これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

天動説と地動説

2015-03-26 21:52:30 | 空想の世界
病院の検査機器でCTスキャンというものがあります。
X線を当てて輪切りにするあれです。
今日はそれをイメージしながら話を進めたいと思います。

物理学の分野では、次元というものをイメージする時に、一次元ずつ落として想像するそうです。
まずはそれにならって、この瞬間の「今」というものを二次元の平面としてみます。

それが重なったものは、三次元の立体になります。
この三次元の立体が、時間の塊であり、空間の塊ということになります。

イメージしやすいように、ひとまずこの立体をボールのような球体だと仮定します。
私たちが平面にいる間はその球体は円にしか見えませんが、私たちが平面を離れて三次元に飛び出しますと、この球体の全貌を見ることが
できるということになります。

それでは、その大きな球体が宙に浮いているところを想像してみて下さい。

これは、天地宇宙すべての「時間」であり「空間」です。(つまり「時空」)

その球体を切った断面が「今」です。

つまりは、時間という流れがあるのではなく、途轍もない大きな塊があって、それを輪切りにしたものを私たちは「今」と認識している
ということになります。

もちろんこれを本当の現実で考えるときは、次元を一つ上げてもとに戻さないといけませんから、その塊は今の私たちが知覚できる形では
なくなります。

さて三次元の視点から見れば、大きな球体も「今」であり、その一片も「今」であるということになります。
最初から最後まで、すべて同じ「今」です。

すると、この球体の一部である過去も未来も、全てが「今」だということになります。
二次元の平面の上にいる私たちにとっては、一つ前の平面が過去となり、一つ後ろの平面が未来ですが、平面を離れて三次元的に見れば、
同じ一つの球体なので、全てが「今」になるということです。

この球体を様々な角度からスキャンしていく行為が、私たちの人生であり、またそれが「時間」となります。

つまり「時間」というのは私たちの観察(鑑賞)の履歴や過程でしかなく、本来は「今」しか存在していないということになります。

スキャンの角度を変えることで少しずつ見え方が変わってくることを、私たちは「時間」として知覚しているということです。
これをある人は「本来この世には“時間”というものは無い」と言ったりします。

さて、その二次元の平面に、私たちは自らを投影させています。

私たちの本体は、三次元的に球体を眺めています。
CTスキャンでスライスした画像を、そこから鑑賞(観察)すると同時に、画像の中に自分を投影させているわけです。

平面に投影された自分は、今ここにいる自分ですが、三次元的に全体を観ている自分も、自分自身です。
スモールな自分とジャンボな自分がいて、それ以外にもミドルな自分や超ジャンボな自分が沢山いるということです。

それらは自分の中心を一点として、太柱で貫かれて一つに繋がっています。

それぞれ別個に分けられるものではなく、すべてが自分です。
ちょうどそれはCTスキャンの輪切り画像と、大きな球体が、すべて「今」であるのと同じことです。

そして“地に足つける”とは、この一点をしっかり保持することであり、“今に集中”とは、自分が投影されている一枚絵に心を100%向ける
こととなります。

私たちは「監督」兼「主演」兼「観客」として、作品作りにリアルタイムで参加しつつ、それを鑑賞して楽しんでいます。

ところで、平面のスクリーンの中にいる私たちにとっては、一コマ一コマがスライドショーのように移り変わっていきますので、まるで
周囲の環境が変化しているように感じます。
しかし三次元的に見ると、球体は何も変わっておらず、私たちが動くことで観え方が変わっているだけだということが分かります。
CTスキャンが動くことで、輪切りされる場所が変わっていくのと同じです。

つまりは、天動説ではなく地動説ということです。

これは「時間」だけでなく、「空間」や「事象」にも当てはまります。

私たちのまわりで起きる出来事や環境変化も、次々と発生したり変化しているように感じますが、実際は私たちの意識が動いていることで、
対象物が動いているように「見えている」だけということです。

それらもまた、大きな球体を輪切りしたスライスでしかないということです。

この世が動いているのではなく、私たちが動いている。
天地が流転しているのではなく、観察者である私たちの方が流転しているわけです。

そうしますと、私たちの心一つで人生も未来も簡単に変わるということが、実感として分かってきます。

それは「変わる」というより、私たちが見る角度を「選んでいる」ということであり、表現を変えれば自分で今を「作っている」という
ことになります。


しかしそれを、自分のまわりの事象が動いていると考えてしまうと、そんなものを変えるのは難しいとなってしまいます。
それに関わる人たち全員が自分に付き合って変わっているなんて有り得ない、と確信してしまうわけです。

時空という球体は、一つの塊として、そこにただ在るだけです。
そして、自分だけではなく他の人たちも、まわりからそれを観ています。

それを観るという行為が、同時に、自分自身をそこに投影する行為になっています。

つまり、三次元的にその球体を観ている時点で、自分自身が球体すべてに投影されているということです。
その中のすべての平面に、私たちは投影されているわけです。

ただ投影されていても、そこに意識が集中されないとスモール自分は現われません。
球体のうちの一片に心を向ける(スキャンする)ことで、そこが輪切りにされて表面が現われ、それと同時にそこに投影されている自分に
意識がフォーカスされます。
そうして私たちの目に、その平面が現実として映るようになります。

他の部分を切っても、全てに自分の姿は現われます。

ただ、平面というのはスキャンして切りとられた時に初めて表面が現われるものです。
スキャンというのは、意識がそこに集中することの喩えなので、同時に何ヶ所もの平面が表に現れることはありません。
つまり、自分の投影は無限にあるものの、平面上にいるこの自分に認識されるものは常に一つでしかないということです。

そして自分だけでなく、他の人たちもまた球体の全体を観ると同時に、そこに自分自身を投影させています。
ですから、私たちの意識を動かして角度を変えればスライス画像は変わりますし、変わった先にも他の人たちの照射された姿が映るわけです。

現実の世界でも山そのものを動かすことはできませんが、自分が動けば山の姿(見え方)も変わってきます。
「自分の動きにあわせて山以外の景色も動いてくれるだろうか」「わざわざ付き合ってくれるだろうか」などと考える必要はないわけです。

自分(意識)の場所を変えれば、人も景色も、当たり前にすべてが変わってきます。

相手のほうは変えているつもりがなくても、自分にとっては変わってるように見えるということです。
しかし、そんなの変わるはずがないと思いこんで、そこに座り込んでしまえば、本当に何も変わりはしません。

地球を中心に宇宙は回っている!と昔の人たちが考えたのを、今の私たちは「なんて自己中心的な考えだ」と思ってしまいます。
でも、自分を中心に人生(世界)が回っていると考えることの方が、もっと自己中心的と言えるかもしれません。

この「人動説」が正しいかどうかは、あまり重要ではありません。
一つの方便だと思って空想して頂ければ、そこから色々なことが見えてくるのではないかと思います。

自分を固定させたままで物事を見てしまうと、どうしてもアレコレと囚われやすくなってしまいます。

しかし、自分が自由自在な存在だと思えば、身のまわりの出来事や、誰かの言動も、様々に角度を変えて見ることができるように
なります。


そうすると自分の勝手な思い込みだけで「良い」「悪い」と見ていたものも、様々に違った見え方がしてきます。
そのほうが、心もゆったり大らかな気持ちで過ごせますし、今を深く味わえます。

また、ここでいう自己中心的がダメだというのはあくまで視点や考え方のことですので、実際の自分の中心点は自分の中にあります。
あちこち動き回るからといって、中心もアチコチ定まらないということではありません。
自分のなかにビシッと中心を置いたままだからこそ、自由自在なのです。

感覚だけは三次元の外まで広がっても、心はこの平面世界に100%集中です。
それが地に足をつけるということであり、「今」に集中するということです。

この一枚絵やそこに投影された自分が仮りそめのものだからといって、それを軽んじたり、いい加減に扱うのは間違いです。
心が平面から離れて三次元へフワフワ出ていくのは、重大な職務放棄なのです。

私たちが、何故こうしてわざわざスクリーンに出演しているのかということです。

あの頃、大勢の人たちと鑑賞しているうちに、ウズウズ我慢できなくなって、手を挙げたのではなかったでしょうか。
その中で喜怒哀楽を踊りたくて、飛び込んだのではなかったでしょうか。

