天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

55歳からのハローライフについて その5

2015-05-25 21:31:26 | 映画・テレビドラマなど
 引き続きお願いします。

**********************************************

「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その5(終章)
                                  H26.7.13
 平成26年7月5日分の、「55歳からのハローライフ」について最終判です。
 最期は、「空を飛ぶ夢を見たい」という題名です。
今回も、男の回想と独白が続きます。
再度、暑苦しいと思われた方も多いかも知れません。しかし、このように生きている人もあるということにリアリティがあります。街で、交通整理をやっているおじさんにもそれぞれの人生があると想像することは決して難しいことではない。今回、私にはそのように感じられました。
前の「トラベルヘルパー」で、アメリカの70年代のニューシネマで「真夜中のカウボーイ」のエピソードを引用しました。なぜかな、と自分で思っていましたが、今回全く同じ個所がこのドラマの中でありました。高速バスを乗り継ぎ、ひん死の友人を母親のもとに送り届けるシーンです。これは、村上龍の原作にもあり、村上龍がパクったんだと思います。
私たちは、自分の日常では、相対生活というか、自分に精一杯で、他人には無関心で、多少のことは眼をつむって、出来るだけ一律(我慢できる)な善悪には触らずに生きています。しかし、時には、自分の行動が、他人には理解されなくても、またそのように思われなくても行動して、光り輝く瞬間が、一度や二度はある筈なのです。それを行う動機を、村上龍は、(理不尽なものに対する)「怒りだ」といいます。また、それは、結果として、関連する人たちの中では大きな意味を持つのです。自分にとっての生涯にわたる「誇りの奪回」というのでしょうか、このたびは、(行き倒れになりそうな幼馴染を救うという)彼の行動は感動的な部分でした。また、ごく普通に、自分自身で手いっぱいで困窮している人がそれを行う、というのも同様に意味があることです。また、周囲のうちで、それを理解しその行為に反応できる人もいるということも大きな救いです。
よくいわれる、人間が、「共生的な」存在であるのは間違いないところだと思いますが、今、個々人で抱え込む孤独や孤立の深刻さは、現在の、社会風俗的な現象をみても、自殺、ひきこもり、熟年離婚、独居老人、ゴミ屋敷、いくらでも思い当たります。
その中でせめての対応策をと考えれば、せめて家族とか、家族とか親族がだめなら、友人とか、近所の人とか、努力して、関係性を一生懸命、頼り、頼られしながら確立していくしかないだろうと思われます。これは、近代個人主義(西欧人)が確立した社会では無理な対応でしょうが、こんなドラマを見れば日本人ではまだ大丈夫(?)だと思われます。具体的な方策はとなれば躊躇してしまいますが、今後組織の目的を限定した、あまり干渉しあわない良質な地縁団体の確立とでもいうしかないような気がします。NHKの新日本風土記などで見る、日本人の知恵というべく、年に数度の地区のお祭りみたいなものでしょうか。

とーとつに聞こえるかもしれませんが、話は、ここから変わっていきます。
グローバリゼーション(世界的に社会的・経済的な均一の社会を目指すもの)は、明らかに弊害の多い破たんした理念です。私の信頼する批評家に依れば、EC解体はもう遠くないだろうし(今のままでは各国の利害の対立と経済危機への対策に全く統制が取れないそうです。)、アメリカの一部富裕層の支持による、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)や、日韓自由貿易協定などの段階的な締結で、国境を越えた資本主義の他国での無慈悲な実践が既に行われ、カナダでの経済摩擦や、韓国では、協定に基づき協働組合など解体されているというではありませんか(おそらく、日本がTPPに参加すれば同様です。その条約内容は韓国と同じものだそうです。)。
また、現在では経済的問題を超え、ロシアや、中国など国境を超えた経済・政治をからめた侵略をグローバリゼーションは容認しています。まさに思考停止を喚起し、雰囲気だけで喧伝される悪しき「共同幻想」なのです。

自分の利害追及と、自己欲望の無限肯定に裏打ちされた理念と、また社会的な分配も十分に行わない無慈悲な資本主義が日本に根付けば、「共生」とか、「和を以て尊しとなす」、などの伝統や気質すら、ひとたまりもないのは明らかではないでしょうか。大多数の人たちが、文字通り、他人のことなど構っちゃいられない、強者が全て握ればいいという現実になるのです。また、伝統とか地域性とか、伝統技術も、合理性、採算性しか考えない、世界均質価値の前では風前のともしびでしょう。大多数の日本人に愛された筈の、一般的に日本人の愛する花鳥風月などの(感覚的に)慣れ親しんだ自然の受容感性すら変えられるかもしれないと、密かに恐れています。
あの、自己努力の無邪気な崇拝と、金持ち(彼らは自己努力の結果といいます。)無限肯定のアメリカですら、アメリカの上位の1パーセントの人たちが国富の25パーセントを握っているというのは、目に余るほど不道徳なことなので、分配の不公平とその不道徳性を指弾する、反貧困デモが一時、自然発生的に起こったではありませんか。
「開発途上国」はさらにきびしい状況です。
自国の生産施設や市場すら未整備の状態で、国家の保護もなしに他国から大資本が流れこめば、基盤の社会組織も、弱い生産施設も、伝統産業や、伝統ある多様な文化に至るまで根こそぎに破壊されます。
それぞれの、民族国家がしっかりしないと(独立国として自国の秩序ある経済政策をとらないと)、強者による無慈悲な資本主義がはびこり、何もかも奪われ絶望した国民たちは、希望もなく、社会は不安定となり、社会の成員がお互いに、猜疑と憎しみに充ちた社会しか残らないかも知れないのです。

