これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

神の吹かせる風

2016-08-22 16:09:57 | 国を常しえに立てます
大風や大雨というのは大気のチリや埃を綺麗に洗い流してくれます。
さらには目に見えない滞り、穢れ、そうした粒子の粗いものも吹き飛ばしてくれます。

以前にも書きましたが、家の近所のご老人が毎晩遅くまで竹ボウキで道を掃いて下さっていますが、これにより実際に
その一帯の空気感がガラリと変わります。
曲がり角の近くからフワッとした柔らかい空気になる、誰にも分かるほどの変わり方ですので、掃き始めたスタート地点が
この辺りなのかというのが分かるほど、その手前と奥では別世界になっています。

ホウキにしても台風にしても同じ働きです。
あらゆる罪穢れを祓うという祓戸四神の一神、氣吹戸主(いぶきどぬし)のお力そのものです。

罪とは「包む身」であり、穢れとは「氣枯れ」です。
つまりそれは、身を包むドロドロした濁りのことであり、またそれにより心の奥底から湧き上がるものが根詰まりを起こして
氣が枯れてしまうということです。
氣吹戸主のエネルギーはそうしたものを拭き払って下さるというわけです。

この1〜2週間ほど、茨城や千葉での地震が度々起こり、大地のザワつきや腹底の落ち着かなさがどうにもなりません
でしたが、これで一掃されるのではないかと思います。

そしてさらに驚くべきは、そのザワつきが今や日本の何処で起きてもおかしくないような状態にあって、まさか関東を中心に
右と左と直進との3方向に分かれて日本列島全てを祓うことになるとは思いもしませんでした。


さらに言えば、ただ祓うだけならばいつものようにフィリピン沖で発生して沖縄付近に向かってもよいところを、それでは
尖閣に展開されている漁船団の民兵たちの思う壺になってしまうため、わざわざ沖縄の東側を逆進するように進んでいく
というのは、神業でなくして何なのかと思うばかりです。
そうでなければ、このような発生パターンは説明がつきません。

台風は大変な被害を及ぼすものですが、それとは別に、目に見えない陰のところでは計り知れない恩恵を受けていることも
あるわけです。

何事も、それはそれ、これはこれです。

そうした陰の部分(おかげさま)へ感謝の心を向けることで、天地の心と一つになり、私たち自身やこの国が、より一層
浄められていくのではないかと思います。





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幾万重(いくまんえ)の彩り 2

2016-08-22 15:40:48 | 国を常しえに立てます
日々を過ごしていますと、私たちは、家族、友達、仕事仲間、あるいは嫌いな人など、自分に関わる人ならば誰であっても
必ず心を向けています。

心の向け方というのは、ふんわり優しかったり、冷たかったり、トゲトゲしていたりと様々です。

なにが良い悪いということは今日のところは一先ず置いておいて、そうした頭の判断を抜きにして真っさらに観てみますと、
たとえコンチクショウと思うことがあっても、それよりさらに深いところでは相手に優しい心が向くことに気づきます。

めちゃめちゃ頭にきたり不愉快になったりして、ひとしきり怒ったあと、シーンとした状態からフト、相手をフォローする
ような、言葉にならない想いが中心の方からジンワリと湧き上がってきます。

しかし、無意識に浮かぶその思いに負けまいとして、自我は自分の正義や相手の罪を、先ほどよりさらに激しく並び立てます。
自分は正しい、相手が悪い、と。
ジンワリ浮かんできた感覚を直視することができずに、その何となくバツの悪い感覚というものを消し去ろうとして、理屈を
並べて現実逃避するわけです。

ここでいう「現実」とは、魂の奥から湧き上がる感覚のことです。
内から出てくるその感覚に目を向けまい、見まいとするのは現実逃避であるということです。

自らの正当性と相手の不当性をより一層明らかにしようという作業は、結局はその出来事を何度も思い返す作業となります。
つまり、やればやるほど、不快な気持ちや怒りを増幅させることになってしまいます。

でもそこで、その怒っているのが自分以外の誰かだと思ってみますと瞬時にリセットされます。
しがみついていた状態から離れるからです。

すると、心の底から湧き出るものを冷静に眺めるようになり、先ほどまでは甘さや弱さなどと思っていたそれが、そうでは
なくて自分自身の芯から発せられる純粋なものだと自分は知っていることに気がつきます。
許してはいけない、相手が悪い、というのはただの理屈であり、価値観や信条に照らして脳が創り出すものに過ぎません。
あるいは、怒りの激流にこのまま乗っていたいという我欲でしかないとも言えます。

カリカリしながら頭に血が上っていくうちに大地から足元が離れて行ってしまいますが、「それ、やーめた」と仮初めの
幻像を手離して「今」に戻ってくると、最初から自分は知っていたという感覚になります。
ちょうど夢の中で、何故かすでに全て知っている、あの感覚です。