大きな自分は、最初から最後まで、今も球体を眺めています。
それを忘れて、小さな自分がそこに戻ろうとするのは本末転倒も甚だしいわけです。

ところで、ここでは「大きな自分」という表現をしていますが、それはそのままのイメージで言っています。
ハイヤーセルフだとか大いなる自己だとか、そういう存在のことではありません。
そうした言葉には「高位」という比較イメージが付いてしまって、今この自分との距離や隔たりを感じてしまいます。

思い込みや観念が染み付いた言葉を使ってしまうと、感覚が制限されてしまいます。
ここでは意味も何も必要ありません。
単に「大きな」自分です。
自分は自分で変わりありません。
ウルトラマンが巨大化するように、心をグーンと広げただけです。


私たちは、この世界を楽しく鑑賞しています。
そしてその楽しさは、その中に身を投じることでさらに深みが増します。
だからこそ、私たちはこの世に生れてきたのです。

お祭りはただ観てるよりも、一緒になって踊った方がもっと楽しいのです。
ですから私たちは、目の前の現実にしっかりと飛び込むことが、味わいを一層深めることになります。

そして私たちは決して、天涯孤独な小さな存在ではありません。
今こうしてここに自分がいることが、その証明です。
そもそも大きな自分がいなければ、ここに投影されることはないからです。
つまり、私たちは、私たち自身に見守られているのです。

最初から最後まで変わることなく、大きな自分が全てを包みこんでいます。

この世界この球体すべてを、温かく見守っています。
天地宇宙が私たちを優しく包み込んでいるのと同時に、私たちも天地宇宙を優しく包み込んでいるのです。

ですから私たちは、絶対的に、護られています。
心から安心しきって、自分のすべてを投げ出して大丈夫です。
心をスーッと軽く、素っ裸になって、目の前に身を投じていいのです。

目の前に広がる世界へ、母なる天地へ、心からの安らぎとともに飛び込んでみましょう。
真綿のようにフカフカした母の手が、フワリと優しく温かく受けとめてくれることでしょう。

それが自分自身が望んでいることであり、喜ぶことであるわけです。

こんな人生でいいのか?という不満や疑問は、ひとまず横に置いておきます。
今はただ、他の現実もあるということを知るだけで十分です。

自分の固定観念や執着、思い込みを無くして自由自在になれば、いくらでもスキャンする角度は変わります。
それを知っているだけで、心はスッと軽くなります。

この一枚絵は、簡単に変わります。
でも、変えてやろうとする我欲や、変わるはずがないという思い込みがそれを阻んでしまいます。

ただ心を広げて、ラクになって手を放すだけです。

そして、余計なことを考えず、その一枚絵に心を集中してみます。
無邪気に一喜一憂を味わいきっていれば、一枚絵は自然に変わっていくのです。

目の前に広がる「今」は、温かくやさしい母のふところです。
すべてを捨てて、安らぎとともに、笑顔で飛び込んでみましょう。

この世界は、私たちの一歩で回りだします。



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「今」がスゴいのです

2015-03-01 11:50:33 | 空想の世界
以前、未来や過去そして「忘れる」ということについて書きました。
忘れるということで最大のものは、生まれる前の記憶でしょう。

私たちは、今世の過去に関しては思い出したくないことも多いのに、なぜか過去世となると興味が
湧いてきます。

どこぞの国の王様だったとか、悲劇のお姫様だったとか、ドラマチックな境遇はワクワクするものです。
そもそも映画や小説を楽しく感じるのは、自分がそれを擬似体験しているところにあるわけですから、
そういう気持ちになるのは当然なのかもしれません。
やはり私たちは、今の固定観念とは違う、未知の世界に憧れる本能があるのでしょう。
ですから、過去世というものも、映画や本を楽しむようにその一喜一憂を純粋に受け入れ、そして
後腐れなくサラッと手放すことで、初めて価値が出てくるのだと思います。
それは心が広がることへと繋がり、中心の「今」がより鮮明になるからです。

ただ、それを掴んで離すまいという執着が出てくると、たちまち百害へと一変してしまいます。
これが最も危険なところです。
とにかく、今の中心の一点から外れてしまわないことが、何にもまして重要になってきます。
そのためには、過去世へ意識を向ける時の心がクリアかどうか、そして現世へ意識を戻す時の心が
クリアかどうかがポイントになります。
映画や本のように、先入観なしの純粋な状態でスッと入って、しがみつくことなくスッと手放して、
現実の今に100%切り替えられるかどうか、ということです。

もしも、その動機が「今の人生はつまらない」「もっと華やかな世界があるはずだ」という現実逃避
だった場合、その旅は「今」をボヤけさせることにしかなりません。
そもそも今世でさえ、色々なことに囚われたり縛られたりしているのに、そこに過去世まで加わったら
いったいどうなってしまうでしょう。
囚われから逃げようとしたら、さらに新たな囚われまで背負ってしまったというのでは、目もあてられ
ません。
どのような人生でも、闇と光があるわけです。
華やかな部分だけを思い出したいというのは、虫が良すぎるということです。

そんな幻想は、現代社会に当てはめて想像してみますと、すぐに冷めるはずです。
例えば、総理大臣や有名人を想像して、それを羨ましいと思えるかということです。
もちろん、明暗全て飲み込んで、それでも代わってみたいと思う人もいるでしょう。
ただ「そんな大変なことはまっぴらだ」と思う人が多いはずです。
そして、まさにそれが、私たちが今の人生を選んできた証明にもなっているわけです。
華やかに見える有名人たちのツラい部分も想像できるということは、既に似たような人生を経験して
いるということです。
そして、もうそれは十分味わったからこそ、今度は平和な人生を歩みたいと願って来たということ
なのです。

ためしに、自分が憧れる前世というものを、可能なかぎり想像してみて下さい。
歴史上の人物、謎の古代文明人、高度に進化した宇宙人、あるいは神界の住人・・・
それらのありとあらゆる明暗を思い浮かべますと、思いは一つになるはずです。
「いろいろ大変だったろうし、いろいろ面白かったろうな」と。

面白く観える人生の裏には、想像もできない大変なことがあります。
もちろん、それをツラいと思うかどうかは本人次第です。
何の囚われもなくそのまま全て受け入れれば、ツラさなど感じないと思います。
ただ、今の私たちのように、様々な固定観念に染まってしまっている視点では、それは受け入れがたい
苦境に観えることでしょう。
進化したレベルならば、苦境から解放されて全てがハッピーなはずだと思うのは甘いわけです。
まさかそんな苦境を経験していたとは思いもしなかったとビックリ仰天です。
むしろ自ら進んでチャレンジな課題を作り出していることだってあるのです。
彼らはそれを苦しみなどとは思わず、喜びと認識しているわけです。
そしてそれはある意味、私たちの姿でもあるわけです。

このように少し想像しただけでも、華やかな人生と思っていたものにどれほど大変な苦労が伴って
いるかが観えてきます。
さらにまた、きらびやかな前世を観てしまうと、私たちの心癖としてすぐに比較が始まってしまいます。
今の世の中ですらアレコレ比較してしまうのですから、そこに派手な人生が加わったならば尚更です。
心はアチコチへと移ろって、ますます「今」に集中できなくなってしまいます。

つまり、前世が大人物だったとか、高度に進化した魂だったとか、そんな理由だけで喜んだり憧れたり
というのでは、上っ面のものでしかなく、今の中心から外れて浮き足立つことにしかならないのです。
これは、”いわゆる”平凡な前世というものであっても同じことです。
どこを観ようと思うか、どこに心奪われてしまうかで、今の現実から逃避することになってしまいます。

今の不遇を思いながら、何一つ苦労もないハッピーな前世を観ると、必ず嘆くことになります。
前世でそういう世界を堪能したらば、次は全く違う世界を選ぶものです。
それは、頭がクラクラくるほどの落差です。
今のツラさから一時だけでも逃れようと軽い気持ちで前世を観てしまったら、かえって現世のツラさが
増してしまったということにも成りかねないのです。
ましてや「今はこんな有り様だけど昔は凄かったんだぞ」と、飯の足しにもならない自己満足を後生大事
に抱えて、いったいどうして「今」に集中することができるでしょうか。

また、前世が生き地獄だった場合は、確かに今の有り難さを深く実感できると思いますが、その苦しかった
感覚を記憶したままで今世を生きることになってしまいます。
それは、現世でのトラウマやPTSDの比ではないほどツラいことではないでしょうか。
そして他の何かが気になっている限り、目の前の今だけに集中してそれを味わうことなど不可能なのです。