日本は、明治以降近代化を成し遂げたけど、これだけ温和な国民性、分配の公平性(90年代の小泉内閣の構造改革以降あやしくなりましたが)、教育水準の高さを引き続き維持しており、冷たい階級社会西欧社会に比べ、十分に誇るべき国だと思います。しかし、構造改革以降、景気回復政策の不徹底(国は老朽化した道路や橋を早く直せよ!)など、今後カードを切り間違えれば、いつマイナスに振られるかも分かりません。

言論(語)とは、差異と多様性である、とハンナ・アーレントは言っています。
民族語に閉じこもると、ディスコミュニケーションを抱え独善的になり、共通性が優勢になると、人に「伝えるべきことがなくなる」、「異質」こそが伝えるべき言葉である、と。
これは、とても本質的、かつ、納得できることばで、私とすれば、西洋世界等の外部世界を認識しつつ、「日本」の言語と、日本の文化を尊重し伝えるものとして私は生き、死にたいと思っています。

いつものようにテレビドラマから逸脱しました。
ところで、今までの連作のドラマも、どのドラマも最後は希望を匂わす結果で終わっています。これは救いです。
日本中どこにでもいそうな生活者が、私自身を含め、それぞれの局面で、生活や自分自身の「義」のために健闘していくことを願います。みんな、かそけくて、ささやかな「義」であるかも知れませんが。

 

55歳からのハローライフについて その4

2015-05-25 21:24:46 | 映画・テレビドラマなど
 良かったらよんでください。

**********************************************

「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その4
                                  H26.7.6
 平成26年7月5日分の、「55歳からのハローライフ」について引き続き書きます。
 今回は、「トラベルヘルパー」という題名です。
最初から、男の独白が続き、暑苦しいと思われた方も多いかも知れません。このように生きている人もあったのだ、と思った方がいいのかも知れません。
強いて弁護するならば、両親から遺棄され、失語症のようになってしまった少年時代の彼が、祖母の生業である海女小屋で、海女たちにかまわれ、安心して、限りなく饒舌にしゃべりだす、という設定があります。明るく、あけっぴろげに振る舞う祖母や海女たちに、母性のありどころと居場所(家族)を見つけた少年の喜びは、男としてよくわかります。
彼には、(年上の)女性が大変好ましく思え、その思慕はたぶん意識下に刷り込まれます。

アメリカの70年代のニューシネマで「真夜中のカウボーイ」というのがありました。娼婦の祖母と、馴染み客の男を父親として育ったジョン・ボイドが、祖母の死後に、お気楽に稼ぐため高級コールボーイを目指し、カウボーイの衣装できめ、田舎からニューヨークにでていく話です。今回の設定より、社会的にもっと厳しい設定かどうかは別にして、その主人公は、今回のドラマの主人公とどこか似通った雰囲気を持っています。
ジョン・ボイドの頭の中では、いつも、娼婦だが優しかった祖母の記憶と、父親代わりのカウボーイの男たちの記憶が、何度も何度もフラシュバックします。この記憶が、彼にとって唯一の家族の記憶であり、彼を救い、くつろぎ安心させることのできる環境なのです。私の若いとき見た映画でしたが、彼のぞっとするような深い孤独が、観るものを切実に打った記憶があります。彼は、ニューヨークで、ラッツオ(ネズミ)と呼ばれる詐欺師で嫌われ者のイタリア系の障害者の男(ダスティン・ホフマンです。)に出会います。ラッツオのねぐらのスラムの空き家を舞台に、彼よりもっと孤独でみじめなラッツオと徐々に友情をむすび、病気になった彼を親身に看病し、ラッツオの夢のマイアミへ向かうバスの中で、ラッツオに死なれるのです。ジョン・ボイドの、ぼー然とした顔が今も忘れられません。「また、一人になった」という表情が。(やっぱ、女性に受ける映画じゃありませんね。他にも、ジーン・ハックマンの「スケアクロー」(かかし)とかあったよね。この映画に関連して、おまけとして、今は亡き清水昶(しみずあきら)の詩をつけておきます。)

