天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

余はいかにしてブログを始めようと思いしか!!(読書ノートへの自註)

2015-06-09 21:43:49 | 日記
2011年の3.11以降、東日本で何が起こっているのか、よく理解できず、必死で、昔から読んでいた信頼できる著作者の声明又は社会的発言を探した覚えがあります。瀬尾育生さんも書いていましたが、当時西日本と東日本では極めて大きな落差があり、受け取る感覚がまったく違っていたように思います。
私は、被災後、困難な状況の中で、必死で家族を探す、たくさんの被災者たちの姿を、今も忘れられません。「死を想え」、というのはこんな時の言葉だったと思いました。
また、広島の原爆被害愛好(?)市民団体が、兵器と科学技術の差を超えて(本当に馬鹿らしいですね。)、(その際の、自然災害による原発事故を必死で収拾しようとする現場の同胞たちの努力を尻目に)福島の原発事故を、それ見たことかと、そしったことを、決して忘れません。
その時他国にいた、村上春樹も、他人事のように、同程度のことを、「誤った選択」と呼び、自己が文学者であることをないがしろにして、安い西欧人の視点からコメントしていました。これも、忘れません。
その後、東北復旧に是非必要な廃材処理を、わが地区の処理場に決して入れさせないと言い張る当該地元団体のおやじ(おばはん)の醜い顔も決して忘れません。これは、知的・想像力の退廃というよりは、感性の鈍磨という話でした。お前ら、小金をためて、卑しい人間になったなー、という感じです。

 当時の私の気持ちは、おこがましいことながら、戦中・敗戦時に、尊敬すべき著作家、例えば小林秀雄のコメントを必死で求めた、吉本隆明の焦燥感、切実感に近いものだったかも知れません。
 私は、もともと、文学・哲学等愛好する、典型的文系人間です。しかしながら、現在の、第二の敗戦時に、それだけで済むわけがないと思われます。ブログで与太を書き飛ばす前に、現在の未曽有の危機に自覚的であり、私を含め大多数の国民大衆はどのように対処すべきかについて私なりに戦略がないと、あまりにさみしいことであり、奇跡のような近代以降日本を作り上げてきた父祖にすまない、と感じます。
開闢以来、初めて大敗北(太平洋戦争)した、我が国が、3.11という1000年に一度程度の大災害に耐えられないはずはないが、しかし、今後、いつまた、自然大災害が発生するかも知れない、本当は、そんなすれすれの日常です。
幸い私たちは、「社会的な」存在です。他人の思惟や、考察、著書に賛同もできるし、恩恵も受けることができる存在です。当然、現在は国民国家の(当然の)庇護のもとで自分や家族、友人同胞と一緒に、よりよい生を生き延びていかなくてはなりません。
一昨年末から、読書会をはじめました。
どんな貧しい会合、考察だとしても、今後、考え、伝える努力は放棄すまいと思いました。
我々が選んだのは、まず救いとなるべく、哲学や思想・文学の著書です。
これらの本は、3.11後、私たちに絶対必要な本です。私は、小浜さんの代表作だと思っています。
今後も、経済を、科学技術を語る前にも、皆さん、是非読むべき本であると思われます。
(同時期刊行された親鸞論「歎異抄」も、3.11の次年に亡くなった吉本隆明へのオマージュとも読めます。思想は思想で乗り越えるしかないのですから。)
 私の、貧しいブログに来訪していただいた皆さん、私の謬見でも、それを契機として是非この読書ノートを読んでください。