一方、過去世の数多くの知識や経験を覚えていれば、もっと幸せに生きていけると思うかもしれませんが、
それらはすべて人間考えの価値判断のもとで、ラクに安全に生きることだけに使われてしまうでしょう。
つまり、狭い視野を守ることに全てを費やしてしまうわけです。
それでは、私たちの囚われをますます強化させていくことにしかならないのです。
そんな人生では、いったい何のためのこの世なのかということになってしまいます。

あるいは知識や経験だけでなく、社会通念や価値判断が無意味であることも理解したまま今世に
生れてきたならば、それらに囚われることもなく生きていけるかもしれません。
ただ、その代わりに新たな苦しみを経験することになります。
考えてもみて下さい。
自分以外のこの世のすべての人が、ある狂信的な教えを信じて誰一人それを疑っていない状況を。
誰と会話をしても、根本のところが毒されてしまっているのですから、まともに通じないのです。
さらには、自分の方がおかしな人だと、まわりから白い目で見られてしまうのです。
ましてや、小さい子どもにその孤独感はあまりにも酷です。
そして、まわりと衝突せず生きていくためには、やむなくその空虚な教義に、ある程度あわせながら
やっていくしかなくなるわけです。
自分以外のみんなが酔っ払っている時に、自分もちょっと酔ったふりをしながら合わせていく・・・
それならば、最初から一緒に酔っ払って楽しんでしまった方が、何の憂いも苦しみもなく、純粋に
今に集中できるのではないでしょうか。

だからこそ、私たちは全てを忘れさせて頂いて「今」に生まれてきているわけです。

今の現実が見劣りしてガッカリというのは、全くもってトンチンカンな話だということです。
今のこの人生こそを、どれだけ望んで来たかということなのです。
平凡でつまらなく観えるのは人間の視界の話。浅い考えでしかないのです。
天地の視点に立てば、これこそが自分にとってのバラエティ豊かなドラマの一つなのです。

ありがたいことに私たちは、貴族も奴隷も、聖人も罪人も、何もかも全てがリセットされて生まれて
きています。
派手な人生、他人から羨まれる人生、あるいは石を投げられるような人生、目も覆いたくなる人生は
これまで散々やってきたし、これからも散々やっていくのです。
今それをやっている人は、まだそれをやっていなかったか、あるいは味わい尽くせてなかっただけです。
つまり、私たちの歩んできた道を、「今」歩いているだけなのです。

今は今です。
今のことをやるだけです。
別の時にやればいいことを、今やろうとしなくていいわけです。
たとえ平凡すぎる人生に観えても、これまでの何千何万の人生と比べると、どれにも似ていない人生
なのです。
それを他人と比較しても、何の意味もないのです。
どうしても自分の人生が平凡に思えて仕方ないというのならば、天地の視点で、自分の過去世と比較
した方が遥かにスッキリします。
どれ一つとして似通っていない過去世と比べると、間違いなく今の人生も独特なことが分かるはずです。
今のまわりの人たちと変わりばえしないというのは、その中に入ってしまっているから思うことです。
過去のいくつもの人生と比べると、今の人生は、めちゃめちゃ変わりばえしているのです。

私たちは今のこれこそを、心から望んで生まれてきたのです。
前世でも来世でもなく、今世なのです。
今世のこの現実こそが、今の私たちにとってのベストな姿なのです。
ですから、今が劣ったものだと決して思わないことです。


一方で、そうした「比較」とは別の理由で、現世を忌避している人もいるかもしれません。

たとえば、子供の頃に過ごした故郷の温もりを忘れらないようなものです。
とりわけ過去世の感覚を覚えたまま今世に来た人は、様々な違和感や疎外感、孤独感にさらされながら
生きるために、その思いは一層強くなるかもしれません。
そういう望郷の念はとても純粋なものだとは思います。
ただ、私たちは別に捨てられてここに来たわけではないのです。
自分で望んで、今のこの状態にあるのですから、それを嫌がってウチに帰りたいと思わないことです。
そこは早いうちに割り切るしかないのです。
孤独の殻に閉じこもらず、やけのやんぱちでもいいですから、外に出て一緒に踊ることがラクになる
ための道ですし、そもそもそれがこの世に生れてきた理由なのです。

また、生まれる前の使命だ何だというのも、思い出そうとする必要はありません。
忘れるというのは、意味があって忘れているのです。
必要があれば思い出しますし、思い出さない時は、使命どおりの流れに乗っているということです。
天地に任せていれば大丈夫なのは、今も昔も変わりません。

そもそも使命というものが、目の前の現実以外のどこかにあるというのは幻想でしかありません。
それは思い出して身を投じるものではなく、すでに身を投じているものの中にあるのです。
響きのカッコよさに惑わされてはいけません。
地味な現実から目をそらすための口実にしてはいけません。
私たちは、今の現実に生きるために、生まれてきました。
今に生きることが、使命なのです。
地に足つけることなくして、その先など無いのです。

一般的に『使命』というのは、生まれる前に自分がやりたいと思ったことです。
他の誰かから託された大きな役目なんてものではありません。
つまるところは、自分自身が自分に託したものです。
大いなる存在が自分に託したなどと思うことが間違いです。
それを言うならば、大いなる存在は私たち全員に「何もかも」託したのです。
使命とかそんな小さなものでなく、その選択権も含めて全てを最初から託しているのです。

他の存在に比べて自分が小さいと思うのは、完全に現世的な考え方です。
「自分」ということが極めて重要なのです。
重いのです。
自分という存在を矮小化してしまうと、意味をまったく履き違えてしまいます。
霊的な見地で、天地と比べてすら(ここではあえて比較を使ってます)そうなのですから、ましてや
現実世界の中でそのような間違いなどしないことです。

今の現実を100%受け入れれば、アチコチへと移り気な心は「今」に戻ってきます。
様々なことへの感謝とともに「今」に溶け込みます。
自分の思い込みや囚われが無くなれば、大河の流れは自然な「今」へと移ろっていきます。
その時その時の「今」に集中していくことが、『使命』を完遂することになるのです。
「使命」という響きから想起される華やかなものなど、味わいも何もない安っぽいものです。
自分が芯から味わえる本当の旨みは、見た目で決まるものではありません。


そしてそこから、西洋的な「すべての人々は祝福されている」ということにも繋がってきます。

私は子どもの頃、なぜ世界には恵まれない人たちがいて、なぜ自分は恵まれた環境に生まれたのか
とても疑問に感じていました。
その人たちは苦しむためだけに生れてきたのかと納得できませんでした。

でも、結局はそういうことだったわけです。
見た目で決めるものではないのです。
良い悪いという人間の価値判断など、後づけのものでしかない。
「今」を刻むことに、世界中のどんな人たちも変わりはありません。
長かろうと短かろうと、恵まれていようと恵まれていまいと、関係なかったのです。
「今」を刻むということに意味があったわけです。

因果応報という観念も、あるいは西洋的な贖罪観念も、残念ながら本質からは目をそらしてしまうものです。
可哀そうな人たち、不幸な人たち、という決めつけがスタートになっています。
それこそ余計なお世話というやつです。
結局は、自分が恵まれている、幸せだという慢心を拭いきれていないのです。

“彼ら苦労人は崇高な使命を全うしている最中なのだ”というのもおためごかしでしかありません。
意味付けや価値判断は、全て無意味です。
最初から意味なんてものは無いのです。
モヤモヤした気持ちを無くしたくて、腑に落ちる理由を探すわけですが、答えなんて見つかるわけが
ありません。
モヤモヤした気持ちというのは「何かの意味が無いと受け入れられない」という心グセが生み出した
ものだからです。
無条件に全てをそのままで受け入れれば、モヤモヤなど無くなります。

お釈迦様は、弟子たちからどんなに問われても、死後の世界を語らなかったといいます。
知ってるとか知らないとか、そういう次元の理由ではありませんでした。
人間は、現世の物事でさえ、すぐに囚われる生き物です。
遥か先の、あの世のことなどを伝えてもそれは新たな囚われにしかなりませんし、フワフワと遠く
ばかり見るようになってしまいます。
あの世が天国だと言えば、現世とのギャップに不満をこぼし、逆にあの世が地獄だと言えば、現世に
しがみついて先々の不安にばかり心を向けてしまいます。
今にとって「今」以外のことは、不要な情報でしかないわけです。
全ては、現実を苦しいものとして現実逃避をしてしまう人が出ないようにするためだったのです。