さて、今日は批判じみた話をするつもりではありません。
表面に現れるような見た目の感情とは違い、誰でも必ず深いところでそれとは違う心が広がっているということを言いたかった
のでした。

ですから、日常の中で「ムカッとなったり悪感情を抱いたりしてはいけない」ということでは無いわけです。
むしろそうやって聖人君子になろうとするのは逆効果にしかなりません。

カーッとなっても構わない。
要はそのあと、最後はどういう状態で終わったかということです。

「いいトコもあるんだけど」「怖がり屋なだけ」「色々ツラいだろな」「そうさせてしまったのは自分にも原因あるかぁ」
など、その時々に応じて色々なものがチラッと脳裏をかすめます。
そうしたものは初発の悪感情などよりも、ずっと深い次元の思いであるわけです。

あとはその湧き出る思いに対して素直になれるかどうかだけのこと。
見ないように無視したり、塗り潰して見えなくするのではなくです。
どちらを選ぶにしても、それらは知らず知らずのうちに条件反射化していきますので、まずは手放し運転はやめた方がいいと
いうことになります。

そして深い部分の心というのは、浅い部分の心も大きく包み込むものです。
つまり、根っこでどう思えるかでオールクリアになるということです。

深いところの心というのは、それだけ表面には現れにくいものとなりますが、もっとも浅いところの心、例えば一時の感情に
任せた怒りなどは表にすぐ現れ、誰の目にも明らかになります。
そして目に見えるものなだけに囚われやすく、しがみ付いてしまいやすいと言うことができます。

本当の心、真(深、芯)の心とは、目に見えない陰となって人知れず包み込んでいきます。

しかし見えるものにしがみ付いてしまうと、雑味の多いドロドロが広がっていきます。
その下にどんなに深い心が広がっていようと、それを覆い尽くしてしまいます。

それを昔の人は穢れと呼びました。

そして、そのドロドロを向けた相手が同じ土俵に居ればドロ相撲の穢し合いになりますし、逆に相手が浅いところに囚われず
澄み切って居たならば、行き場を失った穢れは鏡に反射するようにして自分自身に帰ってきます。
ちょうど一人っきりの密室で不完全燃焼を繰り返すと一酸化炭素中毒になるのと同じです。

その反対に、相手に対してフワリと優しい心を向ければ、もしも相手が雑味のドロドロした状態にあったとしても、それが
スーッと薄まるようにして祓われていくようになります。

逆のケースだと跳ね返されないのは、我執の雑味が粒子の粗いものであるのに対して、天地一体の清らかな空気は粒子の極めて
細かいものであるからです。
より深く、より中心に近いほど粒子が細やかになっていきます。

この世の中というのは、人の数だけ様々な風を波立たさせ、また包み込んでいます。

幾重にも重なる彩りの、より深いところ、自分自身の少しでも芯に近いところまでの風通しが良いかどうかが最後の決め手
になります。


オセロでいえば一番端っこのコマのようなものです。
それまで黒ばかりだったものも全て白にしてしまいますし、逆に白だった全てを黒にしてしまうことにもなります。

そして、その芯が誰よりも澄んでいるが故に、一番に深いところへとそよ風を広げておられるのが天皇陛下であられるわけです。

陛下だけに限らず、神主さんもお坊さんもクリスチャンも、同じように祈りをもって清らかに心を広げています。
幾重に渡って重なる荒波の下には、さらにまた幾重にも渡って清らかな風が折り重なっているのです。

私たちが日常において知らず知らずのうちに発してしまう淀んだ心があったとしても、それよりもわずかでも深いところに
広がる心が必ずあります。

目に見える相手の姿に対して怒りや悲しみを感じたとしても、それよりさらに深いところに広がる心があるということです。

そしてそれは相手に対して広がっているだけでなく、私たちのすぐ足下にも誰かの心が広がっていることに気がつくでしょう。

例えば、皇后陛下が天皇陛下に向ける仕草を見てみると感じることがあります。
明らかにそれと分かるほどに相手をジッと見つめるのではなく、居るのか居ないのか分からぬ淡さで、ただ静かに心を寄り
添わせています。

前者は我(が)というものが醸し出す粒子の粗い愛ですが、後者は天地と質を同じくする澄んだ慈しみの心です。
その心は相手を温かく包み込み、邪気を祓い、健やかに活き活きと生かさせます。

それは妻であり、母であり、天地であり、陽の光であり、陽の御影であり、御先祖様であり、大御祖(おおみおや)であります。

私たちは誰もが慈愛の心を持っています。
そして、私たち自身もまた今この瞬間、誰かの慈愛の心に包まれています。
まずはそのおかげさま、目には見えない影に、感謝の心を向けるのが先決でしょう。

今さらキリスト教的なキラキラした話をしようというわけではありません。
そもそも天地というものがその心に満ちているという話です。
というより、その心が天地そのものであるわけです。
私たちも我執を無くせば自ずとそうなるのは当然の話ではないでしょうか。