ニンテンドーDSに係るクロニクル

2015-06-08 22:13:59 | 時事・風俗・情況
 我が家のむすことむすめの思い出のために・・・・

*************************************

 うちの子が小学校低学年と、保育園児の時、スーパーファミコンをやりたくてしょうがない時期がありました。しばらく、待たせましたが、上の子が小学校高学年の時、クリスマスの時に買ってやりました。その時は、普通の子供があんまり流行を追わないのもどうかという気持ちでした。当時は、ロールプレイゲーム(プレイヤーが主人公になり試練を経て現世的な王の地位か何かを獲得していく英雄漂流譚)では、ドラゴンクエストとか、ファイナルファンタジーとか、ゲームらしいゲームと云えば、スーパーマリオとかボンバーマンとか大変膾炙した時期で、ご同様に多くの大人が当該ゲームを楽しんでいました。ただし、うちの子は、当時もその後も格闘ゲームとか、知性を要求されるゲームは、やっていなかったと思います(成人した娘が言ってました)。
 続いて、私が、初めてニンテンドーに出会ったのは、40歳半ばごろです。インターネットのウエブサイトで、糸井重里新聞「ほぼ日」というのに出会い、その中でニンテンドー(旧名「任天堂」、トランプとかテーブルゲームを作っていた会社です。)の社長の岩田という人のコンテンツに出会い、岩田君というパソコン好きの高校生がゲームクリエーターになり、乞われてニンテンドウに入社し、ゲーム開発で、世界規模の会社にのしあがったというサクセスストーリー、また、コピーライタ―あるいはサブカルチャーの知識人として有名な糸井重里が、ゲームプランナーとして、「マザー」、「マザーⅡ」という結構有名な、うちの子供もスーパーファミコンでやっていたゲームを作っていたことの詳細を知りました。
 全共闘世代の糸井重里(政治運動がらみで法政大学を中退しています。)は、サブカルチャーなどの旗手として有名な人であり、また、彼は吉本隆明に対し、弟子のように、個人的に私淑している人でした。彼のネット新聞は、90年代の後半から活動を始めたウェブサイトで、先駆者的な仕事をしています。彼は人当たりのいい頭のいい人(ストリートスマートというのかも知れない。)で、彼のサイトには先端産業の社長さんや、技術者、デザイナー様々な人が参集・登場し、当時(2000年代が全盛)は本当に新しく、華やかで、とても興味深いものでした。その当時、ニンテンドーからプレイヤーの希望に応え、糸井の「マザーⅢ」が発売される時期でもあり、大変に盛り上がっていました。
 また、そのコンテンツで、「あなたのマザーの気持ち」という記事があり、これはスーパーファミコンで「マザー」をプレイしていた人の投稿ページですが、必ずしもみんな幸せな少年時代を過ごしていない、若者にもそれぞれ喜びも、屈託も、悲しみもあるというコンテンツでしたが、素直に書かれた投稿は大変面白く、さる主婦が、「私はファミコンとか全然知りませんが、でも、今からすぐ始めます」とネット投稿してくるような熱気あふれる掲載でした(私が覚えている投稿で、父親がファミコン好きで、当時幼児の私にはさわらせてくれなかったが、不和の末に父母が離婚した後、残していったゲーム(マザーⅠ)を開いてみると、自分の名前がゲームのキャラクターに使われていてうれしかった、そして中途になっていたゲームを完了しました、本当にうれしかった、というのがありました(この感想はこのゲームをプレイした人でないとわからないかも知れません。)。
 私は、「マザー」、「マザーⅡ」は、ゲームボーイアドバンスという機種で始めましたが、ガイドブックなしで、ゲーム機を壁に投げつけたいような苦闘の末、1年半くらいでやり上げました(本当にうれしかったです。かつて、竹田青嗣さんにファミコンのロールプレイゲームにはまってしまい、妻の顰蹙を買ったという話を聞いたことがありましたが。)。
