撮影日 平成28年12月5日
清延山茶山の由来
この峰は、東山三十六峰の七番茶山という。その昔、京都の呉服豪商『茶屋四朗次郎』の別荘があったことから、清延山の由来とか、本名中島清延こと、『新撰京都名所図会』正式には中島明延が、信濃守護小笠原長時の家臣であったが、武士を廃業して、大永年間(1521~1527)頃京に上って呉服商を開いたのが始まり。茶屋の屋号は、将軍足利義輝が中島明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことから茶屋と名付けたとか、初代茶屋清延 天正14年(1584~1612)が徳川家に接近し呉服御用を一手に受ける。2代目茶屋清忠1600年の関ケ原の戦い後の京の情勢を徳川家康に進言し京都町人頭に任命されたが、1603年急死、3代目茶屋清次1612年徳川家康より朱印船貿易の特権を得て、安南貿易(ベトナム)角倉了以以家、後藤四朗兵衛と共に膨大な富を得る。(京の三大長者となる)が1633年~1639年に鎖国令でポルトガル船来船禁止、海外貿易禁止令等をへて自粛、1800年寛政12年徳川家より納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受ける。
1807年 文化4年 禁を解かれるがふるわず。
風光明媚な別荘屋敷跡は、現在北白川の京都造形芸術大学構内に吸収されているが、徳川家康も茶を所望し立ち寄ったであろう。現在も瀬戸内海の海運業の歴史は此の瓜生山の歴史話でもある。平成27年10月 北白川愛郷会
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五七五
病室の窓から見える焼肉屋 /いまい
ことわざ
歴史は繰り返す
山の権現 地龍大明神
安産・芸道の神
木花咲耶姫神
殉國英靈之碑
瓜生山 地龍大明神由緒
山の主神として龍神が祭祀されています。太古湖底であった山城盆地最初の先住者が近在に集団生活を営んでこの山に親しみ後祠を建て山の主神に平穏無事を祈りました。其の後に神道仏教が盛んに行われて社寺が多く建立され、この山に兵火が及んだりして混乱の世が長く続きいつしか祠は跡かたも無く山は荒廃しました。昭和4年御神託を得て此の社が創建され森厳静寂な太古の如き神苑が復元されたのであります。徳川時代禅の究明に悩まされた青年「白隠」(1685~1768)が此の山中で神助を得修練よく勉められ「禅師」となられました。白隠著「夜船閑話」記載 春5月3日、秋11月3日が祭日と定まりました。明治百年五月三日
北白川大山祇神社
史蹟 瓜生山(此付近一帯) 東山36峰の一峰である。
山の名は播磨國より牛頭天皇(八坂神社祭神)が今の祇園社に移し祀られる貞観18年(876)の前にしばらく鎮座された天皇が木瓜を好まれた故事に依ると伝えられている。
室町時代勝軍地蔵が安置されて後、「勝軍地蔵山」と俗に言われ聖護院門主大峰入り前必ず此の山にて護摩を修された
地蔵菩薩は後に現在地に移られた。延元元年(1336)1月11日新田義貞瓜生山城を築き足利勢を敗った。天文・永禄の乱、足利12代将軍義晴・義輝父子北白川城ほ山頂に築き細川三好の党と戦い数年籠城の後自ら天文16年(1547)7月19日火を城に放ちて坂本へ奔り灰楼に帰した。
白隠禅師が闘病中に此の山中に医術に長寿の仙人と言われた白幽子を訪れ治療法を授けられた北白川宮家が山の池の需菜を好まれたが東都へお移りになり池は埋められて荒廃した。昭和4年地龍大明神の社が奉納後に大山祇神社の分社となり山霊の神々を合祀し毎年5月3日をやまの祭日と定められた。 北白川大山祇神社
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