大海に両手を差し入れて、頑なにギュッと囲いこんだりしなくとも、その手を広げれば自ずと大海そのものがそこに現れる。
それと同じことです。

慈愛の心と聞くと、マザーテレサや聖母マリアのような途轍もない無償の愛に満ちたものを想像するかもしれませんが、
別にそんな大層なものを想像する必要はありません。
むしろそうしたイメージこそが、価値観やら理想像やら様々な我執を塗り固め、そこへ近づけない障害となってしまいます。
そんなややこしいものでなく、単にいま目の前に広がる天地の自然な姿であるわけですから、特別なものだったり
頑張ったりするものでなく、ごく普通の、ごく自然のものであるに決まっているのです。


それこそが、私たちの中にも、そして私たちのすぐ隣にも、観音菩薩やマリア様がおられるという意味です。

そう成ろうとするものではなく、もともと天地がそういうものであるのです。

誰かに汚れた風を吹き付けられたからといって、自分も同じ風を吹き返してしまうのでは何の意味もありません。

確かに私たちというのは、条件反射的に相手の姿を真似ようとする本能があります。
相手の今いる心に、足元を合わせようとします。
それは相手からしても同じです。
だから鏡の法則というのです。

しかし、もともと私たちがそのようにするのも、神様に始まり、親や先人など、心地よい相手に倣おうとする本能による
ものでもあります。

人というのは、それ自身、幾重にも重なった存在です。
ですから、見た目の分かりやすいところに焦点を合わせるか、それよりも深いところへ焦点を合わせるかで、自然と自分の
心の反応も変わっていきます。

ただ、相手に合わせて自分をチューニングさていくというのではいずれ疲れ果ててしまいます。
それでは自分を律することにしかならないからです。

相手に合わせようというのではなく、自分自身の、より芯に近いところを清らかにしていく。
そのそよ風を全身に感じ、素直に受け入れていく。
それが一番の近道でしょう。
そしてそのようにしていくと自分も自然と深まっていきます。

澄んでいくことと深まることとは同意であるわけです。

目の前で、相手がどのような言動をしていたとしても、自分が深みにあると表面的なことは大して気にならず、相手の深部へ
心が広がっていきます。
そしてそれはそこに合わせこもうとしてるのではなく、自我を離れると、自然に相手の深部が心に映されていくと言うことも
出来ます。

ムカッとしたその裏で「まぁ仕方ないわなぁ」という自然な想いは、それすなわち寛容の心であり、赦しの心であるわけです。
しかしそれが赦そうとする心であった場合は、それは赦しの心ではなく、単に上塗りの心でしかなくなります。

偽善の心、嘘偽りの心というのは、最も我執に満ちたものだと言えます。
赦そうとするのではなく、我知らず「受け入れている」。
その状態が、言うなれば、赦しの心であるということです。

私たちが自然と相手を模倣するものであるならば、為すことは明らかです。

より相手の深みを知る。
相手の芯の部分を映し観る。

そのためには、表面に囚われず、またそのすぐ下に何層にも広がる様々な波風にも目を奪われず、どれだけ透明度を高くして、
自分自身の芯の部分まで風通しを良くできるかです。

そしてそのような状態へは、感覚でもって近づいていくしかありません。

ということは、雰囲気を全身全霊で味わう、そして自らもそれに溶け合うように模倣していくのが近道であるということです。
ですから、天地宇宙に少しでも近いもの、我執が希薄なもの、真善美というものに触れていくのがいいわけです。

「あぁいいなぁ」という感覚を噛み締めてみる。
その感覚に浸かる時、私たちはすでにその次元に居るということです。

心の洗われる人物、風景、作品、そのようなものに心をただ向けるだけで、すでに私たち自身はさらなる深みへと勝手にチュー
ニングされていくということなのです。

本当に単純で簡単な話です。

子供らしく無邪気に、これは気持ちが良いという感覚に全身全霊を預けてしまう。
その皮膚感覚を思い起こす時、私たちは自ずとその心になっているのです。

私たちは、天地や大いなる存在に始まり、すぐ身近な人に至るまで幾万重もの心に護られています。
その目に見えない、お陰様へと心を向けた時、私たちは自然とその深みへと同調していくようになっています。

努力したり頑張ったりするようなことではありません。

私たちというのは、とてもシンプルにできています。
何かに心を向ければ、そのままそれと同じになっていく。
真似ようとする思いは、内から湧き上がる本能であるわけです。

気がつくということ、目を向けるということは、そこへ自分も同化していくことです。

そのようにスッと心を向けたときに、何とは無しに皮膚に伝わってくる感覚があります。
それはつまり心が向くことで、そこへと瞬時に移動して、同じ空気感を肌が感じているということです。

私たちを包み込み、足下に無限と広がる様々なお陰様へ心を向けると、その清らかな次元へ私たち自身もシンクロしていき
ます。
そしてそれは私たち自身の芯の部分へと近づくことでもあります。

