これでいいのダ

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私たちはすでに救われている

2017-12-12 08:28:35 | 天地の仕組み
今回はとても長い内容となりました。

サーっと来たものが次々と繋がっていったため、流れを断ち切ることができませんでした。

これまでブログに書いてきたことの総まとめにもなっておりますので、最後まで読んで頂ければ幸いです。




さて、前回「天地宇宙へ心が広がっている時、その感覚こそが本当の私たちそのものだ」という話をしました。

それは、私たちから外へと広がっているイメージではなく、もともと無限に広がっているところに私たちが在るという感覚です。
そして、その無限に広がっているものを感じている時、私たちはすでにそれと同化しているのでありました。

ですから「天地へ心が広がる」というのは「もともと広がっている状態があって、そこに耳をすませているうちにサーッと晴れ上がっていく
感じ」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。

フト何かの気配を感じてそこへ耳をすますと少しずつ音が聞こえてくるような、あるいは、暗闇でも静かに心を向けていると徐々に色々なものが
見えてくるような、そんな感覚に近いと言えます。

もともと私たちはココだけでなく、目に映るすべてに広がっている存在です。

「統一体」という言葉にしても「天地と一体」という表現にしても、言わんとしているのはそういうことです。

そこに我執の思いが生じた瞬間、たちまち私たちは針の穴ほどの小ささに閉じ込もってしまいます。
疑念や不安が生じた瞬間、まるで私たちの腹中にブラックホールでも生じたように、広大な天地は一瞬で闇の中へ飲み込まれてしまいます。

それは、いま目の前に広がる物理的なものだけでなく、過去未来へ広がる時間的なものでも同じです。

行く先の景色が広がっている時には私たちは天地と一つに成っていますが、未来への疑念や不安が生じた瞬間、私たちは八方ふさがりの世界に
閉じ込められます。
未来への道は闇に消え失せ、まさしく当たるも八卦当たらぬも八卦の五里霧中と化します。

たとえば、夢を実現するためのコツとして「パッとイメージしたら、あとはホットけ、忘れろ」と言われますが、それはそうした仕組みに基づく
ものであるわけです。

考えることで自我が出しゃばるんなら、何も考えなければいいのか?それが天地におまかせなのか?という発想もムクムクと出てくるところ
ですが、それでは天地におまかせではなく単なる自己放棄になってしまいます。
そもそも何も考えないで生きて行くなど不可能です。

心は間違いなく存在していますので、それを無いものとしたり、無視しようとするのは自然に反することであり、そのこと自体が自我の囚われ
となってしまいます。

心は在りますし、何より、それは使うものです。
心を使うことがすべて自我の囚われに直結するというのは短絡的な思い込みに過ぎません。

世界を針の穴にしてしまうのは、心をどのように使うか、つまりその思いに囚われているか否かによります。
それは「ただ心を向けているだけの状態」と「その心に引っ張られている状態」の違いともいえます。

前者の状態はこうです。
いま私たちのまわりに天地へ広がった状態が在ります。
そこへ様々なものをスッと乗せる。
それが心を向けるということです。

それだけでいいところを、そこで余計なこと、つまり不安や期待、色気を出してしまうと自我の囚われ、我執となる。
それが、心に引っ張られている状態です。

これは前回登場した弓聖・阿波研造範士の教示するところです。

的の中心へ目を向ける。それが心を向けている状態です。
しかし、そこへ当ててやろう、当てたい、当たるかな?というのは心に引っ張られている状態であるわけです。

天地宇宙の広がりを掻き消さず、波立たせず、よそ見をせず、その広がりを感じたまま、ただそこへ乗せていく。
それこそが、本来の私たち、天地宇宙への回帰なのでした。




この広がりに声を乗せれば、曇りなき響きとなり、風雨雷霆をも搔き消す轟きとなる

この広がりに音を乗せれば、曇りなき奏(かなで)となり、心に沁み入るゆらぎとなる

この広がりに筆を乗せれば、曇りなき流れとなり、魂に響く力強さとなる

この広がりに体を乗せれば、曇りなき滑らかさとなり、圧倒的な存在感となる

この広がりに料理の腕を乗せれば、曇りなき味わいとなり、微細胞に至るまで全身歓喜するところとなる


名人、達人、一流というのは、我執をトコトンまで削ぎ落とした先の天地一体の世界であり、その広がりのままに表された作品もまた天地宇宙
そのものです。

もしそこで良く見せようとか、相手に勝とうとか、あるいは不安や不満といったものがわずかでも生じてしまうと、その結果は小さく惨めな
ものにしかなりません。

純粋にこの広がりに乗せたもの、あるいは相手に喜んでもらおうとしたもの、相手のことを思いつつ行なったもの、喜びや感謝に溢れて為したもの。
そうした心の状態の時、自我の壁は霧散し、天地と一体となった美しさ、清らかさが現れます。

