病院の検査機器でCTスキャンというものがあります。
X線を当てて輪切りにするあれです。
今日はそれをイメージしながら話を進めたいと思います。
物理学の分野では、次元というものをイメージする時に、一次元ずつ落として想像するそうです。
まずはそれにならって、この瞬間の「今」というものを二次元の平面としてみます。
それが重なったものは、三次元の立体になります。
この三次元の立体が、時間の塊であり、空間の塊ということになります。
イメージしやすいように、ひとまずこの立体をボールのような球体だと仮定します。
私たちが平面にいる間はその球体は円にしか見えませんが、私たちが平面を離れて三次元に飛び出しますと、この球体の全貌を見ることが
できるということになります。
それでは、その大きな球体が宙に浮いているところを想像してみて下さい。
これは、天地宇宙すべての「時間」であり「空間」です。(つまり「時空」)
その球体を切った断面が「今」です。
つまりは、時間という流れがあるのではなく、途轍もない大きな塊があって、それを輪切りにしたものを私たちは「今」と認識している
ということになります。
もちろんこれを本当の現実で考えるときは、次元を一つ上げてもとに戻さないといけませんから、その塊は今の私たちが知覚できる形では
なくなります。
さて三次元の視点から見れば、大きな球体も「今」であり、その一片も「今」であるということになります。
最初から最後まで、すべて同じ「今」です。
すると、この球体の一部である過去も未来も、全てが「今」だということになります。
二次元の平面の上にいる私たちにとっては、一つ前の平面が過去となり、一つ後ろの平面が未来ですが、平面を離れて三次元的に見れば、
同じ一つの球体なので、全てが「今」になるということです。
この球体を様々な角度からスキャンしていく行為が、私たちの人生であり、またそれが「時間」となります。
つまり「時間」というのは私たちの観察(鑑賞)の履歴や過程でしかなく、本来は「今」しか存在していないということになります。
スキャンの角度を変えることで少しずつ見え方が変わってくることを、私たちは「時間」として知覚しているということです。
これをある人は「本来この世には“時間”というものは無い」と言ったりします。
さて、その二次元の平面に、私たちは自らを投影させています。
私たちの本体は、三次元的に球体を眺めています。
CTスキャンでスライスした画像を、そこから鑑賞(観察)すると同時に、画像の中に自分を投影させているわけです。
平面に投影された自分は、今ここにいる自分ですが、三次元的に全体を観ている自分も、自分自身です。
スモールな自分とジャンボな自分がいて、それ以外にもミドルな自分や超ジャンボな自分が沢山いるということです。
それらは自分の中心を一点として、太柱で貫かれて一つに繋がっています。
それぞれ別個に分けられるものではなく、すべてが自分です。
ちょうどそれはCTスキャンの輪切り画像と、大きな球体が、すべて「今」であるのと同じことです。
そして“地に足つける”とは、この一点をしっかり保持することであり、“今に集中”とは、自分が投影されている一枚絵に心を100%向ける
こととなります。
私たちは「監督」兼「主演」兼「観客」として、作品作りにリアルタイムで参加しつつ、それを鑑賞して楽しんでいます。
ところで、平面のスクリーンの中にいる私たちにとっては、一コマ一コマがスライドショーのように移り変わっていきますので、まるで
周囲の環境が変化しているように感じます。
しかし三次元的に見ると、球体は何も変わっておらず、私たちが動くことで観え方が変わっているだけだということが分かります。
CTスキャンが動くことで、輪切りされる場所が変わっていくのと同じです。
つまりは、天動説ではなく地動説ということです。
これは「時間」だけでなく、「空間」や「事象」にも当てはまります。
私たちのまわりで起きる出来事や環境変化も、次々と発生したり変化しているように感じますが、実際は私たちの意識が動いていることで、
対象物が動いているように「見えている」だけということです。
それらもまた、大きな球体を輪切りしたスライスでしかないということです。
この世が動いているのではなく、私たちが動いている。
天地が流転しているのではなく、観察者である私たちの方が流転しているわけです。
そうしますと、私たちの心一つで人生も未来も簡単に変わるということが、実感として分かってきます。
それは「変わる」というより、私たちが見る角度を「選んでいる」ということであり、表現を変えれば自分で今を「作っている」という
ことになります。
しかしそれを、自分のまわりの事象が動いていると考えてしまうと、そんなものを変えるのは難しいとなってしまいます。
