浄土宗に属する。寺伝によれば、もと延暦寺の支坊であったが、元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちの際に焼失したといわれる。しかし、慶長13年(1608)に信誉上人によって再興され、それ以後、江戸時代を通じて、照高院(後の北白川宮)の御霊所となり、照高院4代道寛法親王によって乗願寺山が寄進されるなど数々の保護が加えられた。乗願寺山には、照高院の墓地があり、寄進以降は当寺が管理することとなった。
本堂は、もと上賀茂神社境内にあった神宮寺観音堂を譲り受け明治2年(1869)に移築したものである。日光や風雨を防ぐための戸である蔀は珍しいものであり、蛙股の彫刻ほか寛永期(1624~1643)の建造物の特徴がよく見られる。なお、明治に至って照高院は廃絶したが、道晃法親王らの位牌は現在に至るまで当院において安置されている。 京都市
明治7年2月10日 この地より東南約20m毘沙門堂に於いて京都府愛宕郡白川村白川小学校開校 開校時の生徒数約30名にて明治10年10月月字位伏へ新築移転
明治7(1874)年2月10日京都府愛宕郡白川村立白川小学校は,乗願院南側にあった毘沙門堂を借り受けて開校した。明治10(1877)年10月北白川天神宮の西側に平屋建校舎を新築して移転した。大正7(1918)年白川村は京都市に編入され,上京区第二十九学区北白川尋常高等小学校と改称。昭和16(1941)年北白川国民学校,昭和22(1947)年京都市北白川小学校と改称して今日に至る。
校訂 吉村栄介
石匠 田伏茂雄
沢田虎三郎 書
昭和51年10月吉日
北白川小学校創立
百周年記念委員会 建立
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五七五
蓄えたユーモア底をついてきた /山本
ことわざ
丸い卵も切りようで四角