清沢口石切り場
7千万年という遥かな昔のはなし、この瓜生山のあたりに地下のマグマが噴き昇ってきて地層の隙間に貫入した。つまり噴火しないで溶岩が地表を押し上げて夥しくたまってしまったのである。その範囲は比叡山の南半から大文字山北半と言われる。しかも高さは比叡山を眼下に見おろす程であった。
この溶岩は徐々に冷却して巨大な一塊の花崗岩の山となった。押し上げられた表面の古生層の土や岩は陶磁器のように焼き入れられて、大部分は崩壊流失し、一部は変成岩(ホルンフェルス)となって残った。四明岳山頂の『将門岩』がその動かぬ証拠である。
この山の花崗岩は化学組成とその比率や冷却期間の長かったせいなど相俟って、特に結晶粒子が大きく美しい「白川石」となったのである。しかも風光明媚な京都は平安京以前より貴紳の住む土地なので、大建築に必要な石材の需要が永く途絶えなかった。白川は最適の供給場所てあり、礎石や敷石から始まって燈籠、庭石、さては石仏、石鳥居に墓石にと最も細工に適した石材が無尽蔵であった。そして風化のため粉砕された『白川砂』さえも枯山水庭園に欠くことのできない化粧材料となった。白川の人々は先祖代々石工になった。
山全体が花崗岩だといっても、場所によって多少の違いはある。石材を取る技術の幼稚な昔のこと、風化した表面や地価の石は取れないので、街道沿いや谷間が採取場となり、ここ『清沢口』や『石部谷』、『蓬谷』一乗寺の『雲母坂』が知られている。江戸時代の名所だった白糸の滝、船石などもそれ故に消滅してしまった。土地の人々が採石よりも細工に優れていたことや、風致保護の土地柄から現在は採石されていない。
大体噴出した溶岩は玄武岩や安山岩となるが、花崗岩は地中で徐々に冷却されてできる。このため石英と長石が十分結晶して大粒となり、これに黒雲母や角閃石が色どりを添えた美しい石となるもので、白川石は稀有元素を含む褐簾石も混ざっている。
火成岩は冷却の過程で規則的な独特の割れ目ができるが、緻密な花崗岩にも専門家にしかわからない節理があり、これに沿って『矢』(くさび)を打ち込むと巨岩も思うように割れる。ここで採石した石は、狭い道は台車、それより牛に曳かせて運んでいた。この清沢口では、途中である程度細工を施してから平坦地へ運ぶことも多かった。 北白川愛郷会
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五七五
いい天気だけども映画館に行く /高瀬
ことわざ
遠慮は無沙汰