思われます。
ということで、私は、いなかに住んではいましたが、4歳上の兄の影響だったのか、グループでおこなうフォークソングとかは一応聞いていました。ボブ・ディランとかは難解でしたが、PPM(ピーター、ポールアンドマリー)とか、ジョーン・バエズとかですね。そのときの日本人のコーラスグループといえば、今聴くのも嫌なグループはいくつもありますが、それらに当時それほど入れ込んでいなかったのは今思えば幸いです。
その後の、アメリカのウッドストック(ロックの野外コンサート)などの影響か、ヒッピー・ムーブメントの影響なのか「中津川フォークジャンボリー」など、泊りがけ野外コンサートなどが盛んになされ、多くの若者たちの間で流行に乗った、大音響の音楽、例の「ラブ&ピース」が流行った時期でありました。しかし、アメリカの国内運動としてのベトナム戦争(アメリカの若者には切実だったでしょう。)反対などに比べ、政治的な目標が希薄な日本では、それはたいそう、うそっぽく聞こえ、当時、意味もわからず付和雷同しつつ、いまいち盛り上がりを欠いていたのは確かです(一部馬鹿な若者(老人もいるか)たちが支持している、現在のグローバリズム運動と一緒です。)。
当時の、その出演参加メンバーのうち、今、覚えているのは、斉藤哲夫くらいです。当時、彼は、弾き語りでとても難解な歌を歌っていました。しかし、後年、友人に教えていただき、何度も愛聴した、彼の優れたアルバム、「グッドタイムミュージック」(1974年)には、心底、感銘を受けました。当時の大衆学生の生活感性とその実態にまさに同致するような、また詩情のあるアルバムで、良い音楽がそうであるようにアルバム全体が大きな統一と調和の中にあるようでした(たぶん、このアルバムは、ビートルズの名盤「サージエントペッパーズロンリーハーツクラブバンド」をも強く意識しています。)。斉藤哲夫の高音部のコーラスは絶品で、不遜にも私が歌おうとしても(カラオケはないのですが)どうしてもついていけません。私が歌おうとすると、うちの妻は心底嫌がりますが、今でも、CDで時々聞いています。一度、このアルバムを、あの小田和正が好きだ、と聞いたことがあり、「へー」と思ったことがあります。

当時のヒーローについて言及すれば、後年、狂人に射殺される直前のジョン・レノン(1940-1980年)のインタビュー記事を雑誌(月間プレーボーイ「日本版」)で読みましたが、彼らの先駆者としての偉大性や、貧困層から出た彼らの出自や苦闘、ビートルズの内部での葛藤、その後のそれぞれの生き方の違いは理解できたような気はしましたが、彼が語るすばらしい日本人女性(名家の出身らしいですが)オノ・ヨーコ(オノ・ヨーコさんが何の芸術家なのかよく知らないのですが)さんとの出会いや、彼女の主張はどうしても理解できなかったところです(今もですが)。当時、「優れた」芸術家同士のカップルでの相互影響と芸術的進展ははあったというかも知れませんが、私には信用できません。
遅れて参画したビートルズファンとして、率直に言わせてもらえば、解散後の、ジョン・レノンのアルバムは、隙が多くて本当につまらないですね。結果として、優れた対立者として親友ポール・マッカートニーたちと、憎みあい、格闘しながら作り上げたアルバムの方がはるかに優れているのは皮肉なことです。

その後、むしろ、「はっぴいえんど」は、自主制作で、スタジオ録音がしたかったのか、オリジナルのレコードを出すこととなり、「 Happy end 」とか「風街ロマン」などのアルバムが出ました。このあたりは、アルバムもちゃんと買っています。「風をあつめて」、「ほうろう」とか「氷雨月のスケッチ」など懐かしい曲です。さきごろ、「はっぴいえんど」オマージュのアルバムも出ていましたので、どうも先駆者として後進の(?) アーティストたちにも人気があるようです。
リーダーが、ベース、キーボードなどの細野晴臣、リードギターが鈴木茂、サイドギターとボーカルが大瀧詠一、ドラムスが松本隆でした。みな、後年大変有名になった人ですが、ロックのリズムに、日本語が載らないのかと、いろいろ実験的なことをやっていました。
 今も印象に強いのは、大瀧詠一のボーカルのよさです。眠たげな顔をした、ベストボーカリスト、大瀧詠一が、あの細い目で(あくまでイメージです。)「12月の雨の日」とか「風をあつめて」をうたっているのが、今も目に浮かぶようです。あの時代の、松本隆の作詞も、その後の商業作詞家(それも大事なことです。)に転進する前の、興味深い歌詞をいくつも書いています。
 その後は、才能ある方々の宿命でしょうが、それぞれが、自然自然に自分の得意分野で働くこととなります。

