京都市街地 北部
中央の丸い建物は 京都国際会議場 奥の建物は 焼却場
中央の森は 府立植物園 手前の建物は 京都コンサートホール
関連記事 ➡ まとめ007 各地からの京都市内の眺め
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五七五
恋ごころ忘れ乾燥注意報 /山岡
ことわざ
男女7歳にして席を同じゅうせず
京都市街地 北部
中央の丸い建物は 京都国際会議場 奥の建物は 焼却場
中央の森は 府立植物園 手前の建物は 京都コンサートホール
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五七五
恋ごころ忘れ乾燥注意報 /山岡
ことわざ
男女7歳にして席を同じゅうせず
見はらし台
木々の間からわずかに 市街地が見える はっきりしない
このような 鉄の塊が置いてありました
説明板
北白川城出丸(北城) 白鳥山頂
ここは本丸の東約400mの場所で、更に10m高く(331.3m)眺望もよい。西北は木野、岩倉方面に当たり、近くは白川通り高架部(京福電鉄跨線橋)や麓の曼殊院・竹田薬品農場も見おろすことができる。西は瓜生山頂に遮られて残念ながら見えないが西南は粟田山・黒谷・真如堂・平安神宮の大鳥居も見え、遠くは京都タワーや大山崎方面が望める。真南の近い山は大文字山である。
『出丸』は本丸の物見の砦である。当時の城は山の地形を利用して寄せ手を防ぐもので恒久的な構造ではなかった。その後築城法が進歩し、次第に山に頼らぬ平城へと移っていき、やがて安土桃山時代の壮大な城郭に成長するのである。
北白川城は応仁の乱に際し、東軍の多賀高忠が輸送路確保のためこの山に砦を造ったのが始まりで、永正17年(1520)3月、足利義晴を将軍に戴く管領細川高国が近江の戦国大名、六角定頼と共にここに入城し、細川澄元の軍を撃破した。山頂の勝軍地蔵は高国の祈願によるものと伝えられる。以後この城は勝軍地蔵山城とも文献に記されている。
天文16年(1547)3月以降、将軍義晴とその子義藤は管領細川晴元を援けている。また義藤(後に義輝)は天文19年と永禄元年にも相当期間籠城しているが、このとき晴元とは仲直りしていて、その敵である三好長慶、松永久秀に攻められたための籠城である。全く複雑怪奇な時代であった。
北白川愛郷会
見はらし台の様子
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五七五
黄砂降り満州の春なつかしむ /梅原
ことわざ
ならぬ堪忍するが堪忍