こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

もしも犯してしまった罪があるのであれば、こっそりと告白してください。

2013年06月13日 | 仏教

コンクリートブロックも、年数次第では苔むして、
とっても趣のある良い感じになりますね。このブロックは、約25年経過。

さあ、懺悔文の最後の1行です。

「一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」。これは 「一切、我、今、皆懺悔したてまつる。」
と読み下します。意味は、 「一切を私は、いま、すべて懺悔いたします。」。

  「一切」は、前文の、「私自身の行動や言動、思いの世界から生まれ出た罪の一切を」ということですね。ですから、この最後の文は、「自分が犯してきた罪すべてを、私は今ここに告白し、深く謝って猛反省します。」って意味の文章です。

 実は、懺悔には「許しを請う」という意味はありません。だから罪を犯しそのことを洗いざらい告白した人に対して、何らかの罰を与えたり、何かの代償を背負わせたりといったことは一切ありません。欧米ですと、「贖罪」っていう考え方がありますね。「目には目を、歯には歯を」って考え方です。すなわち、相手にわびるためには、それ相当の代償を払うことで、相手から許しを得ます。ほら、法律を破ったら、罰金とか慰謝料払って刑に報いるでしょ?スピード違反の罰金とか。罰金を払うことで、罪を許してもらってるんですよ。

 ともあれ、懺悔というのは、自分の犯してしまった罪を他人の前で告白して、そのことでその罪を清める!これが目的です。元来懺悔は、お釈迦様や、罪に汚れていないお坊さんたち(清浄比丘)の前でおこなわれていました。自分の罪を発露し、再び犯すまいと決心を表明すれば、懺悔を受ける「清浄比丘」はそのことを受け入れます。それによって懺悔は成就します。布施が見返りを求めない施しであるように、懺悔もまた罪に対して代償を要求しないんですね。

 ちょっとイメージしてみて下さい。罪を犯してそれを隠しておくってことは一種の苦痛です。「犯した罪の意識に日々さいなまれ・・・」です。心の重荷になっています。いっそ、誰かに言ってしまえば楽になるのになあ。・・・だからなんです。自己の犯した罪を清浄な他者に告白し罪を公にすれば、自分だけの秘密にしているっていう重荷を解消することができるんです。それによって罪の汚れから自己の心が開放されます。心の開放ということが仏教の目的の一つでもありますから。あくまで、罪を犯した自分をまず認め、そしてその自分がどうあるべきか、ということが主眼なのです。

最後に、懺悔文の意味を一望できるように書いておきましょう。

 我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
 皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
 従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

「私が昔から積み重ねてきてしまった、様々な悪い行いは、
皆はかりしれないほど大昔(無始)から積み重ねてきた貪・瞋・痴(とん・じん・ち)にもとずいた
私自身の行動や言動、思いの世界から生まれ出たものです。
その一切を私は、いま、すべて懺悔いたします。

さて、今ここで一つ提案があります。この懺悔文の意味がわかったあなた!
もしも、犯してしまった罪があるのであれば、こっそりと告白してください。

告白することこそ、心清らかになるための第一歩です。

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悪口は、人を傷つけるだけでなく、自分の心の深層をじわじわと傷つけているのです

2013年06月12日 | 仏教

あじさいの花にたたずまれる「ふれあい観音さま」。

さて、懺悔文の後半です。

では、「従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)」。これを日本語的にしますと、
 「身語意従り生ずるところなり(しんごいよりしょうずるところなり)」となります。
すなわち、「私自身の行動や言動、思いの世界から生まれ出たものです。」ということですね。

  「身」というのは、「私の行動」と言いましたけど、具体的には身体で犯してしまう罪のことを言います。もっと具体的に言いますと、それは「殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)」ということです。
 「殺生」はわかりますよね。行きとし生きる森羅万象の「命を奪う」ことです。命を大切にしないことです。命を傷つけることです。暴力的なことです。・・・
  「偸盗」とは、盗むことです。他人のものを盗み取ったり、盗み見たり、盗み聞きしたり。他人に与えることをしなかったり、相手に手を差し伸べないっていうのも、偸盗だと思います。
 「邪淫」とは、自分の連れ合い以外との浮気や不倫、または乱れた性行為のことをいいます。

