本殿に祭られているのが熊野牟須美大神、この神を日本神話では伊弉冉尊と称している。「ムスビ」とは生成・育成を意味する古代語で、熊野牟須美大神とは熊野に鎮座し「誕生や死」といった、この世の存在する全ての生命の根源を司る神という意味です。
上之社には速玉之男大神と熊野家津御子大神が祭られており、日本神話では速玉之男大神を伊弉諾尊、熊野家津御子大神を素戔嗚尊と称している。
中之社にき天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊が祭られており、この4神は天照大神から神武天皇に至る4代の神です。ちなみに、瓊瓊杵尊は天孫降臨神話の天孫に当たる神、彦穂々出見尊は海幸山幸彦神話の山幸彦に当たる神です。
下之社には穀物の稚産霊神、火の神軻偶突知神、土の神埴山姫神、水の神彌都波能売神が祭られています。この4神は大地の恵みを象徴する神です。以上の12神を熊野十二所権現と言い、これに当社固有の神 樟大権現を加えた13神が当社の中心をなす神です。さらに、本殿裏の鬱蒼とした自然の中には「熊野九十九王子」「役行者と八大童子」などの王子・童子達が祭られています。(京の熊野古道)
神は姿形がありません。従って、神は仏でしか描けないのです。しかし、姿形のある神もおられます。いわゆる神のお使い・化身と呼ばれる神々で、熊野では八咫烏が有名ですが、王子・童子と呼ばれる神々がこれに当たり、この神々は仏と対を描くことが出来ます。右の曼荼羅上部には、そのうちの代表的な王子・童子が描かれており、本殿裏の鬱蒼とした自然の中(京の熊野古道)に、対応する仏と対で祭られています。
つまり、右の曼荼羅に描かれた世界と同じ世界が、境内全体を使って立体的に構成されており、このような表現方法を立体曼荼羅と言います。ゆっくりと境内を散策して熊野信仰の世界を御堪能下さい。熊野に参るのと同じ御利益が得られます。
なお、境内にお祭りしている神仏像は、全て当社の御神木「くすのき」で作られています。
かつて本宮は音無川(支流)と熊野川(本流)との合流地点に
に出来た中州にあった。その地を大斎ケ原(おゆみがはら)という。明治23年の大洪水で旧本宮は壊滅的な打撃を受け、現在の高台に移った。
新熊野神社復元図
新熊野神社は後白河法皇の仙洞御所「法住寺殿」の鎮守社として創建された。右図は創建当時の新熊野神社を復元したものだが、音無川は「夢の浮橋」から100mほど西に下ったところで鴨川と合流していた。鴨川を熊野川に見立てれば、本宮を地形ごと京都にもってきたのが新熊野神社だったことがわかる。
当時、京都から熊野に行くには大和大路を南下して中書島(伏見)に至り、そこから船で淀川を下って大阪に上陸、陸路、熊野に向かった。後白河法皇も右図、右上の「法住寺殿渡殿」から船に乗り、左下の「夢の浮橋」で下船、そこで禊(みそぎ)をしたあと、本殿に参拝された。
今熊野猿楽
観阿弥・世阿弥父子による「今熊野での猿楽演能」が日本芸能史上の変革点となったことは広く知られている。現在の日本を代表する芸能、「能」「狂言」「歌舞伎」などは、全て今熊野猿楽から始まっている。
猿楽と能楽とは同じ意味で、明治14年に能楽社が設立されるまでは、現行の「翁」を「翁猿楽」、「能」を「猿楽能」と呼んでいた。
今熊野猿楽とは「観阿弥の能」という意味で、観阿弥は「それまでの能(大和猿楽)」に革命をもたらした。それを世阿弥が受け継ぎ、室町幕府三代将軍「足利義満」の庇護のもと、現在の「能」へと大成させた。
近年の研究により、今熊野猿楽が①応安7年(1375)に当時の新熊野神社の例大祭「水無月祭(旧暦6月15~17日)」当日に行われたこと。②当時の新熊野神社が足利将軍家や北朝の歴代天皇と密接な関係にあったことなどが解ってきた。義満は応安7年の水無月祭に参列したあと、観阿弥・世阿弥の「能」を鑑賞したと考えられている。
その演能地は、当時の新熊野神社で最も風光明媚なところ、鳥居をくぐったすぐ左側と考えており、地形上、園地を背景に演能でるきのはここしかない。なお、当社では「くすのき祭(仲秋の名月の日)」で今熊野猿楽を奉納している
王朝の昔から神事や後宴の法楽に演ぜられた猿楽は大和結崎座の太夫観阿弥とその子世阿弥によって今日伝統藝術として親しまれる能にまで仕上げられた。その端緒となった時は今から六百余年前の応安7年場所はここ今熊野の社頭であった。古く820年前永暦元年後白河上皇が御願をもって紀伊熊野の森厳なたたずまいを移されたこの地で猿楽能を見物した青年将軍足利義満は当時12歳の世阿弥の舞容に感銘した。そして世阿弥を通して能の大成を後援しついに幕府の式楽として採用したのである。現代の能の隆盛につけてもその日のあでやかな世阿弥の風姿を知る老樟の下に往時を追懐し今熊野猿楽の復興を志す人々が一碑を建立してこの史実をすることになった。ここに請われるまま碑銘の文字を世阿弥自筆本花鏡のなかから撰ぶとともにその由来を録して社頭の繁栄と能の発展を併せ祈願するしだいである。
昭和55年庚申10月16日 文學博士 林屋辰三郎
梅原 猛 ・・・
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五七五
電話きてブリッコしてる母の声 /赤山
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