ただ、それはその時の話で、現代はその次のステップへと進む時期ではないかと、私は思っています。
それは、前にも書きましたように、日本は物質的に満たされた環境にあるからです。
肉体として生きるのに苦しくない時代になっているのですから、心をラクにする方便も変わっていくのが
自然ですし、その方が面白いのではないでしょうか。

今も昔も、目の前の「今」に集中することには変わりはありません。
ですから、アプローチの仕方を変えることにはリスクが伴います。
心を拡大させていく時に中心がどこかへ飛んでいってしまうと、かえって囚われが助長されてしまいます。
ですから、中心の「今」だけは決して無くさないことが最重要になるのです。
そうしたことを踏まえて、改めて前世へ心を広げる方便について触れていきたいと思います。

固定観念や執着・囚われが心を濁らせてしまい、目の前の景色を翳らせてしまっています。
その縛りを解くためにこそ心を広げるのですから、前世へ思いを広げる時は、固定観念も価値判断も
執着も囚われも、捨て去らなくては意味がありません。
ここまで長々と、価値判断や比較判断、現実逃避や囚われを否定して、前世への憧れに水を差すような
ことを書きつづってきたのも、まさにこのためでした。

前世へ心を広げること自体は、私は、むしろ効果的な方法だと思っています。
ただ、一つ間違えると180度効果が反転してしまうので、まさに諸刃の剣と言えます。
ですから、価値判断や囚われを捨てられない限りは、絶対にやらない方がいいのです。
正直、「今」に集中さえしていれば、そんなアプローチは全く必要ありません。

話を戻しますと、前世に興味があるならば、そのいいところだけでなく、嫌なところも全て受け入れる
ことが大前提となります。
華やかな部分だけでは、自己満足に陥ってしまうからです。
心を広げるためには、すべてを受け入れることが大事です。

そうしてすべてを受け入れると、スコーンとその方向が突き抜けた感じになると思います。
突如、壁がなくなり無色透明に広がった感じです。
前世・今世・来世を通じた広がりを、感覚として全身の毛穴で感じます。
時間の隔たりのない無限の広がりを感じることにこそ、前世や来世を追う意味があります。
そしてそこに、現世において天地との隔たりを無くした空間的な透明感も合わさるのです。

それは、縦へ垂直に貫く、時間を超えた一体感です。
そして、横へ水平に広がる、空間を超えた一体感です。

「自分」という狭い視野に縛られない、すべてから解放された状態です。
時間も空間もなく、天地宇宙へ溶け込み、あらゆる方向へ、限りなくどこまでもどこまでも広がる感覚です。
その無限のひろがりの中心に「今」があるのです。
時間も、空間も、その中心は「今」なのです。

前世・今世・来世、そして天地宇宙を貫く全ての中心こそが『今』なのです。
私たちの目の前にある今は、そういう「今」なのです。


実は、前世の細かい記憶などどうでもいいことなのです。
前世の実在を知ることで、時間の隔たりを取っ払えることにこそ意味があるのです。
ですから、前世とか小さい話はこの際、手放してしまいましょう。
この無限の突き抜け感、解放感をイメージして、天地へと全てをフルオープンにしてみて下さい。
そして感覚はそのままで、焦点を「今」に合わせて下さい。天地の中心の「今」にです。
なんだか視界がクリアになってくるのではないでしょうか。

ただ、これをこの瞬間だけで終わらせてはもったいない。

一つ一つの「今」が天地宇宙の中心です。
焦点を合わせるというのは、行動に集中することです。
ですから、時空の垣根を取り払い、天地宇宙へフルオープンのままで、

「今」の歯みがきに集中しましょう。
「今」のドライヤーに集中しましょう。
「今」の食事に集中しましょう。
「今」の心に素直になりましょう。


・・・本当に大事なことは、驚くほど近くにあるものなのです。


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忘れることはありがたいこと

2015-02-21 11:23:24 | 空想の世界
私たちは、「今」を存分に味わえるように、忘れるという能力を授かっています。
過去をいつまでも引きずらないで、今に集中できるようにとの天地の計らいです。

ただ、なかなか忘れられない思い出もあります。

あの頃に戻りたいという執着や、あの時のことは思い出したくないというトラウマがあると、心は過去に散れ散れになり忘れようにも忘れられ
なくなります。
見ようによっては、いくつにも分身しているような状態とも言えます。

今だけに心を向けていれば、過去の「今」は、時の流れとともに少しずつ薄まっていくようになっています。
しかし、その薄まっていく過去に自分の思いを塗り重ねてしまうと、今なお鮮明な記憶として残ってしまいます。

しかもこの場合、それは元の姿とは似て非なるものになっていくというややこしさがミックスされます。

実際はそこまでのものではなかったのに、思いが乗って美化されすぎたり、逆に恨みつらみで無惨に泥まみれにされたり。

そうなると私たちは、自分の創作物にしがみ付いているということになってしまいます。

そもそも、そこまで必死にならなくても過去が無くなることはありません。

忘れるという現象は、あたかも過去が消えてしまうかのような錯覚を生みますが、それはただ心の向き方の問題でしかなく、過去そのものは
何も変わらず存在しています。
いつでも私たちはそこに繋がることが出来るわけです。

ですから、忘れたら大変だとか、忘れたら冷たいなどと心配する必要はないということです。

今の瞬間それが頭に無かったとしても、心さえ向ければ、次の瞬間にはそれはすぐに蘇ります。
今の瞬間に「忘れている」ということは、むしろ今だけに集中できているということです。

そこが大事なのです。


「今」という一枚絵が隙間なく連なることで、私たちは「時間」という概念を作り出しています。

一つ一つの今は、その瞬間にしか存在していません。
それらがスムーズに差し替わることを私たちは「変化」として認識しています。

パラパラ漫画を早くやれば違和感なく受け入れられますが、今の私たちはまさにその状態といえます。
ですからそれをどんどん遅くしていけば、感覚的にこのことが分かってくるかと思います。

たとえば最近の写真立てには、デジタル画像が自動で差し変わるものがあります。
静止画が、時間とともに自動でスライドされていくやつです。
あるいは、プレゼン発表などのパワーポイント画面でもいいかもしれません。

こうしたものを想像すると、一つ一つの「今」が明確になってくると思います。

今そこに映っている静止画面が「今」の全てです。
その「今」にしがみつこうとしても、強制的に次の画面に切り替わっていくわけです。
「ちょっと待って、今のところまだ見てる途中!」と叫んでも、お構いなしに切り替わっていきます。

今の画面と前の画面とは、一から作り直された異なるものなのですが、ほとんど同じに見えるためにそのことを感じ取ることはできません。
そうしてその入れ替えを私たちは自然な「流れ」として受け入れることが出来ています。

実際にはトランプカードの全取っ替えなのですが、ほんの一部分だけのわずかな変化しか起きて無いと私たちは見なしているわけです。

とても良いと感じる一枚絵があったり、とても嫌だと感じる一枚絵があっても、静止画は強制的に
次の画面へとスライドしていきます。
あっ、と思う間もなく、次々と切り替わっていきます。
そこに執着しようにも、それが出来ないような仕組みになっているということです。

そうこうするうちにスライドはドンドンと進んでいきますので、遥か遠くへ去っていった一枚絵は、そこに心を向けようとしてもフォーカス
が緩んでいきます。
それを、私たちは「忘れる」という概念で捉えているのです。

それらの一枚絵は、今もすべて存在しています。
そこに心を向ければ、いつでも観られる。
それを、私たちは「思い出す」と言っています。

心のフォーカスが100%に近ければ近いほど、その景色も鮮明に見えるということになりますが、なかなか100%とはいきません。
そこで補正が働くわけですが、心が他の何かに囚われて本当の一枚絵に向いていなければ、それだけ補正が大きくなることになります。

