引き続きお願いします。
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「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その5(終章)
H26.7.13
平成26年7月5日分の、「55歳からのハローライフ」について最終判です。
最期は、「空を飛ぶ夢を見たい」という題名です。
今回も、男の回想と独白が続きます。
再度、暑苦しいと思われた方も多いかも知れません。しかし、このように生きている人もあるということにリアリティがあります。街で、交通整理をやっているおじさんにもそれぞれの人生があると想像することは決して難しいことではない。今回、私にはそのように感じられました。
前の「トラベルヘルパー」で、アメリカの70年代のニューシネマで「真夜中のカウボーイ」のエピソードを引用しました。なぜかな、と自分で思っていましたが、今回全く同じ個所がこのドラマの中でありました。高速バスを乗り継ぎ、ひん死の友人を母親のもとに送り届けるシーンです。これは、村上龍の原作にもあり、村上龍がパクったんだと思います。
私たちは、自分の日常では、相対生活というか、自分に精一杯で、他人には無関心で、多少のことは眼をつむって、出来るだけ一律(我慢できる)な善悪には触らずに生きています。しかし、時には、自分の行動が、他人には理解されなくても、またそのように思われなくても行動して、光り輝く瞬間が、一度や二度はある筈なのです。それを行う動機を、村上龍は、(理不尽なものに対する)「怒りだ」といいます。また、それは、結果として、関連する人たちの中では大きな意味を持つのです。自分にとっての生涯にわたる「誇りの奪回」というのでしょうか、このたびは、(行き倒れになりそうな幼馴染を救うという)彼の行動は感動的な部分でした。また、ごく普通に、自分自身で手いっぱいで困窮している人がそれを行う、というのも同様に意味があることです。また、周囲のうちで、それを理解しその行為に反応できる人もいるということも大きな救いです。
よくいわれる、人間が、「共生的な」存在であるのは間違いないところだと思いますが、今、個々人で抱え込む孤独や孤立の深刻さは、現在の、社会風俗的な現象をみても、自殺、ひきこもり、熟年離婚、独居老人、ゴミ屋敷、いくらでも思い当たります。
その中でせめての対応策をと考えれば、せめて家族とか、家族とか親族がだめなら、友人とか、近所の人とか、努力して、関係性を一生懸命、頼り、頼られしながら確立していくしかないだろうと思われます。これは、近代個人主義(西欧人)が確立した社会では無理な対応でしょうが、こんなドラマを見れば日本人ではまだ大丈夫(?)だと思われます。具体的な方策はとなれば躊躇してしまいますが、今後組織の目的を限定した、あまり干渉しあわない良質な地縁団体の確立とでもいうしかないような気がします。NHKの新日本風土記などで見る、日本人の知恵というべく、年に数度の地区のお祭りみたいなものでしょうか。
とーとつに聞こえるかもしれませんが、話は、ここから変わっていきます。
グローバリゼーション(世界的に社会的・経済的な均一の社会を目指すもの)は、明らかに弊害の多い破たんした理念です。私の信頼する批評家に依れば、EC解体はもう遠くないだろうし(今のままでは各国の利害の対立と経済危機への対策に全く統制が取れないそうです。)、アメリカの一部富裕層の支持による、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)や、日韓自由貿易協定などの段階的な締結で、国境を越えた資本主義の他国での無慈悲な実践が既に行われ、カナダでの経済摩擦や、韓国では、協定に基づき協働組合など解体されているというではありませんか(おそらく、日本がTPPに参加すれば同様です。その条約内容は韓国と同じものだそうです。)。
また、現在では経済的問題を超え、ロシアや、中国など国境を超えた経済・政治をからめた侵略をグローバリゼーションは容認しています。まさに思考停止を喚起し、雰囲気だけで喧伝される悪しき「共同幻想」なのです。
自分の利害追及と、自己欲望の無限肯定に裏打ちされた理念と、また社会的な分配も十分に行わない無慈悲な資本主義が日本に根付けば、「共生」とか、「和を以て尊しとなす」、などの伝統や気質すら、ひとたまりもないのは明らかではないでしょうか。大多数の人たちが、文字通り、他人のことなど構っちゃいられない、強者が全て握ればいいという現実になるのです。また、伝統とか地域性とか、伝統技術も、合理性、採算性しか考えない、世界均質価値の前では風前のともしびでしょう。大多数の日本人に愛された筈の、一般的に日本人の愛する花鳥風月などの(感覚的に)慣れ親しんだ自然の受容感性すら変えられるかもしれないと、密かに恐れています。