様々な御影、様々な御蔭に心を向けてみるだけで、全てが洗われたかのように驚くほどスッキリ軽やかになっていきます。

目に見えない日陰に私たちが光を当てているようにイメージしがちですが、実は御蔭というサラサラと輝く清らかな風に
よって、気づかぬうちに私たちの方が祓われ清らかにされているのでした。

自ら翳らせた暗雲に目を奪われず、その向こうに広がる青空に心を向ける。

たとえ今の空が曇っていても、その上には全天の青空が広がっていることを私たちは知っています。
信じているのではなく、知っています。

そこに広がる輝きとは、天地の心であり、陛下の心であり、両親の心であり、はたまた妻や夫、家族の心であり、隣人の心
であり、そして何よりそれは自分自身の心であるのです。



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幾万重(いくまんえ)の彩り

2016-08-20 19:15:56 | 国を常しえに立てます
目に見えない恩恵とは、大きく包まれし御影(みかげ)であり、それは文字通り「御影」(おかげ)と読み表すことが
できます。

前回、天皇陛下が私たち国民を御影で護られていることを書きましたが、その陛下をさらに陰ながら護る存在がおられます。

それは皇后陛下、美智子様です。

「全身全霊」をかけて私たちをお護りになられている天皇陛下を、さらに「全身全霊」かけてお護りになられています。

そうして己を1ミリも残さずに全てをかけてこられて、いまや透明そのものとなられています。
私たちがそれを生命として感じ取るところの、我(が)の放つ実体感が何もないほどのです。
まさに天皇陛下を護られるという透き通った思いの結晶が、そのまま存在そのものとなられています。

天皇陛下も勿論よくよくご存知のことでしょう。
皇后陛下の御影あればこそ、何一つ案ずることなく陛下も自らの全てを天地や国民への祈りに向けられているのではないか
と拝察いたします。

先日のお気持ち御表明の際も、「とても大事なことだから」と、収録の場に皇后陛下をお呼びになられたそうです。
これまでも陛下お一人ではなく、両陛下お二人の心一つで、この国を護られてきたことがそこには現れています。

そのような天皇陛下と皇后陛下、お二方もの清らかな御心に、私たちは大きく包まれています。

この世にこれほど恵まれた民族は居ないのではないかと私は思います。
両陛下は世界の国々や人々にも分け隔てなく心を向けておられますが、それでも日本という国は特別手厚く護られている
のですから、ある意味ずるいくらいです。
言うなれば、それほどの有り難さということではないでしょうか。

とはいえ、皇后陛下も人の子です。
若かりし時は今のお姿からは想像もつかないほどの気の強さと行動力をお持ちだったそうです。

外務省出身バリバリのキャリアウーマンでおられた雅子さまがあまりに異なる環境に苦しまれていることは本当に胸が痛み
ますが、もしかすると皇后陛下はその雅子さま以上に自立心旺盛でリーダーシップ溢れる女学生でいらっしゃったのでは
ないかと思います。

今の皇后陛下のイメージが鮮烈ですのでなかなか想像しにくいことではありますが、宮中に入られた頃は、平安から江戸時代
と連綿と続いていた旧習を次々と改革していかれました。
まだまだ男尊女卑の時代にあって、しかも平民出身で御輿入れをされたのですから、ただ普通に過ごされるだけでも想像を
絶する圧力だったに違いありません。
そのような中にあって、単身さらに踏み進んで道を切り拓かれたのです。

むしろそのくらいの気迫や芯の強さが無ければ、何千年もの時が流れる宮中にあって潰されずに生くことなど不可能だった
でしょうし、何より、そこまでの雄々しき強さがなければ天皇陛下を護るという途轍もない役目を果たすこともできなかった
ということかもしれません。

強く逞しい男性性が裏にあってこそ、深く優しい慈しみという女性性が表へ現れます。
そして男子はその逆である、ということは過去にも書かせて頂いた通りです。
(過去記事「強さと優しさ」2015-3-29)


今の皇后陛下の御顔は観音菩薩そのものです。

若かりし頃は西洋的な美しいお顔でいらっしゃいましたが、ひたすらに人のために尽くす天地の心を現し続けているうちに
仏顔、御神顔になられていったということではないかと思います。
かたや天皇陛下もまた、即位された頃は若かりし時からの面影が残っておられましたが、いまでは神霊の御顔、それも昔話
に出てくる人徳のある村長(むらおさ)や庄屋さんの御顔のようになられました。
それはまさしく恵比寿さまの笑顔であり、能面の翁のお顔であり、花咲か爺さんのお顔であります。

昔から徳のある心優しいお爺さんというのは総じてそのようなイメージで描かれていますが、昔の人は御神顔というのが
どういうものなのか、実際そういう人が身近に居たためによくよく知っていたのかもしれません。

そしてまた、老いた長が敬われてきたわけはその一点に尽きるのだと思います。
自分のことは横に置いて村や村人のために尽くすその姿はまさしく神さまのように映ったことでしょう。
そして大なり小なり、老いるというのはそのような心が現われてくることでもあります。