  「語」というのは、私たちが日常的に発している言葉のことです。言葉は大きな罪をつくります。この言葉には、四つのポイントがあります。
 ひとつには、「妄語(もうご)」。これはそのものずばり嘘を言うこと。「人心を惑わすようなウソ」、は決してついてはなりません。
次に「奇語(きご)」、これは、おちゃらけすぎたり、ふざけ過ぎた言葉を使うことです。相手に不快感を与えるような言葉遣いですね。う~ん、気をつけねば。でもね、適度なユーモアやダジャレはこれには含まれませんよ。ご安心を。(笑
 そして「悪口(あっく)」、人や社会の悪口を言うことですね。悪口は、人を傷つけるだけではなくて、その発言は、自分の心の深層を傷つけているのです。ご注意を。
 最後に「両舌(りょうぜつ)」。自分に都合の良いように、場所によって人によって違った発言をすることです。コウモリの物語にありましたよね。ほ乳類の前では、私はほ乳類の仲間ですよ!って語り、鳥たちの前では、私は鳥類の仲間ですから!と都合の良いことを言っていたら、結局双方から総スカンを食ってひどい目に遭ったって言う物語。何でしたっけ?このコウモリのお話。確かこの話から、調子の良い輩のことを、「あいつはコウモリだから気をつけろ!」っていう風にいうようになったんじゃなかったでしたっけ?

  「意」というのは、思いですね。心のこと。心の罪には三種類があって、それは、貪、瞋、痴の三つです。これは、つい前回(昨日)申し述べましたんで省略しましょうね。

 以上、懺悔文の三行目を読んでみました。つまり「私自身の行動や言動、思いの世界から生まれ出たものです。」ということですね。って、最初の説明を繰り返しただけですが。(^_^)

 では次回は、最後の1行を読んで、懺悔文の全体を確認しましょう!!


 

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実は、この病気がなくなれば、正しいものの見方考え方ができるようになります

2013年06月11日 | 仏教

   

ツバメの雛たち、親の頭を飲み込んでしまいそうな勢いです。(遠写なんで、クリック拡大で見て下さい。)

 さて、前回からの続き「懺悔文」の2回目。
「皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)」です。これを書き下しますと、
 「皆、無始の貪・瞋・痴に由る」(みなむしのとんじんちによる)となります。

 「皆」は、「私が知ると知らざるとに関わらず、ついついやってしまう悪しき行為のすべては」という主語に置き換えることができましょう。その悪しきおこないは、はかりしれないほど大昔(無始)から積み重ねてきた、「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)にもとずいている。」んだと。

 では、この「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」ってなんでしょ?
この「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」って、簡単に言えば「むさぼり(貪)」と「いかり(瞋)」と「愚かなる考え(痴)」とということですね。

 「貪」は「とん」と読みます。仏教って、時々発音が独特だったりで面白いですね。意味は、むさぼること。これでもかこれでもか、もっともっと、って欲しがる心のことを言います。満足を知らない、足ることを知らない状態ですね。他にも、実績や経験も薄いくせになんだか偉そうなそぶりや発言をしたり、地道な努力もせずにやたら地位だけを欲しがったり、お金や財産をほしがったり。結構いらっしゃるんじゃないですか?そんな人。実はね、あなたにもそんな貪りの心が多少なりとも潜んでいます。そんな心を「貪」というんです。
 
 次の「瞋」は「じん」と読み、意味は「怒り」です。でも、単なる怒りの感情という意味ではありません。一言に怒りと言っても、不正や間違ったことに対して怒る怒りではありません。「怒り」そのものが間違った心、ゆがんだ心から生まれてきている、そんな怒りを言います。「ひねくれてゆがんでいる心」と表現しても良いでしょう。例えば、「ねたみ、そねみ、うらみ、ひがみ」と言った人間特有の心です。 こんなゆがんだ心からは、ろくな事は生まれません。自分の努力のなさや向き合い方の足りなさ、運の悪さ、といったものを家族や周囲の人のせいにしたり、社会の責任にしたりして、ひがんだり、うらんだり、ねたんだりしている人。いますよねぇ。私もその一人です。時折そんな心が生まれて、強く後悔することがあります。そんな心のことを「瞋」と言います。

  最後の「痴」。これはやまいだれに知と書きますから、雰囲気は伝わりますよね。「ものの見方考え方が愚か」であることです。ものの見方考え方が偏っていたり、一つの価値観に固執しすぎて周囲の意見や他の価値観を受け入れようとしない頑固な状態を言います。職人気質の頑固さや、頑固な親父といったときの頑なさではありません。これは肯定的な頑なさですから。愛嬌もありますしね。 例えばですね、いつまでも過去にこだわって、じくじくウジウジとした心。そんな心持ちの人に何かアドバイスしても、なかなか聞き入れてくれません。そんな心持ちを「痴」といいます。また、何にでも反対したり、いこじになったり、他のアドバイスを聞き入れなかったり、・・・(やっぱり頑固な親父も仲間ですね)あるでしょ?あなたにも。そういう頑なな偏った心持ちを「痴」と表現してあります。この心持ちでは、正しい判断ができなくなります。ここが大問題。だから仏教では、知の病気と表現してます。

 実は、この病気がなくなれば、正しいものの見方考え方ができるようになりますから、先に述べました「貪」も「瞋」も自ずと無くなりますね。すべてはこの偏った頑固な考え方が、諸悪の根源だったんですねえ。

