天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

東京オリンピック(2020年)をきちんと評価しましょう。

2021-08-12 14:46:27 | 時事・風俗・情況

 ただ一人、民族衣装で、入場行進した、トンガ王国オリンピック代表選手、ピタ・タウファトファ選手である。
 彼は、グローバリズムの渦中で、政治的・経済的に翻弄される、小国トンガの唯一の代表選手である。
 こどもたちに、「あきらめず、希望を失わない」ことを示すために、必死で、競技を選び、オリンピックに参加する、と聞いた(NHKの番組である。)。自国の文化や、伝統・言語を奪われ、貧困にあえぐ子供たちのために、オリンピックを目指すという。
 NHKは、なぜ、国家が貧困なのか触れないが、私の友人が、同じイギリス連邦フィジーに技術指導に行った際、伝統・食文化を失い、印僑などに経済的な基盤を支配され、貧困と、将来への絶望により、治安が悪く、ガードマン警備が続く毎日であった、と述懐していた。
 弱い国は、グローバリズム支配の中で、他国に支配、統治される。日本国にとっても、それは決して遠い問題ではない。
 「世界は一つ」などという安い理念ではなく、逃れがたい厳しい政治的な状況の、その中で、苦闘する、アスリートのキャリアも、決して、それを忘れてはならないことも、オリンピックの本質である。
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 とうとう、東京オリンピックが開幕した(と思っていたらもう閉幕した。きわめて「老人コロナ時間」である。)。
 今さらで、ブログとすれば、申し訳ないことである。
このオリンピックは、2020年東京オリンピックと称するらしい。2021年に、臨時的に、オリンピックが繰り延べされたということなのだ。
 先に触れたように、開幕前は、粉飾コロナとあいまって、売国奴・パヨクメディアのオリンピック妨害工作が、本格化していた。
 前期高齢者の私の知恵で考えても、とてもコロナパンデミックとは思えないこの状況で、バカメディアは、何をあおるのか。
 引き続き申し上げるとおり、「若者たちの未来のために死ぬのが私たち老人」と私は思っているので、私は「こわい」などと心配はしない。
 こわいと思う賢い人はたんと心配すればよい、私はバカだから、インフルもコロナも、そのり患の可能性も、その後の生死も運否天賦で任せる。
自分の基礎疾患によるリスクも含め、そう考えた。
 そうすれば、このひどいバカ騒ぎも、機会便乗の、グローバリズム便乗の勝ち組の思惑もはっきりする。恥知らずで、非道なふるまいだ。

 機会便乗型の、腐った政治家、小池百合子は、コロナを活用した、オリンピック運営を利用するのはよくわかる。秋の衆議院選を控え、オリンピックを政治利用しようとする、自民党菅内閣の思惑と同様によく理解できる。
 次の選挙で、自民=公明が延命できればの話であるが。
 早速、本来政治的な行事であるオリンピックに参加しなくていいと大多数国民が思っていた、南鮮が、極めて、政治的なスローガンを選手村に掲げてくれた。
 彼らは、反日国家南鮮の第五列(政治工作員)である。旗幟が明確になった。
 それを支持する、南鮮国民、在日、あるいは在外南鮮民は恥知らずである。
 この際、東京オリンピックを政治交渉の場にしようとした、南鮮大統領と同様に、恥知らずに、理念を語っても、仕方がない。
 誰かが言うように、半島は半島で決着をつければよい。今さら、日本国の国民大衆に、彼らに対する負い目も責任もない。
 オリンピックを「露骨に」政治利用し、いや、他国を騒乱状態に陥れるための重大なテロ行為である。南鮮スポーツ団体は、オリンピックから、追放すべきである。
 また、極めて政治的な催しであるオリンピックであるので、来年の北京オリンピックは、大多数国民大衆の利害のために参加しない、ということを、欧米諸国と同じ、国民大衆の一人として、意見表明しよう。
 無辜の隣接他民族をジェノサイドと呼ばれる集団で抑圧する、グローバル国家に、日本国は加担すべきでない。

 閑話休題、オリンピックの最初の競技ということで、女子ソフトボールの試合を見た。
 何度も申し述べたとおり、私はスポーツに素養がないので、殊に団体スポーツには、いろいろ、惹かれることも多い。
 チームで、勝利を目指すために一つの目標に懸命に努力する、という、私たちの協同の仕事とよく似た構造をもっているからである。
 組織にとって最も必要なのは、優秀で、洞察力を備えた指導者を備えていることである。
 競技者と監督はともすれば対立しやすい関係にある。相互において、思惑があり、すべての場合にそれが、良好に行くとも思えない。
自己評価と、上司の評価が食い違うことも往々にあるということだ。
 そうであれば、できれば、当該指導者が、人間的に優れていることが望ましい。
 他者個人能力の評価の客観性と、集団の中の活躍を観察・評価することは、評価者の方からも、知恵と、プラス評価の基軸が要る。それは、評価される立場では、非常によくわかるものである。
 このたびの、日本国の女子ソフトの選手たちは、今までの経験の累積なのか、宇津木監督が、ヘゲモニー(指揮指導への同意)を完全に掌握しているように思えた。
 本番競技で、それが、明らかになるのは、稀有のことではないかと思う。
 実業団チームの監督を務めながら、選手の選考から始まり、実力評価、伸びしろの評価、好不調、選手同士の組み合わせ、敵を知ることと、同様に、味方を知ることは大変な努力である。
 選手とのやり取りを見ても、静かな人で、試合後のインタビューでも、能弁でも、雄弁でもない。
 宇津木監督は、もともと中国人で前任の宇津木監督の養子であったはずである。そのため、もともとスラッガーの名選手であったが、競技以外にも、政治的な厳しいキャリアを経た人でもある。
 NHKの解説者である、養母、宇津木監督の味わい深い辛口批評も、監督にはあまり触れない。仄聞する方では、深い信頼関係があるのだなあ、と思うところである。
 初戦で、勝利インタビューに答えた、藤田倭(やまと)選手が、オリンピックが開催されて、本当にうれしい、といっていたが、それが、選手全員の本音であったと思う。
 競技人口も少ないし、オリンピック競技選択では、政治的駆け引きの対象にされる。