年功序列や長幼の序というのは、もともと精神論などではなく自然発生的なものということです。
ただ早く生まれたから偉いなどという勘違いは、かえって我心という点においては逆向するものでしかないわけです。

古き伝統に背を向け、他国を真似て、我欲を満たす生き方はカッコよく見えるのかもしれませんが、その果ては老醜でしか
ないのではないでしょうか。
そんなものを敬う若者などあろうはずが無いのです。

といって、我執を無くすためには自らを律せねばならぬと言っているわけではありません。
そのような西洋的、宗教的アプローチは、かえって自我を肥大させていくことにしかなりません。
何故ならば「こうでなければいけない」という思いこそは我執以外の何ものでもないからです。


心を内向きに、自分だけに向けているかぎりは、あらゆる努力は逆にしかならなりません。
であるならば、外へと、自分ではなく他人へと向けてみるということではないでしょうか。

人のために生きていく、子の世代、孫の世代のことを思う、この国の行きし方を憂う…
そうしたものが自分の中に少しずつ芽生えていくにつれて、結果として、自然に我執が剝がれ落ちていくわけです。

若者が年長者を敬うというのは、つまりはそういうことです。


日本はもちろんのこと、ヨーロッパでも他の地域でも古くから語り継がれている神話には、遥かな昔、人々は神様とともに
暮らし、神様のなされることを倣って仲良く平和に過ごしていたと書かれています。

仔鴨が親ガモの姿を真似るように、私たちは親や大人の言動を模倣しながら成長していきます。

それは結局は、大好きな存在と同じ空気感になりたい、一つの心になりたいというごく自然な内的衝動であるわけです。

大好きという表現でなくても、気持ちがいいというのもそうですし、清々しいというのもそうです。

そうして、神様の言動を倣って同じようになろうとすることから「神ながらの道」と言われるようになりました。
つまり、神ながらの道とは、宗教でも教義でもなく、ただ単に普通の当たり前の日々の生活そのものなのでした。

神様が見えないこの世の中にあって、西洋諸国ではそれは伝説や神話の中の「お話」となりましたが、日本だけは神様の
振る舞いを倣おうとする思いが残りました。
その極みが天皇陛下であるわけです。

神様の振る舞いというのは何かというと、一言でいえば、清らかな心で言い表すことができます。

すべてはその結果として様々な所作や言い回しとなって現れているということで、実際のところは、その心の状態に尽きるわけです。

先ほども書きましたようにそれは、我心が無いということではなく、溢れるほどの慈愛ゆえに我心の膨らむ隙がないという
ことになります。
例えば、自分以外の多くの人たちのために、全身全霊、心の隅々や細胞の隅々にいたるまで全てを向けて祈るというのも
それであるわけです。

我心、すなわち自我の心というものは無くすことはできません。
それを抑えつけたり無視しようとするスタンスはイタチごっこにしかなりませんので、それはそれとして諦めてしまうのが
一番です。
そうではなくて、我欲が満たされる喜びに比べて、慈愛の溢れる喜びの方が遥かに幸せが深いとなれば、前者のスイッチが
入る余地が無くなるという天地の理があります。
そうしたルートを進む方が、理屈としても、遥かに現実的だと思います。

そして、それを体現されているのが両陛下であるわけです。

昔に、現人神(あらひとがみ)と言われたのはそれゆえの表現でした。
第一、当時の国民が本当の神様だなんて思っていたはずが無いのです。
でも、神様のような人だとは感じていたことでしょう。
自分の心に対してそれくらいの素直さと謙虚さは持っていたということです。

それを矮小な価値判断で捉えてしまったがために、言葉の本質が歪められてしまいました。
現人神という言葉に囚われて、洗脳されたとか可哀想だとか言って御先祖様を貶めるのは、幼稚で浅はか、傲慢と言うしか
ありません。

戦前戦後などに関係なく、その肥大した自尊心を横に置き、ごく自然に素直に、天皇陛下や皇后陛下のお姿に触れてみれば
その無私の心に何とも言えぬホワッとしたものを感じることでしょう。

頭の理屈など無用です。
ホッコリするとか、いいなぁと思うとか、そういうものが魂の発する純粋なものであるわけです。

目に見えない神様に倣うことは出来ませんが、神様のような人に倣うことは出来ます。

なされている姿を真似ることで、理屈など必要なく、中身も近づいていきます。
親方のところで修業に励むお弟子さんと同じことです。

神ながらの道を歩まれている両陛下に倣うことは、取りも直さず、神ながらの道となります。
神ながらの道という言葉に抵抗がある場合は、単に、清らかな生き方と言ってもいいですし、心地よい雰囲気と言っても
いいと思います。

禁欲的な戒律や規律、世間の価値観、己の生き方や信条なんてものに従う必要はありません。
いいなぁ、ホワッとするなぁ、と心が嬉しくなった感覚を追えばいいだけのことです。

