尾のあたりが ちょっと 変 どうなってるのか
元気そうには していましたが
平成29年6月24日 撮影
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0517 京都御苑 堺町御門
五七五
ごめんねと 言えば笑顔に なれるのに /豊野
ことわざ
腹八分目に医者いらず
尾のあたりが ちょっと 変 どうなってるのか
元気そうには していましたが
平成29年6月24日 撮影
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五七五
ごめんねと 言えば笑顔に なれるのに /豊野
ことわざ
腹八分目に医者いらず
門外の 通りは 堺町通り 南を見る
堺町御門
文久3年(1863)8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三條実美ら激派の公卿7人と尊王攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に焼結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿7人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました。
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0516 京都御苑内 九条邸跡
五七五
デッサンをする内桃が腐りだす /草地
ことわざ
千里の道も一歩より
九条邸跡
九条家は、五摂家の1つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子もその一人です。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折しも京都市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九条久忠の邸もその舞台の1つとなりました。講題だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭と、九条邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。
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折上神社 山科 多くの末社がありました モルガンお雪さんも奉納
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0515 京都御苑内 賀陽宮邸跡
五七五
大学と花街お寺の京の春 /服部
ことわざ
庇を貸して母屋を取られる