ホンモノの真善美に触れることは天地宇宙に触れることと同じであり、それを観る私たちもまた自我の壁が霧散し天地宇宙と一つに成ります。


またスポーツや格闘技、演奏などで「ゾーンに入る」という言葉がありますが、これもやはり自我の壁が消えて、目の前に広がる景色と一体に
なっている状態です。

それは、まわりの景色がすべて見え、次に何が来るか、相手が何を考えてるか、自分も含めて様々なことが冷静に感じられる状態です。

それは、まさしく天地と一つに溶け合っている状態であり、対峙する相手もその中に含まれている。
すると不思議なことに「勝ってやろう」とか「カッコよく極めてやろう」とか、そういうゲスな気持ちは全く起きず、ただただ楽しいという
幸せな感覚だけが全身を包みます。

それをヘブン(天国)と称した格闘家も居ました。
ガーッとアドレナリンMAXにやりまくった時に突然それはくる。身体がとても軽く、なんでも出来そうな気がする。そしてとても楽しく幸せで
仕方ない。
そんな感じだそうです。

日ごろ運動をやっていない人は、例えば上半身と下半身が一つに連動しきってないと、上下のバランスが悪くなり筋肉量に偏りが生じたりします。
しかし虚脱が無くなったり、あるいは力みが無くなったりしてリラックス状態になっていけば、全身が一つに噛み合った感覚を得るようになります。
身体がとても軽く、伸びやかで躍動感に溢れ、深い安心を感じる状態です。

この、全身が一つになっている感覚が、さらに広がったものが天地と一体となった状態です。

それは、我執や我欲が無くなっている時に誰もが成っている状態です。
たとえば湯船でボーッとしてたり、大自然の景色に見とれていたり、真善美に触れていたりしている時のことです。
しかし我執や我欲が頭をよぎった瞬間、あっという間に霧散してしまうわけです。

ここでハタと気づくことがあります。

太古から、私たちはずっと心の平穏を求め続けてきました。
西洋では天国を思い描き、東洋では涅槃を思い描きました。
まるで迷い子が生まれ故郷を求めるように、心の安息地、失った楽園を追い続けてきました。

「今ここではない何処か」
「不安も悩みも無い世界」
「とても満ち足りた世界」

この世は罪穢れの世界であるとして、この世を去ったあとにはそうした天国、極楽に行けることを強く願い、世界中で様々な教義が生まれました。

あるいはこの世に居ながら少しでもそこへ近づくため、奥山を越えたり、篝火を焚いたり、坐禅を組んだり、滝に打たれたり、断食をしたり、
真言を唱えたりしました。

今でも新しいテクノロジーを使ったり、新しい単語を使ったり、新しいアプローチを行ったりしています。

今も昔も同じ。
何千年、何万年、言葉は変わっても同じことを思い焦がれ、そしてそこに至れず悶々とし続けています。

その世界に至ることを解脱と称したり、最近ではアセンションと称したりしますが、それらは何千年何万年も満たされることのない渇望感と
なっています。

執着や囚われの無い世界。
それが涅槃であり、天国であり、仏の世界でありました。
そこに辿り着けば、誰しも不安や悩みが無くなり、心の底から救われる。

しかしそれというのは、つまるところ、天地宇宙に任せきった状態、心が広がっている状態のことでは無いでしょうか。

我執が断たれた時に感じられる世界。
それはまさしく不安も悩みも無い、平穏無事な世界そのものでした。

そうです。
これまで私たちは、不安や悩み、苦しみのもととなる我執が全くなくなる世界があると夢見ていました。
でも、そもそも我執という存在そのものが無くなることはないわけです。
そんな都合の良い話で、責任放棄してラクになりたいと夢描く時点で誤っていたということです。

天国へ行けば我執から解放されるのではなく、我執をホットケば今ここに天国が現れるということだったのです。

私たちは、天国というのが物凄い世界だと想像たくましくしすぎて浮き足立っていました。
花の香りに溢れ、光り輝く幸せでハッピーな世界。
でも、もう夢から覚める時です。

天国はすぐ目の前にある。
それは、我執をホッといた時に現れる、この天地宇宙へ広がる感覚のことだったわけです。



我執というものは存在する。
でも、それは放っとくことができる。

激しい修行や、世俗を断ち切った世界、その先の目に見えない何処かに仏の世界があると思っていましたが、何のことはない今この世界こそが
もともと最初から仏の世界であった
ということです。

