アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

神社東0090 新熊野神社 3

2017年03月23日 06時02分46秒 | 神社

本殿に祭られているのが熊野牟須美大神、この神を日本神話では伊弉冉尊と称している。「ムスビ」とは生成・育成を意味する古代語で、熊野牟須美大神とは熊野に鎮座し「誕生や死」といった、この世の存在する全ての生命の根源を司る神という意味です。

上之社には速玉之男大神と熊野家津御子大神が祭られており、日本神話では速玉之男大神を伊弉諾尊、熊野家津御子大神を素戔嗚尊と称している。

中之社にき天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊が祭られており、この4神は天照大神から神武天皇に至る4代の神です。ちなみに、瓊瓊杵尊は天孫降臨神話の天孫に当たる神、彦穂々出見尊は海幸山幸彦神話の山幸彦に当たる神です。

 

下之社には穀物の稚産霊神、火の神軻偶突知神、土の神埴山姫神、水の神彌都波能売神が祭られています。この4神は大地の恵みを象徴する神です。以上の12神を熊野十二所権現と言い、これに当社固有の神 樟大権現を加えた13神が当社の中心をなす神です。さらに、本殿裏の鬱蒼とした自然の中には「熊野九十九王子」「役行者と八大童子」などの王子・童子達が祭られています。(京の熊野古道)

神は姿形がありません。従って、神は仏でしか描けないのです。しかし、姿形のある神もおられます。いわゆる神のお使い・化身と呼ばれる神々で、熊野では八咫烏が有名ですが、王子・童子と呼ばれる神々がこれに当たり、この神々は仏と対を描くことが出来ます。右の曼荼羅上部には、そのうちの代表的な王子・童子が描かれており、本殿裏の鬱蒼とした自然の中(京の熊野古道)に、対応する仏と対で祭られています。

つまり、右の曼荼羅に描かれた世界と同じ世界が、境内全体を使って立体的に構成されており、このような表現方法を立体曼荼羅と言います。ゆっくりと境内を散策して熊野信仰の世界を御堪能下さい。熊野に参るのと同じ御利益が得られます。

なお、境内にお祭りしている神仏像は、全て当社の御神木「くすのき」で作られています。

かつて本宮は音無川(支流)と熊野川(本流)との合流地点に

に出来た中州にあった。その地を大斎ケ原(おゆみがはら)という。明治23年の大洪水で旧本宮は壊滅的な打撃を受け、現在の高台に移った。

 

 

新熊野神社復元図

新熊野神社は後白河法皇の仙洞御所「法住寺殿」の鎮守社として創建された。右図は創建当時の新熊野神社を復元したものだが、音無川は「夢の浮橋」から100mほど西に下ったところで鴨川と合流していた。鴨川を熊野川に見立てれば、本宮を地形ごと京都にもってきたのが新熊野神社だったことがわかる。

当時、京都から熊野に行くには大和大路を南下して中書島(伏見)に至り、そこから船で淀川を下って大阪に上陸、陸路、熊野に向かった。後白河法皇も右図、右上の「法住寺殿渡殿」から船に乗り、左下の「夢の浮橋」で下船、そこで禊(みそぎ)をしたあと、本殿に参拝された。

 

今熊野猿楽

観阿弥・世阿弥父子による「今熊野での猿楽演能」が日本芸能史上の変革点となったことは広く知られている。現在の日本を代表する芸能、「能」「狂言」「歌舞伎」などは、全て今熊野猿楽から始まっている。

猿楽と能楽とは同じ意味で、明治14年に能楽社が設立されるまでは、現行の「翁」を「翁猿楽」、「能」を「猿楽能」と呼んでいた。

今熊野猿楽とは「観阿弥の能」という意味で、観阿弥は「それまでの能(大和猿楽)」に革命をもたらした。それを世阿弥が受け継ぎ、室町幕府三代将軍「足利義満」の庇護のもと、現在の「能」へと大成させた。

近年の研究により、今熊野猿楽が①応安7年(1375)に当時の新熊野神社の例大祭「水無月祭(旧暦6月15~17日)」当日に行われたこと。②当時の新熊野神社が足利将軍家や北朝の歴代天皇と密接な関係にあったことなどが解ってきた。義満は応安7年の水無月祭に参列したあと、観阿弥・世阿弥の「能」を鑑賞したと考えられている。