心洗われ清々しく軽やかになる。
それは、自らを律したり抑えたりするのとは対極のものであるわけです。

(つづく)



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大御心の御影に護られて

2016-08-09 23:18:20 | 国を常しえに立てます
天皇陛下の御公務と聞くと、例えば地方の式典に参列されるとか、国賓を晩餐会にお招きするとか、山のように積まれた
公布文書に御璽(印鑑)を押印されるとか、そういうイメージばかり頭に浮かぶのではないかと思います。

これは「開かれた皇室」と称して、ことさらそのような場面しか映像に流さないマスコミのせいとも言えますし、そもそも
天皇という存在が私たち日本人にとっていかなるものか明確に教えようとしなかった学校や親の責任とも言えます。
さらには憲法にある「象徴」という抽象的な表現が、私たちの思考を曖昧なものにさせてしまっていると言うことも出来ます。

しかし一番の原因は、私たち自身が努力を怠っていたということに尽きるかもしれません。

たとえば私たちは、何か情報が隠されるとすぐに、知る権利に反するとか民主的でないとか騒ぎ立てますが、真の民主主義
あるいは自由というのは、他の誰かから情報を無限に与えられることを指すのではなくて、私たち自身が自ら知ろうとして
前へ歩み出すことがあって成立するものです。
民主主義というのは、自立した人間が居ることによって初めて成り立つ言葉であるということです。
その場に居座ってただ口を開けて待っているのは、自由主義でも民主主義でも無いわけです。

「天皇という存在は国民にとって何であるか」「象徴とは何なのか」は、私たちが自ら知ろうと決意すればすぐに分かる
ことです。
マスコミからの受け売りでなく、陛下が常日ごろ何をなされているのかを正確に知るだけで、その問いはすぐさま解決します。

それだからこそ、陛下は、先日のお気持ちご表明においても『天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求める
とともに…』と仰られたのです。

それにしても、生涯、柔らかな表現しか口にされなかった天皇陛下がまさかこれほどまでハッキリと強い表現を私たち国民に
向けるとは思いもしませんでした。
それほど、私たちは、宮中の人間も含めて皆、天皇という象徴の立場を理解していない。理解しようとしていない。
分かったような気になっているか、深い関心を持たずに思考を放棄しているということではないかと思うのです。

そして現行憲法下では「象徴」という単語しか使えないがゆえに、あえてその抽象的な単語を使うことによって「では
象徴とは何なのか?」と問いかけ、私たちの寝ボケまなこを覚まそうとされたのではないでしょうか。

あらためて天皇陛下の御公務に心を向けますと、冒頭あげた事務的なもの以外に、宮中祭祀というものがあります。

これを、昔から続くただの伝統に過ぎないと見るのは、あまりにも思慮の浅い、乏しい感性と言わざるを得ません。
たかだか数百年の文明社会と違って、その遥か昔から続く繁栄という事実が、祭祀の真価を実証していると言えます。
それらは、当たり前に続いたわけではないということです。
ましてや、感性が研ぎ澄まされていくほどに祭祀の大切さというものは疑いようのない真実として肌から芯へと染み渡って
いくものです。

天皇陛下は、この国の平和と国民の安寧、ただそれだけを祈っておられます。

新嘗祭ひとつ取っても、ただ祈るだけではなく、深夜に至るまで長時間の正座でそれをなされるというのはどれほど御辛い
ものでしょうか。
それが単なる伝統や儀式であれば、長い歴史の中で何百年も前に簡略化されていたことでしょう。
真面目さや義務感だけでは何千年も続けられるものではありません。
それをやることの真価、肌感があり、またひたすらに国民のことを思えばこそ、体力を越えた祈りを可能ならしめたのでは
ないかと思えてなりません。

それを単なる形式としか考えず、代役を立てればいい、簡素化すればいい、というのは祭祀の何たるかを何も分かっていない。
天皇という存在の何たるかも全く分かっていないということになってしまいます。

この度の天皇陛下のお気持ち御表明に先立ち、周囲の人たちは、「これまでのなさりようを国民は知っています。代役を
立てて形だけの天皇となっても異を唱える者はいません」と言って、譲位という考えに関して翻意を促したそうですが、
陛下は「そうじゃない」「違うんだ」と絞り出すように仰られたそうです。
もちろん周りの方たちは、陛下の真面目なお人柄を思い、またその身を案じてそのように仰られたのでしょう。
しかし、代役という発想の時点で、そもそもの祭祀の意味や天皇の意味を根本から履き違えてしまっていると言わざるを
得ないわけです。