もとより私たちは救われている。
初めから、仏の世界、天国の中に私たちは居るわけです。

天地の広がりに身をまかせきれば、たちまちそこに天国が現れる。
どこに居ようと、どんな境遇だろうと、天国は今ここにある。
誰のまわりもすべて天国である。

ただ、それがわずか1ミリの差で地獄にもなる。

途上国の子どもたちは輝いた眼をしています。
江戸時代に外国人が目にした、私たちの貧しいご先祖様も笑顔に満ちていました。
まさに、見た目の豊かさや貧しさに関係なく、何処の誰にとっても天地宇宙の広がりは等しく同じであることを物語っています。

貧しい国に生まれついて理不尽だとか、豊かな国に生まれつくのは不公平だとか、真面目な人ほど引っかかるところかもしれませんが、それは
目に見える物質世界という一面だけの話になってしまっています。
そこには、経済的に豊かな方が恵まれた環境に決まっていると無思考の思い込みがあります。

しかしこの世というのは、天地宇宙に広がっている私たちが、その氷山の一角で味わっているバーチャルゲーム(仮想アミューズメント)に
過ぎません。
そこでの経済的なもの、物質的なものというのは単なるオプションでしかないということです。

そして実際のところ彼らはみな天国の近くにいる。むしろ経済的に豊かにも関わらず悩み苦しむ私たちの方が地獄の方へ引きこもりがちに
なっている。

今ここに、そこかしこに天地宇宙の広がりは変わることなく在ります。
あとはただ、私たちが閉店ガラガラのシャッターをおろしているかどうか、引きこもっているかどうかでしかありません。

この世を地獄にするも天国にするも、文字どおり私たちの心一つであるわけです。



そうした天地の仕組みをもとに、古人は様々な知恵を絞りました。
たとえば「難しい経典を理解しなくてもただナムアミダブツの一言だけ唱えれば救われる」とした法然の教えは、核心を突いた方便であると
言えます。

真言を唱える。様々な悩みや苦しみを抱える民衆は来世で救われることを信じる。その瞬間ホッと安堵する。
それは悩みや苦しみから解放された瞬間であり、たとえ一瞬であろうと間違いなく今そこに広がる極楽浄土の世界に同化しているわけです。

不安や悩みに襲われた時、その一言を唱えるとそこから解放される。我執をホットケる。
その繰り返しにより、その人は本当に今世ですでに極楽浄土に居続けることになるということです。

私たちはもともと解脱している存在です。
生きながらにして仏になるとはそういうことです。

ナムアミダブツ(「阿弥陀仏に帰依する」の意)にしても単なる一例に過ぎません。
方便というのは無限に存在します。

そしてどれも単なる方便に過ぎませんので、どれが正しい、どれが一番なんてものは最初からありません。
「指月の指」を品定めするなんていうのはナンセンスでしか無いわけです。

私たちは最初から仏そのものである。天地宇宙そのものである。
それだけが真実です。




それにしても何故、私たちは最初からラクに生かせてもらえなかったのでしょうか。
こうして進めていくと、どうしてもそんな疑問が湧いてきます。

赤児のように、子供の頃のように、あるいは自然界の動物たちのように「何の不安も悩みも持たずに天地宇宙に広がった私たちのままに生きて
いられれば」何の面倒もなかったはずです。

その理由として、禁断のリンゴを食べたとか、煩悩は罪によるものだとか、あたかも私たちが悪い存在、駄目な存在であるかのような罪悪感を
植え付けられてきましたが、実際はそんなことではありませんでした。

本当の理由は「当たり前の状態にある時というのは、誰もそのことに気がつけない」からです。
魚で言えば、水の外に出ないと水の存在が分からないのと同じことです。

何故そんなまわりくどいことをするのか。
それは特段、何かの意図や目的があったわけではなく、進化とはそういうものだからです。

そもそもの初まりまでさかのぼると、天地宇宙というのはたった一つのものでした。

厳密に言えば、今この時もそれは何も変わっていないのですが、ややこしくなるのでひとまずそれは横に置いておきます。

天も地もなくただ一つの存在だけがあった時、その存在にとってはそれが当たり前の状態でした。
それがどんな感覚なのか、今の私たちには知ることはできません。
何故ならば、私たちはすでに分離という状態にある(ことになっている)からです。

同じように、そのただ一つの存在も、今の私たちのような感覚は知ることができませんでした。
そちらはそちらで、ただ一つという状態しか知らないからでした。
というよりも実際は、一つの状態すらも認識できていませんでした。

一つの状態というものを認識するためには、そこを離れて見るしかありません。
客観視というのは、自と他という切り離しが必要となります。
その切り離しのために、ただ一つの存在は「一つではない状態」を創り出しました。