その演能地は、当時の新熊野神社で最も風光明媚なところ、鳥居をくぐったすぐ左側と考えており、地形上、園地を背景に演能でるきのはここしかない。なお、当社では「くすのき祭(仲秋の名月の日)」で今熊野猿楽を奉納している

王朝の昔から神事や後宴の法楽に演ぜられた猿楽は大和結崎座の太夫観阿弥とその子世阿弥によって今日伝統藝術として親しまれる能にまで仕上げられた。その端緒となった時は今から六百余年前の応安7年場所はここ今熊野の社頭であった。古く820年前永暦元年後白河上皇が御願をもって紀伊熊野の森厳なたたずまいを移されたこの地で猿楽能を見物した青年将軍足利義満は当時12歳の世阿弥の舞容に感銘した。そして世阿弥を通して能の大成を後援しついに幕府の式楽として採用したのである。現代の能の隆盛につけてもその日のあでやかな世阿弥の風姿を知る老樟の下に往時を追懐し今熊野猿楽の復興を志す人々が一碑を建立してこの史実をすることになった。ここに請われるまま碑銘の文字を世阿弥自筆本花鏡のなかから撰ぶとともにその由来を録して社頭の繁栄と能の発展を併せ祈願するしだいである。

昭和55年庚申10月16日 文學博士 林屋辰三郎

 

梅原 猛  ・・・

 今熊野神社 記事  ➡   神社東0088  新熊野神社  その1  神社東0089  新熊野神社 2

神社 前回の記事  ➡  神社伏0087 お産場稲荷社

 

五七五

 

電話きてブリッコしてる母の声 /赤山

 

ことわざ

一擲乾坤を賭す(いってきけんこんをとす)

 

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まち歩き伏0396  疏水と下板橋

2017年03月22日 20時20分24秒 | まち歩き

東方向を 見る

下板橋

伏見区東堺町  下板橋通   長さ17m  幅 6.5m    鋼橋

南方向を 見る

北方向を 見る

橋の 東から 北方向を見る

 まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き伏0395  疏水と蔵

五七五

オバさんって言われたくないオジさんに /山下

ことわざ

一丁字を知らず(いっていじをしらず)

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石碑伏0109  薩摩島津伏見屋敷跡  坂本龍馬・寺田屋事件・逃避先

2017年03月22日 06時47分24秒 | 石碑

 

 

江戸時代、ここに薩摩島津家の伏見屋敷がありました。徳川将軍は3代家光以後、約230年間、江戸にこもり京都にやってきませんでした。そのため原則として諸大名に上洛を禁じました。西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときは京都ではなく、伏見を通ってゆきました。

島津家も例外ではありません。少なくとも寛文10年(1670)までにこの地に屋敷を営み、江戸と薩摩を往復する際の当主の滞在地としました。

のち13代将軍家定の正妻となる。島津斉彬の養女篤姫(天璋院)も、薩摩から江戸へむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入りました。

ここを拠点に、10月2日洛中の近衛家、同4日洛東東福寺、同5日萬福寺(現宇治市)を訪問、同6日伏見をたちました。篤姫は以後、一度も洛中洛外を訪れませんので、この地は彼女の生涯たった一度の「京都観光」の宿舎だったわけです。

慶応2年1月23日(1866年3月9日)深夜、蓬莱橋たもとの寺田屋で、土佐亡命志士坂本龍馬が、薩長同盟成立の重要人として、伏見奉行所役人の襲撃を受けます。重傷を負いつつ脱出した龍馬は、濠川沿いの村上町の材木納屋に潜伏、妻龍(のち鞆)や長府毛利家臣三吉慎蔵の通報により、薩摩伏見留守居役大山彦八に救出され、この地に避難しました。

龍馬が大政奉還、新政府綱領八策などに関係するのはこれ以後のことで、もしこの地に救出されなけば、以後の幕末史はちがう形になったことでしょう。

歴史地理研究者 中村武生

 

坂本龍馬

1  坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)

2  石碑 坂本龍馬妻お龍の実家 楢崎家跡

3   石碑  幕末史蹟・土佐藩士寓居跡 龍馬・お龍も暮したところ、

4  坂本龍馬とお龍が結婚式を挙げた場所

5  武信稲荷神社 坂本龍馬も登場

6  佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑

7  石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

8  まち歩き東0372  龍馬展

9  史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

10 石碑伏0097   坂本龍馬 避難の材木小屋跡

 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0108  京都歩兵聯隊跡

 