それに関わる人たち全員が自分に付き合って変わっているなんて有り得ない、と確信してしまうわけです。
時空という球体は、一つの塊として、そこにただ在るだけです。
そして、自分だけではなく他の人たちも、まわりからそれを観ています。
それを観るという行為が、同時に、自分自身をそこに投影する行為になっています。
つまり、三次元的にその球体を観ている時点で、自分自身が球体すべてに投影されているということです。
その中のすべての平面に、私たちは投影されているわけです。
ただ投影されていても、そこに意識が集中されないとスモール自分は現われません。
球体のうちの一片に心を向ける(スキャンする)ことで、そこが輪切りにされて表面が現われ、それと同時にそこに投影されている自分に
意識がフォーカスされます。
そうして私たちの目に、その平面が現実として映るようになります。
他の部分を切っても、全てに自分の姿は現われます。
ただ、平面というのはスキャンして切りとられた時に初めて表面が現われるものです。
スキャンというのは、意識がそこに集中することの喩えなので、同時に何ヶ所もの平面が表に現れることはありません。
つまり、自分の投影は無限にあるものの、平面上にいるこの自分に認識されるものは常に一つでしかないということです。
そして自分だけでなく、他の人たちもまた球体の全体を観ると同時に、そこに自分自身を投影させています。
ですから、私たちの意識を動かして角度を変えればスライス画像は変わりますし、変わった先にも他の人たちの照射された姿が映るわけです。
現実の世界でも山そのものを動かすことはできませんが、自分が動けば山の姿(見え方)も変わってきます。
「自分の動きにあわせて山以外の景色も動いてくれるだろうか」「わざわざ付き合ってくれるだろうか」などと考える必要はないわけです。
自分(意識)の場所を変えれば、人も景色も、当たり前にすべてが変わってきます。
相手のほうは変えているつもりがなくても、自分にとっては変わってるように見えるということです。
しかし、そんなの変わるはずがないと思いこんで、そこに座り込んでしまえば、本当に何も変わりはしません。
地球を中心に宇宙は回っている!と昔の人たちが考えたのを、今の私たちは「なんて自己中心的な考えだ」と思ってしまいます。
でも、自分を中心に人生(世界)が回っていると考えることの方が、もっと自己中心的と言えるかもしれません。
この「人動説」が正しいかどうかは、あまり重要ではありません。
一つの方便だと思って空想して頂ければ、そこから色々なことが見えてくるのではないかと思います。
自分を固定させたままで物事を見てしまうと、どうしてもアレコレと囚われやすくなってしまいます。
しかし、自分が自由自在な存在だと思えば、身のまわりの出来事や、誰かの言動も、様々に角度を変えて見ることができるように
なります。
そうすると自分の勝手な思い込みだけで「良い」「悪い」と見ていたものも、様々に違った見え方がしてきます。
そのほうが、心もゆったり大らかな気持ちで過ごせますし、今を深く味わえます。
また、ここでいう自己中心的がダメだというのはあくまで視点や考え方のことですので、実際の自分の中心点は自分の中にあります。
あちこち動き回るからといって、中心もアチコチ定まらないということではありません。
自分のなかにビシッと中心を置いたままだからこそ、自由自在なのです。
感覚だけは三次元の外まで広がっても、心はこの平面世界に100%集中です。
それが地に足をつけるということであり、「今」に集中するということです。
この一枚絵やそこに投影された自分が仮りそめのものだからといって、それを軽んじたり、いい加減に扱うのは間違いです。
心が平面から離れて三次元へフワフワ出ていくのは、重大な職務放棄なのです。
私たちが、何故こうしてわざわざスクリーンに出演しているのかということです。
あの頃、大勢の人たちと鑑賞しているうちに、ウズウズ我慢できなくなって、手を挙げたのではなかったでしょうか。
その中で喜怒哀楽を踊りたくて、飛び込んだのではなかったでしょうか。
大きな自分は、最初から最後まで、今も球体を眺めています。
それを忘れて、小さな自分がそこに戻ろうとするのは本末転倒も甚だしいわけです。
ところで、ここでは「大きな自分」という表現をしていますが、それはそのままのイメージで言っています。
ハイヤーセルフだとか大いなる自己だとか、そういう存在のことではありません。
そうした言葉には「高位」という比較イメージが付いてしまって、今この自分との距離や隔たりを感じてしまいます。
思い込みや観念が染み付いた言葉を使ってしまうと、感覚が制限されてしまいます。
ここでは意味も何も必要ありません。
単に「大きな」自分です。
自分は自分で変わりありません。
