2017/2/11
旧東海道本線
施行・明治11年8月21日
完成・明治13年7月15日
廃止・大正10年8月1日
大正10年、現在の東海道本線のルートである膳所~京都間が開通するまでは、旧東海道本線(馬場~大谷~山科~稲荷~京都)が東西両京を結ぶ幹線として活躍していました。この線区の建設には非常な難工事(山間部を通過する始めての鉄道であったこととトンネルの掘さくや丘陵部の切取り築堤など)が伴い当時としては大がかりな土木工事でしたが特筆することは、この工事がそれまで外国人に依存していたことから脱却しすべて日本人の手により建設が進められたことです。明治13年7月14日明治天皇臨御のもとに開通式を挙行、翌15日全線開通のきこびとなりました。そして最急行が走破するなど華やかな時代を迎えたわけですが、急曲線の連続急勾配に禍いされて大正4年から線路変更工事が開始され、その完成とともに廃線の運命をたどりました。「ランプ小屋」は旧東海道線の建物として残った只1つのもので、同時に国鉄最古の建物として貴重な遺構の1つとなっております。
鉄道唱歌 赤き鳥居の神さびて
立つは伏見の稲荷山
関西の鉄道史は、明治7年(1874)神戸~大阪間の開通に
始まり、鉄道は東へ延びていった。明治9年、大宮仮駅(京都)まで延び、翌明治10年に神戸~京都間が開通した。
明治11年8月、京都~大津間が着工された。1000分の25という勾配区間や、逢坂山トンネルが日本人の手でなしとげられた話は有名であるが、真相は、外国人の高い人件費削減と、外国人の下働きという地位から脱出したいという、日本人技術者養成が実を結んだ結果である。資金は、日本最初の起業公債が募集された。
明治12年8月18日、京都~稲荷~山科(勧修寺)~大谷間、13.1キロが仮営業され、JR稲荷駅の歴史がはじまった。同時に、8月7には3人の日本人機関士が誕生していて、漸次、日本人によるSL運転にかわっていった。翌明治13年6月28日、逢坂山トンネルが開通し、京都と大津がつながった。当時の大津駅は、今の浜大津で、馬場と呼ばれた膳所からスイッチバックしていた。それ以東は、湖上輸送であったが、明治15年3月、北陸線の長浜~柳ケ瀬間の開通により、明治15年5月から、太湖汽船会社との連絡運輸が開始された。東海道全通は、明治22年7月1日であった。京都始発午前5時35分の上り列車の新橋到着は午後11時50分であり、急行列車は明治29年9月1日、新橋~神戸間、上り17時間9分、下り17時間22分で運転された。
鉄道の発達と共に栄えたものに伏見酒がある。江戸末期に単なる地酒的存在にすぎなかった伏見酒は、明治以降、品質改良、販路拡張により隆盛に赴いた。明治12年頃、木村清助氏がはじめて「江戸積」をなし、鉄道開通と共に大倉氏らの努力が、東海道沿線にその販売先を有するようになった。伏見の酒蔵から船積みされた酒は濠川、墨染インクライン、疎水(明治27年開通)を遡航して稲荷駅西側の舟留まりに入った。酒蔵と水濠は、今でも伏見の風物詩であるが、現実は、鉄道と直結する大動脈だったのである。
大正10年(1923)東山トンネルが完成し、今の東海道線ができると、稲荷駅は奈良線の一駅として桃山と結ばれ、平成9年3月8日には、その中間に「JR藤森駅」が開設された。古い奈良線は、奈良鉄道として明治28年9月2日、京都~伏見間5.21キロ、11月3日、伏見~桃山間1.75キロが開通した。今の近鉄京都線の軌道を走っていた。奈良への全通は、明治29年4月18日である。このような鉄道の歴史を物語るのが、赤レンガ造りのランプ小屋である。元の南側半分だけを残すのみで準鉄道記念物ということであるが、古きSL時代を偲ばせる品々が保存されている。当初は、機関車、客車共にランプ時代であり、急行列車の客車に電灯が取付けられたのは、明治31年4月のことであった。
大石良雄が山科の その隠れ家はあともなし
赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山
鉄道唱歌
ここがそれかや松茸の 名に聞く伏見の稲荷山
汽車の窓から首だして 居がら拝む赤鳥居
東海道唱歌
2017/3/14 画像追加 3枚
大石良雄が山科の その隠れ家はあともなし
赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0382 伏見人形 丹嘉
五七五
二人分空いて真ん中すわる人 /まさかちよ
ことわざ
生き馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)
生きている馬の目を抜くほどにすばしこいという意。ずる賢く立ち回り、他人を出し抜いてすばやく利益を得ること。油断もすきもないさまのたとえ。
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京都市伏見区深草藤森玄蕃町690
由緒書き 残念 消えているところが多い
昭和43年11月3日 建立
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0350 了峰寺 曹洞宗
五七五
撮る父に私が笑っている写真 /水原
ことわざ
一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなすび)
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境内 南側の通り
東山通に面する 大きな樟
石鳥居
神社号の建立は
大正7年5月 京都瓦工作業同盟會
天然記念物 新熊野神社ノ樟
新熊野神社(いまくまのじんじゃ)
石鳥居 はっきりと読み取れず
ここも はっきり読み取れず
新熊野神社
