天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

ワケギを植えて楽しむこと(思い出すことなど番外偏)

2017-09-28 07:45:42 | 日記

私は、小規模な農民(百姓でも農業者でもいいですが)の子に生まれ、農業従事者の祖父母、父の農業生活は、身近で、つぶさに(そこまでではないな)見てきましたが、自らは農作業にはきわめて冷淡で不熱心でありました。後年、父が加齢で弱りつつあり、収穫時や米の運搬などには多少手伝った覚えはありますが、重い、暑い、長時間労働である、などの理由で、できるだけ忌避しておりました。
 ところで、わが父は、退職後、大々的に野菜を作っておりました。
 勤めの傍らでは、いまいち気が乗らなかったのか、それまではいわゆる自家用程度しか野菜を作っていませんでしたが、その後、我が家の孫など、身近に消費者が生じたこともあり、トマト、インゲン、キャベツ、白菜など、思いつくままに作っておりました。
私は、前述したように、父から、教育とか訓育など受けた覚えが全くないところでした(そのせいなのか、影響なのか私自身の「父の不在」を強く妻に指弾されたことがありました。)が、野菜作りは父の得意技だったのですね。わが家の、豚児が育っていく中で、ほぼ、父によって野菜はまかなえておりましたので、その「贈与」が「教育」であったかも知れず、後智恵ではありますが、今思えばありがたいことでした。
「モノを作るのは菩薩道(菩薩にいたるみちゆき)」と、父を、時々おだててはいましたが、今思えば、毎年、インゲンやピース豆など、その時々の初物をおいしく食べるのは、我が家において、大きな幸せでした。殊に、私の好んだ完熟トマトを思うさま、枝から集荷するのは、今ですら、実際、楽しい思い出です。

 閑話休題、その後、野菜を育てる意欲も、辛抱もない私は、近頃では、主に日本国農業及び農協支援のため、農協の組合員の出荷によるJA直営店で、野菜を買っております。当該売り払い手数料が、組合員出荷のため安いため、個々の組合員から出店が多いそうです。私も晴れて準組合員となり、その扱う商品が手にとれ、品も新しく、安価であることも多く、個人的には、生産者と消費者で対当に、商品と価格との調整が判断でき、共存共栄になればよいと思っています。旬の新鮮な食材を安く入手し、工夫して調理することが普通の生活者としての楽しみなのですね。
ところで、このたび、県内に小旅行(萩市)をした際に、道すがらの野菜の直販店(個人家族経営)をみていますと、そこには新しいものから、うらなり(時期を過ぎた野菜)のものまでさまざまな野菜と、興味深いもの(?) がたくさん陳列され、それが、手製の木彫から、かずらのかご、何のためにか、烏瓜(からすうり)(野草)のようなものまでも売っています(前に、200円ポッキリで地元の小スイカを手にいれ、その旨さに驚いたことがあります。)。そのとき、ワケギの苗(球根)を見つけました。例の、たまねぎと葱の合いの子みたいな野菜で、薬味などで重宝するあの野菜です。「どうやって植えるの」と聞くと、直ちに、栽培指導をしてくれます。「物好きが」と、妻の冷たい視線にめげずに、ひと包み150円で買ってしまいました。というのも、私、朝顔の栽培さえ失敗してしまう人間ですが、唯一、ワケギだけは栽培体験があったわけです。
 当面、二週間、放置の後、ネットでマニュアルを確認しつつ、めでたく、プランターに植えつけました。
 前回の栽培のとき、なかなか根づかず手古摺ったのですが、このたびは、種が良かったのか、時期が良かったのか、すくすくと芽が出て、写真のとおりです。しまいには、うちにある、あらゆる不ぞろいのプランターを総動員して、植え込みをしました。
かつて、農民として、うちの、祖父母や、父は、ワケギを植えるのに、畑に畝を作って、まず石灰をまき、肥料を漉き込み、植えていましたが、やはり父が一番上手であったように覚えています。
 茶色い球根から、緑の茎がすくすく伸びる様は、気持ちが和み、慰められるような気がします。茶色い球根から、濃い緑の茎が生えていくのが、心底、不思議に感じられます。
近年、花を見るのもとても好きになりましたが、野菜を育てるのも良いものですね。ワケギは、伸びれば茎の部分をちぎり、球根の勢いがある限り、何度も何度も生え変わります。強い野菜なのですね。
それは、きわめて自分勝手の考えながら、自力で、何がしかの有用物を栽培することは、自己の人格を陶冶されるような心持ちになるようです。
また、私たちが体験する動物や植物に対し働きかけてなかなかうまくいかない体験は、その一方で、普段は目立たぬ人でも、人にはさまざまな特技や「人を喜ばせることができる特性」もある、ことに気づくことでもあり、それに気づかせてもらうのは、ありがたいことではあります。

しかしながら、わが家族の思惑は別にして、私には、父のように、野菜栽培の熟練者というか、達者になるような、覚悟はまだやってきません。

 知り合いに、「ワケギの苗をあげようか」とか言うと、「うちにもいっぱいあるわよ」というので、これは、誰もがやっている、貧しく、つましい、栽培体験なのですね。それに、長年気づかなかったというのは、うかつで、「恥づい」、体験ではあります。

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