ウルトラマンが巨大化するように、心をグーンと広げただけです。
私たちは、この世界を楽しく鑑賞しています。
そしてその楽しさは、その中に身を投じることでさらに深みが増します。
だからこそ、私たちはこの世に生れてきたのです。
お祭りはただ観てるよりも、一緒になって踊った方がもっと楽しいのです。
ですから私たちは、目の前の現実にしっかりと飛び込むことが、味わいを一層深めることになります。
そして私たちは決して、天涯孤独な小さな存在ではありません。
今こうしてここに自分がいることが、その証明です。
そもそも大きな自分がいなければ、ここに投影されることはないからです。
つまり、私たちは、私たち自身に見守られているのです。
最初から最後まで変わることなく、大きな自分が全てを包みこんでいます。
この世界この球体すべてを、温かく見守っています。
天地宇宙が私たちを優しく包み込んでいるのと同時に、私たちも天地宇宙を優しく包み込んでいるのです。
ですから私たちは、絶対的に、護られています。
心から安心しきって、自分のすべてを投げ出して大丈夫です。
心をスーッと軽く、素っ裸になって、目の前に身を投じていいのです。
目の前に広がる世界へ、母なる天地へ、心からの安らぎとともに飛び込んでみましょう。
真綿のようにフカフカした母の手が、フワリと優しく温かく受けとめてくれることでしょう。
それが自分自身が望んでいることであり、喜ぶことであるわけです。
こんな人生でいいのか?という不満や疑問は、ひとまず横に置いておきます。
今はただ、他の現実もあるということを知るだけで十分です。
自分の固定観念や執着、思い込みを無くして自由自在になれば、いくらでもスキャンする角度は変わります。
それを知っているだけで、心はスッと軽くなります。
この一枚絵は、簡単に変わります。
でも、変えてやろうとする我欲や、変わるはずがないという思い込みがそれを阻んでしまいます。
ただ心を広げて、ラクになって手を放すだけです。
そして、余計なことを考えず、その一枚絵に心を集中してみます。
無邪気に一喜一憂を味わいきっていれば、一枚絵は自然に変わっていくのです。
目の前に広がる「今」は、温かくやさしい母のふところです。
すべてを捨てて、安らぎとともに、笑顔で飛び込んでみましょう。
この世界は、私たちの一歩で回りだします。
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X線を当てて輪切りにするあれです。
今日はそれをイメージしながら話を進めたいと思います。
物理学の分野では、次元というものをイメージする時に、一次元ずつ落として想像するそうです。
まずはそれにならって、この瞬間の「今」というものを二次元の平面としてみます。
それが重なったものは、三次元の立体になります。
この三次元の立体が、時間の塊であり、空間の塊ということになります。
イメージしやすいように、ひとまずこの立体をボールのような球体だと仮定します。
私たちが平面にいる間はその球体は円にしか見えませんが、私たちが平面を離れて三次元に飛び出しますと、この球体の全貌を見ることが
できるということになります。
それでは、その大きな球体が宙に浮いているところを想像してみて下さい。
これは、天地宇宙すべての「時間」であり「空間」です。(つまり「時空」)
その球体を切った断面が「今」です。
つまりは、時間という流れがあるのではなく、途轍もない大きな塊があって、それを輪切りにしたものを私たちは「今」と認識している
ということになります。
もちろんこれを本当の現実で考えるときは、次元を一つ上げてもとに戻さないといけませんから、その塊は今の私たちが知覚できる形では
なくなります。
さて三次元の視点から見れば、大きな球体も「今」であり、その一片も「今」であるということになります。
最初から最後まで、すべて同じ「今」です。
すると、この球体の一部である過去も未来も、全てが「今」だということになります。
二次元の平面の上にいる私たちにとっては、一つ前の平面が過去となり、一つ後ろの平面が未来ですが、平面を離れて三次元的に見れば、
同じ一つの球体なので、全てが「今」になるということです。
この球体を様々な角度からスキャンしていく行為が、私たちの人生であり、またそれが「時間」となります。
つまり「時間」というのは私たちの観察(鑑賞)の履歴や過程でしかなく、本来は「今」しか存在していないということになります。
スキャンの角度を変えることで少しずつ見え方が変わってくることを、私たちは「時間」として知覚しているということです。
これをある人は「本来この世には“時間”というものは無い」と言ったりします。
さて、その二次元の平面に、私たちは自らを投影させています。
私たちの本体は、三次元的に球体を眺めています。