あの、自己努力の無邪気な崇拝と、金持ち(彼らは自己努力の結果といいます。)無限肯定のアメリカですら、アメリカの上位の1パーセントの人たちが国富の25パーセントを握っているというのは、目に余るほど不道徳なことなので、分配の不公平とその不道徳性を指弾する、反貧困デモが一時、自然発生的に起こったではありませんか。
「開発途上国」はさらにきびしい状況です。
自国の生産施設や市場すら未整備の状態で、国家の保護もなしに他国から大資本が流れこめば、基盤の社会組織も、弱い生産施設も、伝統産業や、伝統ある多様な文化に至るまで根こそぎに破壊されます。
それぞれの、民族国家がしっかりしないと(独立国として自国の秩序ある経済政策をとらないと)、強者による無慈悲な資本主義がはびこり、何もかも奪われ絶望した国民たちは、希望もなく、社会は不安定となり、社会の成員がお互いに、猜疑と憎しみに充ちた社会しか残らないかも知れないのです。
日本は、明治以降近代化を成し遂げたけど、これだけ温和な国民性、分配の公平性(90年代の小泉内閣の構造改革以降あやしくなりましたが)、教育水準の高さを引き続き維持しており、冷たい階級社会西欧社会に比べ、十分に誇るべき国だと思います。しかし、構造改革以降、景気回復政策の不徹底(国は老朽化した道路や橋を早く直せよ!)など、今後カードを切り間違えれば、いつマイナスに振られるかも分かりません。
言論(語)とは、差異と多様性である、とハンナ・アーレントは言っています。
民族語に閉じこもると、ディスコミュニケーションを抱え独善的になり、共通性が優勢になると、人に「伝えるべきことがなくなる」、「異質」こそが伝えるべき言葉である、と。
これは、とても本質的、かつ、納得できることばで、私とすれば、西洋世界等の外部世界を認識しつつ、「日本」の言語と、日本の文化を尊重し伝えるものとして私は生き、死にたいと思っています。
いつものようにテレビドラマから逸脱しました。
ところで、今までの連作のドラマも、どのドラマも最後は希望を匂わす結果で終わっています。これは救いです。
日本中どこにでもいそうな生活者が、私自身を含め、それぞれの局面で、生活や自分自身の「義」のために健闘していくことを願います。みんな、かそけくて、ささやかな「義」であるかも知れませんが。
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「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その5(終章)
H26.7.13
平成26年7月5日分の、「55歳からのハローライフ」について最終判です。
最期は、「空を飛ぶ夢を見たい」という題名です。
今回も、男の回想と独白が続きます。
再度、暑苦しいと思われた方も多いかも知れません。しかし、このように生きている人もあるということにリアリティがあります。街で、交通整理をやっているおじさんにもそれぞれの人生があると想像することは決して難しいことではない。今回、私にはそのように感じられました。
前の「トラベルヘルパー」で、アメリカの70年代のニューシネマで「真夜中のカウボーイ」のエピソードを引用しました。なぜかな、と自分で思っていましたが、今回全く同じ個所がこのドラマの中でありました。高速バスを乗り継ぎ、ひん死の友人を母親のもとに送り届けるシーンです。これは、村上龍の原作にもあり、村上龍がパクったんだと思います。
私たちは、自分の日常では、相対生活というか、自分に精一杯で、他人には無関心で、多少のことは眼をつむって、出来るだけ一律(我慢できる)な善悪には触らずに生きています。しかし、時には、自分の行動が、他人には理解されなくても、またそのように思われなくても行動して、光り輝く瞬間が、一度や二度はある筈なのです。それを行う動機を、村上龍は、(理不尽なものに対する)「怒りだ」といいます。また、それは、結果として、関連する人たちの中では大きな意味を持つのです。自分にとっての生涯にわたる「誇りの奪回」というのでしょうか、このたびは、(行き倒れになりそうな幼馴染を救うという)彼の行動は感動的な部分でした。また、ごく普通に、自分自身で手いっぱいで困窮している人がそれを行う、というのも同様に意味があることです。また、周囲のうちで、それを理解しその行為に反応できる人もいるということも大きな救いです。
よくいわれる、人間が、「共生的な」存在であるのは間違いないところだと思いますが、今、個々人で抱え込む孤独や孤立の深刻さは、現在の、社会風俗的な現象をみても、自殺、ひきこもり、熟年離婚、独居老人、ゴミ屋敷、いくらでも思い当たります。