 大瀧詠一が、もっとも、音楽的・商業的に成功したのは、「 A Long Vacation 」(1975年)でしょうか。
 彼らの出自は明らかに団塊の世代であり、そのヒーローは、ビートルズやアメリカのフォークソングやロック、ポップスなど戦後最初にラジオで聞いた世代でしょうから、当時を考えれば、「豊かで自由なアメリカ」というイメージが出発にあるのでしょう。累計で、170万枚売れたということで、本当に時代にあったアルバムだったのですね。今回改めて聞いてみて、全体の曲調や音作りがスタジオで実験のようにされていて、全曲大瀧詠一と松本隆の合作とはいえ、相互扶助なのか他の細野や鈴木茂やその他のミュージシャンも同時に音作りに参加していて、親しみやすい明るい、楽しい曲調と雰囲気がこちらに伝わるようです。これは、当時、大変珍しい光景であったかもしれません。
 この、「 A Long Vacation 」の、アルバムもそのデザインが、明るく楽しく、暗さなど微塵もない美しいアメリカのリゾート(それがうそかまことか誰にもわからなかった。)を連想させるイラストで、是非ポスターで部屋に張りたいように思えた出来でした。作詞はもちろん、全曲ゴールデンコンビのかたわれ、松本隆です。
 A面の最初は、①「君は天然色」、という曲で、これぞアメリカンポップスという作品で、今は去った彼女への追想の曲で、「ディンギー(一人乗りのヨット・貧しい若者のヨットスポーツらしい。)もやった」、「夜明けまで長電話もした」、めくるめく楽しい時間を過ごした後で、彼女はその心のままに去ってしまう。セピア色の写真だけ残ったが、今も忘れられない、当時のように、美しく思い出はよみがえって欲しい、という曲です。「天然色」ということばはまさしく昭和ですが、当時の流行先端的なヨットに乗ったりと、それなりに青春を謳歌していたはずの彼らカップルも破綻し、心のままに行動する女の子は去っていく、という、いわば、きざで、気取った明るい光景です。たぶん、こんな歌は今までなかった新しい歌でした。三曲目は、③「カナリア諸島にて」、ということで、リゾートのビーチで(カナリア諸島らしい)くつろいでいる情景であり、70年代後半になりつつあったころでは、こんな歌も一般的になったということでしょう。続いて、④「Pap-pi-doo-bi-doo-ba 物語 」、というのは、彼女との恋の駆け引きのやり取りで、「言うことミーニングレス、やること羞恥レス」とかのユーモアや、「ひとこと言ったいったその日から、恋の花散ることもある」などと、警句も織り込まれ、捕まえようとしたら、その瞬間、身をひるがえし、逃げちまう、という話です。⑤「わが心のピンボール」、失恋の歌ですね、軽く流したという感じですが、村上春樹の初期の小説にもピンボールが出ていましたが、ピンボールマシンというのは現在の若い人には理解不能かも知れませんが、コインゲームであり、中高時代は遊技場の出入りが禁止されていましたので、当時は多少いかがわしいものであり、それに入れ込む若者は正統派(?) の若者ではないわけですが、やれば楽しく、それに入れ込むこともよくわかり、皆、ビリヤードの傍ら、最高点を目指し、やりこんでいました。盤面は、アメリカ流の悪趣味なイラストと、電光彩色、効果音がビンビンなり、まことにアメリカ的(?) でキッチュ(安ピカもの)なゲーム機です。それは、今の、ゲーム機遊戯に、きちんと引き継がれているかもしれません。ただ、歌詞にまったく出てこないのがわかりません。
⑥「雨のウエンズディ」、別離の場面ですが、古いフォルクスワーゲンの中でお互いに別れを予期した心理戦の話で、何食わぬ話しを続ける男女の会話で、おお、男は未練があるのですね、スミレ色の(春先の雨)の中で、当面抱き合っているしかないや、という情景であり、彼らの公休なのでしょう、水曜日の話です、つらいけど、じっと軽くやり過ごすという失恋の洗練された話です。私思うに、その後も、特に良い車とは思えない、旧式のフォルクスワーゲンがその後ももてはやされたのは、この歌に付加されたイメージがあるんじゃないですかね。現在の、ドイツ帝国のフォルクスワーゲン社は、実は、環境適合基準捏造の立派なブラック企業でした。⑦「スピーチバルン」、スピーチバルンというのは、英語であり、日本の漫画で言うセリフの吹き出しのことだそうです。港の岸壁での別離の情景ですが、間違っても演歌の俗な別れにならず、男女の悲しみが内向し、立場が岸壁とフェリーでわかれて、それぞれその悲しみと痛みを静かに感じ耐えているという情景で、「(出航を祝う)想い出のブラスバンド(の演奏)が耳元を過ぎる」とか、「投げたテープが絡まり気まずさだけが伝わって」とか、小道具もふんだんに用意され、永の別れを告げる詠唱のようで、もちろん、私のカラオケナンバーです(なかなか地味で静かな曲なので皆に受けませんが)。
⑧「恋するカレン」、この曲は、究極の失恋の歌であり、そのときの気持ちでいかようにも生きていく女の観念と、それがわからない男の観念との永遠のすれ違いの歌ですが、「恋の終わり」に、とどめをさすように、新しい彼に身を任せ踊る元かのじょに、壁際で、元カレが、詠嘆するという曲です。
何十年もカラオケで歌ってきて、しみじみ思ったのですが、最期には、これはまるでストーカーのように付きまとう、元カレに対する、彼女の心ある(?) 荒療治ではないかとも思われるわけです。「無理なものは無理」ということはなかなか男には理解できないところです。韓国には、「十度おして倒れぬ木はない」ということわざがあるそうで、韓国の男は、失恋しようが何であろうが、いくら既婚者であろうとくじけず言い寄る、とのことだそうです。いさぎよい、粘液質でないような(?) 日本人とすれば、そこまでは無理として(肌合いが違う)、「君は、本当の愛(本当かどうか実のところはよくわからないが)を棄てて、偽りの目先の幸せにすがりつく」と、嘆くしかないわけです。しかしながら、気持ちとしては、「良くある話だね」ではなく、「自らの愛が至上のものである」という男の気持ちに感情移入できないわけではありません。
中島みゆき大先生の歌では、時に相手の日本人の実名が入り、なかなか、生臭くなってしまいますが、この「恋するカレン」に対してであれば、いわば虚構として「永遠」が誓えるのではないでしょうか。結果として「男の自己愛」といえばそこまでではありますが。実例として、この曲は、さまざまな人がカバーしており、私は大瀧詠一以外のバージョンはあまり好みませんが、最期は、「 そうさ 哀しい女だね 君は 」で唐突に終わり、余韻を残すこの曲は、私、今も愛好しているところです。⑧「Fun × 4」、はめずらしくも得恋(そんなことばがあったのか)の愉快な歌で、彼女ができてその後一緒になすことなすことうまく行く(太田裕美のせりふが入ります。)という歌で、おもわずにやっとして、聞いているのがとても楽しい曲です。
 ⑨「さらばシベリア鉄道」、については、大田裕美のあまりに有名なヒット曲であり、いまさらことばを要することはないかも知れませんが、この曲は、どうも、姿を隠した恋人を、女側から追っかける歌みたいで、それが悪いというわけではありませんが、流行歌としては、「女が男を追っかける」というパターンが好まれるのかも知れません。