心を向けるというのは、全てを向けるということです。
気持ちだけではなく、皮膚感覚など五感の全てがフル稼働の状態です。

心は時間とともに変化していきますので、他の五感まで薄まってしまうと、一枚絵そのものがボヤけていくことになります。

そういう意味では、何もかもすべてが天地に溶けあった状態になると、過去の一枚絵は、全てありのままの姿で鮮明に見えることになります。

死ぬ間際に観る走馬灯や、あるいは、死んだ後に観るかもしれない閻魔帳(閻魔画像)とは、そういうことなのかもしれません。

意識というものは色どりが付きやすいものですが「感覚」の方はそうではありません。
どのような観念に囚われようと感覚というのはなかなか変質しないものです。
ですから、感覚からのアプローチであれば過去の一枚絵へのフォーカス精度は高まるといえます。

実際、誰にでも五感がきっかけで過去を鮮明に思い出すといった経験があると思います。

草木や花の香り、食べ物の味、田舎の空気や風の匂い、肌感や手触り、街並みや家などの空間感覚。
それらが同期した瞬間、意識よりも感覚優位となり、想念や囚われが消し飛び、当時の自分、当時の世界に戻ります。

そうして、当時の一枚絵が鮮明に観える状態になると、記憶がはっきり戻ったとか、思い出がよみがえったという感覚になるわけです。

感覚や肉体というのは、心や意識よりも確実なものと言えます。
我欲の影響を受けず、状態として確立しています。


頭でアレコレ考えるよりも、実際に身体を動かして実行する方がいいというのは、そういうことでもあります。

この世では、行動こそが、今この一枚絵へ自分を刻みこめる唯一の方法です。
魂や心は、単に一枚絵を観ることしかできないのです。

”霊主体従”として、体を下位に置くのは間違いでしかありません。
魂や心も主であり、肉体もまた主なのです。
それぞれが別個のもの。
同じ一つのものとして考えるから、おかしくなるわけです。

この現実世界が光に輝いているように、この肉体も光に輝いています。
物質世界を卑下して、自分の肉体までも見下すのは、魂や心すらもフタしてしまうことになります。


さて、過去の一枚絵はすべてそのままの形で今も存在していると言いました。

ただ、当時それをどのように見ていたか、心をどのくらい向けていたか、どのような色をつけてしまっていたか…
それによって私たちの中では自分オリジナルの形で存在している状態となっています。

本来の絵がそこかしこに存在しているのに対して、そちらには目を向けず、自分の中の絵を見ているような状態とも言えます。

ですから、自分が見方を変えることによって、その一枚絵の景色(見え方)も変わってきます。
自分の心の純度・濃度によって、少しずつ変わっていくわけです。
それが「過去は変えられる」という意味になります。

これは比喩ではありません。

私たちにとって、そのように見えるものは、間違いなくそれが現実です。

たとえば何人かで同じ景色を見ていても、誰一人として同じものには見えていません。
それは、それぞれの想念や観念といった囚われがフィルターとなって、心を様々に彩っているからです。

ですから、今の私たちに見えている過去の一枚絵は、私たちにとっては本当にそれが現実です。
だかは、その景色が変わるということは、実際に自分の過去が変わるということになるわけです。

本当は、私たちがどのように見えているかということに関係なく、一枚絵は最初の姿のままで存在しています。
その一枚絵のありのままの姿というのは、光り輝くものであります。

それは、天地と溶け合い無限に広がった状態、すなわち天地の心になった時に感じられるものです。
視覚の次元ではなく、その中に溶け合っている状態であるため、それは観るのではなく、感じるということになります。

映画「レインマン」の題材にもなったサヴァン症候群の中には、過去に一度見た光景をまるで目の前にあるかのように鮮明に記憶している能力が
あります。
これなどは、本当に過去の一枚絵を、いま目の前で見ているということではないかと感じます。

何らかの方法で、その時の一枚絵に、自分の全てを100%向けている。
完全にその絵に溶け込んで一体になっている、ということではないかと思います。
サヴァンとは違いますが、未来や過去を観れる能力もこれと同じ理屈かもしれません。

過去が一枚絵として残っているということは、そこに繋がっているパーセンテージが、「記憶」に関係しているのではないかとも言えます。
そうなると、記憶は頭の中ではなく、頭の外(空間)に存在しているということになります。

そうなると老化とともに記憶が薄れてくるのも、過去へのリンクがうまく行かなくなっていると考えることができます。

また、直近の記憶は忘れてしまうけど昔の記憶は忘れないという現象は、今の自分より、当時の自分に理由があるのかもしれません。

活力溢れてた頃は、様々な五感鋭く全ての感覚で一枚絵をしっかりと感じていたので、いわば画素数(情報量)の多い状態となっており、
年老いて意識からのリンクするが弱まっても、五感でもって身体全体でその景色にリンクすることができる。
若い頃は肌感覚を開放させて景色に接していたため、年老いても感覚優位でそこに同期しやすいということなのではないかと思います、


さて、過去の次は未来です。

こうして連綿と連なる過去に対して、未来もまた無限の一枚絵が存在しています。
ただ未来に関しては、全方向にあらゆるパターンの一枚絵が存在していると言えます。

どの一枚絵にも私たちが描き込まれていて、そのうちのどれか一枚に、私たちの全て(心と魂と感覚)が向くことでそれが「今」となります。

これは、私たちの行動が刻まれることで一枚絵が完成するともいえますし、すでに描き込まれている一枚絵のうち、どれに心を向けるかで
それが行動の刻まれた現実になるともいえます。
いずれもどちら側から見るかの違いであって、どちらも同じことを言っています。

そして、世の中にはこうした仕組みを踏まえて、自分の望む形を強くイメージしてそこに心を向けることで現実化させるというテクニックが
あります。
心だけでなくその他のこともそこに向かなければ現実にはならないため、1%や2%といった弱い状態から、少しずつ10%、20%と積み上げ
て確率を上げていくわけです。

ただ、こうしたテクニックは明らかに囚われや執着を強化させる危険があるので、あまりお薦めできません。

過去の景色でさえも、私たちは曇った目でしか見られていないように、未来の場合も、狭い視野でしか見えていないからです。

仮にテクニック的なことで想いが実現したとしても、そこに我欲が入ってしまっている時は、その種を蒔いてしまうことになります。
自分の視野には夢描いたものが現実化しているように映ふかもしれませんが、その視野の外、つまり見えていないところでは種が育っていくと
いうことです。

蒔いた種は、自分で刈ることになります。

その芽というものは、見えていなかった場所に目を向けさせるためのものであり、視野を広げさせるものですから、否定したり忌み嫌うもの
ではありません。

囚われという重荷をおろすために、心を広げ、軽くしてくれるもの。まさにお陰様です。

ですから、ぶっちゃけ、この一連の流れに良いも悪いもなく、ただ世の中うまく出来ているということでしかありません。

要は、虫のいい話などないということです。

囚われを無くすにも色々な道があります。
エネルギーを送らないようにして執着を小さくしていく道もあれば、逆に、そこにガンガンと栄養を注ぎまくって破裂させる道もあります。

前者は、大ケガはしないけども根治するのに時間がかかるものですし、後者は、大ケガ一発で根っこから治るかもしれませんが、最後のギリギリ
のところでさらに酷い執着へ飛び移って逃げるというリスクもあります。

あとは好みの問題です。

いずれにしても執着に囚われ続けると、何も見えない何も聞こえない世界から抜け出せなくなってしまうので、私たちの芯の部分がそれを
どこまで耐えられるかということに尽きます。

人間考えの狭い視野に固執せず、天地にまかせてまだ見ぬ世界に飛び込んだ方が、ずっと楽しめるのが事実です。

私たちの目には、一枚絵の全景は見えていないものです。
見えているつもりになっていても、やはり、それは一部でしかないのです。

天地の心になって、目の前の「今」をそのまま受け入れますと、これまで見えていなかったものが見えてくるようになります。

過去の一枚絵は全てそのまま存在していますし、未来の一枚絵もそのまま存在しています。

ですから、心配しないで全て手放していいわけです。

この、前後左右上下に広がる無限の時空のなかで、今の私たちはその中心にいます。

それを全身に感じることが、目の前の今をより深く味わえることに繋がっていきます。

そして、それら無限の一枚絵をスライドさせているのは天地の力です。
私たちの目には見えない、数多くのお蔭さまです。

この大河に乗って、数々の一枚絵が、私たちの目の前に現われます。

その流れに逆らい、ガリガリ(我利我利)と自分好みの一枚絵に辿り着くこともあるでしょう。
あるいは、不安や恐れに手足を丸めて、川の底に沈むこともあるでしょう。
そしてまた、何かの一枚絵にしがみついて、激流の水しぶきに苦しむことだってあるでしょう。

そのどれもこれもが、尊い経験に変わりありません。
どれが正解ということはないわけです。

ただ、もしも私たちが、もっとこの世界を面白く感じたい、もっと楽しみたいと思うのならば、大河の流れやお蔭さまの存在へ心を開いていく
のがいいということです。

私たちの視野を遥かに上まわる、天地の視点にまかせれば、より味わい深い一枚絵が姿を現わす
ことでしょう。
そして、その一枚絵に対して100%フルオープンの天地の心を向けることができれば、さらに深い味わいを得ることができるわけです。

ですから、行き着くところは同じになります。

ご先祖様や天地宇宙のお蔭さまに感謝し、「今」に集中する。

それが、この世界を最大限に楽しむための秘訣です。

天地は、素直な子どもには最高の遊び場所をプレゼントしてくれるということです。



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ふつうが一番!