このドラマの主人公のトラック運転手という設定が、やっぱり似通っており、強くあこがれながらも、異性とのいきさつが刹那的で安定した人間関係(家族)を持てない、というのも彼らの生活史に共通して起因する部分もありそうです。
彼はインテリの女に弱く(よくあることです。)、自分にない、教養や、デリカシーのある彼女の物言いやしぐさにのぼせ上がってしまいます(これもよくあることです。)。相手はそれほどの美人でなくてもいいかもしれません(それほどいい男でなくてもいい、でもいいです。)男も女も、加齢や、それぞれのおかれた状況で、その垣根を容易に越えてしまいますから。
彼女と知り合った、古本屋から、彼女を誘い一生懸命アピールしましたが、そのうち、のめり込んだ男の詮索を迷惑に思い出した彼女は、うそを交え、強く拒絶します。
燃え上がった炎がなかなか消せないのは、老いも若きも、男は同じです。彼女を、家の前で待ち伏せていた男は、福祉サービス受けるため、難病の夫のために車いすを押す彼女をとうとう見つけます。彼女は、監護と生活苦と行き所のないその苦しい日常で、気分転換のために古本屋に通い、また男の誘いに応じたのです。そして、その姿を見て、男は、彼女の人性や日常をどうにかしようとすることは、どうにもならないことにようやく気付きます。
彼は現実とは、どうやら折り合える人です。人懐っこい人だし、世間話もできるし、異性とも、そこそこにはやっていける。しかし、女性が永続的な相手として選ぶかどうかは、また別のようです(あらゆる男に例外はありませんけど。)。
挫折した彼は、彼女のために夫を運ぶ代わりに、祖母などの良い思い出と一緒に、高齢者の旅行介護など介護サービスの運転手になることに決めます。
報われない孤独感を空白を胸に、そこに生きがいを、見出そうとするのです。
江戸時代は、多くの二男、三男は資産がないため結婚できず、良くて養子か、長男の家で、やっかい叔父とか言われ、片隅で生きていたといいます。そんな時代も確かにあったのです。
彼の場合は、運転手という資格と経験があったため、現代では、少しは自分の人性について、自己実現のための「選択の自由」があるとも言えます。
私たちは、妥協しながら相対的人性(自分の考えだけでは決して生きていけず周囲と折り合いながらの人性)を生きています。「自己実現の人生」とか、「自分探しの旅」(まだ言っているナイーブなやつがいる。)とか、お題目を言うだけでなく、まず将来に向けての戦略と、それに向けた実効ある個別努力がなければ、現在の自分を変更しようとしてもどうにもならないことは、かつて村上龍が「13歳からのハローワーク」とか、「盾(シールド)」とかいう絵本で、子供に対しても十分に論じてきたことです。
ところで、この番組のブログを見ていたら、視聴者はおおむねとても好意的なのですが(50歳代がとても多いです。)、前作の原田美枝子のドラマで、経済的な問題が大変重いのにあまりに軽く扱われており、離婚後の主婦が、アールグレイにはちみつを、というのはチャラチャラしてリアリティがない、とかかれてあり、なるほどごもっともと思いました。
誰にも言えない「男としての淋しさ、やるせなさ」には十分に同意はしますが、近親憎悪というのか、オヤジに素直に同情できない私を感じます(殊に団塊の世代の男は嫌いです。)。また、同様に女も孤独で、淋しくやるせないのも、また確かなことなのです。
次回(最終話、7月12日)は、「空を飛ぶ夢をもう一度」です。
このドラマの主役の男の顔が、私は好きです。(昔よく見た日本人らしい顔つきです。)
原作に拠れば、ちょっとつらいドラマかも知れないですが、是非、視てみてください。

 ( お ま け )
   亡清水昶(しみずあきら)さんは、大学時代にサークルの講演会に来てもらい、当時40歳前くらい、私は、21歳で、とても優しい人で、対等に相手をしてもらい、若者(=馬鹿者)なりに、色々感じさせてもらったことがあります。
山口県出身で同志社出身の現代詩人です。2011年5月物故されました。実兄は同
じく現代詩人の清水哲男さんです。以下の、無断引用は、あの清水昶さんが、当時のおだやかな笑顔で許してくれると思います。昭和57年(1982年)出版の「夜の椅子」という詩集です。

不 安 な 水  映画「真夜中のカウボーイ」のラッツオに

 街に出るなんて考えるのはよそう あそこは薄汚い若
 者たちと ぼくらの青春が埃をたてているだけさ 暗い
 喫茶店のカレーライスやスパゲティ それら<文明的メ
 ニュー>にうつむいて きみも故郷の水をのみたいと考
えていたはずだ

大都会の冬は寒い あくまで他人でしかない人間たち
が 孤独な冷気をまきおこしているためだ 常夏のマイ
アミが君の希望だったね ところでぼくは その丁度
うらがわあたりで考えていたものさ 生と死のイメジか
ら遠く 自由のうらがわで直立すべき人間の暗さについ
て・・・・・・

文明の光も影もまるでなかった 海苔とオカカを敷きつ
めた弁当が唯一の楽しみで 毎日やわらかくもみほぐす
新聞は 街の香りと無関係に 落とし紙として香りたかく
ひらひらとボットン式の深い便器の暗闇に舞い落ちてい
ったものだった あたりいちめん草と沈黙がひかってい
るだけのぼくの故郷の思い出さ だからいまでも思うん
だ 地べたにごろりと寝ることが本当の自由だなんてね
でも東京の地べたはひえやすいから 絶望的に自由を求
めて ぼくはときどき詩の中で寝ころんでみたりする

ぼくの中のニューヨークで 君はラッツオと呼ばれて
生きていた きみを演じたダスティン・ホフマンは単な
るきみの脇役さ きみつまり大都会のネズミ男よ ぼく
らはむろんまずしいけれど まだ目の中の女たちは白痴
的に美しい 生と死のイメジから遠く 彼女たちの曲線
は なにもない故郷の涼しさと一緒に揺れている

ラッツオと呼ばれたニューヨークの原住民よ 可笑しか
ったぜ 文学の中でこそ人間は自由になれるだなんて
不自由な足を一本ひきずって おまけに日々のジャラ銭
も不自由なくせに 銭こそすべてだと信じている相棒の
「真夜中のカウボーイ」に説教なんかするんだから で
も涙が出るほど嘲いながら考えたね ぼくのマイアミは
何処にあるって・・・・・

日本の詩人田村隆一は「不安な水」とぼくが呼ぶものを
「金色のウイスキー」だなんていっているよ でもちょっ
ぴり気に入った 金色のウイスキーがつくる金色のハイ
ウェイをぼくも毎夜長距離バスに乗っかって 夢のマイ
アミへと走っているからね 

きみはマイアミの海と女たちを夢みつつ 長距離バスの
中で夢のように死んでしまったけれど ぼくはそうはい
かないぜ 第一きみをみとった「真夜中のカウボーイ」
のような心優しい友人は一人もいないし 東京の武蔵野
の 文化的な長屋で滝のように歳をとりながらも 生と
死のイメジからも遠く 殺すことも殺されることも自由で
ある空間を まだ金色のウィスキーにながされながら
考える自由を持っている