「マザーⅠ」は、よくできたゲームで、普通の子が、世界征服を企む宇宙人と戦うため、敵を探して、友達と世界を救う旅に出るというゲームで、不在の父親とか、マイペースの放任母親とかの家族が登場してきて、遊んだ後、ふと、冒険を通じての自分の成長と家族のあり方を問うようなゲームで、時代的な制約はありますが、スリルもあり(うちの子が、いみじくも、「ところどころ怖い」といってましたが)、女の子との幼いエロチックな経験(胸キュンというところですね。)もあり、ある男の子がプレイ中に母親にたまたま見つけられたときに、「こんなエモーショナルなテレビゲームもあるのねー」、と感心したように言われたというエピソードもありました。主人公たちの、少年らしい感覚や相互の感情の起伏、そして幼いながらもその倫理観や正義感もよく受感されるようなゲームでした。
 その後作られた「マザーⅡ」は、本当に完成されたゲームで、あれからいろいろなゲームをやりましたが、これ以上のロールプレイゲームには遭遇しませんでした。
 前作から、マザーⅡの開発に際し、糸井重里は、たぶん小説を書くくらい時間をかけたと思いますが、物語といい、セリフといい、推敲と刻拓(?)を重ね、深さと暗さと、思わずにやりとする上質なユーモアによって作り上げ、また、音楽はとても印象的で不思議な記憶に残る音楽で、後で「エイトメロディーズ」という曲として小学校の音楽教科書に採用されたそうです。クリアした後の感想は、膨大な時間をかけて、良質な児童書を読んだような経験でした。特筆すべきは、「どせいさん」という幼児性と聖性を兼ね備えたような、無垢(イノセンス)のキャラクターの造形です。彼は、大人にも子供にもとても受けました。
 マザーⅢについて言えば、当時はニンテンドー、新たに、ニンテンドーDSを売り出し、高性能の携帯用ゲーム機が大変受けていた時期で、娘におもねるように早速2台購入し、最後の「マザーⅢ」を今度はネットの補助を受けながらプレイし始めました。(娘にも買ってやりましたが、早々とクリアしたようです。)
 完成度は、「マザーⅡ」に及ばないと思いました。
 しかし、4部構成で、一部は妻に死なれ立ち直れない父、二部は障害者、三部は悪役と組まされたサル、四部からようやく主人公の男の子という構成です。ただ全体を流れるテーマは「家族」と「家族の中の子供」の流れであり、過酷な暴力で殺された母親にかばわれ生き残った子供たちが困難な冒険を経て人間的に育っていく冒険が巧みに描かれており、作者の糸井自身も、家庭的には必ずしもめぐまれていない、家族についてどこかに感情の澱を残す人でしたが、上質な母恋記とも成長記とも言えます(彼はこどもの悲しみ、弱さ、強さをよく受感される人です。)。
 殊に、三部の「サル」の部分は秀逸でした(他に誰が思いつくでしょうね)。これも、私は、やっぱり、今も遊んでいます。
 糸井は、マザーというゲームはドラゴンクエストシリーズに触発されたオマージュといっていましたが、ニンテンドー対応の、ドラクエⅤは、他のシリーズと同様に堀井雄二という人に作られています。これは、いわゆる、貴種流離譚というパターンのロールプレイゲームで、英雄の流浪伝説なのですが、ある男(この前不意に故人となってしまいましたが)が、在りし日に、懐かしげに述懐するには、中学時代、このゲームにはまってしまって、主人公(自分)の花嫁選びの場面で一日悩んで、悩んで悩んで、昼飯が食えなかった、という話をしていました。
 そのアポリア(?)とは、英雄は、結婚相手として、幼馴染のしっかりした子か、しとやかな優しい子か、たかビーで強気な子のいずれを選ばなくてはならない、という試練なのですが(確か、ドストエフスキーの「白痴」でも相手を選べない人格(三男のアリョーシャだったかな)が出てきたと思いますが)、興味深い、奥の深い設定で、「うーむ」と男は悩むだろうなという、高度な選択です。ただ、笑ってしまうのは、だれを選んでも、結果として破たんとか離別とかはなく、次世代のこどもが生まれ、夫(王)に寄り添うというパターンになるようではあるようです。このゲームも結構本格的なゲームなのですが、三代にわたる英雄物語で、やりがいは(プレイのやりがいは)十分あります。なるほど、これが、当時、若者たちを熱中させた、RPGなのか、と思われます。