熊野信仰が盛んであった平安後期の永暦元年(1160)、後白河上皇が紀州(現在の和歌山県)熊野の神をこの地にあった仙洞御所法住寺殿の内に勧請して、当社を創建した。上皇の命を受けた平清盛は、熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野を再現したとされる。皇室の尊崇が暑く、社域は広壮、社殿は荘厳を極めたが、応仁の乱で荒廃し、現本殿(市指定有形文化財)は寛文13年(1673)に聖護院の道寛親王により再建されたものである。境内の楠の木は、熊野から移植した
後白河上皇お手植えの神木といわれ、健康長寿、特に腹を守護する神、また、安産の守り神として信仰されている。応安7年(1374) 能楽の祖・観阿弥・世阿弥父子が足利義満の面前で「今熊野神事神事猿楽」演能し、能楽隆盛を見た場所としても知られる。京都市
境内のジオラマ 石鳥居は 右の方 樟は右下方
神社 前回の記事 ➡ 神社伏0087 お産場稲荷社
五七五
ひなたぼこ ほこりの中に宇宙みる /涼
ことわざ
一姫二太郎(いちひめにたろう)
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京都歩兵聯隊跡
明治29(1896)年新設された第四師団(大阪)歩兵第三十八聯隊がこの地に駐屯した。明治37(1904)年に深草に司令部を置く第十六師団が新設され,歩兵第三十八聯隊はその配下となった。大正14(1925)年に歩兵第三十八聯隊は奈良に移り,そのあと歩兵第九聯隊が移り終戦に至った。この石標は京都歩兵聯隊跡を示すものである。
舞 伝男書
藤の森神社東側の台上は五十年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し十万をこえる将兵が苦楽を共にし生死を誓い日夜修身練武に精進した深草兵営の跡である歩兵第九聯隊は明治建軍に当たり明治七年に創設せられて大津にあったこれを母体として明治二十九年歩兵第三十八聯隊が編成され翌三十年七月この兵舎の竣工をまつてこの地に屯した大正十四年五月軍制改革により歩兵第三十八聯隊は奈良に移駐以来歩兵第九聯隊主力がここに駐屯することになった歩兵第九第三十八の両聯隊は明治三十七・八年の日露戦争に出征第四師団に属して南満州の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して赫赫たる武勲を建てた満州事変にさいしては京都第十六師団の隷下にあつて北満の警備に任じついで昭和十二年支那事変勃発するや北支中支に転戦し南京城を陥れ徐州に戦い長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした歩兵第九聯隊は昭和十六年大東亜戦争劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲マニラ攻略の後■力をもつてレイテ島を守備していたが優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯隊の歴史を閉じた時昭和十九年十二月八日歩兵第百九聯隊は昭和十三年この地において編成され中支に出動長期にわたり揚子江中流地域の警備に任ずるほか湘挂・*江の激戦に参加し幾度か敵の重囲に陥りながらよく奮戦力闘を重ね終戦とともに矛を収めて内地に帰還した。このほか大東亜戦争の戦局いよいよ熾烈を極めるにしたがいこの兵舎(通称中部第三十七部隊)において或は動員され或いは兵員を補充された諸部隊は数多くあつたがそのうち主なものを列挙すればインドインパールに進攻した歩兵第六十聯連隊(祭)ビルマの各戦線に苦闘した歩兵第百二十八聯隊(安)沖縄にその最期を飾った歩兵第六十三旅団(石)ミンダナオ島に戦った独立守備歩兵第三十五大隊(幸)本土防衛に任じた護京比叡山城諸兵団の歩兵聯隊等である顧みればこれら諸隊の将兵がこの兵営をあとに出陣するにさいし戦勝と武運の長久とを祈願したのはこの藤森神社であった今や時は移り星は流れて幾春秋かつての勇壮なる軍歌の響きも絶えて久しく懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしているしかしながら祖国を愛し祖国を護り進んで国難に殉じた郷土部隊の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである時あたかも明治百年を迎えるに当たりここに京都歩兵聯隊関係者一同あい図り由緒深きこの地を史跡とし先人戦友の遺勲を顕彰して長くその功を讃え陣没した幾多の英霊を慰めるとともに国連の隆盛と世界のい平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである
昭和四十三年四月十八日
京都歩兵聯隊跡記念碑建設会
大東亜・・だろうか
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0107 「陸軍」 の文字がここは軍の街だった
五七五
もう頭せっけんでエエ妻が決め /やまんば
ことわざ
一年の計は元旦にあり(いちねんのけいはがんたんにあり)
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0389 伏水街道 第4橋
五七五
平等に便座は人を座らせる /加藤
ことわざ
一難去ってまた一難(いちなんさってまたいちなん)
類・虎口を逃れて竜穴に入る、火避けて水に陥る
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京都市伏見区深草直違橋南1-484
文化2年(1805) 火災、資料類焼失 昭和43年、本堂新築
長久山
伏水第4橋のたもとにある 了峰寺の道標
大正6年5月 施主 林野末吉