2015-02-01 20:44:02 | 空想の世界
私たちというのは、自分の観たいものしか見えませんし、聴きたいものしか聞こえません。

実際の現実がどうであるかに関わらず、自分の目に映るものしか観えませんし、聴こえません。

意識的にそのようにしている場合もあれば、無意識のうちにそうなっている場合もあります。
前者であれば、意識を切り替えれば焦点が変わりスルーしていた景色も観えるようになりますが、後者はいくら意識を切り替えても観えない
ままです。

後者についてそれを妨げているのは、固定観念や社会通念、囚われや我欲です。
ノイズが入ると画素数が落ちて、ついには見えなくなるのと同じ理屈です。

そもそも視覚とは、電気信号が脳内で再変換されて作られるものですから、無意識の雑味が影響してくるのは当然と言えます。
インプットデータが途中から歪んでしまう場合もあれば、元の情報はクリアなのに、受け取る側の無意識の好き嫌いで門前払いしてしまって
いる場合もあります。

一部が欠落した状態でデータが入りますと、自動補正により架空の情報が補完され、結果として自然な姿形となって映ることになります。
この自動補正については無意識のうちに処理されるものなので、補正されたことに自分で気づくことはできません。
そして実際に目の前にちゃんとした映像があるため、それを信じてしまって疑わないということになります。

それはちょうど錯視のようなものです。
錯視とは、同じ色にも関わらず、違う色に観えるといった現象です。
これなどは、何かとの比較により無意識のうちに勝手な補正が働いた結果であるわけです。


私たちというのは、現実を有りのままに観てはいないということなのです。

それは視覚的なものに限らず、思考的なものにおいても日常的に起きていることだと言えます。

現実の出来事に対しても、一の情報に対して十の補完がされてしまい、実際のものとは違う形となって認識されてたりするということです。

そして錯視と同じように、自分にとって本当にその通りの姿に映るために、それを疑ったりリセットして真っさらに見直すというところまで
思いが至ることはないわけです。

私たちの固定観念や思い込みというのは、それほどまでに厄介なものということです。

自分の観ている映像が正しいか正しくないか、本物なのか思い込みなのか、それを自己確認するのは非常に難しいことだと言わざるを得ません。

怒りや喜びといった感情によってテンションが上がってしまった時、それを手離して、映像について冷めた目で見ることができるか。
それしかないわけですが、すでに思い込んでしまっている状態からそこまで持っていくというのは途轍もなく困難なことでしょう。

だからこそ審神者(さにわ)という存在が、とても大切になってまいります。

審神者というのは、古代の神道において祭祀で受けた神託を解釈する役割の人です。
主に巫女が神託を受け取る役目を担い、その神意を解釈する役目を審神者が担っていました。

もともと目に見えない存在からの言葉であるため、その真実性というのはとても危ういものでした。
そのため、それを受けた人間のフィルターを通して歪んではいないか、あるいは降ろした存在自体が悪神でないかどうか、それを第三者的に
判断したわけです。

さて、現実世界そのものがすでに人によって見えかたが違っているという話をしました。
先ほどのイラストのように、実際の映像(認識)として本当に違っているわけです。

そうなりますと、既成概念にないものは見えないという話にもなってきます。
極端な話、神様やUFOが現れても、見える人と見えない人に分かれるかもしれないということです。

そこまで極端でなくとも、固定観念によって目に映るものが実際に異なってくる。
固定観念には個人差がありますので、見えるものが違うのは当たり前ということになるわけですが、それでも出来れば真実に近い姿を
そのままに見たいものです。

それでは私たちが日頃過ごしていく中で、この思い込み画像というものを、どのようにして審神者に計ればよいのでしょうか。

答えは簡単です。
映像に間違いがないかを計るには、他の映像と照合すればいい。
私たちの映像とは違うものが見えている人たちに協力を頼めばいいということです。

つまり、私たちのまわりのあらゆる人が、私たちの審神者であるわけです。

私たちとは違う意見、違う判断、そういうものに対して真摯に耳を傾けていけば、自ずと私たちの囚われも薄まっていくということです。


無意識が切り替われば、観えるものは変わります。

固定観念に縛られなくなるほどに感性は細やかになり、広がりを持つようになっていきます。
味わいの深さや広さが変わっていくわけです。

子供の頃は、固定観念も社会通念もないため、同じ一枚絵でも大人の見えていないものを観ています。
それは、世界がキラキラと輝いていた理由の一つであるということです。

今この世界をよりクリアに見たいという純粋な思いというのは、幼い頃の原体験に因るのかもしれません。


さて、意識や無意識の違いで見えるものが変わってくるということは、世間一般と固定観念が違えば世界の見え方も違ってくる、視野がズレて
くるということでもあります。

いわゆる能力者という存在は、巫女のような役割の場合もあれば、単にズレているだけの場合もあります。
ただ、どちらにしても普通の人たちと何か違って特別ということはありません。
よくある話ですが、そうした人たちを特別な存在として上座に置こうとするのは誤りです。
誰もが等しく尊い存在であるわけです。

大昔はそのような人たちは、一般の人たちと暮らしを分けられていました。
もちろん畏れ多いということもありましたが、現実的な問題として、お互い一緒に暮らすには
ズレが大きすぎるということがあったからです。

その一方で、共通意識からズレた視野を維持させるために、あえて人里離れて暮らしたということもあったでしょう。

以前に書きましたが、宮崎駿監督は映画作りの佳境に入ると日頃は閉じてるフタがパカンと開いてしまって、のちのち現実生活に戻るのに
大変苦労したといいますが、まさしくそれはそういうことだったのではないかと思います。

一種の能力者と言えるような人たちもまた、普通の人とは違う苦労をしているわけです。

もしかすると逆に、私たちに見えているものが見えていないことだってあるかもしれません。
宮崎監督が言っているように、社会とズレてしまって適合障害に陥っていることだってあるのです。

良さげな一面だけを見て憧れるのもいいでしょうが、それだけでその人の全てを過大評価してしまうのは短絡的ですし、そもそも失礼です。
それは単なる思考放棄でしかありません。

この世では誰もがみんな苦労を抱えています。

IQの高い人だろうが、超能力者だろうが、進化した宇宙人だろうが、神様だろうが、みんなそれぞれの苦労があるわけです。
ただ、それを私たちの考えるところの「苦しみ」と捉えているかどうかはまた別の話というだけのことです。

幾つになってもそれ相応の苦労が訪れることは、私たちも経験的に知っていることです。

たとえば部活を始めた頃は、先輩たちがスイスイやってる姿を見て、自分も上手くなれば苦労が減ると思ったものです。
でも当然ながら、その立場になればまた新たな苦労を抱えることになりました。

どこまでレベルアップしてもそれは同じ。
むしろ上になるほど苦労は増えるものです。

会社でも、汗水たらして働いていた若手の時に、私たちをアゴで使っている部長は楽チンだろうと思ったわけですが、実際その立場になると
想像もしなかった苦労を背負うことになるのです。

自分よりも上だからハッピーだろうと羨むのは浅はかな発想でしょう。
どの立場になろうとも、一所懸命に「今」に集中すること、させられることに変わりないのです。

上も下も無いということです。

ですから、普通とは違う能力があっても、それは単にイレギュラーというだけのことで、決して優秀ということではないわけです。

比較しようとする心癖は本当に厄介です。
憧れという根っこがどこにあるのか落ち着いて見てみますと、依存か優劣という比較意識が隠れていることが多いものです。

誰かに自分の今を改善して欲しいという思いは、相手の方が上だという解釈から生まれます。
相手を上に置くにせよ、自分を卑下するにせよ、依存というのは比較意識でしかないわけです。