五七五

 

丁寧に下書きしてメール打つ /伊黒

 

ことわざ

一銭を笑う者は一銭に泣く(いっせんをわらうもの・・)

 

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まち歩き伏0395  疏水と蔵

2017年03月21日 19時50分54秒 | まち歩き

 

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き伏0394  伏見 酒蔵

五七五

お似合いとすすめる服がババくさい /海老沢

ことわざ

一寸の虫にも五分の魂(いっすんのむしにもごぶのたましい)

 

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寺院伏0353  光月院  浄土宗

2017年03月21日 06時45分50秒 | 寺院

京都市伏見区南尼ケ崎町510-1

 

寺院 前回の記事 ➡  寺院伏0352  大栄寺  浄土宗  四面石仏  水嶋幸庵墓所

 五七五

3度目も初めましてと言われている /みっちー

ことわざ

一寸の光陰軽んずべからず(いっすんのこういんかろんず)

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まち歩き伏0394  伏見 酒蔵

2017年03月20日 21時09分35秒 | まち歩き

前回の まち歩き 記事 ➡  まち歩き伏0393  伏見 酒蔵 工場

五七五

家で尻 会社で肩をたたかれる /熊野古道

ことわざ

一寸先は闇(いっすんさきはやみ)

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神社東0089  新熊野神社 2

2017年03月20日 08時14分55秒 | 神社

 

 

大樟樹

高さ20m、樹囲6.5mの巨木。

後白河上皇お手植えの「大樟」さん

今から約830年前、当社創建の砌、後白河上皇は紀州国(和歌山県)の熊野から土砂、材木をこの地に運び、熊野になぞらえて、その新宮、即ち新熊野神社を創建された。その折、熊野より移植、国家鎮護と万民福祉とをご誓願、お手植えされたのが、現在の大樟である。又熊野の神々がご降臨になる「影向の大樟」といい、健康長寿、病魔退散特に上皇が常にお腹を煩っておられたところから「お腹の神様」と信仰され、人々から「大樟大権現」と尊崇されている。朝夕排ガスの激しい場所にありながら、樹勢は益々旺盛で、日夜人々の営みを見守り続けている姿は、尊く畏き極みである。(京都市の天然記念物)

 

 

史蹟名勝天然記念物保存法に依り

昭和7年4月文部大臣指定

樟大権現と樟龍弁財天

この大樟は当社創建の折、紀州熊野より運ばれた後白河法皇のお手植えの樟と伝えられており、樹齢900年として、当社の自然神信仰の象徴となっている。樹齢900年の巨木でありながら、現在でも成長し続けている姿を見て、「健康長寿」「病魔退散」、特に「お腹の神様」として御利益を求める人が後を立たない。

弁財天は七福神の1つで財宝をもらたす神(仏)として信仰を集めているが、元々はヒンドゥー教の川の神で、我が国でも水と縁の深いところに龍神として祀られていることが多い。当社では延びた樟の巨枝が、龍が空を飛んでいるように見えることから、龍に乗った弁財天、樟龍弁財天として信仰されてきた。

 

 新熊野神社  ➡  神社東0088  新熊野神社  その1

神社前回の記事 ➡   神社伏0087 お産場稲荷社

 

五七五

 

知っているアニメの話題で年ばれる /伊藤

 

ことわざ

一升入る壺(いっしょうはいるつぼ)

 

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寺院伏0352  大栄寺  浄土宗  四面石仏  水嶋幸庵墓所

2017年03月19日 08時49分39秒 | 寺院

京都市伏見区東大黒町1032

松顔山と号する浄土宗の寺。創建由緒は不明。観音堂には、世に「清水型」とよばれる11面千手観音立像が安置されている。13重石塔の塔身四方に阿弥陀、薬師、釈迦、弥勒の四仏を厚肉彫りにきざんだ見事な四面石仏(鎌倉時代)があり、寺伝によると伏見城内より移したと伝わる

 

 

 

 