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0349 誠心寺 浄土宗
五七五
おみくじの文面だれが作るのか /明日香
ことわざ
一日作さざれば一日食らわず(いちじつなさざればいちじつくらわず)
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関連記事 第1橋 ➡ まち歩き東0374 伏水街道 第一橋
第2橋 ➡ まち歩き東0368 伏水街道 第二橋 親柱
第3橋 ➡ まち歩き東0381 伏水街道 第三橋
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0388 琵琶湖疏水 直違橋
五七五
このままじゃペースメーカー優勝だ /零千
ことわざ
一日作さざれば一日食らわず(いちじつなさざればいちじつくらわず)
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京都市伏見区深草直違橋北1-478
宮司を引退した藤森社の周道(寛永2年・1625没)が開いたと伝えられる。以来、藤森社神主の葬儀は、門前にて神式で遺骸を受け取り、本堂で改めて仏式葬儀を行う奇習が続いている。
昭和6年1月 田中新太郎
寺院前回の記事 ➡ 寺院伏0348 西岸寺 浄土真宗本願寺派
五七五
片まゆをひいたところで降りる駅 /荒川トンボ
ことわざ
一事が万事(いちじがばんじ)
類・一事を以て万端を知る、一を以て万を知る
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北方向を 見る
南方向を見る
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0387 伏見区内の 家の石土台
五七五
被災地に居る気配せぬ神ほとけ /真喜楼
ことわざ
鼬の道切り(いたちのみちきり)
類・鼬の道切りは物忘れの催促
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京都市伏見区深草直違橋2-438-1
親鸞聖人御旧蹟 玉日姫君御廟所
九条関白兼実公遺蹟
元法性寺小御堂 西岸寺
寺伝によれば、ここは平安時代の末、当時の関白であった藤原忠通(1097~1164)が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が建っていたところで、忠通の子、九条兼実(1149~1207)もことのほかこの地を愛で、花園御殿とも呼ばれた。後白河法皇もしばしばこの地に御幸されており、後に法皇の御製にちなんで西岸寺と号した。現在は浄土真宗本願寺派に属している。親鸞聖人(1173~1263)は六角堂で救世菩薩より夢告を受けたことから、兼実の娘 玉日姫を妻として迎えたと伝えられる。しかし、承元元年(1207)この地より越後に流され、以来、玉日姫はこの小御堂を守り、親鸞聖人の安否を気遣いながらここで亡くなったという。その後、玉日姫に仕えていた田邑光隆(有阿弥1176~1269)は親鸞聖人の弟子となり、九条家より小御堂の寄進を受け、西岸寺を開き、玉日姫のお墓を守ったという。本尊は阿弥陀如来像、祖師前には親鸞聖人絵像とともに玉日姫の木像が安置されている。寺宝には親鸞聖人作の草鞋竹杖御尊像や九条兼実の木像などがある。玉日姫の木像は救世菩薩と同じ如意輪の御天冠をかむり十二単に緋の袴、右手には念珠、左手は開運の姿で、親鸞聖人夢告の救世菩薩の化身と考えられ、衆生に肉食妻帯の基本を示し、女人往生を示されたお方として古来より人々の信仰を集めた。
玉日姫の墓がある。墓石は樹木が化石したもの。承元3年(1209)9月18日、26歳で没したと伝わる
九条兼実公(久安5年~承元元年、1149~1207)
藤原忠通の三男で慈円和尚の兄。玉日姫のお父上。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれ、法然上人に帰依されました。
九相図(肉体の無常や万物流転を描いた仏教絵画)を保存する。この寺の九相図は江戸後期の作で5幅1組。女性のみを描いた一般的なものと異なり、男女とも登場するのが特徴。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0347 道澄寺 浄土宗西山深草派
五七五
香典を固辞だと聞いて参列し /寺田
ことわざ
鼬の道切り(いたちのみちきり)
類・鼬の道切りは物忘れの催促
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西山…建立
紀元2600年記念
関連記事 ➡ まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額
紀元2600年 前回の記事 ➡ 紀元043 源空寺 2600年記念
五七五
冬きらい半年後に夏きらい /浜田
ことわざ
鼬のなき間の貂誇り(いたちなきまのてんほこり)
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聖母女学院 昔は 第16師団司令部庁舎 だった
伏見区内では 「陸軍用地」 「陸軍省所轄地」といった 石柱をよく目にするとのこと
陸軍とはっきり読み取れます
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0106 廃寺跡 宝塔寺境内
五七五
熱いこといわれても今眠いです /打道
ことわざ
痛くもない腹を探られる(いたくもないはらをさぐられる)
類・食わぬ腹探られる
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