 では次回は、懺悔文の後半に入っていきます。

 

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おれ、悪い人じゃないよ~、悪いことしてねえしぃ、とか思う人結構います。

2013年06月09日 | 仏教

「お経さんって、チンプンカンプンで・・・。」
「できることなら理解してからお唱えしたいものだ、・・・。」
「ご住職!今度のご法事は、お経さんは唱えなくて良いから、
お経の内容についてお話しして下さいよ・・・。」
こんなお声をたびたびお聴きします。たしかにおっしゃることもよくわかります。
ある意味、当然の疑問だと思いますし、理解していただくことに力を傾注できないお坊さん(私も含め)にも、
大きな責任があるとも思います。でもね、日頃お坊さんがお話ししている御法話、これって、実はお経の内容をかいつまんで、且つ現代の言葉や環境条件を取り入れながらお話ししているんですよ。そのことだけはどうぞご理解下さい。ただね、お経さんというものをきちんと系統的にお示しする作業って、なかなかするチャンスがなくて、うまく伝わってない側面もあります。
・・・ということで、その辺の欠損を補うべく、ほんの少しずつですが、お話ししたいと思います。

仏教に限ることなく、心の安心を獲得するための重要な第一歩は、自分の犯してきてしまった罪や咎を告白し悔い改めることから出発します。それを、「懺悔」といいます。これ、「ざんげ」とお読みになるでしょう?仏教以外の宗教では「ざんげ」と発音しますが、仏教に限れば、これは「さんげ」と濁らずに読むんです。でも、パソコンで「さんげ」とタイプしても「懺悔」とは変換してくれません。(;_;)

ともあれ、この懺悔のためのお経をまず最初にお唱えします。「懺悔文サンゲモン」というお経さんです。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
これが懺悔文(サンゲモン)です。

 *「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)」。これを日本語的読み下しにしますと、
  「我、昔より造る所の、諸々の悪業は」(われ、むかしよりつくるところの、もろもろのあくごうは)となります。
この意味は「私が昔から積み重ねてきてしまった、様々な悪い行いは」ということ。
僕は悪い人じゃないよ~、悪いことしてねえしぃ、とか思う人結構多くいらっしゃるかもしれませんが、
実は、その認識を改めること、これがこの懺悔文の重要な意義でもあります。
では、その認識がひっくり返る内容を、次回のブログでご紹介します。

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光明真言・日常生活の心の支えに、無心にお唱えしてみてはいかがでしょうか。

2013年06月05日 | 仏教

おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら 

     まに はんどま じんばら はらはりたや うん

 これって、結構多くの人が聞いたことあったり、唱えたりしたことがあるんじゃないでしょうか。
昔から民間に広まっている「光明真言コウミョウシンゴン」といわれる御真言(仏様の言葉)です。
真言宗でも、最も代表的で、最も大切にする真言です。
 いにしえより、真言と呼ばれるお経は、原語の発音のまんまお唱えするのが慣わしです。
だから、呪文のようでちんぷんかんぷんですよね。でも、チンプンカンプンでもいいから、何しろ一心にお唱えすることが、この御真言の効力を引き出すコツなんです。心を空にしてお唱えすることで、功徳を得ることができるんだと伝えられています。
 ともあれ、大日如来を中心とした5人の仏様に、仏様の智慧の光明を放っていただいて、私どもの心を隈無く照らして下さい!と強く願うのが、この御真言の真意です。
 真言の一つ一つをたどってみましょうか。

おんこれは絶対的な揺るぎのない信じる心の表明です。帰依とも、南無とも言います。たとえば、明日の朝、東の空から朝日が昇ることを私たちは信じて疑いませんよね。まさにその心です。仏の知恵の光は、必ずや私どもを救って下さいます。 あぼきゃべいろしゃのう時空に満ちあふれる光り輝く大日如来よ、といった仏様への賛嘆と呼びかけです。 まかぼだら大いなる悟りのしるしよ、漢訳では大印を有する尊よ、とあります。 まに はんどま じんばら宝珠(知恵)と蓮華(慈悲)の光明を、はらはりたや さしのべて下さい うん是非とも是非ともお願いします。

で、つまりは

 「すべてのものに光をあたえ、すべてのものを輝かせて下さる仏様!

私どもの心の隅々にまでその光をさしのべ、

苦しみを除いて、どうかお救いくださいませ!」

って、こんな感じになります。

最初に申しましたように、御真言はその意味の理解はさておき、
御真言をそのまま一心にお唱えすること、に大切な意義があります。

「真言は不思議なり 観じゅすれば無明を除く 一字に千理を含み 即身に法如を証すといえり」

日常生活の心の支えに、どうぞ無心にお唱えしてみてはいかがでしょうか。

 

 

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