大塚まさじの唄った歌で、忘れがたい歌があります。
カラス(ガラス)の まどから 覗いてる
まてつ(満鉄) の きんぽたん(金ボタン)の ぱかやろう(馬鹿野郎)
さわるは ごじせん(50銭) 見るはただ
さんえん ごじせん(3円50銭)くれたなら
カシワ(鶏)のなくまで
ぼぼ しゅるわ(するわ)
上がるの 帰るの どうしゅる(どうする)の
はやく せいしん(精神) ちめなさい(決めなさい)
ちめたら 下駄もって 上がんなさい
お客さん このごろ 紙高い
ちょうぱの(帳場の) 手前も あるてしょう(あるでしょう)
おしうき(お祝儀) ごじせん(50銭) お出しなさい
そしたら あたいも せいだして(精出して)
ふたちも みっちも(二つも三つも) おまけして
カシワ(鶏)のなくまで ぼぼしゅるわ
雨が しょぽ しょぽ(しょぼ しょぼ) 降るぱん(晩)に
カラス(ガラス)の まどから 覗いてる
まてつ(満鉄) の きんぽたん(金ボタン)の ぱかやろう(馬鹿野郎)
(私の聞き取りでは、彼の唄では、言葉のそれぞれで、濁音が半濁音に変わったり、(わかりにくい部分は別にして)濁音がつかなかったように思います。それは、歌い手の恣意的なものかもしれません。)
この歌は、彼のアルバム(「昨日の悲しみに別れを告げるんだもの」)の中で初めて聞いた曲で、全くライナーノーツもなく、私の耳で、採歌したものです。ラジオ放送を連想させる雑音を効果音にした中で、彼はつぶやくように気怠く、弱く歌っていたこの歌は、私の過ごした学生時代(70年代後半)と、当時の私自身の貧しい思想・生活感性に強烈な「異和」を伝えていました。1974年、初めて聞きましたが、「旧満州の女部屋の歌だな」と思いながら、なぜかとても印象に残り、また惹かれてしまい、まだカラオケもない時代でしたが、学生時代の飲み会などで口ずさんでいました。
哀調のあるメロディーで、また、なりきり韓国語なまり(?) なのか、意味も分かりにくいところですが、デカダンス(おお太宰治)で、かわいたユーモアもあり、「田舎者(九州地方出身者)が、どこへでも、お仕着せの金ボタンの制服を着て、風を切るかのように、(下品な)下駄をはいて偉そうにあるき、精神を決めなければ女部屋にも上がれない、金にきたないバカやろう」を揶揄し、バカにし、「でも、チップさえもらえれば、サービスしますよ」、という歌です。この歌詞は、昔、あの亡藤圭子さんが「はしご酒」(1975年)で歌った、「顔や姿にゃ惚れないが、男らしさにしびれちゃう」、「・・・・・(お金が少ししかなくても)させてあげますいい思い・・・・」、「よってらっしゃい、よってらっしゃい、お兄さん」、と歌った、ことと近い意味で、言外に「お金をいっぱい使えば男らしいよ、サービスしちゃうわよ」、という意味であろうかと思います。言ってしまえば、幸福感も、不幸感も感じる余裕もなく、生きるための駆け引きの話でしょうが、しかし、単に管理売春(多くの日本人と少数の朝鮮人の娼婦を抱えた、当然民間企業です。)の娼婦が、生活や収奪の苦しさを隠れて歌っていた、悲しみや自嘲の歌というところでは、ちっとも面白くないところであり、またそれが、大衆の支持を受けてその後はやり歌になるとも思えない、わけです。
この歌が生き延びたとすれば、やはり、生活者がそれぞれの限られた現実の中で受感する、生活の、酸いも苦いもある大衆の歌として多くの人の記憶に刻まれたとしか言いようもない歌でしょう。
現在では、つらい歌、哀調のあるくらい歌は膾炙しないかも知れませんが、それを必要とする層も情況も現在にもあるわけです(私、批判を恐れず申し上げますが、「赤色エレジー」も好きです。)。