街のきらいな ぼくは東京の原住民になりきりつつある き
みと同じように大都会の台所の闇にずっとうずくまるラ
ッツオさ 夢見がちのこのラッツオは 歩くことを忘れ
て しきりにジャンプすることだけ考えているけどね

55歳からのハローライフについて その3

2015-05-25 21:21:28 | 映画・テレビドラマなど
 引き続きよろしくお願いします。

***********************************************

「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その3
                                  H26.6.29
 平成26年6月28日分の、「55歳からのハローライフ」について引き続き書きます。
 今回は、「結婚相談所」というテーマです。「熟年離婚」というタイトルが適正かもしれませんが、そうであれば視聴者の反発をくらいそうですね。
 原田美枝子の主演で、脚本家も前回と一緒ですが、このたびはほとんどが女性の視点であり、難しいと思われたか、別の女性と共同脚本ということとなっています。今回も連作(?)のような形をとるようです。
 このたびのケースは、経済的にはそれほど恵まれてはいない夫婦において、退職後の夫の行動がおぞましく(再就職がうまくいかず引きこもって、テレビに向かって怒ったり罵ったりする行動など)、耐えがたくなり、熟年離婚をし、寄与分としていくばくかの財産分与をしてもらい、パートタイムとして独立しようとしている元専業主婦の話です。その中で、彼女は経済的に恵まれない分を含め、将来に向けて、結婚相談業者を通じ婚活を始めているところです。夫の方は、十分みれんがあり、メールなどを通じ、謝りつつ連絡を取ってきますが、妻は応じません。
 お見合いを繰り返すうちに、様々な中年男の本音がでてきます。結婚=性行為としか思わない男、マザコン男で亡妻の墓参りをさせた男、全て割り勘でタクシー代も割り勘にさせつり銭も取り込む守銭奴の男、IT従事者で他人の話を一切聞かない男、まさにパロディです。スープをズズっと音をさせてすする男、フォークを振り回したり、偉そうに大声で話す男、服装のセンスを含め、神経にさわり、女性に嫌われる男がたくさん出てきます。男の醜い姿がよく見えて、秀逸であり、男優が上手だし(素でいけるものね)、大変巧みな脚本と演出です。女性との共同脚本の成果が十分出ています。
 最後の男は、余りつまらないことは言わず、聞くことは聞き、食事に誘い、山登りに誘い、カラオケに誘い、赤いバラのプレゼントで求婚する、という順序と常識を踏んだ交際をしてくれた人でした。しかし、その後、うちに来てみてくれ、という話となり、夜の無人の町工場につれて行かれ、私と息子たち夫婦と一緒に亡妻の替わりにここで働いて欲しい、と懇願されますが、迷った結果、結局、断ってしまいます。
 職場のパートタイムの先輩(根岸季枝が素でやっています。)は、熟年離婚(55歳だったと思う。)した同僚を、(腹立たしくても結局離婚出来なかった自分に比べて)優しく揶揄するように見守っており、パート仲間全員で、韓国焼肉屋で、彼女が見合いをした、世の男どもを全員で罵倒していました(男の悪口はどうしてあんなに盛り上がるのでしょう)。
彼女(根岸季枝)は、最期のケースの話を聞いてふっと黙ってしまいました。「(誠実そうな男なのに)なぜ断ったの」と聞く彼女に、「だって、家で工場みたいに働いてくれって、私じゃないような気がしたの」と彼女は答えます。
 根岸季枝は引き続き黙り込みます。そして、「悪いけど、(用事があるので)もう帰る」と帰ってしまいます。
たぶん、男にも女にも無意識に序列があります。自己愛とプライドと言ってもいいかも知れない。容姿、経済力、そしてまあコミュニケーション能力とか、これらは明らかに目に映ります。それが全てとは決して言いませんが、その序列の中で、自分を相対評価して、無意識に序列をつけ、現実と折り合いながら、男も女も現実を相対的に生きているのです。したがって、若いときは別にしても「無謀な」愛の試みは笑われるし、「随分ねー」とか、ひんしゅくの対象にも、嫉みの対象にもなるのです。婚活は、若いときも、年を取っても厳しく、つらいものです。根岸季枝は、誠実で、自分の夫より数段まさったような、最後の男を、平然と振った原田美枝子が許せなかった、一体私ってなんなんだろうと思った筈で、同時に、心の底では彼女の熟年離婚を「よく、やるよ」とも思っていた、決して悪い人ではないが、人間は幾多の感情の交点で、さまざま迷い、ぶれつつ、生きているのです。
 彼女は、最後に、見合いパーティーに行くことにします。
 男も女も磨きあげて、勝負服、勝負化粧でやってきます。
 彼女はその雰囲気に耐え切れず、(私もたぶん駄目です。)、ホテルのバーで一人でワインを飲んでいると、一人ですすり泣いている、イケメンの男に出会います。彼女は生まれて初めて冒険をします。彼に、はちみつ入りのアールグレイを送るのです。受け入れた彼と話しはじめ、彼が何年越しに約束した彼女にすっぽかしを食ってしまったことがわかります。彼は、彼女に一緒に「ひまわり」(あのマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの出会いと別れの世紀のメロドラマです。若い人はお母さんに聞いてね。)を見てくれ、といいます。彼をふった彼女が、そのように言っていたのです。
これから先はおとぎ話なので関与しません。ホテルで一夜を過ごした彼女は、朝早く、彼に住所も告げずに出ていくのです。原作にもこのシチュエーションはあるのですが、誰にでも、こんなことは一遍くらいはある、という話でしょうか。(村上龍は本当は優しい人なので、付け加えたのかも知れません。なかったとしたら本当に淋しいことでしょうが。)
その後に、彼女は、元夫に会うことにしました。
 夫は、復縁できるかも知れないと思い勇んでやってきます。必要であれば土下座もしたでしょう。言い寄る夫に彼女は答えます。「あの女性は幸せなんでしょうか」、公園のベンチで、先のドラマの吹雪ジュンが野良猫を抱き上げかわいがっています、犬は連れていず、どことなく淋しそうです。彼女は、前のドラマで、様々な行き違いの結果、結局夫と引き続き暮らすことを選んだ人です。その姿は、その後の、彼女の近況かもしれません。
 「俺は本当に淋しかった」夫はここぞとばかり言い募ります。
 彼女は、握手を求めます。「あなたと私は親であり、おじいさん、おばあさんでもあるのよ。これからも仲良くしましょう。(さようなら。)」、と。
 悄然とした元夫は、バスで、力なく手を振りながら帰っていきます。