 最近の、ゲームの実態を知りませんが、ネットを使ったオンラインゲームや、スマート
フォンを使う同様のゲームことを聞くにつけ、自己完結し、自己の決意でゲームが閉じられ、また追加料金のない、DSは健全なゲーム機かなと思います。それを考えれば、時々、子どもが戸外で、友達とやっているのを見ましたが、かわいいものだな、と思ってしまいます。
 私にとって、「つまらん遊びはするな」、と子供たちに無考えにいわなくなっただけ、意味があるでしょうか。

 このたび、エニックス(ドラゴンクエストシリーズ制作会社)が、スマートフォンにドラクエのソフト提供をするというニュースを見たので、DSについて述べてみたくなりました。

 おまけとして、私が糸井「ほぼ日」新聞で最も印象に残った投稿をご披露します。(「きょうのこども」というコンテンツへの母親からの投稿です。)
 (まさしく、イノセンスの世界ですよね。私はしばらくとても幸せでした。)

娘が小学1年生の時、
「お母さん、BCG受ける人と
 受けない人がいるよ。なんで?」
と言うので
「陽性の人は受けなくていいんだよ。
 Hちゃんは陽性だから
 受けなくていいよ」
と言うと、娘は
「えぇっ! 私、陽性だったの?
 今まで知らなかった‥‥」
と非常に驚き
神妙な顔で何やら考え込んでいる。
「あぁ言い忘れてたね、ゴメンゴメン」
と言うと娘は
「どうしてそんな大事な事
 今まで黙ってたの!」
と怒り出した。
ツベルクリンの結果を
言い忘れたくらいで
そんなに怒らなくたって‥‥
と不思議に思ったが、
次の一言で謎が解けた。
「私、今まで
 自分が妖精だなんて知らなかった!
 人間だと思ってたよ!」
‥‥そんな大事な事6年間も黙ってたら、
そりゃ怒るよねぇ。
(妖精の母より)

時節柄(ホタル狩りの夕べ)

2015-06-07 07:09:05 | 日記
 わがふるさとも梅雨入りし、蒸し暑くなく雨も続かずたいへん幸福なのですが、縫い間にホタル狩りに行ってきました。文字どおりアドレッセンス期は、ホタルを10匹かそこらは狩っていましたが、さすがにそんなことはせず(する気にならず)飛び違う様を鑑賞してきました。
 ホタルを見るなら清流のもととの暗黙の了解で、私の居所の近くの府ノ谷というところにやってきました。来週ホタルまつりということで、少し前にやってきましたが、6時前くらいから、細い川の堤塘にスポットを定めひたすら待っています。この地区は、耕作放置田がまだ見当たらず、幸せな気持ちになります。草ぼうぼうで荒れ果てた耕作地の上を一つ二つとホタルが飛ぶのは耐え難いところです。
 駐車場で出会った方が、まず、ありがとうございますと挨拶され、どのあたりがいいよ、とか、マムシに気を付けてとかいろいろ教えていただきます。ホタル狩りの車が往来して、地元にメリットもないのに、ていねいなアドバイスに感謝します。
 私は、田んぼの光景を見るのが大好きですが、今の時期は、田植えが終わってすぐですが、早速オタマジャクシが泳いでいます。畦を傷めないように、そっと覗きますが、何種類かのオタマジャクシが慌てて逃げていきます。土ガエルとか、山ガエルとか何種類かのカエルがいるようです(ここは宇佐川という地元では有名な清流の上流なのです)。
 薄暮の中で、カジカガエルの声を聴きながら、ひたすら待っていると、水際の草の中で確かにぴかっと弱い光が見えます。ひたすら待っていると、水際の広葉樹の葉裏から、光の明滅が始まり、一匹、二匹と飛び違い始めます。風もなく、そのうち、数えられるだけかぞえても、
十匹、二十匹と群舞となります。しかしそれは、ふわっとした緩やかな飛び方で、ふと手にとってみると、手のひらをゆっくり這い回り、指先に達したかと思うと、ふっと飛び立ってしまいます。待っていると、幾らもやってきます。村上春樹の、「螢」という名短編で、主人公が放したホタルが、しばらく這い回ったのち、ふっと何かを定めたかのように飛び立っていく描写がありますが、そのふっと飛び立つさまを見守ると、その光の軌跡と一緒に、愛しいような哀しいような何とも言えない喪失感が残ります。
 かつて、自然や動物、昆虫を祖霊のようにとらえた私たちのいつかあった日常に帰れるようです。ひたすら、必死でホタルを追っかけた、私の幼少期(一応はあったぞ)には、思いもよらない感覚ですが、そばで、見守る涼を求めるおとなたちも同様なことを考えていたかも知れません。
 場所を変えて、農道を歩きながら、少し広くなった川で、ホタルの乱舞を見ました。
 街灯の光りも届かないところで、数を増し、緩やかに飛ぶホタルたちが、群れをなすかのように集まり飛び違う様は圧巻でした。「火垂る」というのはこんなとこかなとは思いますが、すべて弱っちい平家ボタルですから、とらえてみれば、「よく生きてきたね」と、いとしさが募ります。(独特のにおいがします。この匂いは好きです。)明るいホタルも、やや暗いホタルも、やはり、それぞれの風土で違ってくるものでしょう。