「あの人のように自分もなりたい」という憧れにしても、それがその空気感や雰囲気を指しているのならば別ですが、単に見た目の姿形や
立ち位置を指しているのなら、それは比較意識でしかないということです。

人より特別な存在であるとか、人より上だという気持ちは、つまらない比較意識の賜物でしかないのです。

そもそも比較というものは、どこまでいっても満たされることはありません。
なぜならば、その尺度が自分の外にあるからです。
お金を持つことが目的になると、どれほど大金持ちになっても満たされることがないのと同じ理屈です。

そもそも、見えないものが見えたとしても、それ自体に何の意味もありません。
正直、見えたって見えなくたって、関係ない話なのです。
物心がつく前はみんな見えてたのですから、今さら大騒ぎする話ではありません。

そんな即物的なことよりも、雑念を捨てて身軽になった方が遥かにラクで楽しい日々を暮らせます。

無意識のゴチャゴチャしたものが静まって清らかになれば、爽やかに風が吹き抜けます。
結果として、それまで考えられなかったような景色や味わいが現れてきます。

大病が一夜にして治ったという話や、傷が一瞬で消えたという話は、囚われが微細な結晶となって天地へと昇華して、瞬時にして霧が晴れた
結果であるわけです。
それをまた特別なことだ、凄いことだと大騒ぎすると、話が捻じ曲がってしまいます。

様々なお陰さまに心から感謝することはあっても、見た目の奇異を追うようなものではないということです。
それこそ、おかしなものを呼び寄せることにしかなりません。

自分の外に何かを求めなくても、今しがみついているものを手放せば、世界は変わります。

傷や病気のように、見えていたものが見えなくなったというのは、裏返せば、見えていなかった
景色が見えるようになったということでも
あります。
まさしく傷の無い景色、病気の無い景色が映ったわけです。

数ある一枚絵の中からそれを選んだ結果とも言えますし、魂とその他のお蔭さまが高い視点からその一枚絵に向かわせたとも言えます。

決して、自分の外にある奇異なことや特別なことが自分の世界を変えたということではないわけです。

そしてそれというのは、条件が揃ってそのようになった、「結果」でしかありません。
もしもその結果を初めから求めて、それを期待しながらやってしまうと、そもそもの前提条件が崩れてしまい、成るものも成らなくなります。

結果や上っ面に執着してそれしか見えなくなってしまうと、有形無形の邪気が介入する隙を与えてしまいとても危険です。

天地とは違った視点からの介入、つまり禍々しい存在が関わりますと、見た目の結果、上っ面だけを強引に持ってくるものです。
キズぐちに肌色の絆創膏を貼ると見えなくなるのと同じで、見ため華やかな現実を貼っつけて「今」を見えなくさせてしまうわけです。

これは、病気やキズに限らず、ご利益全般に言えることです。

奇異を求める心とは、普通ではないこと、つまり特別なことを求める心です。
それは限定商品という響きに高揚感を覚えて、ホイホイ飛びつく行為と何ら変わりません。

それは比較意識であり、優劣意識そのものであるわけです。

しかしながら、そのように私たちが見た目の誤魔化しに騙されてしまっている時でも、お蔭さまや自分自身は、様々な手を使って元の道に
戻そうとします。

そうした時、本来の状態と今とのギャップが大きいほど、その揺り戻しは激しくなります。

すっかり騙されている時はその状況を幸せだと思い込んでいるため、そうした揺り戻し作用が起きると必死に抵抗してしまいます。
しかしそれというのは、自分を護ろうとしている存在と綱引きを繰りひろげていることに他ならないわけです。

実に馬鹿馬鹿しい話ですが、そうまでして多くのお蔭さまは私たちを守ってくれているということです。

にも関わらず、それでもなお駄々をこねて耳を塞いでいると、ついにはお蔭さまも何もできなくなってしまいます。
そうなると私たちは、最早あちらの世界へ一直線となります。

崇高な存在は、私たちを見守ることしかできません。
かなり強引な手を使ったとしても、少し離れた所にヒントを置くくらいです。

本人の意思には手を出しません。
それこそ何をするのもオールOK。
すべてを見守り受け入れる天地の心とはそういうものです。

この世は、最初から最後まで、私たちが全ての決定権を持つわけです。

ですからそもそも外部に何かを求めるのは、その原理に反する無駄骨でしかないということです。

その天地の原理を無視して直接的な形で私たちの決定権に介入してくる存在があれば、その多くは
天地の心ではない存在ということになります。
つまりは、我欲に濁った存在ということです。
有形無形を問わず。
人であっても、人ならざる者であってもです。

ただし、私心なきままに直接的な介入が許されるケースもあります。
それは、親子愛やそれに相当する場合です。

我が子が盲進しているのに、それをそのままにするということはありません。
我欲の濁りなく透き通った心のまま、頬を叩いてでも直接介入するものです。

介入の動機が透明なものであれば、それは天地の心と何も矛盾していません。

そういう意味では、直接行動が出来るのはこの世だけの特権と言えるでしょう。
そのために私たちはこの世に生まれてきたとも言えます。


さて、先天的に能力のある人は、天地から何かしらのメッセージを受け取ることがあります。
それは極めてレアなケースで、基本そういう人は正体をバラしませんので、居ないものと考えたほうが正解です。
人知れず想像もつかないような御苦労様とお陰様に、頭が下がるとともに心から感謝です。

一方、後天的な場合でも稀にそうしたことはあるでしょうが、そういう人は得てしてそうしたものを拒んでいるものです。
自ら奇異を求めているような心根で、純粋な存在が現れるようなことはまずありません。
むしろ危険が大きすぎます。

おまけに不純な存在は、当然ながら、純粋そうな姿で現れます。
純粋な存在こそ恐ろしい姿で現れると言ってもいいでしょう。

なぜそのように振る舞うのか、そこにこそ本質が表れているわけです。

人間社会でも、おいしい話の裏には怖い人が居るものです。
最初はニコニコ優しそうに近づいてくるのはよくある話です。

どうしても見た目に惑わされてしまう人は、君子危うきに近寄らずです。
上っ面を求める人間は、赤子の手を捻るように簡単に騙せます。
私たち人間同士でもそうなのですから、いわんや人間以外の存在をや、です。

自分の中心にしっかりと太柱を立てて、上っ面など追いかけず、お天道様の下を堂々と歩くのが一番です。

そもそも天地の心を持つ存在は直接的な指図はせず、内発的な形で啓発します。
自分の胸の奥にポッと小さな火が灯り、ジワーッと広がるようにです。

それはサーッと風が全身を吹き抜けるような感じで思いが伝わってくるかもしれませんし、濃縮エッセンスがポーンとくるかもしれません。

いずれにしても聖書や精神世界にあるようなド派手なものではなく、普通に自問自答だったり、ふと頭に浮かぶようにして現れます。
ことさら変わったものでもなければ、特別な感じも全くないでしょう。

まず、それとは分からないくらいの日常の一瞬と言えるようなものです。
いわゆる能力者というのは、その現れ方がほんの少しズレているだけと言ってもいいかもしれません。

もしもわずかなズレもなく精度100%となれば、まるで自分自身で思いついたような感覚となるでしょう。
つまり、わざわざ奇異など求めなくとも、誰もがすでに高次からのメッセージをキャッチしているということなのです。


しかも間接的な啓示に比べて、遥かに精度の高い形で。

当たり前だと思っていること、普通だと思っていることが、実は凄いことなのです。

そのようなことが分かった上で、手品を楽しもうとするのであれば、おかしな存在に騙されることも無いでしょう。
楽しんでいると自覚している時は、決して鵜呑みにすることはないからです。


そもそも自問自答であろうと、巫女的な神託であろうと、メッセージというのはどれも自分の内から出てくるものですから、自分の中を通る時、
当然ながら自分の色がつきます。

濃縮還元でメッセージが来る場合なども、10倍や100倍に薄める作業の中で、自分の固定観念や思い込みの影響を受けてしまいます。

口寄せの形であっても、あるいは耳に聴こえる形であっても、自動書記の形であっても、映像で観る形であっても同じことです。
特に映像などは、この現実世界の物理学においても錯視が働くのですから、目に見えない世界からの受信となれば錯視が働かないはずがないと
言えます。