もとのもとの話を少し振り返りたいと思います。

天皇がまさしく天皇になるのは、大嘗祭(だいじょうさい)だと言われます。
大嘗祭というのは、天皇に即位してから初めて行なう新嘗祭(にいなめさい)のことを言います。

ちなみに新嘗祭というのは、その年の新穀を天(神)に捧げ、その供物を天皇陛下が召し上がる祭儀です。
つまり、天と一つとなる行為であるわけです。

前回にも書きましたように、この世とあちらとは境目なく本来「今ここ」において一つのものですが、その粗さが異なるために
私たちにとってはズレたようになっています。
そのため、その狭間やあちら寄りに居ますと、この世のものは食せなくなります。

しかし、天に捧げたものや精進潔斎したものはあちらのものになりますので、自らがあちら寄りに行って居てもその供物は
食すことができるわけです。(精神論ではなくて、物理的な話です)

それは言い方を変えれば、あちらの食べ物を口にすることによって、自らもあちらと一つになるということでもあります。

さらにこのことを違う形で表現しているのが、古事記の黄泉比良坂のくだりです。
黄泉の国(あの世)のものを食べたイザナミはこの世に戻れなくなったというのは、次元の異なるものに触れるとシンクロ
することを暗示していると言えるでしょう。

さて、新嘗祭というものがそうであるように、大嘗祭というのは、人間である天皇が、天皇霊ともいえる天の心(波動)と
一つになるための現実的なプロセスと言うことができるかもしれません。
単なる伝統行事や儀式、形式ではありません。
これ以上ないほど現実的なものです。

ですから、御簾内に入られる前の天皇陛下はまだこの世の存在であられますが、直会を終わられて出てこられた天皇陛下は
あちらとこちらの両方を共に預かる存在であられます。
それは言葉を変えれば、あちらとこちらを繋ぐ柱そのものということになります。

それを表すものの一つに、伊勢神宮の「心の御柱」(しんのみはしら)があります。
この御正殿の中央床下に立てられた御柱は、天皇陛下の御身長と同じ高さとされています。
つまり、天皇の化身を依り代として、天と地、神世とこの世を繋いでいるわけです。

天皇という存在は、まさしく御柱、身柱(みはしら)であられるということです。

神社に立てられた御柱と同じく、その存在そのものが天地を繋ぐ身柱であられます。

天皇陛下が宮中祭祀で国家や国民の幸せを祈るというのはそういうことです。
さらには、陛下がこの国土の隅々まで行幸されて祈りを置いて来られるというのは、自らが心の御柱となりて、その土地と
人々を、天の尊き、優しき大御心で包み込むこと、お護りになられることに他ならないということです。


天皇陛下は、昨日のお気持ち御表明に際して「祈り」という表現をされましたが、それは祭祀と同意のものです。
本来の祀り(まつり)というのは、祈りに他ならないからです。
そこには宗教色など微塵もありません。
人間の価値観や自我の入る余地などないのです。

ですから、この国土の様々な場所で、人々に対して、またその土地土地に対して祈りを捧げる行為というのは、それが
そのまま祭祀であらせられるのです。
単なる小旅行や式典参加などではなく、自らが御柱となってその土地その住民を祓われている。
宮中の神殿だけでなく、全国各地津々浦々にまで自ら赴いて、祭祀を行われているということです。

そのことを胸に、ご表明の一節を今一度振り返ってみます。


『私が天皇の位についてからほぼ28年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と
共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、
同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えました。』



『これまで私が皇后と共に行なって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に
支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈る
という務めを、人々の深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。』



ご高齢な御身での過密スケジュール。
その合間を縫っての長距離移動というものがどれほど過酷なものであるのか想像にかたくありません。
にも関わらず、ただひたすらに私たちの身を思い、全国各地へ祈りを置いてまわられているのです。


『次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなる
のではないかと案じています。』



今や、この全身全霊という言葉が、心の奥底まで染み入ることかと思います。
そしてここにおいてなお、そこまでのことが出来なくなってしまうことを苦慮されている。
何という勿体なさ、申し訳なさ。
慈愛などというにはあまりにも言葉が足りなさすぎます。
大御心(おおみごごろ)とは、まさしくこのことではないでしょうか。

象徴の務めとは、天と同じ心、天そのものとなって初めて成立する。
そのためにこそ、大嘗祭によって天と地と重なり合うことによって「しんのみはしら」になられる。
芯の天皇となられる。
そうしたことを経て、天皇という存在がその務めを果たさなければいけないという強い実感に至られたのではないでしょうか。
代役はおろか、摂政でも駄目なのです。
天皇はたとえどのような身になろうとも「天皇」であられることに変わることはないのです。

未成年や重病などにより、象徴としての行為を果たし得なくなって摂政を置いたとしても、『その立場に求められる務め
を果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。』というのはそういうことを
お示しになられているのではないかと思います。

倒れようが寝たきりになろうが、あるいは若年であろうが、ひとたび天地と一つになった天皇は「天皇」であり続ける。
地位としての天皇ではなく、「しんのみはしら」としての「天皇」です。
そして象徴としての行為は、何処まで行っても「天皇」にしか出来ない。
逆を言えば、「天皇」がされることにより初めてそれが「象徴の行為」と成る。
他の何者かが同じことをやっても、それは単なる儀式や形式にしかならない。
倒れて動けなくとも、それが出来るのは「天皇」しか居ない。
もしも天皇がそれを出来ないのであれば、摂政ではなくやはり「天皇」を立てるしかない。
そういうことを仰せなのではないでしょうか。


