元政上人旧跡 瑞光寺
明治三十六年三月 跋渉会建
是ヨリ二町
関連記事 ➡ 寺院伏0344 瑞光寺 日蓮宗 元政庵
道標前回の記事 ➡ 道標伏0094
五七五
お化粧に化の字あてた人エライ /冨田
ことわざ
居候の三杯目(いそうろうのさんばいめ)
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京都市伏見区深草直違橋6-300
「地蔵菩薩」と書かれた大きな提灯がなかったら住宅にしか見えない。歴史は古い。平安中期から後期の建立で、藤原一族の離れ座敷として使われていたという。寺名の由来は、もとの地蔵堂に藤原道明と橘澄清の二人が援助して寺を整備した。両名の名から一字ずつを取り『道澄寺』と名付けられた。その後、衰退とともに寺も朽ち、江戸時代初期、湛好という僧侶が一度再建したが、再び現代まで無住の時代が続いた。鵜飼住職が再建したのは1988年。もとの木造の地蔵堂と庫裏を全面改修した。一階の半分が本堂になっており、「延命地蔵」祀られている。もう半分はいろいろな催し物ができるようになっている。
奈良県五条市の藤原武智麻呂が建立した真言宗栄山寺(養老3年、719)に伝わる国宝の鐘は、道澄寺のものである。応仁の乱に掠奪されたのが、栄山寺に伝わった。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0346 地福寺 浄土宗西山深草派
五七五
あの人の本性知った緊急時 /天ノ橋立
ことわざ
何れ菖蒲(いずれあやめ)
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深草十二帝陵 東三町
大阪皇陵巡拝会
浄土深草流 霞谷
開祖円空上人旧跡 真宗律院
従是東三町
道標 前回の記事 ➡ 道標伏0093 深草山 真宗院
五七五
グルメなら言えるはずだろウーンまずい /意志弱弱
ことわざ
衣食足りて礼節を知る(いしょくたりてれいせつをしる)
類・倉廩満ちて礼節を知る、礼儀は富足に生ず
対・人はパンのみにて生くるにあらず
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京都市伏見区深草僧坊町39
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0345 霊光寺 日蓮宗 入口はどこ
五七五
球児とはなぜ野球選手だけなのか /黒沢
ことわざ
医者の不養生(いしゃのふようじょう)
類・学者の不身持、紺屋の白袴、坊主の不信心
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正しくは「深草北陵」といい、陵内に一宇の法華堂を建て、後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成の十二帝および栄仁親王(崇光皇子)の遺骨を奉安する。
いずれも鎌倉時代から室町・桃山時代にわたる天皇で、かくも多くの天皇が一ケ所に奉葬されているところに当時の後室の衰微を物語っている。
古くは「深草法華堂」といい、はじめ後深草、伏見、後伏見の三帝を葬ったが、真宗院の荒廃後は御陵のみが残った。そこで正平7年(1352)頃、上京区新町頭にあった持明院の持仏堂安楽行院(一に安楽光院)をこの地に移し、御陵の管理にあたったが、それも中世以降の兵乱に寺は廃滅し、御陵もまた荒廃するに至った。江戸時代には「仙骨堂」または「御骨堂」ともよばれ、わずかに御陵の形をとどめていたが、寛文2年(1662)僧空心契仲が名刹の衰滅を歎き、安楽行院を再興して御陵の管理にあたった。その後、明治27年(1894)御陵の修治にあたり、寺は東山泉涌寺へ移され、御陵は宮内庁の管理となった。
関連記事 ⇒ まとめ042 陵墓
陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓東016 東山本町 陵墓参考地
五七五
高値でもあるだけマシと戦中派 /老メダカ
ことわざ
医者と味噌は古いほどよい(いしゃとみそはふるいほどよい)
類・医者と坊主は年寄りがよい、医者坊主南瓜
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深草トレイル ⑧
深草山 真宗院
同じもの 道標 ➡ 道標伏0082 深草真宗院 深草トレイル⑧
道標 前回の記事 ➡ 道標伏0092 田中社 ごんだゆうノ滝
五七五
いるのならファスナー上げて背後霊 /東原
ことわざ
医者が取るか坊主が取るか(いしゃがとるかぼうずがとるか)
類・医者が取らにゃ坊主が取る
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こちら 霊光寺 ➡ 寺院伏0342 霊光寺 日蓮宗
寺院前回の記事 ➡ 寺院伏0344 瑞光寺 日蓮宗 元政庵
五七五
環境に優しく人にきつい人 /吉田
ことわざ
石部金吉鉄兜(いしべきんきちてつかぶと)
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墓標は竹3本を植えてある簡素なもの。これは元政が胸を病んだ時、つねに竹の香を嗅ぎ、竹の葉のそよぎを聞いていれば、病は必ずなおるとの信念に基づいたものとつたえる。
この墓には古来縁切り祈願の信仰がある。それは元政が江戸に出て遊学中、吉原三浦屋の三代目高尾太夫と深くなじんで婚約までしたが、仙台の伊達侯が高尾に惚れ込み、彼女を自分のものにしようとしたが、彼女は元政に操をたてて承知せず、ために隅田川の隅田川の船遊びに際して切り捨てられたといい、元政は彼女の死をいたんで出家したのだといわれる。かかる巷談から縁切り祈願の信仰がうまれ、これを願う女は駒下駄をはき、上人の墓の周囲を竹ほうきで掃除をし、墓標の竹の葉一枚をもらって、相手の男の襟に縫い込んでおくと縁が切れるといわれる。
墓所 前回の記事 ➡ 墓伏003 日像 荼毘所
五七五
鯛釣って値段を店で確認す /内野
ことわざ
石橋を叩いて渡る(いしばしをたたいてわたる)
類・石橋に鉄の杖、念には念を入れよ、浅き川も深く渡れ
対・危ない橋を渡る
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