 無芸のわたしで、写真もつけずに毎度申し訳ありません。
 おすすめするとすれば、ホタルまつりとかないときに、(今回一週間前です。)行かれることをおすすめします。ここは、山間部なので、ところどころ道路が狭いところがあり、軽自動車がおすすめです。興に乗って、あぜ道とか踏みつぶさないように。マムシはみませんでしたが、青大将(大きめの無毒のへび、アルビノは、ほらあの岩国市のしろへびです。)の大きな抜け殻は見つけました。
 初夏の楽しみに、皆さんも是非どうぞ。
 もうしおくれましたが、ここは山口県岩国市の北部になります。市域から、車で一時間くらいのところです。 
 
 

Eテレ06:55について

2015-06-03 21:23:55 | 映画・テレビドラマなど
NHKのEテレ、「06:55」について

 毎朝、事情が許す限り、NHKのEテレで、6時55分からの「06:55」を見ています。
 5分間のみの放送ですが、着想とユーモアが秀逸で、飽きません。

 必ず毎朝あるのが、日めくりカレンダーです。続いて、へたうまキャラクターのパレード、シカ、ペンギン、カピバラ、カブトムシ、かめのとぼけた味のやりとり、コント(?)に、とても気持ちがなごみます。
そして、常設は「俺(わたし)、ねこ」、「わたし(俺)、犬」という、投稿された、猫、犬の写真を使って、家族とペットの生活を、つぎはぎに連ねていく視聴者参加の催しです。

「○○家の○○さんです」、から始まり、「俺(わたし)猫(いぬ)」、「これ、俺(私)の寝床」、「これ、俺(私)のおもちゃ」、「これ、普通のごはん」、「これ、特別ごはん」、「これ、うちのやつ」、と展開していって、最後に「でも、おれ、こいつの気持ちよくわかるー」、と飼い主との一緒のスナップが出てきます。
 最初は、猫が俺(男役)、犬がわたし(女役)かな、と思って、観察がすごいなーと思っていましたが(いかにも猫は「俺」で、犬は「わたし」じゃーないですか)、実際のところは、彼らの性別で分けているようです。とはいっても、そのうち犬、猫といえども性差があるのがよくわかりました。人間同様、性差が生じない犬猫というのも貧しい文化ですよね。
 毎朝見ていると、私ですら「かわいー」という感じになってしまって、楽しみになってしまいました。ただし、遠景とはいえ、家族のなかに子供はほぼ出て来ません。「独り者かなー」、と思われる人も多く、たくさん登場する中高年の男女を含め、おしなべて、「彼らは本当に動物と人間を超えた家族なんだー」という、うら寂しいような雰囲気もします。また、一生懸命、肩寄せあっていきているんだといういじらしさも感じられます。猫や犬、犬は特に人間化している雰囲気もあり、飼い主を含めた彼らは古い夫や妻を見るような落ち着き方と、はまり方です。
もしこれが、子供と家族のスナップなら、この番組はだれも見ない、かもしれません。個々の家族と自分のこどもに対するかわいさの感覚は、他者にそれほどの拡散化を許さないからです。
この番組がなぜ人気があるかと、考えてみると、投稿者にも、見る側にも、核家族の増加と、拠り所のない孤独が背後にあると受感されます。束の間でも、犬も猫も、大切な代替の家族なのです。また、その切実さは、ユーモアとともに視る側に測々と伝わってきます。
亡くなった吉本隆明(よしもとばななの父さんです。)は、猫を好み、殊に野良を、一家でたくさん飼っていましたが、晩年は、フランシス子という雌猫を溺愛し、彼女は吉本にのみ、なつき、吉本隆明からしか餌をもらわなかった、双方の晩年では、口移しで餌を与えていたといいます。愛猫フランシス子が、死んで行った後、吉本はバタバタッと衰えていったという話です(ハルノ宵子「フランシス子と父」より)。
私にとっては、あの人でさえ(?)という気持ちですが、たとえ高齢になったとしても、自分以外の外部とのエロス的な交流が、人間にとっていかに大事か、ということが、よーく理解できます(願わくば異性とのエロス的交流が欲しいものですが、なかなかむつかしい)。
あと、「ミカンを剥くのはどっちから」、というような、その時々で、ビデオと歌と、ダンスと統計を組み合わせた試み(私は有田剥きというミカンを最初に皮ごと4分割する剥き方を初めて見ました。)や、夏バージョンのカブトムシのパレード、かわいいのキャラクターのカブトムシの唄(天敵は烏だそうです。なるほど、悪食だからね、ブーンと飛ぶ間に食われちゃうよね。)などを聞いているうちに、7時になってしまいます。