 いずれにせよ、このアルバムは、曲名の選択を見ていても、ビーチボーイズとか、ビートルズとか、米欧の良質なポップスの達成を、彼らが、豊かになりつつあった日本と、現代の日本の現実(相対安定期)を日本語で新たになぞってみようとする試みがあり、日本ポップス(断じて演歌でない。)の金字塔のようなもので、私を含め、多くの若者たちに支持されました。また、若き日の、大瀧詠一氏と松本隆氏のタッグマッチというところで、幸運な出会いでありました。
 このアルバムは、当時、空前の170万枚を売り上げましたが、過剰な人気は「ナイヤガラトライアングル」とか、自前のレコードレーベルを立ちあげるほど実力のあった、大瀧にしても、その後やりにくくなったことがあったかも知れません。先駆者の苦しみですね。その後、弟子筋に当たるような、佐野元春なども、彼の実績を足がかりに、新たな彼独自の音楽活動を始めましたが、それにつけてもすばらしい達成ですね。
 ずいぶん前ですが、FM放送の山下達郎の番組で、ゲストとして、大瀧詠一が招かれていたとき、「次のアルバムはいつ発売の予定ですか」と山下が尋ねたとき、「私もひとたびは天才と呼ばれた男、ですから」と、「天才(天災)は忘れた頃にやってくる」と、冗談めかして自らの(苦しい)心境を語っていましたが、当時の名声が、その後の彼の活動について大変な重圧もあったことも確かでしょう。

 その後も、「熱き心に」や、「夢であえたら」など、他の歌手に、楽曲を提供したりしていますが、やはり、私にとって、まず懐かしく忘れられないのは、このアルバムですね。
 その、大瀧氏が家族との会食の中で、急病で亡くなられてしまったというのは寂しい限りですが、演歌の藤圭子さんをはじめ、柳ジョージ氏、淺川マキ氏など、こちらの若き日によく聞いていた音楽家が、われわれの加齢と同様に次々なくなられてしまいましたが、引き続き、カラオケで追悼したいと思います(実は藤圭子さんの歌は歌う自信がないのですが)。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