 彼女は、本当の意味で「自由」を獲得したのだと思います(哲学クラスで扱った「近代人の自由」(ヘーゲル)です。詳しいことが聞きたい人は連絡してください。)。
 それは、普遍的な、「選択する自由」です。これは、また「人間としての自由の条件」です。
 主婦として残るのも、離婚して一人で生きるのも、自分で判断すべきであり、それぞれに苦しみと、悲しみと、屈託とあらゆるものが付きまといますが、少なくとも自分の選択と選んだ人性に対する満足感は生じるでしょう。こわがらずに、高みにある「選ぶ自由」を手に入れるには、同じく「ひとりで決める自由と痛みと引き受けるべき責任」も当然に生じるのです。
 おめでとう、今日からあなたも自由になった、というべきかも知れません。
 しかし、多くの人がその自由に耐えきれないのもまた現実です。

 結婚相談所で、「もう少し続けてみます(後は自分で決めます)。」と彼女は宣言します。

 この連作ドラマで、職場の女性が、「今回のドラマが初めて面白かった(興味深かった)。」と言っていました。確かにそうかもしれません。

 与太話を少し。学生時代にわれわれにとっての自由とはどんなことだろうか、と議論しました。それは昼飯を食べるときに、カレーかラーメンかを決める程度の自由だと皆で笑ったことがあります。(高いAランチは食えないので)
今思えば、これも結構、本質的なことを言い当てていたなと、思います。だって、どんなに貧しい、つましい選択であるにせよ、どちらかを選べるのだから。

みんな、少しずつ幸福で、少しずつ不幸なのでしょう。(「誰も悪くはないのに、悲しいことはいつもある」、という中島みゆきの歌もありましたよね。)