CTスキャンでスライスした画像を、そこから鑑賞(観察)すると同時に、画像の中に自分を投影させているわけです。
平面に投影された自分は、今ここにいる自分ですが、三次元的に全体を観ている自分も、自分自身です。
スモールな自分とジャンボな自分がいて、それ以外にもミドルな自分や超ジャンボな自分が沢山いるということです。
それらは自分の中心を一点として、太柱で貫かれて一つに繋がっています。
それぞれ別個に分けられるものではなく、すべてが自分です。
ちょうどそれはCTスキャンの輪切り画像と、大きな球体が、すべて「今」であるのと同じことです。
そして“地に足つける”とは、この一点をしっかり保持することであり、“今に集中”とは、自分が投影されている一枚絵に心を100%向ける
こととなります。
私たちは「監督」兼「主演」兼「観客」として、作品作りにリアルタイムで参加しつつ、それを鑑賞して楽しんでいます。
ところで、平面のスクリーンの中にいる私たちにとっては、一コマ一コマがスライドショーのように移り変わっていきますので、まるで
周囲の環境が変化しているように感じます。
しかし三次元的に見ると、球体は何も変わっておらず、私たちが動くことで観え方が変わっているだけだということが分かります。
CTスキャンが動くことで、輪切りされる場所が変わっていくのと同じです。
つまりは、天動説ではなく地動説ということです。
これは「時間」だけでなく、「空間」や「事象」にも当てはまります。
私たちのまわりで起きる出来事や環境変化も、次々と発生したり変化しているように感じますが、実際は私たちの意識が動いていることで、
対象物が動いているように「見えている」だけということです。
それらもまた、大きな球体を輪切りしたスライスでしかないということです。
この世が動いているのではなく、私たちが動いている。
天地が流転しているのではなく、観察者である私たちの方が流転しているわけです。
そうしますと、私たちの心一つで人生も未来も簡単に変わるということが、実感として分かってきます。
それは「変わる」というより、私たちが見る角度を「選んでいる」ということであり、表現を変えれば自分で今を「作っている」という
ことになります。
しかしそれを、自分のまわりの事象が動いていると考えてしまうと、そんなものを変えるのは難しいとなってしまいます。
それに関わる人たち全員が自分に付き合って変わっているなんて有り得ない、と確信してしまうわけです。
時空という球体は、一つの塊として、そこにただ在るだけです。
そして、自分だけではなく他の人たちも、まわりからそれを観ています。
それを観るという行為が、同時に、自分自身をそこに投影する行為になっています。
つまり、三次元的にその球体を観ている時点で、自分自身が球体すべてに投影されているということです。
その中のすべての平面に、私たちは投影されているわけです。
ただ投影されていても、そこに意識が集中されないとスモール自分は現われません。
球体のうちの一片に心を向ける(スキャンする)ことで、そこが輪切りにされて表面が現われ、それと同時にそこに投影されている自分に
意識がフォーカスされます。
そうして私たちの目に、その平面が現実として映るようになります。
他の部分を切っても、全てに自分の姿は現われます。
ただ、平面というのはスキャンして切りとられた時に初めて表面が現われるものです。
スキャンというのは、意識がそこに集中することの喩えなので、同時に何ヶ所もの平面が表に現れることはありません。
つまり、自分の投影は無限にあるものの、平面上にいるこの自分に認識されるものは常に一つでしかないということです。
そして自分だけでなく、他の人たちもまた球体の全体を観ると同時に、そこに自分自身を投影させています。
ですから、私たちの意識を動かして角度を変えればスライス画像は変わりますし、変わった先にも他の人たちの照射された姿が映るわけです。
現実の世界でも山そのものを動かすことはできませんが、自分が動けば山の姿(見え方)も変わってきます。
「自分の動きにあわせて山以外の景色も動いてくれるだろうか」「わざわざ付き合ってくれるだろうか」などと考える必要はないわけです。
自分(意識)の場所を変えれば、人も景色も、当たり前にすべてが変わってきます。
相手のほうは変えているつもりがなくても、自分にとっては変わってるように見えるということです。
しかし、そんなの変わるはずがないと思いこんで、そこに座り込んでしまえば、本当に何も変わりはしません。
地球を中心に宇宙は回っている!と昔の人たちが考えたのを、今の私たちは「なんて自己中心的な考えだ」と思ってしまいます。
でも、自分を中心に人生(世界)が回っていると考えることの方が、もっと自己中心的と言えるかもしれません。