当時、私は、異和は異和として、「お前たち、こんな歌知ってる」と、披露するために歌っていたと思うのが、やっぱり当時の素直な気持ちであり、実際のところ、今に至るまで、私たちの好奇心や想像力は、どこに行きつくかわからないところですね。
先の「大塚まさじ」ライブハウスコンサートで、終了後、本人と話したところ、この歌は、「満鉄小唄」という当時の歌で、どこかで(舞台女優の)吉田日出子が歌っていた、と聞きました。私が、「とても、印象深い曲だった」というと、それは「よく理解できる」というような彼の答えでした。「放送禁止歌」になったのかと聞くと、「そうではない」といい、彼のこの歌が入ったアルバムは「CD化したけど、ばっちり入っている」、とのことだったので、「コンサートなどで歌わないのか」と聞くと、「今の時代では逆風だから・・・」との答えであり、それ以上は聞きませんでした。
しかし、(1974年)以来持ち続けた好奇心は別にして、一夜を明ければ(その瞬間を過ぎれば)わざわざ、アンコールでお願いするほどの曲でもないのが、今の、私の気持ちです。
私は、「好奇心で生きている」というテーゼは、あながち嘘でもありません。
ネットで、この曲を検索しましたが、この歌は、軍歌「討匪行」(とうひこう)の替え歌であるとの話でした。早速、ユーチューブで聞いてみましたが、藤原義江作曲という歌を、藤原義江の歌で聞いてみましたが、勇壮な行進曲と聞こえますが、「どこまで続くぬかるみぞ 三日二夜も食はなく 雨ふりしぶく鉄兜・・・・」と歌詞は決して勇ましいものでもないようです。小浜氏の指摘する「なぜ軍歌は悲しいのか」に属する歌のようです。
同時に、軍歌には替え歌がいくらでもある歌です。この歌が、どうも、少数朝鮮人慰安婦によって歌われたとは思えず、いい加減、厭戦気分になっていた、当時の多数の日本人慰安婦や、女部屋に出入りする男どもに支持されたものかもしれません。当然流行歌にも検閲があったでしょうから、検閲を経由しても、朝鮮人慰安婦(?)の独白のように作られた、その歌詞は、軍隊や日本の満州進出に対する厳しい批評と、場合によっては自嘲なのか、満州くんだりまでやって来た、日本人に対するあざけりが感じられます(局面を変えた「はしご酒」のようですね)。なかなか、興味深い歌で、私の好奇心を刺激します。
また、この歌を聞けば、併せ、年末の「日韓合意」を思い、昨年、「謝罪を継承しない」といった筈であった安倍内閣が、アメリカ政府に屈し、「当時の政府による女部屋設置の公式認定」(バカらしい)を見て、一昨年の朝日新聞の虚偽報道を経ながら、結局、何の活用も、解決もせず、占領軍コードの呪縛に屈した、その屈辱、ばからしさ、欺瞞性を憤り、大衆の一人として、行き所のない無力感にさいなまれるばかりです。
とにかく腹が煮えた。「いいかげんにしてくれよ。」と。
また、うちのゼロ歳の孫も、将来、韓国人と再度論争しなければならないじゃないか、と(負けるなよ。)。
カラス(ガラス)の まどから 覗いてる
まてつ(満鉄) の きんぽたん(金ボタン)の ぱかやろう(馬鹿野郎)
さわるは ごじせん(50銭) 見るはただ
さんえん ごじせん(3円50銭)くれたなら
カシワ(鶏)のなくまで
ぼぼ しゅるわ(するわ)
上がるの 帰るの どうしゅる(どうする)の
はやく せいしん(精神) ちめなさい(決めなさい)
ちめたら 下駄もって 上がんなさい
お客さん このごろ 紙高い
ちょうぱの(帳場の) 手前も あるてしょう(あるでしょう)
おしうき(お祝儀) ごじせん(50銭) お出しなさい