 次は、小林薫の、たぶん「男の思い込みと格闘」の話です。
 7月5日を、乞うご期待ということで。

55歳からのハローライフについて その2

2015-05-25 21:17:19 | 映画・テレビドラマなど

 はっきりいってちょっと古いです。

***********************************************
「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その2
                                  H26.6.22
 平成26年6月21日分の、「55歳からのハローライフ」について引き続き書きます。
 今回は、「ペットロス」というテーマです。
 吹雪ジュンと、松尾スズキの主演で作られています。脚本も前回と一緒で、連作(?)のような形をとるようです。後の連作は、原田美恵子、小林薫が主演のようです。
 前回の「キャンピングカー」も、このたびのドラマも、郊外のコンドミニアム型の分譲マンションを舞台にしています。いわゆる億ションに近いものかもしれず、近くに今回の舞台となるドッグランのある広い公園があり、郊外型のとても良い住居地域です。住む人たちは、ある程度の社会的達成を必要としそうです。夫は、退職者ですが、大手広告代理店の引退者で、余裕のある家庭であり、妻はずっと専業主婦を続けてきたようです。また、夫は、インテリで、世間的な周囲との折り合いはよいのですが、家では、妻と全くしゃべらず、自分の思うがままに妻を操ります。妻は、長年の忍従生活で、口答えもできません。唯一、夫に逆らったのが、子どもが巣立ったあと、ペットを飼いたいときりだし、「欲しいのなら(散歩の要らない)猫を飼えよ」、という夫に抗い、子どものときからの夢であった柴犬を飼うこととなったことだけです。
夫は唯一逆らった彼女が許せず、犬が汚い、とかうるさいとか彼女をいじめます。犬も嫌って夫に吠えかかります。彼女は、夫のわがままに振り回され、夫の、一言、一言におびえながらびくびくして暮らしているのです。
ところで、夫役の松尾スズキ(劇作家兼俳優)が、とってもいい役をやっています。
彼は退職後、まったく書斎に閉じこもり、ブログばかり没頭しています。たまに出かけるのは、昔のクライアントのホームパーティーに行く時だけで、この時とばかり、相手の妻を褒めちぎり、社交的なセンスを発揮します(AB型じゃないかな)。妻は、運転手代わりに連れて行くだけです。妻をほめたこともないし、共通の話題を探すこともない(私のケースと同じで今更話すことなどはないのです。)自分勝手で、嫌な俗物です。しかし、松尾スズキが、かろうじて、知的で頼りなげで少し憎めない人物を作りあげ、彼を救っています。このドラマで、最初に彼の設定を見て、書斎にひきこもりブログが趣味というこだわりの人生(?)が、この私のパロディかと思って、思わず笑ってしまいました。年代もののレコードプレイヤーと、たくさんのLPレコードがラックに並んでいます。彼は、老後の余生を、自分だけの趣味とそのこだわりに生きているのです。彼の言動はいかにも、私がその局面に遭遇したらいいそうですから、多くの家庭適応不全の男は、痛く、思いあたるはずです。
一人で犬の面倒を看る妻は、ドッグランのある公園で、妻を亡くし、心配した子どもたちから犬をプレゼントされた愛犬家の義田に出会います。義田は、成功したデザイナーで、愛犬家の女性(なぜ愛犬家の男がいないのか)の人気者です。孤独な義田は他人が歩かない雨の日にも散歩します。雨の日は、公園の東屋で、彼女の用意したお茶を飲みながら、問わず語りに妻のことや様々なこと親切に語ってくれ、彼女は、無意識に夫と比較しながら、彼が本当の夫であれば夢想するのです。(余談になりますが、吹雪ジュンは、私の学生時代(1974年)にバーストした大人気のグラビアアイドルであり、今も面影はありますが、素顔が本当にきれいな子と言われていました。同じく、当時、きれいな女の子の代表だった坂口良子も鬼籍に入りました。(ああ!)ドラマでは、意識的な逆光だと思いますが、反射光の中で吹雪ジュンはこれだけ老けたのか、と茫然とします(自分はさておきですが)。)
変化は、愛犬(ボビー)が加齢から、余命いくばくの心臓病になってしまうころから動き出します。座敷にあげると、くさい、汚れる、という夫の心無い言葉で、監護のため、彼女は、納戸に籠城します。二人でこもっているうちにだんだん、過去の夫とのいきさつが思い起され、精神的に少しづつ危うくなっていきます。
「いい加減にしろ、いつまで、俺は冷たいものを食わなきゃならないんだ」という夫の言葉に彼女は激昂します。「好きなものをお食べになったらいいでしょう」と・・・・・。
 それ以来、ひきこもりになって、納戸で、看病しながら、カップラーメンをすする妻に、
夫が声をかけます。「出ておいで」、「外で面倒をみてもいいから」と。外に出てみると、居間に犬の看病ができるように準備がされていました。「おかゆを作ったから、よかったら食べろ」と。
 問わず語りに、「あなたは、結婚以来一遍も私を褒めてくれたことも、認めてくれたこと
もなかった」と、責める妻に、「お前は俺の誕生日を忘れていた、ボビーの誕生日は祝ったくせに」と、マザコン(自分中心;妻は自分だけ愛して面倒をみてくれればいい)の夫は答えます。「じゃあ、今まであなたは、私の誕生日に何をしてくれたんです」と妻も反論します。さすがの夫も、(俺がお前を愛していたのは当然わかっていると思っていた筈だがと、勝手に思い込んでおり)、初めて自分の仕打ちを謝罪します。
結婚以来、初めてのいさかいで、本音を吐いて、妻も少し落ち着きます。
 そのうち、監護する妻が、「買い物がある」と言われて、「行ってこい、俺が見てるから」と、夫も譲ります。妻のいない間に、夫は撫でてやろうと、犬におそるおそる手を伸ばします。
 柴犬(ボビー)を看取る日がやってきました。ペット葬儀社で、お骨にして、喪失感のみの妻は家に帰ってきます。もちろん、夫の付き添いはありません。葬儀から帰って、喪失感からと、やることもなく、手元のパソコンで、夫のブログを覗いてみました。
 すると、「愛犬の死」という題名で、夫が、愛犬の死を看取った妻との間で、死んだ犬が老後の二人の仲をとりもってくれた、という書き込みがありました。

 久しぶりに、公園で義田に出会った妻は、遠廻しに、また、犬を飼ったら、と勧められます。
 家に帰って、もし夫に相談したら、「悲しい思いをしたばかりじゃないか、(散歩の要らない)猫にしろ」というだろうと思いながら、瀬踏みのつもりで、夫に相談すると、その通りに応えるので、思わず笑ってしまいます。すると夫は、「その笑顔が必要だから」、と、「また犬を飼えばいいじゃないか」、と言ってくれます。一応、将来に希望を残す幕切れです。
 経済的な問題は別にして、支配したがる夫、話もできない夫、不気味な夫、何もしない夫etc、とこんな夫と最後まで、老後を一緒に過ごすのか、という多く(?)の妻の絶望的な気持ちと空虚さがよく理解できるドラマとなっています。

 先ごろ、中央公民館の県立大サテライトカレッジに参加し、「語り場「老後の不安・・・何が不安?」に参加し、実体としてどんな話が聞けるか、と期待して行きました。時間が
なかったのですが、義母と夫を在宅で看取った70歳の女性が、嫁に一切遠慮をしなかった(最後は痴呆になったそうです。)義母と、家庭サービス(子供と遊ぶとか、家族みんなで行事をするとか)を一切配慮しない夫(代わりに職場の人を乗せてあらゆるところに遊びに行ったそうです。)に係る、恩讐のかなたの話をしてくれました。また、(女)友達皆が、今は楽になったでしょう、と言ってくれるけど、実感がない、とも言っていました。
また、70歳代の未亡人が、もう一度是非結婚したい(理由まで聞けなかった)、とも言っており、その後、70歳くらいの男が脈絡のない質問を始め(何かの孤立感か疎外感から何かを言いたいのだと思います。)、セミナーはお開きになりました。当日、私は、水を向ければ、夫や、義父母、家族に対する、熾烈な、怨さに満ちた、すさまじい感情の発露があるかと思いましたが、案外でした。
いずれにせよ、参加者の皆さんの多くは、明日は食えない、という経済的な話ではないようです。
しかし、子どもが会いにも来ない、私の世代では、父母(義父母)の面倒を看たのに、というのは、共通して、切実で、さみしい問題のようです。