 この、ソフトボールという競技は、日本国の実業団チームがなかったら、なかなか、アマチュアスポーツとして、成り立たないのではないか。
 アメリカの主戦投手、アボット投手も、日本の実業団でプレイしている。他にも、有力な他国選手たちが、同様に競技者として活躍している。
 彼らの待遇は知らない。しかし、本国でアスリートとして活動できる、基盤がないので、日本国で競技者として活動し、切磋琢磨しながら、しのぎを削っていることが、彼女たちにもいかに恩恵を与えるであろうかはよく理解できる。
 いわば、共存共栄なのであろう。プロ競技の中で、日本国の私企業が、イメージづくりといいつつ、競技者を支援するのは、世界に誇るべきであるのがよくわかる。
 日本国民としても、優れた子女たちが、上野投手や若い山本投手のように、修練を積み、能力を向上することができること、体格に劣る、外国選手と対等に競える場があることはありがたいことである。
 また、その後で、日本国のアマチュア競技者に、修練の機会を与え、ひいては、国民に競技を楽しむ層を支援することは、それこそ、良質な、官民共同のモデルケースである。
 そういえば、実業団の、有力チームに、売国大企業がいなかったこともうれしいことである(選手に罪はないが)。
 
 これだけ、女子ソフトボールが、人気があったのは、リーダーが、組織として、勝つ手段と、知恵を十分に発揮しているということであった。いわば、優れた組織の典型なのだ。

 日本国政府、財務省は、デフレと、コロナのダブルパンチにあえぐ、国民の苦悩と、絶望を、まったく理解していない。
 それこそ、13年ぶりという、オリンピック競技で、ようやく競技ができるという、厳しい条件の中で、金メダルを取らなければならないという、監督・選手の厳しい戦いと、その素晴らしい成果が、それを支持した、指導者不在の大多数国民において、夢と、大きな賞賛を巻き起こしたのだ。

 これこそ、健全なナショナリズムというものではないかと思う。
 やり方次第で、私たち国家は、まだまだ、大丈夫だよ、と希望を与えた。

 なんの原則も理念もない愚かなパヨクマスコミは、即、オリンピック支持に転向した。
 恥を知れというしかない。

 競技放送後に、予選時の、福島滞在中に、米国チームが、いかに福島県民に歓待されたか、語っていた。素晴らしい、「お、も、て、な、し」ではないか。
 やはり、これは、日本人の国民性ではある。
 殊に、福島県産の桃、について、本当に美味しかった、と特筆していた。
 私が、かつて、東北大震災の災害支援でいわき市に派遣されたとき、確かに、風評被害で買いたたかれた、優良な桃が、十数個で、ひと箱1000円という安価で、売られていた。
 東京都民の今更ながらの冷酷さに、義憤のようなものを感じ、何箱も購入、実家に送付したが、農業県、福島県は今も健在であるらしい。
 日本国と地方住民のために(そしてまともな東京都民のために)、農業は振興し、原発は再稼働して欲しい。

 どの競技を見ても、競技者たちが、「オリンピックがどうなるかわからない」という状況の中で、それにもかかわらず、大きな成果を挙げたのが、今回の東京オリンピックだった。
 これだけ、国民が、真摯に、自己の職責を、自己の社会的使命を果たしているのに、政府、官僚は何をしているのか、というのが、大多数国民の本音であったと思う。
 為政者は、「パンとサーカス」で、国民を懐柔するというが、ローマ時代でもあるまいに、そもそも、パンすらまともに与えず(経済政策の不作為、国民の生業の粗利保証の不在)、オリンピックをやれば、その後国民が支持してくれると思うなよ、とも、皆思ったはずである。
オリンピック閉会式を見ていれば、菅首相と、小池知事が列席していたが、「ケッ」と思ったのは私だけではない筈である。

以下、オリンピック期間に関する、感想を列記する。
1 ソフトボール競技の中で、上野選手の実年齢ばかり触れるのは失礼である。この先、いつ競技が行われるのかわからないのに、それを予期する競技者全体をおとしめるものだ。「行蔵は我に存す。」(引くも引かないも自分で決める)、というのが、優れた競技者の証明である。
2 NHKは、コロナの脅威を毎日あおってくれた。前述したように、コロナ騒動がパンデミックとはとても言えない、バカな国民をあおらないで欲しい、ここも、「行蔵は我に存す。」(引くも引かないも自分で決める)、というのが、優れた国民の証明である。
3 過度の災害情報と一緒で、NHKは人心を惑わし、バカだが、善良な国民を使そうし、コロナパニックを起こしたいのか。私も、コロナ性うつ病を発症しかねない。
4 NHKは、なぜ、陳腐化したような、中共紀行とか、中共賛美ドラマを繰り返す。
 韓流ドラマ以上に、日本国国民大衆に害毒を流す。
 中共が、オリンピックの渦中でも、グローバル戦略で、何をやっているか、なぜ、報道しない。大多数自国国民大衆の受信料で運営されていることを忘れてはいないか。

 極めて、政治的なオリンピックの中で、政治的な発言は当然あるべきである。
 そういえば、中共選手は、皆、ナイキブランドを着ていたな、アシックスは、新彊綿の不使用を、自国民には伝えず、外国メディアに弁解していたな、バカな話だ。私は、もう、使わない。


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