この「人動説」が正しいかどうかは、あまり重要ではありません。
一つの方便だと思って空想して頂ければ、そこから色々なことが見えてくるのではないかと思います。
自分を固定させたままで物事を見てしまうと、どうしてもアレコレと囚われやすくなってしまいます。
しかし、自分が自由自在な存在だと思えば、身のまわりの出来事や、誰かの言動も、様々に角度を変えて見ることができるように
なります。
そうすると自分の勝手な思い込みだけで「良い」「悪い」と見ていたものも、様々に違った見え方がしてきます。
そのほうが、心もゆったり大らかな気持ちで過ごせますし、今を深く味わえます。
また、ここでいう自己中心的がダメだというのはあくまで視点や考え方のことですので、実際の自分の中心点は自分の中にあります。
あちこち動き回るからといって、中心もアチコチ定まらないということではありません。
自分のなかにビシッと中心を置いたままだからこそ、自由自在なのです。
感覚だけは三次元の外まで広がっても、心はこの平面世界に100%集中です。
それが地に足をつけるということであり、「今」に集中するということです。
この一枚絵やそこに投影された自分が仮りそめのものだからといって、それを軽んじたり、いい加減に扱うのは間違いです。
心が平面から離れて三次元へフワフワ出ていくのは、重大な職務放棄なのです。
私たちが、何故こうしてわざわざスクリーンに出演しているのかということです。
あの頃、大勢の人たちと鑑賞しているうちに、ウズウズ我慢できなくなって、手を挙げたのではなかったでしょうか。
その中で喜怒哀楽を踊りたくて、飛び込んだのではなかったでしょうか。
大きな自分は、最初から最後まで、今も球体を眺めています。
それを忘れて、小さな自分がそこに戻ろうとするのは本末転倒も甚だしいわけです。
ところで、ここでは「大きな自分」という表現をしていますが、それはそのままのイメージで言っています。
ハイヤーセルフだとか大いなる自己だとか、そういう存在のことではありません。
そうした言葉には「高位」という比較イメージが付いてしまって、今この自分との距離や隔たりを感じてしまいます。
思い込みや観念が染み付いた言葉を使ってしまうと、感覚が制限されてしまいます。
ここでは意味も何も必要ありません。
単に「大きな」自分です。
自分は自分で変わりありません。
ウルトラマンが巨大化するように、心をグーンと広げただけです。
私たちは、この世界を楽しく鑑賞しています。
そしてその楽しさは、その中に身を投じることでさらに深みが増します。
だからこそ、私たちはこの世に生れてきたのです。
お祭りはただ観てるよりも、一緒になって踊った方がもっと楽しいのです。
ですから私たちは、目の前の現実にしっかりと飛び込むことが、味わいを一層深めることになります。
そして私たちは決して、天涯孤独な小さな存在ではありません。
今こうしてここに自分がいることが、その証明です。
そもそも大きな自分がいなければ、ここに投影されることはないからです。
つまり、私たちは、私たち自身に見守られているのです。
最初から最後まで変わることなく、大きな自分が全てを包みこんでいます。
この世界この球体すべてを、温かく見守っています。
天地宇宙が私たちを優しく包み込んでいるのと同時に、私たちも天地宇宙を優しく包み込んでいるのです。
ですから私たちは、絶対的に、護られています。
心から安心しきって、自分のすべてを投げ出して大丈夫です。
心をスーッと軽く、素っ裸になって、目の前に身を投じていいのです。
目の前に広がる世界へ、母なる天地へ、心からの安らぎとともに飛び込んでみましょう。
真綿のようにフカフカした母の手が、フワリと優しく温かく受けとめてくれることでしょう。
それが自分自身が望んでいることであり、喜ぶことであるわけです。
こんな人生でいいのか?という不満や疑問は、ひとまず横に置いておきます。
今はただ、他の現実もあるということを知るだけで十分です。
自分の固定観念や執着、思い込みを無くして自由自在になれば、いくらでもスキャンする角度は変わります。
それを知っているだけで、心はスッと軽くなります。
この一枚絵は、簡単に変わります。
でも、変えてやろうとする我欲や、変わるはずがないという思い込みがそれを阻んでしまいます。
ただ心を広げて、ラクになって手を放すだけです。
そして、余計なことを考えず、その一枚絵に心を集中してみます。
無邪気に一喜一憂を味わいきっていれば、一枚絵は自然に変わっていくのです。
目の前に広がる「今」は、温かくやさしい母のふところです。
すべてを捨てて、安らぎとともに、笑顔で飛び込んでみましょう。
この世界は、私たちの一歩で回りだします。
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