 もとに戻って、これもこの脚本の妙なのですが、先の「キャンピングカー」の家庭と、この「ペットロス」の家庭は隣人です。それぞれ、落差のあるマンション(仮にコンドミニアム型と言ってしまいます。)で、それぞれ20㎡くらいの緑地や、ベランダが部屋に附置しており隣戸とは落差で視線が合わないようになっています。隣人の「キャンピングカー」の夫が錯乱するのも隣の柴犬の吠え声を聞いてからです。「挨拶だけはするけど、感じのいい奥さんよ」、と相互に思うらしいのですが、煩わしさか、決して人間関係を作ろうとしません。うまくいかなくなった場合のリスクを考えるのです(皆さんも同じですか?)。
すなわち、ポストモダン(現代)においては、各家庭の、痛みも悩みも孤独も徹底的に個別的なのです。殊に退職後の男にとっての人間関係は、利害関係のない学生時代の友人(社会階層の同じ)のみしかおらず、もし経済的にとか、病気等で孤立したり、家族にも見放されたら、プーになるか、自殺するしかないような厳しい現実と、個々の、救いようもないほどの孤立と孤独があります。しかしながら、近隣とくらいは、せめて友好な関係を作りたいではありませんか。

私に言わせれば、現在のこの状況は、近代以降、日本が西欧列強に抗して、走らざるを得なかった近代日本がロールモデルとした西欧流の個人主義と豊かさを求めた道筋の帰結ではないかとおもいます。そうは言っても、現在の日本の家族の実態は、余りに淋しい結末であり、例のグローバリゼーションで、世界同一市場(強者の資本の国境を越えた移動と収奪(無慈悲な資本主義))の実現と、それに伴う同一文化の実現、このままいくと、あらゆる国が、均質で、無味乾燥な、つまらない、冷酷な世界国家の中に埋没し、日本も同様になりそうです。これは、「相互扶助」、とか「共存共栄」とか、「察しと思いやり」とか、「情けは人のためならず」とか、共生と相互協力を説いた本来の日本の文化と伝統に真っ向から衝突するものだと思われます。
戦略的には、現在の世界状況での、一部の勝者の、止めどもない自己欲望の追及とその無原則な随順者については、これしか対抗するすべはないではありませんか。(したがって私は、反グローバリズム、反TPP、反新保守主義、の立場をとります。)(この日本人の国民性については、和辻哲郎の「倫理学」を読んでください。)

と、最後は、いつもの堅い話になってしまいましたが、相変わらず「青い」、「渋い」、「固い」です。
 次回は、原田美恵子の熟年離婚の話だそうです。きっといい作品だと思います。(かつて見た、彼女の、「愛を乞う人」で、虐待者としての母の演技には背筋がゾクっとしました。)
 長くなってすみません。