今この状態を把握するために、仕切りを作って分離状態を作り出した。
それが「自分」となったわけです。

そのようにして天地宇宙は分離(という感覚)を目指した。
それが天地創造の瞬間となりました。


客観視をすればするほど見えなかったものが見えてくる。感じられなかったものが感じられてくる。
そのようにして分離と集合を繰り返すのが、天地宇宙の仕組みとなりました。
あの世とこの世という構図にしても、その仕組みの一部だったということです。

ですから赤児から成長するに従って、あるいは動物からヒトへの進化するに従って、天地宇宙と一体の状態が分離状態へと成っていったのは、
決して罪深いからではなくて、ただ単に天地の流れに沿ったものに過ぎないわけです。

そしてこれはとても大事なことですが、
分離が悪いとか集合が良いとか、そういう概念はそもそも存在しません。

たとえばネガティヴ・ポジティブという表現にも、私たちは良い・悪いというイメージを持ってしまいます。
しかしネガティヴとポジティブというエネルギーは、分離と集合という呼吸の一側面でしてありません。

あらゆる存在は、ずっとネガティヴということもなければ、ずっとポジティブということは無い。
ましてや、ネガティヴが悪くてポジティブが良いなんてことは有り得ないということです。

それらは、吸う時は吸う、吐く時は吐く、という一つの状態でしかありません。

過去の時代がネガティヴのエネルギーだったからといってそれがダメだったわけではありません。
今はただポジティブのエネルギーに転換するタイミングというだけのことです。

天地宇宙に任せきるというのはそういうことです。

例えば私たち地球人類の歴史も、停滞と開花、闘争と協調が、吸ったり吐いたりのネガポジの流れで繰り返されています。
東西の文明文化の趨勢、流入、押し引きにしてもまたしかりです。
あるいはまた、或る惑星の人類そのものの役割分担がネガポジに分かれるというケースもあります。

この世界は裏も表もすべてが生々流転しています。

川の流れがそうであるように、いつも同じ状態であり続けることは不可能です。
小さなスケールであろうと大きなスケールであろうと、すべてはバランス。
全ては呼吸の一側面であるわけです。

裏表というスケール、宇宙というスケール、人類というスケール、民族というスケール、一族というスケール、個々人というスケール。

遠大な世界も、身近な世界も、すべては流れであり呼吸であります。
分離と集合、ネガティヴとポジティブがバランスに沿って現れます。


そのように天地宇宙の大小すみずみまで同じ風が吹き抜けていることを感じれば、当然、私たち一人一人の人生の中にもネガティヴとポジティブ
の呼吸があり、さらに一日一日の中にもそれがあるというのが実に当たり前に腑に落ちることでしょう。

ただそれを正負の法則などと表現してしまうと損得勘定のようなつまらない次元の話になってしまいます。
正も負も、ネガティヴもポジティブも無い。
人生にも生活にも変化の波は必ずありますが、それは川の流れや海の波と同じもの。
抑えようとするものでも我慢するものでも無く、自然現象として透明に受け入れるもの。

単なる自然現象なのですから、そこには自らの非も何も無い。自分を責める必要は無い。
何をしたところで波や風は起こるものですし、それが天地自然な姿であるわけです。

悩んだり苦しんだりすることはありません。
たとえツラい現実に見えたとしても、それはこの広く大きな天地宇宙に流れている大きな風、大きな流れが私たちにも吹いているだけです。

波や風はホットケば変化します。
そのまま同じ状態などありません。

今がシンドイ状況だったとしてもそれが続くことはありませんし、今が楽勝な状況だったとしてもそれが続くこともありません。
ホットケば、高きは低きに、低きは高きに変化するものなのです。

苦しい、嫌だな、つらいなとその心に引っ張られて囚われ続けてしまいますと、針の穴ほどの狭い世界へ引きこもり、大海や大空に流れる波や
風をシャットアウトしてしまいます。
つまり、停滞という凪(なぎ)状態となり、今の苦境が変わらず続くことにもなっていきます。

私たちというのは、天地宇宙よりもさらに大きな存在です。
あの世とこの世、裏と表のすべてをその腹中に収める大きな存在です。


ですから、私たちの中に漂う天地宇宙の波や、そこに流れる風を、優しく微笑んで見守っていればいいのです。

私たちのことを見守る「母なる天地」とは、取りも直さず私たち自身のことです。
今この瞬間も、私たちは私たちを優しく見守っているということです。

天地宇宙への感謝というのは、結局は私たち自身への感謝となっています。

たまの一回、二回、フトした時にありがたいなぁ、感謝だなぁと思う。
人でも物事でもいい。外へ向けて感謝を思う。

それが私たちが、本当の私たちに帰る瞬間と成っています。

「天は自ら救うものを救う」とは、まさにそういうことなのでありました。





(おしまい)