そしたら あたいも せいだして(精出して)
ふたちも みっちも(二つも三つも) おまけして
カシワ(鶏)のなくまで ぼぼしゅるわ
雨が しょぽ しょぽ(しょぼ しょぼ) 降るぱん(晩)に
カラス(ガラス)の まどから 覗いてる
まてつ(満鉄) の きんぽたん(金ボタン)の ぱかやろう(馬鹿野郎)
(私の聞き取りでは、彼の唄では、言葉のそれぞれで、濁音が半濁音に変わったり、(わかりにくい部分は別にして)濁音がつかなかったように思います。それは、歌い手の恣意的なものかもしれません。)
この歌は、彼のアルバム(「昨日の悲しみに別れを告げるんだもの」)の中で初めて聞いた曲で、全くライナーノーツもなく、私の耳で、採歌したものです。ラジオ放送を連想させる雑音を効果音にした中で、彼はつぶやくように気怠く、弱く歌っていたこの歌は、私の過ごした学生時代(70年代後半)と、当時の私自身の貧しい思想・生活感性に強烈な「異和」を伝えていました。1974年、初めて聞きましたが、「旧満州の女部屋の歌だな」と思いながら、なぜかとても印象に残り、また惹かれてしまい、まだカラオケもない時代でしたが、学生時代の飲み会などで口ずさんでいました。
哀調のあるメロディーで、また、なりきり韓国語なまり(?) なのか、意味も分かりにくいところですが、デカダンス(おお太宰治)で、かわいたユーモアもあり、「田舎者(九州地方出身者)が、どこへでも、お仕着せの金ボタンの制服を着て、風を切るかのように、(下品な)下駄をはいて偉そうにあるき、精神を決めなければ女部屋にも上がれない、金にきたないバカやろう」を揶揄し、バカにし、「でも、チップさえもらえれば、サービスしますよ」、という歌です。この歌詞は、昔、あの亡藤圭子さんが「はしご酒」(1975年)で歌った、「顔や姿にゃ惚れないが、男らしさにしびれちゃう」、「・・・・・(お金が少ししかなくても)させてあげますいい思い・・・・」、「よってらっしゃい、よってらっしゃい、お兄さん」、と歌った、ことと近い意味で、言外に「お金をいっぱい使えば男らしいよ、サービスしちゃうわよ」、という意味であろうかと思います。言ってしまえば、幸福感も、不幸感も感じる余裕もなく、生きるための駆け引きの話でしょうが、しかし、単に管理売春(多くの日本人と少数の朝鮮人の娼婦を抱えた、当然民間企業です。)の娼婦が、生活や収奪の苦しさを隠れて歌っていた、悲しみや自嘲の歌というところでは、ちっとも面白くないところであり、またそれが、大衆の支持を受けてその後はやり歌になるとも思えない、わけです。
この歌が生き延びたとすれば、やはり、生活者がそれぞれの限られた現実の中で受感する、生活の、酸いも苦いもある大衆の歌として多くの人の記憶に刻まれたとしか言いようもない歌でしょう。
現在では、つらい歌、哀調のあるくらい歌は膾炙しないかも知れませんが、それを必要とする層も情況も現在にもあるわけです(私、批判を恐れず申し上げますが、「赤色エレジー」も好きです。)。
当時、私は、異和は異和として、「お前たち、こんな歌知ってる」と、披露するために歌っていたと思うのが、やっぱり当時の素直な気持ちであり、実際のところ、今に至るまで、私たちの好奇心や想像力は、どこに行きつくかわからないところですね。
先の「大塚まさじ」ライブハウスコンサートで、終了後、本人と話したところ、この歌は、「満鉄小唄」という当時の歌で、どこかで(舞台女優の)吉田日出子が歌っていた、と聞きました。私が、「とても、印象深い曲だった」というと、それは「よく理解できる」というような彼の答えでした。「放送禁止歌」になったのかと聞くと、「そうではない」といい、彼のこの歌が入ったアルバムは「CD化したけど、ばっちり入っている」、とのことだったので、「コンサートなどで歌わないのか」と聞くと、「今の時代では逆風だから・・・」との答えであり、それ以上は聞きませんでした。
