今度の日曜日は参院選です。
与党だ野党だ、改憲だ増税だ、トランプだ韓国だと、私たちの日常からとても遠い世界のことばかりに映ります。
でも普段ならば遠い話であったとしても、私たちがしっかり参加できる最大のチャンスが今ここにあります。
参加というのは文字通りの意味の「参加」です。
それは私たちが共に作り上げていくという意味もありますが、より正確に言えば、どの道・どの世界を選択するかという意味での参加です。
「たかが一票で何か変わるもんか」というのは得票数だけを見た捉え方、つまりこの世の一面だけを切り取った見方に過ぎません。
全体の中での自分という見方ではなく、自分を中心に置いたこの世という見方をした場合、全く違った世界が現れます。
私たちの一票というのは、票数という切り口からすれば何万人分の一でしかありませんが、行動という切り口で見た場合は、二分の一という超
どデカいものとなります。
つまり「投票をした」か「投票をしなかったか」の二つに一つになるわけです。
そしてその切り口で見た場合、開票が始まる前にすでに事は済んだことになります。
「たかが一票、行っても行かなくても変わらない」というのは、何処を見て言っているのかという話です。
行動ということならば、一票を投じた時点で、世界は変わっているのです。
もし投票に行かなかった場合は、世界が決まっていくままに任せたことになりますから、つまりはハンドルを手放して川の流れに流されていくこと
を選択したことになります。
一方で、投票に行った場合は、しっかりハンドルを握って、いくつも存在する流れの中の一つを自ら選択したことになります。
仮にその開票結果が表層意識の期待に反するものに終わったとしても、それは集合意識の創造世界からいきなり三段跳びにジャンプすることを良し
とせず、その世界を選ばなかったというだけの
ことです。
ハンドルを放しっぱなしかシッカリ握ったかというのは、それとは別の話です。結果は関係ありません。
私たちは、日常生活において安心安定を望んでいるため、常日頃、集合意識の大流から乖離しないよう自らをそこにロックオンさせています。
結果が大きく変化した世界に着地できるかどうかというのは、その日頃のロックオンを選挙の時に突然外せるかどうかという、そこの話になります。
「結果が変わらないのは明らかなら行っても仕方ない」「だから行かない」というのは本末転倒です。
投票に行く理由として、結果を求めるからこそ行くのだというのは確かに一理ありますが、行くことによってすぐさまジャンプの度合いが無制限に
解放されるわけではありません。
ジャンプの度合いによってどの流れを選ぶか変わってきますが、その度合いを決めているのもまた私たち自身です。
ですから、行くことがすなわち必ず100の変化に繋がるということではありません。
しかし、行ったのならば必ず1以上の変化は起きています。
行かなかったら、確実にゼロです。
今お伝えしようとしているのはこのことです。
結果が大きく変わるか変わらないか、という話とは別のこと。
ハンドルを自ら握るか、相変わらず放しっぱなしのままにしておくか、そこの話です。
もし結果にこだわるならば、日常の無意識ルーチンの束縛から自らを引き剥がすことによって三段跳びの変化を選ぶことができます。
しかし、そもそも1も出来ていない状態からいきなり100を求めてもそれは無理な話です。
と、そこで「なんだ変化しないんだったらやるだけ無駄だ」と言うのは「なんだ100が無理ならゼロのままでいいや」というのと変わりありません。
それではカゴの中の自縄自縛を自らOKしたことになるだけです。
「投票」という実際のアクションは、ハンドルを握って自ら選択している状態です。
違いが感じられなくとも、昨日までとは違う世界を自ら選んだわけであり、目には見えない変化が確実に起こっています。
まわりの景色が変わらずとも、私たち自身がこれまでとは変わっているわけです。
それは、景色が変わったか変わらないかということよりも遥かに大きなことです。
世界というのは私たちによって選ばれるものに過ぎません。
そうしたものの上っ面が変わるかどうかなんてことよりも、私たち自身のアクションが変わることは根幹そのものが変わることを意味します。
それに対して、「どうせ変わらない」と考えて投票を放棄した場合、それは必ず「やはり変わらなかった開票結果」となります。
目に見えて分かるような変化が起きないなら、そんな死票の骨折り損はしたくないと思うのが人の世の常です。
しかしそのような表層だけを見て、無駄な労力を割くのはもったいないと考えることこそ、逆にもったいない話です。
損得勘定に頭を奪われると、自分で自分を縛ることになってしまいます。
「たかが一票」という捉え方は、今この日本に居る人たちがずっと変わらぬ同乗者であるという思い込みに依るところが大きいかもしれません。
今この瞬間を切りとった時、そこに貼り付いている人たちが、明日も全員まったく同じ存在だという考えは間違いです。
私たちは、次の瞬間を常に選び続けています。