その後の私の気持ちとすれば、

And when I knew I had to face another day. 

そしてまた一日の始まりに立ち向かわなくてはならないことがわかる、と。
(キャロル・キング「ナチュラル・ウーマン」より、訳は天道です。) 
 

* あと、「23:55」というのもあるそうです。宵っ張りの方はどうぞ。

永遠の0(ぜろ)について その2

2015-06-01 23:58:20 | 哲学・文学・歴史
この文章は、とてもラッキーなことに百田尚樹氏の講演会に参加できたときの印象記をアップしたいと思います。
ところどころ、昔習ったおかしな関西弁で決めてみました。
***************************************
「永遠の“0(ぜろ)”」について    その2
                                25.12.02
 百田尚樹さんの、講演会(11/29、於、周南市文化会館)に行ってみました。
会場は大盛況で、現在のベストセラー「海賊と呼ばれた男」(出光佐三翁の出光創成期の事件を扱ったものと思われます。未読)のせいで、出光興産の関係者がいっぱいなのか、会場に一時間前に到着しましたが、すでに熱気がむんむんといったところでした。
定刻になり、ハットをかぶった、百田さんが、登場し、「ベストドレッサーの百田です」、と軽くいなします。禿頭の、精力的な風貌に見えましたが、私と同年輩のおやじです。さすがに大阪人で、「えらい立派な文化会館で、出光はんも相当協力されたでしょう」と、突っ込みとサービスも忘れません。
枕は、演者が放送作家を務める「探偵ナイトスクープ」の話です。この番組を、私はケーブルテレビを契約してないので、こちらで視ることができません。が、東京へ行っていたとき、たまたまホテルでみて、大変感動した覚えがあります。それは、昔、道に迷った時に、家に連れて帰ってもらった恩人を探す、という番組でしたが、相手方と小学生のやり取りが絶妙で、「大阪のテレビはやっぱすごいなー」、「誰が作っとんのやろ」と感心した覚えがあります。
最初は「23年間妻と話さなかった男」という番組の話になり、これは大ヒットで、「ユーチューブ」でみられるそうです。
「うちのお父さんは、うちの母と話したのを見たことがありません。何でそうなんか、調べてください」という、19歳の男の子からの通報で、番組は動きだします。芋づる式に、上のおねーさん、その上のおねーさんとたどっても、「本当にそうや、何でかわからん」というばかりです。「よそのうちで「夫婦がよう話す」やなんて、嘘や思てた」とまで言います。
実際、父親は、家に帰っても何もしゃべらない、妻が「お父さん、冷蔵庫に○○入ってるから食べてや」と言っても何も言わん。黙って取り出し、黙々と食べる。しかし、息子が帰ってくると、豹変します。「○○、早かったな、冷蔵庫に○○あるで、美味しいで、はよ食べり」と、愛想よくしゃべりだします。しかし、妻には何も言わない。この状態が、23年間(長女が生まれた時から)ずっと続いている。会社でも、妻以外の家族にも普通にしゃべる、何でやろか、と番組スタッフは着眼します。23年前に、何かあったんやないやろか、と。
 優秀な大阪のテレビは工夫します。
 お母さんのビデオレターです。(協力するお母さんの本質は、本当に大阪のおばちゃんです。)
 「お父さん、私の名前は何ですか」、次々続く、妻のシンプルな波状質問に対して、お父さんは、スタジオで、じっと、脂汗を流しながら、画面を見据えます。
 そんな妻の、優しい、語りと問いかけが何度も続きます。
さすが、大阪のテレビです。重いお父さんの口を、とうとうこじ開けます。(番組の要請に応じる、お父さんもすごいけどね。やっぱり大阪人です。)
どーも、去る、23年前、長女が生まれたとき、かいがいしく子の世話をする、妻にほっておかれて、拗ねたのです。
それ以降、年月がたってどうしてもしゃべることが出来なくなった。いわば、病です。
スタッフから、その話しを聞いた、お母さんはいうのです。「そんなことやろと思てました。」。
(ここで私の突っ込みです。「ほなら、どないしてこども作ったんやろ」)