しかし、(1974年)以来持ち続けた好奇心は別にして、一夜を明ければ(その瞬間を過ぎれば)わざわざ、アンコールでお願いするほどの曲でもないのが、今の、私の気持ちです。
私は、「好奇心で生きている」というテーゼは、あながち嘘でもありません。
ネットで、この曲を検索しましたが、この歌は、軍歌「討匪行」(とうひこう)の替え歌であるとの話でした。早速、ユーチューブで聞いてみましたが、藤原義江作曲という歌を、藤原義江の歌で聞いてみましたが、勇壮な行進曲と聞こえますが、「どこまで続くぬかるみぞ 三日二夜も食はなく 雨ふりしぶく鉄兜・・・・」と歌詞は決して勇ましいものでもないようです。小浜氏の指摘する「なぜ軍歌は悲しいのか」に属する歌のようです。
同時に、軍歌には替え歌がいくらでもある歌です。この歌が、どうも、少数朝鮮人慰安婦によって歌われたとは思えず、いい加減、厭戦気分になっていた、当時の多数の日本人慰安婦や、女部屋に出入りする男どもに支持されたものかもしれません。当然流行歌にも検閲があったでしょうから、検閲を経由しても、朝鮮人慰安婦(?)の独白のように作られた、その歌詞は、軍隊や日本の満州進出に対する厳しい批評と、場合によっては自嘲なのか、満州くんだりまでやって来た、日本人に対するあざけりが感じられます(局面を変えた「はしご酒」のようですね)。なかなか、興味深い歌で、私の好奇心を刺激します。
また、この歌を聞けば、併せ、年末の「日韓合意」を思い、昨年、「謝罪を継承しない」といった筈であった安倍内閣が、アメリカ政府に屈し、「当時の政府による女部屋設置の公式認定」(バカらしい)を見て、一昨年の朝日新聞の虚偽報道を経ながら、結局、何の活用も、解決もせず、占領軍コードの呪縛に屈した、その屈辱、ばからしさ、欺瞞性を憤り、大衆の一人として、行き所のない無力感にさいなまれるばかりです。
とにかく腹が煮えた。「いいかげんにしてくれよ。」と。
また、うちのゼロ歳の孫も、将来、韓国人と再度論争しなければならないじゃないか、と(負けるなよ。)。
「満鉄小唄」は、替え歌、としてもずいぶん古いようですが、元歌と思えるものがあります。藤原義江の作曲で、彼自身の歌で昭和7年に出た軍歌「討匪行」です。↓でご確認下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=E70NnlTpSk8
歌い出しのフレーズ「どこまで続くぬかるみぞ」は、今でもけっこう知られているんじゃないでしょうか。
いかにも、吉田日出子が歌いそうではありますけど、私は加藤登紀子のアルバムで聞きました(あれはなんだったかなあ、調べればわかるでしょうけど)。歌詞はご引用の通りで、タイトルは「討匪行」だったと思います。
しかし「満鉄小唄」のこの歌詞、娼婦の立場から客に呼びかける形式、というのはそんなにないと思いますし、傑作ですね。大塚まさじさんさえ元を知らなかったのは、特に知る必要はないからで。でも、知ってるんだよ、と思うと言わずにおれなくなってしまうのも、人間の性ですね。それとも、私だけ?
それにしても、ディランⅡといい「ジョゼと虎と魚たち」といい、天道さんとは好みが合いそうですね。
今度また上京する機会がありましたら、どうぞお知らせ下さい。ゆっくり語り合いましょう。