『天皇が象徴であるとともに、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への
理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。』



それぞれが我を張って断絶を作るのではなく、その壁を取り払って大きな一つになる。
「統合」とはそういうことです。

そして、そうした濁りや壁を祓い清めるお務めをされてきたのが天皇陛下であったわけです。
それは上からの押し付けなどではなく、まさしく、親が子を思うような優しく温かい眼差しそのものでありました。

私たちが全く知らない、見えてもいない、その陰で、このような大きな御心が私たちを大きく包み込んでいました。
翼を広げて激しい風から雛を守る親鳥のように、その大いなる影のもとに私たちは護られてきました。

私たちが生きてきたこれまでの間ずっと、天皇陛下、皇后陛下のそのような大きな大きな御心が注がれ続けていたわけです。
もちろん、そのようなことを微塵も出されることなく、ただ微笑みながら静かに寄り添って。

もはや言葉になりません。

そこまでの大御親心に対して、私たちはいったい何が出来るのでしょうか。

この気持ちを表すならば、まさしく地に額を着けるほどにして感謝を捧げたくなるほどです。
それは上だ下だというつまらない価値判断などでなく、思いを純粋に表すならば自然とそのような形になってしまうということです。

ただ、今ここで言っているのはそのような刹那的な発散のことではなく、この私たちの張り裂けそうな思いを昇華させるすべが
何なのかです。

それは、その大御心のわずか少しでも倣らって実行することなのではないかと思います。

つまり、人々が互いに我欲を払い、壁を無くして一つになるということではないかと思うのです。

そのためにすることとは、先ほどの陛下のお言葉にある通りです。
つまり、国民が天皇の理解を深めるとともに、天皇ご自身も私たち国民への理解を深め、共にある自覚を自らの内に育てる、
それによって一つになるというくだりです。

天皇陛下はすべて自らお手本を示されています。

私たち国民もお互いの理解に務め、お互いが共にあるという自覚を自らの内に育てるというのが国民統合への道であるわけです。

ただそれをバラバラにやっているのでは、小さな輪(和)にしか成らないかもしれません。
それが天皇という象徴へ皆の心がフォーカスし、同時にまた天皇という象徴がその膨大な数の私たちへ同じく心を向ける
ことにより、大きな輪(和)が生み出されます。

あたかも、天が私たち全てを光で照らすかの如くに。
そしてその光とは、私たち一人一人が天へ向けた心が、天によって照り返されたものでもあります。
すなわち「しんのみはしら」は「かがみ」そのものということになります。

天照大御神は邇邇芸命に鏡を渡し、“それを私と思え”と仰られました。

この日本は天照大御神の護りし国です。
そして、天皇陛下とは天照大御神の末裔であられるわけです。

その御影、その御蔭により、私たち国民は一つの心へ統合されているということです。
今はただ静かに感謝の想いを捧げるのみです。


そして最後に。
こうした感謝の心とは、私たちの内から輝く天照大御神の光に他ならないということも付け加えさせて頂きます。

御身お一人だけが神一重なのではなく、誰しもがみな同じものを内在しているということです。
だからこそ、天皇陛下と国民とが大きな一つと成れるわけです。

それはつまり、私たちも様々な土地、様々な人々に触れて、心を共にすることで一つになることができる、互いに濁りを
晴らすことができるということを意味しています。

生きとし生けるものは、その親の為すことを真似ながら成長し、それをまた次の代へと紡いでいきます。

私たちもまた、大御心に触れて、その為される姿を倣って、自らを鏡として互いに心を向け合い、我執を祓って、断絶を
排し、心和やかに重なり合わさることが、私たちの安寧とこの国の弥栄へと繋がっていくことでしょう。

それこそは大御祖(おおみおや)の喜ぶところとなり、まさしくこれまでの大恩に報いることになるのではないでしょうか。




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(追記)
隣国が、台風を理由に尖閣へと避難占領することを画策しています。
オリンピックに浮かれているこの時期を狙い、今この時も、400隻を越える大量の漁船を尖閣の境界水域ギリギリの位置
に固めています。

そのような隣国です。
万が一にも陛下に何かがあった時に、相手に魔をささせるような隙を見せてはいけません。
当然そうしたことも含まれての、ご決心であられたということでしょう。

今の平穏というのは、たまたま成立しているものではありません。
目には見えない数多くの御蔭さまによって成されたものです。

これからもその当たり前が未来永劫続くようにというのが、国家の安泰を祈るということです。

祈りは、禊ぎとなり祓いとなります。

日本に来た観光客や外人が感じる、この国独特の一体感というものは、自然発生的に醸成されたものでないのです。