ですから、自分の知らないことが出てきたからといって、それがそのまま天の声だとか、真実であると決めつけるのは気が早すぎるという
ことです。
自作自演に喜んでしまうと、せっかくの真実までも取りこぼしてしまいます。

純粋なものは10%残っていればいい方で1%も無かったりします。
いや、自分の場合は50%だ、90%だとムキになっても、それこそ我執でしかありません。

本人も、周りの人も、鵜呑みにしすぎて自分の中心を失ってしまわないことが大切です。

それはそれとして「ふーん、そういうこともあるかもネ」くらいでちょうどいい。
「これは超貴重なレア情報だから有りがたい」なんてのは完全アウトなわけです。

だからこそ、昔の人たちは審神者を置いたのです。
巫女と審神者を同一人物にやらせてしまうと、脱線の危険があるからです。

ですから、誰か他の人を審神者として、自分は頭を真っ白にして謙虚にその意見を聞くのがとても大切ですし、もしそこに第三者がいなければ、
自分の中にもう一人の審神者を置くのが良いわけです。

それは、自分が巫女役の場合も、あるいは、聞き役である場合でも共通することです。

ピンと来なければその時点で自分には縁の無い話ですし、オッと心が反応したならそこだけをつまみ食いすればいい。
無理して全部を食べる必要はないわけです。

それは決して不敬でも何でもありません。
馬鹿にするのではなく、楽しむのです。

私たちが純粋に楽しんでいる姿を怒るような存在は、取りも直さず我欲の存在でしょう。
それこそ、恐れずノーです。
怖い人は、物怖じすればするほどズルズルと絡みついて来てしまいます。

とはいえ、もともとの動機が不純だった場合は、毅然としたノーは危険になりかねません。
たとえ相手が我欲の存在であったとしても、その相手が悪意をもって近づいてきたわけでなく、こちらが引き寄せたものだからです。

そのような場合は決して軽んじず、お詫びとともに心から感謝することが必要となります。

本来の天地というのは、ただ見守るだけで、直接的な手助けは絶対にしません。
ひたすら優しく見守っています。
手を出せるのは、天地の心とは違う存在です。

ご利益を求めてアチコチに手を合わせに行っているにも関わらず、何も叶わなかったとしたら、それはお蔭さまが全力で護ってくれていることに
他なりません。


私たちの自然な変化というのは、私たちの内側からしか起こりません。
そしてお蔭さまは、そのサポートを惜しみなくしてくれています。

自分の外側から起きる変化というのは、天地宇宙とは相容れない、不自然なことなのです。

火遊びは早いうちに断つのが鉄則です。
万引きやクスリというのは、最初はみんな軽い気持ち、好奇心や出来心からやってしまいます。
そして気づかぬうちにズブズブと深みにはまっていきます。

面白そうだ、刺激が欲しい、気分転換になる、心がラクになるかもしれない…
そういう軽い気持ちで超常現象に頼ろうとするのはとても危険なことです。

そして、さらに危険なのは本当に結果が伴ってしまった場合です。
それは極めて深刻で、考えただけでゾッとすることです。
呑気に喜んでいる場合ではありません。

但し、奇異というものが全てダメかというとそうではなく、それなりに効を奏する場面もあります。
しかしその場合も、自分の中心点だけは絶対に1ミリも動かさないことです。

中心は自分に置いて、視野を広げるように観ることが大前提になってきます。
効を奏するといっても、本来は劇薬であることに変わりありません。

漢方にもあるように、毒草も微量ならば薬になるという、あれです。

分量を間違えれば完全に毒薬ですし、そもそも世の中にはたとえ微量であっても身体を害する毒草の方が圧倒的に多いものです。
それだけのリスクを胆に銘じた上で、自分の中心にガツンと太柱を立てれば、大怪我は少なくなるでしょう。

さすがにそこまでして危ない橋は渡りたくないという場合は、天然由来の漢方薬もあります。
それは「趣味」です。
あまりにも身近すぎて拍子抜けするかもしれませんが、その効果はなかなかのものです。

ここでいう「趣味」というのは習い事に限らず、旅行でも何でも、とにかく日頃の生活パターンとは違う状態になるものを指します。

固定観念というのは、いつもと同じ生活環境、いつもと同じ人間関係の繰り返しによって強められていくものです。
決まり切った日常に新しい風を吹かせれば、分厚く覆われた雲にも晴れ間が生じます。

もちろん、慣れ親しんだ日常とは別世界ですから最初はストレスを感じることでしょう。

ただ、そのストレスは今までの景色とのギャップから生じるものです。
そこでウンザリするのではなく、まさにそのストレスこそがこれからラクになれる保証だと思った方がいいでしょう。

新しい世界では、今まで見たこともない価値観に出会うかもしれません。
そうした刺激が変化を呼び、気分転換となります。

今もし何かに心惹かれているならば、わざわざ劇薬に手を出さなくても十分なわけです。

ただ、たとえ天然由来であったとしてもそれはお菓子やデザートでしかなく、主食にはならないことを知っておかなくてはいけません。

私たちの命を生かすものは、今ココでしかありません。

世の中には酒に強い人もいれば弱い人もいます。
ちゃんとした大人は、自分のことを理解した上で、お酒を楽しみます。
しかし中にはアルコールや雰囲気に飲まれて、自分の中心を放り捨てて前後不覚になる人もいます。

自分の中心が定まっていれば、そのようなことにならずに楽しむことができますが、世の中には、その前後不覚の状態を好んで求める人も
いるものです。

精神世界や超常現象、あるいは健康的な趣味の世界であっても、度が過ぎるとこうした宴会と同じであるわけです。

私自身、飲むのは好きです。
日本の神様も、車座になって宴会を楽しんでいます。
要するに、楽しみ方の問題ということです。

昼の生活がつまらないためそのストレスを夜に爆発させる人が居るとします。
夜な夜な大宴会を繰り広げて大騒ぎです。
そして昼間は魂が抜けたように静かになって、ひたすら夜が来るのを待っているという感じです。

こうなると、もはや現実逃避することが日々の勤めとなってしまっています。

ここでの昼とは現実世界のこと、夜とは精神世界あるいさ趣味のことを指しています。

昼には仕事や家事に集中して汗をかけばこそ、夜のビールが美味しく感じるものです。
昼の苦労があるから夜の飲み会が一服の清涼剤になります。
悶々を晴らして、翌日に全力投球です。

私たちの住む世界は、この昼なのです。
日の当たる、表の世界なのです。


夜は家に帰ってメシ食って寝るだけです。
本当のところは飲み会なんて無くても済むわけです。
ただ、たまの息抜きくらいならば、頭がほぐれて明日への活力になります。

酒乱のケがあったり、前後不覚になる怖れがあったり、乱痴気騒ぎが苦手ならば、最初から宴会に
参加しないことです。
お酒も適量を超えると毒でしかありません。
飲み会は、節度を保って楽しむものです。

ですから、心の切り替えというのがとても大事になります。
宴会のノリのままで会社に行ってしまうと、まわりはドン引きでしょう。

精神世界と現実世界。
あちらの世界と、日々の暮らしとは別のものです。

目がどこかイッちゃってる感じにキラキラ輝いて、フワフワ浮き足だった歩いている姿が、果たしてマトモに見えるでしょうか。

自分の中心がしっかり今に定まっていることが肝心です。
感覚をフルオープンに広げたあとは、地に足つけて、目の前の仕事に集中するだけです。

「普通」という概念は、まわりとの比較で決まるものではありません。
地に足つけ、今ココを中心にして上下左右に偏りのない状態こそが、本当の「普通」です。

他人との差異ではなく、自分の中心からのズレこそが、「普通」か「普通でない」かの分かれ目になります。

私たちは、数多くのお陰様のおかげで日々を平穏無事に過ごせてます。
落ち着いた景色だからこそ、振り回されることなく色々なことに集中することができます。

普通であるというのは、本当にありがたいことなのです。

私たちは、今この景色を味わうために生まれてきています。
わざわざ振り回されるために特異な景色を求めるなんて、おかしな話です。

もう火遊びに喜ぶ年齢でもないはずです。

普通が一番。

特別になろうとする必要などありません。

素直で清らかな心にあれば、それだけで爽やかな風がサーッと心地よく、私たちを吹き抜けていくことでしょう。




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