私たち自身がそうであるように、まわりの人たちもまた常に選び続けています。
したがって、今この瞬間というのはたまたま乗り合わせた者同士ということになります。
現実において、電車に乗り合わせた人たちというのを思い浮かべて下さい。
たまたま今この瞬間は同じ電車、同じ流れの中に乗り合わせていますが、次の駅に着けば乗客の多くが入れ替わります。
誰が乗り替わったかなんて私たちには分かりません。
電車の中にはこれまでと同じように多くの他人が存在し続けています。
「そうはいっても現実として周囲はみんな同じ◯◯さんとして存在し続けているではないか」と私たちの表層は反論したくなります。
ただそれというのは、その見た目だけを指したものであって、実際その中身は各駅ごとに乗り替わっているのです。
それぞれの人たちにとっても、入れ替わった先が今そこであるため、誰もこのことに気がつけないだけです。
私たちはみな無限通りに存在しています。
無限にある氷山の頭が今この私たち(表層意識)です。
ふたたび、朝の通勤を思い起こして見てください。
今朝の同じ電車に乗り合わせた人たちは、ずっと一緒に乗り続ける間柄ではありません。
本当にたまたま巡り合わせでそこに乗り合った人同士というだけです。
まさにそれは「御縁」という言葉の通りです。
ここにおいてまさしく、昔から言われている「私たちの日々の生活は全てが御縁だ」という話が、物理的な意味で本当の真実だったことがストンと
落ちるのではないかと思います。
ずっと変わらぬ間柄であっても実は一瞬ごとに入れ替わっている。
それこそは一期一会そのものであるわけです。
これまでの思い込みのまま、日本の全ての人たちが同じ電車に一緒に乗り続ける仲間だと考えていると「たかが一票」「何も変わらない」という
感覚になるでしょう。
しかし電車を自ら乗り換えることができるし、私たちはみんな今この瞬間だけの御縁なのだと知るならば「何も変わらない」とは思いませんし、
「たかが一票」という感覚にもならないのではないでしょうか。
実際のところ開票結果がどうなろうと、それはあまり大した問題ではありません。
大切なのは、その自分自身の思い込み(すなわち束縛)を手離すことにあります。
未だ目覚めぬ人類から脱却するということです。
それにはまず行動あるのみです。
思ったことを口に出すだけでなく、実際の行動に繋げることです。
私たちは全員が天地宇宙の中心です。
私たちのまわりで全てが流れています。
まわりの流れがあってその中に私たちが居るのではなく、私たちがあってそのまわりに流れがあるのです。
私たちという目を通してスクリーンが展開されているわけです。
私たちは流されているのではなく、私たちが流れを選びそこに乗っているのです。
現実での「行動」こそがそれらの分かれ目になります。
行動しないというのは、まわりに流されることを選択したことになります。
投票に行こう!というのはたまたま一つの例に過ぎません。
実際は、日々の全ての瞬間が、流れに流されているか、あるいは流れを選んでいるか、その分かれ目になっています。
ただ日常生活では、それを理解するのも実行するのも難しい。
しかし非日常的なイベントであれば、少しはその縛りが緩みます。
日常生活のルーチンの中にいると、私たちはなかなか無意識の自動選択から抜け出せません。
なにせ無意識でやっているわけですから、それを意識しろというのは無茶な話です。
自動選択をしている中身は色々ありますが、ここで言っているのはその中の「流れに流される」つまり「ハンドル手放し」のことを指します。
私たちの無意識の自動選択をひっぺがすためには、非日常的なイベントというのはとても都合のよいものと言えます。
ルーチン作業とは違うため、深いところまで比較的フラットになりやすい。
同じような理由から「何か新しいことをやるのはとてもいい」と三日坊主のススメもお伝えしました。
そういったまずは非日常的なイベントを利用してひっぺがしやすいところから「意識した選択」を実行する。
そうしたことを一つ一つ繰り返していきますと、日常的な場面でもそれをやれるようになるというロジックです。
天地宇宙というのは一枚絵が無限に重なって出来ています。
そして全ての瞬間に、無限の一枚絵が存在しています。
いま私たちの目の前には「投票に行かない自分という肉体が存在する世界」と「投票に行った自分という肉体が存在する世界」があります。
投票に行かない自分の肉体というのは、これまでの日常ルーチンと同じ流れの中に存在します。
どちらの世界を選ぶか、それをハッキリ意識できるのが今です。
「自分なんかのたった一票で何か変わるもんか」というのが、いかに見当ハズレな話であるかお分かり頂けたかと思います。
行動というのは、世界を選ぶことに直結します。
たとえ道は遠くとも、自ら目の前の一歩を選ぶことが大きな変化へと繋がっていきます。
せっかくのイベントです。
私たちは天地の中心で、世界こそが選ばれているというのを再確認しましょう。
「さぁ、選挙に行こう!」