55歳からのハローライフについて

2015-05-25 21:09:56 | 映画・テレビドラマなど
 
 ちょっと古いのですが良ければ読んでください。
   天道公平

*********************************************
「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について
                                  H26.6.15
 平成26年6月14日から、NHKの土曜日ドラマで、「55歳からのハローライフ」が始まりました。
このドラマの原作は、2012年末、村上龍の原作で、幻冬舎から出版され、中くらいのベストセラーとなりました。3.11の際の、村上龍のコメントが大変良かったことと、時々とんでもない(なにそれという感じです。)本を出すけど、村上龍は気になる作家ですので、早速読んでみました。短編集として、5話からなり、それぞれ55歳代以上の男女の、夫婦または単身者の、決して幸せ(?)でない日常と屈託が描かれています。
ビートルズの、エリナ・リグビーではないですが、「All the lonely people where do they all belong 」、「誰も幸せでない、彼らはどこから来て、どこにいるのだろう」という主調音です。ただ、一話一話が、私にとっても身につまされる話で、とてもいい作品だと思います。(文学が、悩み、苦しむ者のためにあるとすれば、の話ですが。)
私にとって、強く印象的だったの、連作のいくつかが、いずれも、一対のカップル又は単身の男や女の、男と女の差異と、それぞれの齟齬(くいちがい)が冷静に描かれ、それぞれが救いがないほどに孤絶しているか、時にその中で、お互いがいかに歩み寄り、関係を修復しようかとする話で、多くは共に暮らした時間や、勝手な自負や思い込みが、ことごとく相手に覆される話です。当然それぞれのケースで経済的な側面は大きいのですが、そのリスクを負ってでも、「心の交流」のない夫婦(カップル)に未来はない、という冷徹なドラマでした。いわゆる、社会現象とすれば、今増加している熟年離婚とか、子育て後の、埋めるすべもないむなしさと空虚と将来に対する不安を扱っています。(同種の小説では、やはり新聞小説で評判となり、ベストセラーになった「魂萌え」(桐野夏生)を連想します。これもとてもいい本です。)
 この本には、フォローワーが結構いるようで、このたび、NHKの土曜ドラマの5回シリーズで扱われます。初回は、「キャンピングカー」という話で、定年を前に早期退職を選らんだ男が、長年夢に見ていた「キャンピングカー」を買い込み、妻と一緒に日本中を旅しようと試みるのだけど、妻も子もすでに自分の世界(絵画、それぞれの仕事)を作りあげており、男の勝手な夢に付き合うすべもない、また、いたたまれない男は、再就職を試みながらも、周囲の評価のあまりの低さと、自己評価の落差で、精神的に失調をきたす話です。妻に勧められた心療内科で、医者に、コミュニケーション能力の不足と、自分自身の人生の過剰評価と周囲を思いやらない態度を指摘され、最期に周囲との関係修復を試みようとする話で、いくらか救いがある話になっています。
 彼は、今日、明日が困る生活者ではなく、家族に見捨てられるまでいっていない、他の短編で扱うケースに比べると、まだ救いのある話ですが、俺が皆を支えてきたという、男の思い込みや、それゆえの身勝手さが、現代ではほとんど評価されない、という厳しい現実を、浮かびあがらせます。ドラマ自体は、二人のこどもたちを含めた、家族の気持ちと、優しい妻の妥協(?)など、丁寧に描かれていきます。
 ドラマでは、キャピングカーが悪夢の象徴になり、男を追い詰めます。最後に、妻から、「あなたは私のことを何も理解していなかったじゃない!!」という厳しい指弾をされます。
原作にもある、再就職の際の非人間的なまでの厳しい状況を含め、リリーフランキーが好演しています。いい脚本で、この原作が、多くの人に切実で、興味深い話であったのはよく理解できます。また、このドラマは、まだ、男としてはまだ救いのある話でしたが、(このドラマを見た)男の多くは自分の境遇と、切実に比較をしてみた筈です。
(余談になりますが、前回の土曜ドラマ「ロング・グッドバイ」、渡辺あやの脚本でしたが、出来があまり良くなかったので残念でした。)
次回は、原作では、4話目に当たる「ペットロス」を扱うそうです。愛犬家となった、主婦を吹雪ジュンがやり、横暴でわがままな(昔ながらの)夫を松尾スズキが演じるそうです。予告編を見ましたが、とてもいいみたいですよ。吹雪ジュンといえば、思わず、Eテレの「団塊世代」の司会での天然ぶりを連想してしまいますが。
 村上龍の原作は、「55歳以上の人」(熟年層)が、様々な社会階層で、様々に、まったくに孤立化している現代の熟年者の人生を、つきはなしながら、また、肯定しつつ暖かく描いています。あれだけ新しく、孤絶していた、かつての「限りなく透明に近いブルー」以来、小説家としての村上龍の修練と長い達成が、改めて思い浮かびます。
 脱線しますが、3.11後の村上龍のコメントは、東京にとどまっていた文学者として、大変いいものでした(「櫻の木の下には瓦礫が埋まっている」)。その3.11の次の年に、こんないい短編集を出すのですから。
 臨床精神科医の齋藤環が、「女は関係、男は立場」と、よく言います。
(多くの)女性は現実的で、原理原則や、自分の信念を他人に強要しません。それは、世間的には利口な対処です。しかし、それは、小さな社会的な側面のある場所で有効であって、あらゆる局面で、全て正しいというわけでもありません(かつて、うちの妻はいつも「テレビに向かって怒るな」、と、私に怒っていました)。
何故男は順応ができにくいか、というか柔軟性が少なくなるというかとすれば、仕事を得た時点で、否応なく飛び込んだそれぞれの特殊な社会の階層性の中で徹底的に縛られるからです。長年続いた組織の中の順位と常識は、組織が苛烈であるにつれ、なかなか疑えず、排他的なものです。
その、自己の常識の有効性を疑うような、どこかで手痛い目に合わないかぎり、男は、殊に家庭では、修正がききません。場合によっては、眉間を割られるような(太宰治の「男女同権」とか読んでみてください。)手痛いしっぺ返しを食らいます。現在の家族の風景ではもっと苛烈でしょう。
 また、その対処については、自分の仕事場で覚えたように、皆と折り合いをつけ、根回ししたり、調整の必要のある他者として家族を認め、そして、自分を認めてもらえるように、ということになるのでしょうか。
 少し脱線しますが、日本の男は「マザコン」、「マザコン」と言われてきました。
結婚しても、実母のいうことだけは、妻を置いても(無視しても)聞く、というのはどうかと思いますが、「マザコン男は買いである」、という本もあり、いい面もあるはずです。その、本によれば、マザコン男は、おおむね温和で(DVに至る可能性は少なくて)、家庭では周囲に優しく子供も可愛がる、という観察です。日本の家庭での、「お父さん」、「お母さん」という相互の、また一家での呼び名は、よくそれを表しています。少なくとも、家族に中に在ることに対し直接に責任のない子供たちには、とてもいい環境です。
 しかし、うらはらに、男は妻に母のようなケアを求めるところがあって、社会生活ではきちんと論理的に振るまえるはずの男が、性的な親和力を盾にして、夫婦の中でわがままを通したり(キャンピングカーでもいいです。)、いわゆる無意識にあるいは際限なく甘えるところがあります(その反対もあるでしょう。)。これについては、それぞれのカップルで、今でも思っただけで歯がゆい(山口弁)、どうしても許せない、という妻の独白もある筈です。また、現在のように、妻が、家庭外の活動とその生きがいを求めだしたら、そのくいちがいと、その決着は自明なのです。
高齢化社会になり、60歳以降、死へのモラトリアム(猶予)が長く続いていくようになり(小津安二郎の「東京物語」での60歳を過ぎたばかりの笠智衆は広島に帰ってすぐ妻(浪速千恵子)を亡くすのです。こどもを育てあげた大事業のすぐ後ですが。)、女も男も、よくも悪くも膨大な時間が生じ、周囲と折り合いよくやっていける女性よりは、殊に男は、学ぶことがたくさんあるのです。

どちらにも際立った正義はなく、今の世界状況と一緒で、「自由の相互認証」(ヘーゲル)しか、解決はないと思いますが。