 色々やって、色々言っても、どうしても、しゃべれないお父さんに、最後の試練です。公園に二人を呼び出して、隠しマイクを装備し、スタッフと、子ども三人は遠くで見守ります。時間が経ってもお父さんは、何も言えません。その姿がおかしくて、遠くで、こどもたちは腹を抱えて笑います。しかし、そのうち、全員が泣きだしました。
 お父さんが、とうとう話し出したのです。「長いこと、話さなんですまんかった。こどもたちをよう育ててくれて本当にありがとう」と。
 スタッフも、スタジオ全体も全員大泣きで、番組秘書が、化粧を直すのに10分くらい中座し、大変だったということです。
 (できるだけ、私が、当日の話を忠実に再現したつもりですが、You Tube で見てみてください。うちは、パソコンがめげて見れません。)

絶妙な語り口で百田さんが放送作家としても、また語り手としても大変優秀な人であるのがよーくわかりました。 
いい年をした私も思わず泣いてしまい、会場のあちこちで、涙を拭いたり、鼻をすする音が聞こえました。

敢えて、私の感想を述べさせていただければ、「夫婦というのは奇妙で偉大なものですねー」ということです。殊に、ちょっと拗ねた子供のような馬鹿な幼いお父さんを、無言で23年間支えて、ふつーに耐えてきた大阪のお母さんの姿です。不平も愚痴も言わず、黙ってふつーに明るく笑って生きてきたその凄さです。「そんなことやろと思てましたわ」、男として、負けた!、太宰治の良質な短編小説(ネットで「黄金風景」を読んでみてください。)を読んだような、思いです。
 続いて、94歳のマジシャンの話です。
 なぜ、50歳になって小説を書き始めたかとの、百田さんのモチベーションに関連しての話です。
 マジシャンは、舞台で、震える手でマジックを始めます。シルクハットにたまごを割り入れ、そのままかぶってしまう話や(かねて持参のハットで百田さんがマネします。)、箱串刺しの刀のマジックで会場と観客をマジにビビらせ怖がらせた話(後で見ると、箱に入ったおばちゃんの「首筋に赤い筋ついてましたわ」)で、聴衆を沸かせます。最後に、マジシャンに本業は何ですか、と聞いたら、整体師です、との回答で、よく聞くと、88歳で、資格を取って、今も営業していると、そして、趣味で老人(?)施設の慰問などをやっているのです。
 そこで、百田さんは思ったそうです。
 「わしは、まだ50やないかい」と。「やるべきことは、やる時間は、ナンボでもある」、それから、ほぼ年2作のペースで小説を書いていると。なかなか、今の、同年齢の私を奮い立たせる言葉です。