(おわり)
与党だ野党だ、改憲だ増税だ、トランプだ韓国だと、私たちの日常からとても遠い世界のことばかりに映ります。
でも普段ならば遠い話であったとしても、私たちがしっかり参加できる最大のチャンスが今ここにあります。
参加というのは文字通りの意味の「参加」です。
それは私たちが共に作り上げていくという意味もありますが、より正確に言えば、どの道・どの世界を選択するかという意味での参加です。
「たかが一票で何か変わるもんか」というのは得票数だけを見た捉え方、つまりこの世の一面だけを切り取った見方に過ぎません。
全体の中での自分という見方ではなく、自分を中心に置いたこの世という見方をした場合、全く違った世界が現れます。
私たちの一票というのは、票数という切り口からすれば何万人分の一でしかありませんが、行動という切り口で見た場合は、二分の一という超
どデカいものとなります。
つまり「投票をした」か「投票をしなかったか」の二つに一つになるわけです。
そしてその切り口で見た場合、開票が始まる前にすでに事は済んだことになります。
「たかが一票、行っても行かなくても変わらない」というのは、何処を見て言っているのかという話です。
行動ということならば、一票を投じた時点で、世界は変わっているのです。
もし投票に行かなかった場合は、世界が決まっていくままに任せたことになりますから、つまりはハンドルを手放して川の流れに流されていくこと
を選択したことになります。
一方で、投票に行った場合は、しっかりハンドルを握って、いくつも存在する流れの中の一つを自ら選択したことになります。
仮にその開票結果が表層意識の期待に反するものに終わったとしても、それは集合意識の創造世界からいきなり三段跳びにジャンプすることを良し
とせず、その世界を選ばなかったというだけの
ことです。
ハンドルを放しっぱなしかシッカリ握ったかというのは、それとは別の話です。結果は関係ありません。
私たちは、日常生活において安心安定を望んでいるため、常日頃、集合意識の大流から乖離しないよう自らをそこにロックオンさせています。
結果が大きく変化した世界に着地できるかどうかというのは、その日頃のロックオンを選挙の時に突然外せるかどうかという、そこの話になります。
「結果が変わらないのは明らかなら行っても仕方ない」「だから行かない」というのは本末転倒です。
投票に行く理由として、結果を求めるからこそ行くのだというのは確かに一理ありますが、行くことによってすぐさまジャンプの度合いが無制限に
解放されるわけではありません。
ジャンプの度合いによってどの流れを選ぶか変わってきますが、その度合いを決めているのもまた私たち自身です。
ですから、行くことがすなわち必ず100の変化に繋がるということではありません。
しかし、行ったのならば必ず1以上の変化は起きています。
行かなかったら、確実にゼロです。
今お伝えしようとしているのはこのことです。
結果が大きく変わるか変わらないか、という話とは別のこと。
ハンドルを自ら握るか、相変わらず放しっぱなしのままにしておくか、そこの話です。
もし結果にこだわるならば、日常の無意識ルーチンの束縛から自らを引き剥がすことによって三段跳びの変化を選ぶことができます。
しかし、そもそも1も出来ていない状態からいきなり100を求めてもそれは無理な話です。
と、そこで「なんだ変化しないんだったらやるだけ無駄だ」と言うのは「なんだ100が無理ならゼロのままでいいや」というのと変わりありません。
それではカゴの中の自縄自縛を自らOKしたことになるだけです。
「投票」という実際のアクションは、ハンドルを握って自ら選択している状態です。
違いが感じられなくとも、昨日までとは違う世界を自ら選んだわけであり、目には見えない変化が確実に起こっています。
まわりの景色が変わらずとも、私たち自身がこれまでとは変わっているわけです。
それは、景色が変わったか変わらないかということよりも遥かに大きなことです。
世界というのは私たちによって選ばれるものに過ぎません。
そうしたものの上っ面が変わるかどうかなんてことよりも、私たち自身のアクションが変わることは根幹そのものが変わることを意味します。
それに対して、「どうせ変わらない」と考えて投票を放棄した場合、それは必ず「やはり変わらなかった開票結果」となります。
目に見えて分かるような変化が起きないなら、そんな死票の骨折り損はしたくないと思うのが人の世の常です。
しかしそのような表層だけを見て、無駄な労力を割くのはもったいないと考えることこそ、逆にもったいない話です。
損得勘定に頭を奪われると、自分で自分を縛ることになってしまいます。
「たかが一票」という捉え方は、今この日本に居る人たちがずっと変わらぬ同乗者であるという思い込みに依るところが大きいかもしれません。
今この瞬間を切りとった時、そこに貼り付いている人たちが、明日も全員まったく同じ存在だという考えは間違いです。
私たちは、次の瞬間を常に選び続けています。