水嶋幸庵 水島幸庵は安永年間(1772~1781)、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)の侍医であった。ある日の事、政方の喉に魚の骨が刺さり無事に治療し褒美として竹の柱に瓦葺の重き屋根の庵を望みました。政方は嘲笑しながら「その様な不安定な庵を何故所望するのか?」と問いました。幸庵は「その不安定な庵こそ今のお奉行の政治である・・・」と涙ながらに諫言しましたが、妾のお芳が激怒し政方もその剣幕に押され幸庵に蟄居を命じました。幸庵は憤然とし天命元年(1781年)5月28日、自宅で自刃しました。奇しくも「天明の伏見義民一揆」が起こる少し前の出来事でした。実父・水島慶庵の墓所に合葬されましたが、現在は無縁墓となっているそうです。門前に水島幸庵顕彰碑が建てられています。

 

松顔山と号する浄土宗の寺。創建由緒は不明。観音堂には、世に「清水型」とよばれる11面千手観音立像が安置されている。13重石塔の塔身四方に阿弥陀、薬師、釈迦、弥勒の四仏を厚肉彫りにきざんだ見事な四面石仏(鎌倉時代)があり、寺伝によると伏見城内より移したと伝わる。

観音堂

 関連記事  ➡  人物004  伏見義民

寺院 前回の記事 ➡  寺院伏0351  栄真寺  浄土真宗

 

五七五

 

メシまだか3回言って日が終わる /地方人

 

ことわざ

一将功成りて万骨枯る(いっしょうこうなりてばんこつかる)

 

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まち歩き伏0393  伏見 酒蔵 工場

2017年03月18日 19時42分38秒 | まち歩き

まち歩き 前回 記事 ➡ まち歩き伏0392  京阪電車 伏見・山崎踏切

 

五七五

 

退職日会社の名刺投げ捨てる /お素末さま

 

ことわざ

一災起これば二災起こる(いっさいおこればにさいおこる)

 

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車石  民家の出入り口の 踏み台石に使われていました

2017年03月18日 07時55分10秒 | まち歩き

 

 車石の検索  ➡  まとめ005 車石 のあるところ

 

五七五

こんな手をしてると猫が見せに来る /筒井

ことわざ

一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ(いっけんかげにほゆればひゃっけんこえにほゆ)

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蔵のある風景伏0326回  伏見区 悟真寺 付近

2017年03月17日 20時14分00秒 | 蔵のある風景

 

蔵のある風景 前回の記事 ➡  蔵のある風景伏0325回  伏見区 水野左近西町 付近

 

五七五

 

手術前暗証番号子に聞かれ /吉野

 

ことわざ

一気呵成(いっきかせい)

 

 

 


ホーロー町名看板 伏見市 6

2017年03月17日 10時46分15秒 | まち歩き

 

伏見区でなく 伏見市  東大黒町

ホーロー町名看板 前回の記事 ➡  ホーロー町名看板 伏見区 5

 

五七五

コンビニで赤飯を買う誕生日 /利ちゃん

ことわざ

一を聞いて十を知る(いちをきいてじゅうをしる)

 

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蔵のある風景伏0325回  伏見区 水野左近西町 付近

2017年03月17日 09時01分09秒 | 蔵のある風景

 

 

蔵のある風景 前回の記事 ➡  蔵のある風景伏0324回  伏見区 直違橋 付近

 五七五

子供らと遊べばたばこ忘れている /木原

ことわざ

一輪咲いても花は花(いちりんさいてもはなははな)


まち歩き伏0392  京阪電車 伏見・山崎踏切

2017年03月16日 08時22分04秒 | まち歩き

 

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き伏0391  鬼門除け 、裏鬼門除け 家の敷地の東北角、南西角に造られています

五七五

 

一人きり大浴場はちと怖い /親リス

 

ことわざ 

一葉落ちて天下の秋を知る(いちようおちててんかのあきをしる)

 

 

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まち歩き伏0391  鬼門除け 、裏鬼門除け 家の敷地の東北角、南西角に造られています

2017年03月15日 20時57分14秒 | まち歩き

 

東北角 を 表鬼門

南西角 を裏鬼門 といいます   有名なのは 京都御所の猿が辻

東北の表鬼門には 水場や不浄を避ける習わしです

きれいな砂利をしいたり、難を転ずる意味合いのナンテン、鬼が嫌がるとされるヒイラキの植栽がよく行われる

大阪や奈良ではほとんどないらしい

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0390  伏見街道の玄関前の石仏

 

五七五

自己流を直されてからヘタになり /たっくん

ことわざ

一文吝みの百知らず(いちもんおしみのひゃくしらず)

類・一文吝みの百失い、小利をむさぼって大利を失う、安物買いの銭失い