 最後に、「永遠の0」の話です。
 書き上げた「永遠の0(ぜろ)」は、出版先がなく、ようやくお願いして、太田出版というところから、出たそうです。「全く売れなかった」、ところが、一般的に、売れ行きには必ず波があり、大きい波、小さい波、しかし永遠の0(ぜろ)には波がなかった、最初は極めて低く上がっていって、いまだに落ちていない。現在、講談社で文庫になって、すでに350万部を超えています。12月下旬の映画封切りで、優に400万部は超えるでしょう、と、さすがに大阪人やから、自分で言うてはりました。
その過程で、講談社の名物出版局長加藤さんの紹介があります。(出てきましたねー、舞台に。終了後に、外で、スタッフと一緒に、百田さんの講談社版の本を売ってはりました。)例の、週刊現代、袋とじグラビアの発明者だそうです。(この辺、ほとんど、吉本です。)

 「永遠の0」の感想は、前回書いたから書きません。(よかったら、是非、もう一度、読んでくださいね。)

 「ちょっとぐらいのびてもええやないか」、主催者に一喝して、佳境に入ります。何で、「永遠の0」、「海賊と呼ばれた男」を書いたのか、の話です。
 戦争で、一番被害を受け、犠牲を払った世代はどの世代でしょうか?
我々(昭和30年生まれ前後世代)は、爺さんから、おやじから、親戚から戦争の話を聞いた(私も少しは聞いた)。ただし、昭和40年生まれ以降からは、全くそんな話を聞いていない。ひたすら、敗北史観、日本人悪人史観を、学校でたたきこまれ、うちの娘が、子どものときに言ってましたが、日本の歴史の話といえば、「また、日本人が悪いことをした話じゃろう」としか反応しない。
 百田がいうように、太平洋戦争は、いわゆる2000年を超える日本の歴史の中で、日本と日本人が、直面した初めての大敗北なのですが、当時の人たちが、どのように苦しみ、戦い、そして困難で悲惨な状況の中で敗北し死んで行ったか、その正しい部分も、間違ってた点も、誰も教えてくれないのです。
 私の親の世代、大正9年ごろから大正14年生まれ頃(1920年から1925年ごろまで)の男の、四人に一人くらいは戦争で死んでいる。本当に気の毒な世代です(日本人の、太平洋戦争での死亡者は全体で400万人弱です。)。また、同時に、もう少し広い範囲で女性は寡婦になっている。

 百田さんは言います。
 今、私たちが、子どもたちに、聞いた、あるいは自分で学んだ、歴史を語っておかなければ、あの世で、貧困で、低学歴で、それでも、必死で奮闘し、子どもを大学にまで入れてくれた、父親たちに、顔向けができない、と。
 そして、生きのこった親の世代が、戦後、戦犯などと蔑まれながら(「永遠の0」にもその話があります。)、戦後の厳しい時代を一身に背負い、敢然として闘ってきた出光佐三であり、市井の百田さんの父であり、私自身の父であり、その必死の努力のおかげで、今の繁栄があるのだと。
 きっちりと、強引に、10分伸ばして、講演会は終わりました。万雷の拍手の中で。
 笑って、泣いて、また強く共感して。
百田さんは熱い男でした。私は、私自身の、今後やるべきことも大いに啓発されました。
 ただ一つ残念なことは、若者の聴衆、参加者がまだ少ないように思えたことです。
  
 私たちは、自国の歴史に誇りが持てない、そのような教育を、私も受けました。逆に、日本の植民地文化人(大手マスコミが)が、グローバリゼーションなどの名のもとに、誇るべきナショナリティ(国民性)を否定し、日本人の誇りや過去の犠牲を価値のないかのように論断し、あたかもそれが正義であるかのように煽っている。
 しかしながら、実際のところ、自国の正しいまた誇るべき歴史を学ばず、また自分たちに自恃の気持ちを持たない国民は軽蔑される。
中国が愚劣な覇権国家に成り下がり、日本海・東シナ海の制空権を主張している今、日本はアメリカのお情けとその下卒として、安保条約にすがるのか、と私には思えます。
 対等な関係で、中国、ソ連、アメリカなどと渡り合う、平和を愛する、文化の高い伝統ある独立国家、国民国家日本を私は支援したいと思います。また、子どもたちに継承したいと思います。