私たち自身がそうであるように、まわりの人たちもまた常に選び続けています。
したがって、今この瞬間というのはたまたま乗り合わせた者同士ということになります。
現実において、電車に乗り合わせた人たちというのを思い浮かべて下さい。
たまたま今この瞬間は同じ電車、同じ流れの中に乗り合わせていますが、次の駅に着けば乗客の多くが入れ替わります。
誰が乗り替わったかなんて私たちには分かりません。
電車の中にはこれまでと同じように多くの他人が存在し続けています。
「そうはいっても現実として周囲はみんな同じ◯◯さんとして存在し続けているではないか」と私たちの表層は反論したくなります。
ただそれというのは、その見た目だけを指したものであって、実際その中身は各駅ごとに乗り替わっているのです。
それぞれの人たちにとっても、入れ替わった先が今そこであるため、誰もこのことに気がつけないだけです。
私たちはみな無限通りに存在しています。
無限にある氷山の頭が今この私たち(表層意識)です。
ふたたび、朝の通勤を思い起こして見てください。
今朝の同じ電車に乗り合わせた人たちは、ずっと一緒に乗り続ける間柄ではありません。
本当にたまたま巡り合わせでそこに乗り合った人同士というだけです。
まさにそれは「御縁」という言葉の通りです。
ここにおいてまさしく、昔から言われている「私たちの日々の生活は全てが御縁だ」という話が、物理的な意味で本当の真実だったことがストンと
落ちるのではないかと思います。
ずっと変わらぬ間柄であっても実は一瞬ごとに入れ替わっている。
それこそは一期一会そのものであるわけです。
これまでの思い込みのまま、日本の全ての人たちが同じ電車に一緒に乗り続ける仲間だと考えていると「たかが一票」「何も変わらない」という
感覚になるでしょう。
しかし電車を自ら乗り換えることができるし、私たちはみんな今この瞬間だけの御縁なのだと知るならば「何も変わらない」とは思いませんし、
「たかが一票」という感覚にもならないのではないでしょうか。
実際のところ開票結果がどうなろうと、それはあまり大した問題ではありません。
大切なのは、その自分自身の思い込み(すなわち束縛)を手離すことにあります。
未だ目覚めぬ人類から脱却するということです。
それにはまず行動あるのみです。
思ったことを口に出すだけでなく、実際の行動に繋げることです。
私たちは全員が天地宇宙の中心です。
私たちのまわりで全てが流れています。
まわりの流れがあってその中に私たちが居るのではなく、私たちがあってそのまわりに流れがあるのです。
私たちという目を通してスクリーンが展開されているわけです。
私たちは流されているのではなく、私たちが流れを選びそこに乗っているのです。
現実での「行動」こそがそれらの分かれ目になります。
行動しないというのは、まわりに流されることを選択したことになります。
投票に行こう!というのはたまたま一つの例に過ぎません。
実際は、日々の全ての瞬間が、流れに流されているか、あるいは流れを選んでいるか、その分かれ目になっています。
ただ日常生活では、それを理解するのも実行するのも難しい。
しかし非日常的なイベントであれば、少しはその縛りが緩みます。
日常生活のルーチンの中にいると、私たちはなかなか無意識の自動選択から抜け出せません。
なにせ無意識でやっているわけですから、それを意識しろというのは無茶な話です。
自動選択をしている中身は色々ありますが、ここで言っているのはその中の「流れに流される」つまり「ハンドル手放し」のことを指します。
私たちの無意識の自動選択をひっぺがすためには、非日常的なイベントというのはとても都合のよいものと言えます。
ルーチン作業とは違うため、深いところまで比較的フラットになりやすい。
同じような理由から「何か新しいことをやるのはとてもいい」と三日坊主のススメもお伝えしました。
そういったまずは非日常的なイベントを利用してひっぺがしやすいところから「意識した選択」を実行する。
そうしたことを一つ一つ繰り返していきますと、日常的な場面でもそれをやれるようになるというロジックです。
天地宇宙というのは一枚絵が無限に重なって出来ています。
そして全ての瞬間に、無限の一枚絵が存在しています。
いま私たちの目の前には「投票に行かない自分という肉体が存在する世界」と「投票に行った自分という肉体が存在する世界」があります。
投票に行かない自分の肉体というのは、これまでの日常ルーチンと同じ流れの中に存在します。
どちらの世界を選ぶか、それをハッキリ意識できるのが今です。
「自分なんかのたった一票で何か変わるもんか」というのが、いかに見当ハズレな話であるかお分かり頂けたかと思います。
行動というのは、世界を選ぶことに直結します。
たとえ道は遠くとも、自ら目の前の一歩を選ぶことが大きな変化へと繋がっていきます。
せっかくのイベントです。
私たちは天地の中心で、世界こそが選ばれているというのを再確認しましょう。
「さぁ、選挙に行こう!」
(おわり)