その中でせめての対応策をと考えれば、せめて家族とか、家族とか親族がだめなら、友人とか、近所の人とか、努力して、関係性を一生懸命、頼り、頼られしながら確立していくしかないだろうと思われます。これは、近代個人主義(西欧人)が確立した社会では無理な対応でしょうが、こんなドラマを見れば日本人ではまだ大丈夫(?)だと思われます。具体的な方策はとなれば躊躇してしまいますが、今後組織の目的を限定した、あまり干渉しあわない良質な地縁団体の確立とでもいうしかないような気がします。NHKの新日本風土記などで見る、日本人の知恵というべく、年に数度の地区のお祭りみたいなものでしょうか。
とーとつに聞こえるかもしれませんが、話は、ここから変わっていきます。
グローバリゼーション(世界的に社会的・経済的な均一の社会を目指すもの)は、明らかに弊害の多い破たんした理念です。私の信頼する批評家に依れば、EC解体はもう遠くないだろうし(今のままでは各国の利害の対立と経済危機への対策に全く統制が取れないそうです。)、アメリカの一部富裕層の支持による、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)や、日韓自由貿易協定などの段階的な締結で、国境を越えた資本主義の他国での無慈悲な実践が既に行われ、カナダでの経済摩擦や、韓国では、協定に基づき協働組合など解体されているというではありませんか(おそらく、日本がTPPに参加すれば同様です。その条約内容は韓国と同じものだそうです。)。
また、現在では経済的問題を超え、ロシアや、中国など国境を超えた経済・政治をからめた侵略をグローバリゼーションは容認しています。まさに思考停止を喚起し、雰囲気だけで喧伝される悪しき「共同幻想」なのです。
自分の利害追及と、自己欲望の無限肯定に裏打ちされた理念と、また社会的な分配も十分に行わない無慈悲な資本主義が日本に根付けば、「共生」とか、「和を以て尊しとなす」、などの伝統や気質すら、ひとたまりもないのは明らかではないでしょうか。大多数の人たちが、文字通り、他人のことなど構っちゃいられない、強者が全て握ればいいという現実になるのです。また、伝統とか地域性とか、伝統技術も、合理性、採算性しか考えない、世界均質価値の前では風前のともしびでしょう。大多数の日本人に愛された筈の、一般的に日本人の愛する花鳥風月などの(感覚的に)慣れ親しんだ自然の受容感性すら変えられるかもしれないと、密かに恐れています。
あの、自己努力の無邪気な崇拝と、金持ち(彼らは自己努力の結果といいます。)無限肯定のアメリカですら、アメリカの上位の1パーセントの人たちが国富の25パーセントを握っているというのは、目に余るほど不道徳なことなので、分配の不公平とその不道徳性を指弾する、反貧困デモが一時、自然発生的に起こったではありませんか。
「開発途上国」はさらにきびしい状況です。
自国の生産施設や市場すら未整備の状態で、国家の保護もなしに他国から大資本が流れこめば、基盤の社会組織も、弱い生産施設も、伝統産業や、伝統ある多様な文化に至るまで根こそぎに破壊されます。
それぞれの、民族国家がしっかりしないと(独立国として自国の秩序ある経済政策をとらないと)、強者による無慈悲な資本主義がはびこり、何もかも奪われ絶望した国民たちは、希望もなく、社会は不安定となり、社会の成員がお互いに、猜疑と憎しみに充ちた社会しか残らないかも知れないのです。
日本は、明治以降近代化を成し遂げたけど、これだけ温和な国民性、分配の公平性(90年代の小泉内閣の構造改革以降あやしくなりましたが)、教育水準の高さを引き続き維持しており、冷たい階級社会西欧社会に比べ、十分に誇るべき国だと思います。しかし、構造改革以降、景気回復政策の不徹底(国は老朽化した道路や橋を早く直せよ!)など、今後カードを切り間違えれば、いつマイナスに振られるかも分かりません。
言論(語)とは、差異と多様性である、とハンナ・アーレントは言っています。
民族語に閉じこもると、ディスコミュニケーションを抱え独善的になり、共通性が優勢になると、人に「伝えるべきことがなくなる」、「異質」こそが伝えるべき言葉である、と。
これは、とても本質的、かつ、納得できることばで、私とすれば、西洋世界等の外部世界を認識しつつ、「日本」の言語と、日本の文化を尊重し伝えるものとして私は生き、死にたいと思っています。
いつものようにテレビドラマから逸脱しました。
ところで、今までの連作のドラマも、どのドラマも最後は希望を匂わす結果で終わっています。これは救いです。
日本中どこにでもいそうな生活者が、私自身を含め、それぞれの局面で、生活や自分自身の「義」のために健闘していくことを願います。みんな、かそけくて、ささやかな「義」であるかも知れませんが。