平成28年12月5日
上を見ると
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五七五
テレビ消し本の世界にのめりこむ /野谷
ことわざ
炮烙の割れも三年置けば役に立つ
平成28年12月5日
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五七五
テレビ消し本の世界にのめりこむ /野谷
ことわざ
炮烙の割れも三年置けば役に立つ
瓜生山山頂
標高301m(仕伏町から標高差200m)
北白川城本丸跡 元勝軍地蔵
日本列島がまだ現在の形に固まらない遥かな昔、この瓜生山の下へマグマ(高熱の岩奨)が貫入してきて比叡山より高い山が出来た。両隣りの大文字山北側や比叡山の南側では、高熱のため古生層が変質して特殊な変成岩(ホルンフェルス)になった。四明岳頂上に露頭する将門岩はその珍しい好例である。一方、貫入したマグマは冷却して花崗岩となった。
上に冠った古生層が流れ去り、露出した花崗岩もまた太陽熱と雨水に寝食されて、永い年月の間に表面から徐々に崩壊して白川砂となって谷間を流下し、西南麓に緩斜面の広い砂質扇状地を形成した。
この北白川扇状地は、今から一万年も前、縄文時代の原始人にとっての好適な生活の根拠地となった。この山が埋蔵する花崗岩(白川石)は極めて良質だったから、その後平安時代以降、宮殿や寺院建築材料に、また石仏や石灯籠など工芸的に利用され、千年の都びとの生活を豊かにし、白川砂は枯山水庭園に重要な役割を持つことになった。
更に、この瓜生山山頂には、室町時代になると再々城郭が築かれ、南の如意ケ岳城と共に足利将軍家、細川管領、三好長慶、松永久秀らが攻防をくり返した。
近江の戦国大名六角定頼がここへ安置したという勝軍地蔵は、江戸時代に入っても痘瘡無難の守りとして庶民の信仰深く、北白川門跡寺照高院二院忠誉法親王は山路険岨を案じて、宝暦12年(1762)9月現在の勝軍地蔵山に石像を移された。これは今のバブテスト病院の西山である。そしてこの山頂にはお地蔵を安置した当時の石室だけが、奥の院と呼ばれる朱色のお堂の後方に残されている。北白川愛郷会
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五七五
ふる里にまだお袋がいる至福 /市坪
ことわざ
父母の恩は山よりも高く海よりも深し
ふこうおう童子
せんにし童子
はりか童子
奥の院 近道
うばけい童子
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五七五
肉厚の元アイドルに思う歳 /成田
ことわざ
同病相憐れむ